気になるデザイナー、[ mdn designer's file 2003 ]から。
ただし、ここで挙げられている作品に対して興味を持ったのであって、ここから辿れるそれぞれのウェブ自体はユニークとはあまり思えない。ウェブデザインの領域では、それ以外の領域に比べより多様性がないという気もする。これはメディアのテクノロジー的な制約の度合いや形式上の性質、プロダクトデザインとしての機能性との兼ね合いがもたらしているということもあるだろう。
ここでは主にグラフィック・デザイナーが取り上げられているが、彼らの仕事は広範囲をカバーしており、プロダクト・デザインやウェブ・デザインにまで及ぶことで、単に絵を書く、二次元画面の配置や組み合わせを考え作り出すものから、立体の造形や舞台芸術や映画が扱ってきた運動という抽象的な対象まで含むことになる。単純にデザイナーとここでしているのが適切なのだろう。
ところでここまででデザインと呼んできたものは、端的にはある内容に形つまり存在を与える行為だとしておく。ただしこの場合、形と内容はそれぞれ独立したものだという前提がある。こうした例よりも実際にはデザインつまり内容が実体を持つための表現としての形態は、場合によってはこれを最適に引き出すこともあれば阻害することもある。デザインとはこのような意味を含めて形を与える行為のことであり、また単に内容をもつ実体の存在をもたらすだけでなく、それとは独立した鑑賞やコミュニケーションをもたらす審美性を与える行為だともいえる。またグラフィック・デザインとプロダクツ・デザインの違いも意識的である必要があるだろう。両者の違いは前者が内容を形式的に説明するものであり、後者は機能を実現するもの、だとすることができるかもしれない。いずれにせよ下で述べるように、本質からの乖離という問題が語られることになる。
デザイン一般に語られる仕方として容易く思い浮かぶのは、デザインとはなにか美しさ、かっこよさ、心地よさを与える非論理的で飛躍的なアイデア(感性などと呼ばれたりする)で、内容(機能)を装飾(デコレーション)するものだというようなもの、またこうしたデザインとは、受容者の感性的な部分に言語という論理的認識を介さず直感的、趣味判断的な理解や認識を与えるものであり、キャッチコピーや説明などとは違いより身体的な刺激を与えるというものかもしれない。
グラフィック・デザインが目的とするのは、論理的あるいは非論理的な感性的なレベルでの受容者への高次(形式)情報の伝達である。これは記号操作的な理解というよりは感性的なものであり、より個人の行動を決定付けるような彼の趣味性を触発するレベルでなされる。デザイナーは直感的な驚き、衝撃、いつまでも受容していたいと思わせる心地よさ、などを与えることを求められている。別でデザインの目的を言い換えるならば、当の製品(の内容)に客をアクセス・誘導させることだともいえる。その意味ではデザインとキャッチコピーや文章による宣伝は同様の働きをする。これらは製品によって使い分けられ、また併用されたりするだろう。ただしこれらの違いは、受容者の内容への当たりをつける速度によっている。つまり知覚した段階で彼がそのデザインを好む場合すでに内容にアクセスしようという気にさせることに大方成功している(文章はこれに負けているかもしれないが、確実な知識を与える点でこれに優っている)。
またデザインは単に製品への誘惑、機能の表現としての役割だけでなく、それ自体鑑賞の対象になりうる(なってしまう)。相対するデザインに引っかかるものを感じるとき彼はある身体的な理解に圧力を受けている。それは製品宣伝の目的というものから離れ独自に鑑賞する対象として扱われる可能性をも持つ。この意味でデザインとは、単に巷でいわれる美しさや心地よさ、かっこよさ、などで語られるものというより、それらは結果的に形容されるものだろう。この可能性とは、「審美性」もしくは端的に「美」といわれるものの領域であり、それはこうした形容ではなく、それは対象に対し体感、理解をもたらす際のフォーマットの暴力性もしくは別の言葉でいうならインターフェースであるといえる。この在り方をデザイナーはもの(製品)に利用する。それは単に利用するのではなく、より機能との合目的性をもすり合わせようと、ものの持つ性質に結びつけることで利用しようとする(機能美のようなものと、これは違うもののように思えるかもしれないが、機能美とは、合目的性の追求がある程度成功したことの形容であり、デザインの膨大な選択肢上に成り立つ機能の仕様に沿ったミニマルな選択であると考えることができる)。
ところで、ここでの仕事が本質的なものであるということはない。どころかこれらは流行として消費されるものでしかないだろう。かといって60〜70年代の流行が戻ってきているからといって、現在のデザインがそれらと比べそうした寿命を持っていない、本質的な部分に強度がないなどという優劣の比較をするのは変な気がする。過去のものが取り上げられるのは、それがアレンジされる素材として価値をもつことによってであり、それは過去というかつて知っている馴染んでいるものという感覚を利用している。全く新しいものを生み出すことはもうないというような発言は、これまでがあたかも全く新しいものを生み出してきたかのような前提を元にしていてまともに受け取ることが出来ない。これらの過去の素材は、現在のこれらを編集、(再)組織化する視線やテクノロジーによって意味を持つのであり、その意味ではこの流行とは内容ではなくそれを可能にするテクノロジーの在り方そのものだ。当然ながら60〜70年代の流行も当時のテクノロジーの扱いによって可能になった存在だといえる。