2003/06/

06/29

ライブ [ 伊東篤宏/梅田哲也/宇波拓 ] @大阪複眼ギャラリー 6/16

小田さんの掲示板で挙げられていたいわゆるimprovised music from japanなライブを見に行く。動機は以前見たted apelの[ potential difference ]のようなものを期待した伊東のオプトロン(それを説明したページ)を見たかったから。

けれども興味が惹かれたのは宇波の演奏だった。彼の演奏はラップトップpcを使った即興ということになるがそれとは異質なものだった。その独自性はラップトップpcを使いつつも、出力段階で最終的な音色を決定していることだろう。音が振動によって生じているという、スピーカーの発明によって認識された発音原理を意識的に自らの音楽の要素に加えている。同じサウンドファイルを使っても、剥き出しの上に置かれたスピーカーのコーンに金属板や球、などいろんなものを置くことで違った音色を発生させようとする。ただしそれは許容量以上の音圧を与えることで、サウンドファイルの音色を破壊し強い振動波とすることによっている(ここまでの説明は実は僕の勝手な想像で、サウンドファイルははじめからコーンに置いたものを振動させるための低周波を用いていたらしい、でも僕としては低周波だけでなく色んなサウンドファイルを用意しそれを破壊する変更を加え、それを物理系に反映させるというイメージの方を夢想した)。つまり彼の関心は用意したサウンドファイルの持つ音色にではなく、それをどういう風に振動させるかという方法と、それによって変化する音色にある。

僕が新鮮に思えたのは、音が空気振動に他ならないというこの事実を音楽行為として理解させられたことによる。流行のラップトップを扱おうが、楽器を使おうが、それは振動によって僕の耳に届けられ存在が成立する。ラップトップを扱う人間は珍しくなくなってしまったが、このように出力系を操作することは、以前書いたようなアンビエンス・コンテクストの操作にも関わる。それは存在するのかもしれないけれど、目立っていないようだ。つまり、ミキサーがバンドのメンバーと考えられず、演奏空間を提供する側の人間という考えから、彼らをバンドの一員としてみなす在り方が生じてきても自然だと思う。しかもそれが高次の操作を加える立場でありつつ、一つの楽器としてみなすようなものとして扱われるという。

彼がどのようなコンテクストの複製から出て、このような音楽の形式を採用しているのかは僕は知らない。彼自身はそのウェブサイトの日記で読めるように音楽のポップ・ストラクチャーを意図的に避けようとしているようだ。あのライブで最初を飾った彼の音楽は、アメリカ村という土地柄の喧騒をアンビエンスにしたものだったが、彼の音楽はそれらと区別するのが難しいような微妙なものだった。始めの一音が彼の放った音だと理解するのに少し時間が必要なほど、僕のようなポップな音楽に浸かった耳や頭が想像する音楽的な語彙から逸脱したものであったけれど、それが意図的であることを鑑賞者として認識することで、音楽であることを逆に強く意識し、形式的にポップであることを逸脱してはいないという感を抱く。また低周波の強い振動がもたらす反復音がまさに即興にリズムを与え、制作者のレベルではないところでカオス、非意図から免れていた(本人は不本意かもしれないが)。

このライブで他に強く意識させられたのは、音楽とその方法論の選定の関係だった。伊東、梅田両氏は自作楽器を用い、宇波氏は発音方法を自作し(誰かの発想であったとしても)ている。音楽の中身ではなくその方法論が彼らの音楽を決定付けており、それを鑑賞することが音楽受容であるのだ、と印象付けられた。彼らの音の内実が心地よさをもたらすものであれ、演奏行為と「鑑賞する」行為そのものが、それよりも彼らの方法論に関心を向けてしまう。正直なところ伊東の音楽が、音のみの鑑賞でそしてアルバム単位で聴く必要のあるものだと思えない。一曲聴けばもう他の曲を聴く必要はないという感じ、もしくは他の曲はそれ自身他の曲からいかに離れようかということに腐心し、そこに聴く意識が行ってしまう感じ、だろうか。それが奏でていた音にピアノのような複雑性が存在してはいないように思える。そしてピアノや他の楽器を弾く人間のリーダー・アルバムも、楽器が音の高低や長さに変化をつけることができる単なる差異生成装置として色物に思える危険が付きまとう。リチャード・クレイダーマンしかりゴンチチしかりdjミュージックのターンテーブリストしかり、誰だっていいのだけれど、それがいかに自分の売りである楽器演奏や方法論を強調するかが見透かせてしまう。ジム・オルークが楽器を弾くのが嫌いとか言っていたことは、このことを指していると思う。そこから離れられないことで複雑性に制限を掛け音楽よりもそのスタイルに受容者の関心を向けてしまうという。このような思いなしは、こちらの鑑賞能力が低いまたは慣れていないことを意味するのだろうか?確かにそれはあるだろう。自作楽器や独自の方法論、もしくはピアノであることの意味にのみ目が行ってしまい、音そのものに集中できないと言えるかもしれない。色物という言い方の意味との関係がこの辺りにある。

受容

音 [ 熱海 ] 宇波拓hibari music
音 [ 60artists protest war ] v.a(atak)
高橋悠治が音響・エレクトロニカ系のコンピに
音 [ dunklets högtid] deltidseskapism(u-cover)
音 [ two months off] underworld(v2)
解像度の低さに大味な感じを覚えつつ
中華そば [ 和風レモンそば ] 麺や しゅん@加古川
ラーメン [ 支那そば ] 支那そばや明日来@姫路
ラーメン [ すっぴんラーメン ] 一徹ラーメン@姫路
中華そば [ 中華そば ] つたや@元町

06/15

気になる映画二つ。

おそらく両者とも(前者は明らかに)映画というよりも映像作品と呼ばれる方が一般的なのだろう。前者は、有名なバッハの同名曲の構造を、絵画の連なりつまりアニメーションに変換する試みとでもいえる。最近関心がある音と像の連関についての参考になるだろう。最近のエレクトロニカ周辺でのミュージック・ビデオで見られる抽象的な映像と音の連関とはおそらく別のアプローチなのだろうが、結果として同じように扱うことができるはず。ただしこれはいつ関西に来るのか分からない。

映像とそのサウンド・トラックが直接的な連携をしないマルグリッド・デュラスの「インディア・ソング」を見て、一度見てその特異さに刺激される。その彼女の別の作品が神戸でも見ることができる。上の映画は、映画に生み出されてきた文法(組織化の方法)の常道を逸脱していた。といってもそれは革新ではないだろうし、代替でもない。小説家もしくは彼女の制作の方法論から出てきたような独自の位相にすぎないのかもしれない。

受容

tv/cm [ たまごクラブ・ひよこクラブ・こっこクラブ ] ベネッセ
本 [ 物語の構造分析 ] ロランバルト/花輪光 (みすず書房)
広東料理 [ 杏花村 ] 神戸元町

06/12

更新記録注記に付けることにしました。

作品形態の唯一性と細部への制御性。

額の存在が絵画を芸術作品とみなす視点をもたらしたという言い方が存在する。額が付けられる意味とは、経済行為としての展覧会を可能にする、数多くの絵画を一つの空間に一同に併置するための条件的要請であるともいえる。この空間的併置によってそれぞれの絵画を美術という括りにおいて整序する動きが生じる。これは同時に個々が持つと思われた唯一性が、併置され比較の中で鑑賞されることで剥ぎ取られることを意味し、また美術以前に存在したこれらの空間的なカオス的広がりが整序されたという意味でもある。これに従い受容者の認識は、絵画を抽象化・序列化・文節化し美術作品とみなすことになる。言語化といえるこの認識の動きは加速度的に進むが、これはいわゆる高次の視点を獲得する運動を意味する。美術という高次の容れ物(制度、概念、システムなどいろいろといわれているものだが)が作り出されることを意味する。

こうした、それが属すると分類した高次の容れ物との比較である対象を認識するという立場を一度取ってしまうと、そこでの様々に存在する固有性や広がりなどというものは、取るに足らないものだとみなされることになりうる。個々の作品はそれを決定もしくは制約付けた具体的な内実、たとえばどのような技術を選択したのかというような、の選択の問題にすぎない、と。そこで行われている膨大な実践はその形式が選択された時点で予測可能なものであり、そこに意外で面白い結果が生じることは稀である。または、それはその形式の勝利ではなく、形式の可能性を引き出した制作者の人力的実践によるものであり、もしくは組み合わせのバグのようなものなのだ、と。このとき彼の視点は対象の容れ物である高次の容れ物の方へ移動している。具体的な結果や痕跡は、それが選択された形式に制約されることになり、同じものを選択したものとの違いは塗りつぶされて一まとめに分類されてしまう。そうならば形式のレベルで異なった選択をしなければならないと考えることになる。

コンピュータのアルゴリズムを用いた作曲やアートの領域では、制作者が高次構造の記述を制作とすることで、作品の現前に都度多様な振る舞いを見せるものがある。しかしこれらは現在のところそれほど面白みのあるものはなく、個々の技術が透けて見えるようなレベルに留まっているようにみえる。それはこれらが上で挙げたことをまさに行っていることと関係する。僕にはこれらの作品の表現形態は混乱しているよう思える。アルゴリズムが生成する都度の表現は毎回唯一性を持つが、それが受容者の鑑賞に耐えうるような複雑性を持ったものではない。またその言い訳としてなのか、表現された形態そのものではなくそこから想像力を働かせて高次構造の見えない形態、いいかえるなら制作者の意図を読み取るべきもののように思える。このことから、制作者は一体作品の形態つまり受容のレベルを、表現のレベルかそれとも構造のレベルのいずれにすべきかを決定できないでいるようにみえる。もちろん制作者は僕が指摘するまでもなくいずれかを受容すべきレベルとして決定しているといえる。だがこのことは決定できたとしてそれ故にも上の混乱を招き寄せる性質のものだ。

アルゴリズムが生み出す現前の個々の多様な振る舞いの関係も問題となる。一つはそれぞれに生み出された結果の多様性が持つ類似度についてであり、もう一つはその多様性への意識が単に他と違うことに重点が置かれているのでないのかというものである。類似度に関して言えば、まず毎回違った結果になろうとも、それらは形式的な組み合わせとして制作者の意図から逸脱するものではない。加えてこうした作品の説明として、理論的に振る舞いはすべて異なっている、という言い方がなされる。この「理論的」とはアルゴリズムが前提とする解像度の話であって、受容者の知覚・認識の解像度を前提にしたものではない点であまり意味のない言表である。言い換えるならば、「理論的に」無限の振る舞いを見せる形態も、都度の表現を回数見る人間には似たようなものに思えてしまう。

また後者についてであるが、この制作者には、個別の形態の制御にそれほど関心があるようにみえない。絵画や同じコンピュータ・アートでも細部に異様なまでのこだわりを持つ一回性、唯一性の作品などには、当然ながらその形態は一つしかない(それは制作者が完成した作品の次に描くまた次の作品、というふうな完結性の連続によって確保されるとは言えるかもしれないが)。もちろん唯一性と細部の制御への欲望が直接的に関係するわけではない。しかしこれらの制作者は表現のレベルでの見え方を表現の方法が一回性であることでその現前をできる限り管理しようとしたことに対し、彼らの管理の欲望は構造に向けられることで厳密な見え方への管理を放棄している。高次構造の記述によって彼らが行っていることは、色、線、運動、空間的配置という要素の確率的組み合わせの条件設定である。つまりこのことは、アルゴリズムの精度をどれだけ高めたとしても、その組み合わせには制作者の意図から逸脱するような細部が生じることを意味する。当然ながらまるで筆を持つ、もしくはillustratorを扱う者がこれらの制御を行えているという話ではない。原理的にこうした最基底の部分は常に残されることで制作は可能となる。どのような部分を排除するかが、それぞれの違いである。ただこの場合、個別の形態の制御への関心を高次構造のそれに移行させてしまっている。

果たしてこのことが既存の制作と比べ何らか消極的な要素を生み出しているのか?という疑問をどう考えればいいのか。たとえばxenakis(クセナキス)の作品や陶芸、サンプリング・ミュージックなどの制作には、この対象の確率的な把握と制御という方法論が用いられている。彼らは確かに厳密な意味での細部の制御を意図的もしくは非意図的に放棄している(せざるを得ない)。しかし彼らの制作がそうした制御を放棄しているようにみえないとすれば、高次の視点によってこの非制御な確率的な部分を制御していることによってであるのだろう。つまり焼いてみて駄目だったので潰した、というような。そしてここにはこうした放棄の代償にそのクラスでは手に入れることの出来なかった効果の複雑性を手に入れることが可能になっている。このことは強調すべきだ。ただし、これらの制作と上での制作を同一に考えることには慎重さがいる。これらの制作には一つの作品の形態を確率論的に制御するのに対し、上での制作は都度現前する形態が変化するような構造を確率的に制御する。確率的に扱うメタ領域が一段階違っている。

おそらくこうした制作者は、冒頭で言ったような美術の歴史的経緯に対応して、受容者の知覚レベルには関心がなくなり、構造をその受容の形態とする欲望が前提になっていると考えた方がいいのかもしれない。多様に振舞う構造を設計することが作品だとして、この作品は知覚できる個々の振る舞いが魅力的でなくては、構造そのものへの関心も魅力的となり得ないと思えてしまうのは、先入観に縛られすぎているのかもしれない。直接的に知覚される結果を最終的な判断とするのでもなく、またそれらを構造を鑑賞するためのどうでもいいような痕跡とみなすのでもない。当然ながらできる限り魅力的なものであることはいうまでもないが、本末転倒に思えるような構造の主体性から作品を考えることで、知覚できる形態の意味が変化するかもしれない。

受容

音 [ one bedroom ] the sea and cake (thrill jockey)
音 [ sounds...and stuff like that!! ] quincy jones (a&m)
本 [ 映画論集 ] ロラン・バルト/諸田和治 (筑摩文庫)
本 [ ノンプログラマーのためのwebデータベース構築ガイド ] complex&bitprize (mdn)
web/aesthetics [ space in cyberspace ]