2003/08/

08/31

気になるデザイナー、[ mdn designer's file 2003 ]から。

ただし、ここで挙げられている作品に対して興味を持ったのであって、ここから辿れるそれぞれのウェブ自体はユニークとはあまり思えない。ウェブデザインの領域では、それ以外の領域に比べより多様性がないという気もする。これはメディアのテクノロジー的な制約の度合いや形式上の性質、プロダクトデザインとしての機能性との兼ね合いがもたらしているということもあるだろう。

ここでは主にグラフィック・デザイナーが取り上げられているが、彼らの仕事は広範囲をカバーしており、プロダクト・デザインやウェブ・デザインにまで及ぶことで、単に絵を書く、二次元画面の配置や組み合わせを考え作り出すものから、立体の造形や舞台芸術や映画が扱ってきた運動という抽象的な対象まで含むことになる。単純にデザイナーとここでしているのが適切なのだろう。

ところでここまででデザインと呼んできたものは、端的にはある内容に形つまり存在を与える行為だとしておく。ただしこの場合、形と内容はそれぞれ独立したものだという前提がある。こうした例よりも実際にはデザインつまり内容が実体を持つための表現としての形態は、場合によってはこれを最適に引き出すこともあれば阻害することもある。デザインとはこのような意味を含めて形を与える行為のことであり、また単に内容をもつ実体の存在をもたらすだけでなく、それとは独立した鑑賞やコミュニケーションをもたらす審美性を与える行為だともいえる。またグラフィック・デザインとプロダクツ・デザインの違いも意識的である必要があるだろう。両者の違いは前者が内容を形式的に説明するものであり、後者は機能を実現するもの、だとすることができるかもしれない。いずれにせよ下で述べるように、本質からの乖離という問題が語られることになる。

デザイン一般に語られる仕方として容易く思い浮かぶのは、デザインとはなにか美しさ、かっこよさ、心地よさを与える非論理的で飛躍的なアイデア(感性などと呼ばれたりする)で、内容(機能)を装飾(デコレーション)するものだというようなもの、またこうしたデザインとは、受容者の感性的な部分に言語という論理的認識を介さず直感的、趣味判断的な理解や認識を与えるものであり、キャッチコピーや説明などとは違いより身体的な刺激を与えるというものかもしれない。

グラフィック・デザインが目的とするのは、論理的あるいは非論理的な感性的なレベルでの受容者への高次(形式)情報の伝達である。これは記号操作的な理解というよりは感性的なものであり、より個人の行動を決定付けるような彼の趣味性を触発するレベルでなされる。デザイナーは直感的な驚き、衝撃、いつまでも受容していたいと思わせる心地よさ、などを与えることを求められている。別でデザインの目的を言い換えるならば、当の製品(の内容)に客をアクセス・誘導させることだともいえる。その意味ではデザインとキャッチコピーや文章による宣伝は同様の働きをする。これらは製品によって使い分けられ、また併用されたりするだろう。ただしこれらの違いは、受容者の内容への当たりをつける速度によっている。つまり知覚した段階で彼がそのデザインを好む場合すでに内容にアクセスしようという気にさせることに大方成功している(文章はこれに負けているかもしれないが、確実な知識を与える点でこれに優っている)。

またデザインは単に製品への誘惑、機能の表現としての役割だけでなく、それ自体鑑賞の対象になりうる(なってしまう)。相対するデザインに引っかかるものを感じるとき彼はある身体的な理解に圧力を受けている。それは製品宣伝の目的というものから離れ独自に鑑賞する対象として扱われる可能性をも持つ。この意味でデザインとは、単に巷でいわれる美しさや心地よさ、かっこよさ、などで語られるものというより、それらは結果的に形容されるものだろう。この可能性とは、「審美性」もしくは端的に「美」といわれるものの領域であり、それはこうした形容ではなく、それは対象に対し体感、理解をもたらす際のフォーマットの暴力性もしくは別の言葉でいうならインターフェースであるといえる。この在り方をデザイナーはもの(製品)に利用する。それは単に利用するのではなく、より機能との合目的性をもすり合わせようと、ものの持つ性質に結びつけることで利用しようとする(機能美のようなものと、これは違うもののように思えるかもしれないが、機能美とは、合目的性の追求がある程度成功したことの形容であり、デザインの膨大な選択肢上に成り立つ機能の仕様に沿ったミニマルな選択であると考えることができる)。

ところで、ここでの仕事が本質的なものであるということはない。どころかこれらは流行として消費されるものでしかないだろう。かといって60〜70年代の流行が戻ってきているからといって、現在のデザインがそれらと比べそうした寿命を持っていない、本質的な部分に強度がないなどという優劣の比較をするのは変な気がする。過去のものが取り上げられるのは、それがアレンジされる素材として価値をもつことによってであり、それは過去というかつて知っている馴染んでいるものという感覚を利用している。全く新しいものを生み出すことはもうないというような発言は、これまでがあたかも全く新しいものを生み出してきたかのような前提を元にしていてまともに受け取ることが出来ない。これらの過去の素材は、現在のこれらを編集、(再)組織化する視線やテクノロジーによって意味を持つのであり、その意味ではこの流行とは内容ではなくそれを可能にするテクノロジーの在り方そのものだ。当然ながら60〜70年代の流行も当時のテクノロジーの扱いによって可能になった存在だといえる。

08/24

スタイルのデフォルト値について。

本を開いてみれば、相変わらず白い系統の紙に黒い系統の文字が用いられるというフォーマットが廃れることなく用いられている。もちろんこれまでもそして現在もフォントや背景、挿絵などに変化をつけることで、これらのフォーマットから大きく逸脱しようとするが行われ続けている。しかしこのフォーマットの多数性は崩れてはいないようにみえる。ここには様々な経済性が働いていると考えることができる。加えてそれが継続され反省が循環的になされることで、文章の読みやすさの値がある程度絞られ、また習慣はそれに従おうとする。

ウェブにおいて、htmlのみをなんのスタイルのための定義もせずにブラウザの行う整形に従うと、上で挙げた本でみられる標準のスタイルに類似するものになっている。ところでウェブ制作に関するウェブ上や本などでスタイルシートを解説する文書をみるとき、(説明をややこしくしないためもしくは本人が知らないためか)単にhtmlを書いた場合にシンプルな白の背景に黒の文字という在り方を、スタイルが適用されていない状態などとされていることがある。これは正しくない。スタイルははじめから適用されている。つまりあの無味乾燥と思えるものは、スタイルシートによって定義された結果である。つまりhtml文書はスタイルシートなしに存在することが出来きず、内容は表現によって存在を可能にされている。依然として紙媒体のこうした標準を受け継ぐデザインが多く存在するが、同時には多くの様々な商業、非商業ウェブでははじめからこのフォーマットに何らかの変更を加えるのが当然のごとくデザインが行われてもいる。

このことは内容を阻害するような表現に凝ることに拘らず、内容がきちんと伝わればよい、という一つの定型的な言い方を否定するものでもない。表現は確かに内容を有らしめる前提であり、この形式によって内容は大きく受容者への意味を変える可能性を持つ。けれどもこのことは内容そのものが表現以前にはじめから存在するというような、これらの定型の行き着く先に直接関わるわけではない。この言い方の読み方の可能性として、標準であること、標準として時間をかけて成立してきている形式を選択することで、内容と呼ばれる制作の重点的な位相をひとまず決定したものとして、受容者に印象付けることができる、ということだろう。

内容のために表現に過剰な装飾を加えたりすること、内容と表現と一体化しようとすること、逆に内容が伝わればいいと表現に特別な関心を払わないこと、表現(ウェブを公開したいという欲望)のために特に持たない内容(主張)を無理にひねり出すこと。これらは同じ前提で成立している。

受容

web/architecture+photo [ ]
音/classic [ bach:goldberg variations bwv.988 ] glenn gould (sony classical)
音 [ tour de france ] kraftwerk (emi)
音 [ suspension ] oren ambarchi (touch)
音 [ tamper ] jim o'rourke(p-vine)
映画 [ 英雄 hero ] 張藝謀
音 [ mood indigo ] thelonious monk(pigeon)
本 [ creativity 7 ] (art direction book company)
本 [ イギリスはおいしい ] 林望 (文春
洋食 [ ハヤシライス ] 洋食の店 あいはら @神戸 元町
喫茶 [ ブレンド・コーヒー ] 神戸亭 @神戸 三宮

08/16

ライブ [] alessandro bosetti、西川文章、水谷康久 @姫路 ease

急に夜時間があくことになったので、前から気になっていたライブに行く。姫路にこういうカフェがあることを全く知らなかった。開いて2年ほどになるというが、そこでは定期的にインプロヴィゼーション、音響、アヴァント・ミュージック辺りのライブを行っているらしい。カフェの内容も楽しげで、今後楽しみができた。

今回のライブはインプロヴィゼーションということになる。ボセッティと水谷はサックスを用い、西川はギターを使う。「用いる」だとか「使う」という言葉を用いるのは、演奏というよりも適当だと思うから。インプロヴィゼーションに暗い僕にはこうした視点からの物言いになる。彼らは演奏行為を行っているが、それは既存のイディオムに従ったものではない。この時言うイディオムとは発生させる音群の類型性のことだけではなく、奏法の類型性をも含む。奏法はシステマティックなものとして固定化されてしまうとそこから抜け出すことを想像することさえ難しくなる。クラスターやらグリッサンド等なんでもいいけれど、こうした奏法は、メカニクスの発明とともにまさにブレークスルーとしてもたらされるしかなくなり、後は風景と化すまでとことん使われる。

ここでは、物質と環境と身体運動の組み合わせの在り方という、音がそもそも生み出されるパラメータにおいて音を出すことを前提としている。つまりどのような物質もいかようにか音を発生させることができるという視点から音、音楽を作り出すことを想定している姿勢がある。その前提からすると、彼らが楽器を持つのは彼らの個人的な経歴によっているのだとすればそれはより効率的な選択ということくらいの意味だろうし、その楽器である必要は特になく思える。一応ボセッティも水谷も楽器が要請する本来の目的の奏法に従っても操作を行っていた(もちろんそれ以外の方法の発音も行っていた)。けれども聴くことができた音は、その楽器が要請する上での自然にもたらされる類のものではなかった。ボセッティは管の中に布を詰めミュートさせたり、水谷はマウスピースをつけず息を吹き指を動かすことでパタパタパタパタという小気味よい音色を出す。二人は他にも管の様々な部位から音を引き出そうとする。西川はピックアップに金属の棒、文鎮、円盤、金属の糸のようなものなどを擦ったり、叩いたり、ずらしたり、加えてピックアップのパワー(?)のオン、オフを使い分け音を出していた。

いかに多様に音を引き出すことが心地よいか、いかに発音を誘発する条件を探り当てるか、そして自らが発生させた以前の音の群に対してこの在り方をどのように反映させるのか、これらに意識的であること。彼らの音楽とはこうしたところからもたらされている。そして一人ではなく他の人間とそうした行為を共同して行うこととは、意図非意図もしくは単に発生している音に関して、どのようにこの在り方を反映させるかというさらなるパラメータの複雑化だとみなすことができる。

特にpaを通すようなことをしないこのような演奏では音量はかなり小さい。聴くこちらも当然集中を強いられることになる。そうした中で印象的であったのは、ボセッティが演奏開始前に、空調を止めて欲しいと言ったことだ。おそらく機械の出す音が邪魔になると思ったからだろう。けれど僕にはこの音は格好のアンビエンスだと思えた。このカフェではライブ時も通常営業しており客はいつでも入ってこれる状態になっている。彼らの引き起こす様々な音(ドアを開ける音、そこについている鈴の音、オーダーを頼む声、靴の音、カップが皿に接触する音、等々)も同様だ。前者の音などまるで池田亮司の[ +/- ]で聴けるアナログシンセ的な振幅音で格好の素材だとか思えた。休憩の合間にこのことを西川氏に尋ねてみると、彼はこうしたノイズ(アンビエンス)の発生を好むと言っていた。この違いというのは人それぞれということになるのかもしれないが、この違いを見ることは興味深い。彼らは意図して類型化するパラメータから逃れようとするという意味で、非意図を意図しようとする。しかしインプロヴィゼーションとはカオスではない。そうではなく類型化したイディオムをできるだけ用いない、もしくはそれを相対化する音群の複雑化のデザインということだろうか。彼らは環境によってまた自らの好みによって、状況によって、このノイズというパラメータをどのように扱うのかということをそれぞれの仕方で意識し対するのだろう。つまりそれは作品という概念の領域確定の意識と繋がるものである。

だからインプロヴィゼーションを考えることとは、このウェブで言うような意味よりも(これも当然含むのだけれど)本来の意味での言語的な物語の組織化の歴史的経緯、つまり声以前と紙以降の物語の在り方(記憶にしか固定できない情報の群と固定化され物質として要素を扱える情報の群の違い)、に想像を働かせることとに深く関わる。

受容

web/software [ macromedia]
音 [ charlemagne, la vue attachée... ] alessandro bosetti, antje vowinckel (bowindo)
音 [ 美しい時 world's favorites collection vol.4 ] v.a.
音 [ 熱海 ] 宇波拓、他(hibari music)

08/13

受容

web/design [ interface architects ]
紙媒体でインパクトが強いが、ディスプレイ上ではいろんな意味での解像度の粗さが目立つ
web/cafe [ brown's cafe ]
web/academic [ 金谷一朗]
音 [ rec01 ] collin olan (apestaartje)
音 [ re:martin arnold/alone, life wastes qndy hardy ] v.a. (apestaartje)
音 [ szenario japan ] oval (徳間)
音 [ 美しい時 world's favorites collection vol.8 ] v.a.
音 [ duo ] kevin drumm & taku sugimoto (meme)
音 [ pole ] pole (mute)
音 [ cm2 ] v.a.+cornelius(warner)
本 [ web designers file ] 足立裕司 (翔泳社)