ライブ [ 伊東篤宏/梅田哲也/宇波拓 ] @大阪複眼ギャラリー 6/16
小田さんの掲示板で挙げられていたいわゆるimprovised music from japanなライブを見に行く。動機は以前見たted apelの[ potential difference ]のようなものを期待した伊東のオプトロン(それを説明したページ)を見たかったから。
けれども興味が惹かれたのは宇波の演奏だった。彼の演奏はラップトップpcを使った即興ということになるがそれとは異質なものだった。その独自性はラップトップpcを使いつつも、出力段階で最終的な音色を決定していることだろう。音が振動によって生じているという、スピーカーの発明によって認識された発音原理を意識的に自らの音楽の要素に加えている。同じサウンドファイルを使っても、剥き出しの上に置かれたスピーカーのコーンに金属板や球、などいろんなものを置くことで違った音色を発生させようとする。ただしそれは許容量以上の音圧を与えることで、サウンドファイルの音色を破壊し強い振動波とすることによっている(ここまでの説明は実は僕の勝手な想像で、サウンドファイルははじめからコーンに置いたものを振動させるための低周波を用いていたらしい、でも僕としては低周波だけでなく色んなサウンドファイルを用意しそれを破壊する変更を加え、それを物理系に反映させるというイメージの方を夢想した)。つまり彼の関心は用意したサウンドファイルの持つ音色にではなく、それをどういう風に振動させるかという方法と、それによって変化する音色にある。
僕が新鮮に思えたのは、音が空気振動に他ならないというこの事実を音楽行為として理解させられたことによる。流行のラップトップを扱おうが、楽器を使おうが、それは振動によって僕の耳に届けられ存在が成立する。ラップトップを扱う人間は珍しくなくなってしまったが、このように出力系を操作することは、以前書いたようなアンビエンス・コンテクストの操作にも関わる。それは存在するのかもしれないけれど、目立っていないようだ。つまり、ミキサーがバンドのメンバーと考えられず、演奏空間を提供する側の人間という考えから、彼らをバンドの一員としてみなす在り方が生じてきても自然だと思う。しかもそれが高次の操作を加える立場でありつつ、一つの楽器としてみなすようなものとして扱われるという。
彼がどのようなコンテクストの複製から出て、このような音楽の形式を採用しているのかは僕は知らない。彼自身はそのウェブサイトの日記で読めるように音楽のポップ・ストラクチャーを意図的に避けようとしているようだ。あのライブで最初を飾った彼の音楽は、アメリカ村という土地柄の喧騒をアンビエンスにしたものだったが、彼の音楽はそれらと区別するのが難しいような微妙なものだった。始めの一音が彼の放った音だと理解するのに少し時間が必要なほど、僕のようなポップな音楽に浸かった耳や頭が想像する音楽的な語彙から逸脱したものであったけれど、それが意図的であることを鑑賞者として認識することで、音楽であることを逆に強く意識し、形式的にポップであることを逸脱してはいないという感を抱く。また低周波の強い振動がもたらす反復音がまさに即興にリズムを与え、制作者のレベルではないところでカオス、非意図から免れていた(本人は不本意かもしれないが)。
このライブで他に強く意識させられたのは、音楽とその方法論の選定の関係だった。伊東、梅田両氏は自作楽器を用い、宇波氏は発音方法を自作し(誰かの発想であったとしても)ている。音楽の中身ではなくその方法論が彼らの音楽を決定付けており、それを鑑賞することが音楽受容であるのだ、と印象付けられた。彼らの音の内実が心地よさをもたらすものであれ、演奏行為と「鑑賞する」行為そのものが、それよりも彼らの方法論に関心を向けてしまう。正直なところ伊東の音楽が、音のみの鑑賞でそしてアルバム単位で聴く必要のあるものだと思えない。一曲聴けばもう他の曲を聴く必要はないという感じ、もしくは他の曲はそれ自身他の曲からいかに離れようかということに腐心し、そこに聴く意識が行ってしまう感じ、だろうか。それが奏でていた音にピアノのような複雑性が存在してはいないように思える。そしてピアノや他の楽器を弾く人間のリーダー・アルバムも、楽器が音の高低や長さに変化をつけることができる単なる差異生成装置として色物に思える危険が付きまとう。リチャード・クレイダーマンしかりゴンチチしかりdjミュージックのターンテーブリストしかり、誰だっていいのだけれど、それがいかに自分の売りである楽器演奏や方法論を強調するかが見透かせてしまう。ジム・オルークが楽器を弾くのが嫌いとか言っていたことは、このことを指していると思う。そこから離れられないことで複雑性に制限を掛け音楽よりもそのスタイルに受容者の関心を向けてしまうという。このような思いなしは、こちらの鑑賞能力が低いまたは慣れていないことを意味するのだろうか?確かにそれはあるだろう。自作楽器や独自の方法論、もしくはピアノであることの意味にのみ目が行ってしまい、音そのものに集中できないと言えるかもしれない。色物という言い方の意味との関係がこの辺りにある。
受容
- 音 [ 熱海 ] 宇波拓(hibari music)
- 音 [ 60artists protest war ] v.a(atak)
- 高橋悠治が音響・エレクトロニカ系のコンピに
- 音 [ dunklets högtid] deltidseskapism(u-cover)
- 音 [ two months off] underworld(v2)
- 解像度の低さに大味な感じを覚えつつ
- 中華そば [ 和風レモンそば ] 麺や しゅん@加古川
- ラーメン [ 支那そば ] 支那そばや明日来@姫路
- ラーメン [ すっぴんラーメン ] 一徹ラーメン@姫路
- 中華そば [ 中華そば ] つたや@元町