2003/09/

09/20

画面を読むことに対するメタコンテクストへの意識。

素描であるdrawing for the allegoryなどに特徴的であるのだけれど、クリムトには絵画のキャンバスに、新聞や雑誌のように複数のコンテクストを持ち込む編集者の意識があるように伺える。僕にはこのようなグラフィック・デザインの意識がいつ頃から絵画に反映されるようになったのかという知識がない。ただ当時明確になりつつあった概念としてのデザインの存在は少なくないと思う。彼の作品には女性が数多く登場するが、そこで捉えられた彼女達の表情は写真の影響、それも映像の中の一枚のコマとして取り出されたような印象を与える。背景となる壁、服や小物のグラフィックデザイン的幾何学性やアクセントとしての金色の使われ方と、それとは裏腹なポスト印象派の影響を色濃く出した点描法がもたらす、人物や背景の表現の微細さとのアンバランスに加えてこのリアリズムの組み合わせが、彼の作品群が絵画であることのいびつさを引き起こしている。

リメイクを再解釈による複製だとすると、今回リメイクされた「座頭市」は「座頭市」そのものを想起させるのかどうかについてではなく、支配的なポップ・フォーマットとしての物語をいかに模倣するかという「菊次郎の夏」において彼が言及していた姿勢を、時代劇というフォーマットにおいても実践することにその意識が北野にはあったのではないかと想像したりする。僕は「座頭市」ではなく「時代劇」という形を意識させられるように作品を受け入れざるを得なかった。つまりメタアンビエントという言葉があるのなら、メタ時代劇とでも言うことになるのかもしれない。けれどそうしたものとして受け入れられるような明確さではなかった。この模倣が成功したかどうかについては見た個人が持つそれぞれのフォーマットとの照らし合わせにかかっている。そこらかしこにこの時代劇フォーマットと呼べるもののコピー&ペーストの様が伺えること、物語の直線的な進行を撹乱する彼特有の(笑えない)笑いの演出や今回話題とされている金髪やタップダンス、鈴木慶一によるチープな音楽などが取り合わされていること、cgによる殺陣のアニメーション的表現、それに反するともいえるビートたけしの市のいびつな演技など、物語性をほころばせる要素をどう捉えるかという。このほころびは以前書いた彼の詩性に対応する。

受容

web/browser [ opera7.20 ] opera software
映画 [ 流星 ] 張國榮
音 [ i'm happy, and i'm singing, and a 1, 2, 3, 4 ] jim o'rourke (mego)
音 [ school girl distortional addict ] number girl (東芝emi)
雑誌 [ 季刊d/sign ] 戸田ツトム、鈴木一誌責任編集 (太田出版)
特集:複製、読み応えあり
本 [ 芸術としてのデザイン ] bruno munari/小山清男 訳 (ダヴィッド社)

09/15

検索エンジンとしての人間。

人間は限られた局面では最も優秀なデータベースになりうる。ここではデータベースとは、操作主義的な構造によってその存在そのものが定義づけられている(可能となっている)要素情報群と、それへの反復性を持ったランダムなアクセスを可能にする操作情報群の体系であると言ってみる。

個人の趣味でなされる収集、たとえば本やレコードなど何でもよいけれど、こうした自らの好みの情報群は非系統的・カオス的とも言える仕方で収集されている。このことは上の意味でそのままではデータベースなどとはとても言えないものかもしれない。人間の記憶に蓄積した情報群に対するランダム・アクセス性は、未だ全くコンピュータが及ばないような複雑なリンキングを行っている(これは人間の技術の習得の表現の仕方と密接に結びついているように思う)ことによる。もしくはリンキングを人間という物理的に有限な存在として効率的な仕方で保存していることによる。それらによって周囲の人間からしてただ膨大にしか思えない群に分け入って容易にアクセスしているかにみえる。単に膨大な量の集積としてしか認められない情報群も、彼にとっては分節されたシンプルなまとまりであるように認めることができること、また実際彼にも膨大であったとしても、各アクセスに対し彼は群を都度情報の圧縮もしくは排除を行うことで、この分節化を可能にしているといえる。どれだけ非系統的に保管されているようにみえようとも、彼がすぐにでも目的の情報にアクセスできるならば、それはデータベースであるということができる。

ところで現在では、狭義のデータベースと言えばコンピュータによるものを指す。上のようなデータベースの定義が人間が記号操作とその効率の間で作り上げてきた概念だとすれば、コンピュータではそれをより洗練させ設計の前提としている。レコードの収集はそのままでは単なる物の集まりであり、またそれらにはただ闇雲な好みの集積があるだけでそれをデータベースと呼ぶことはできないと言う意見があるかもしれない。けれども上の例でいうならばそもそも個人が蓄積した点においてこれらの情報群とは、はじめからあるフィルターを掛けられた存在の集合である。アクセスとは存在の認知や物理的な操作そのものであり、フィルターに掛けられそもそも彼の貯蔵庫に蓄えられている。その意味では情報は操作されるという目的に沿ったものしか、つまりこの操作の対象にならないものは存在できない。それでも人間が自然に蓄積した群をデータベースと呼ぶには不確かさがあるとすればそれは、目的を決定できないような体系の冗長性があるようにみえることにもよる。もしくはそれはアナログな情報群の組織化体とデジタルなそれというような違いでいえるかもしれない。コンピュータのデータベースは、要素の登録(要素の生成)に厳密さを求め冗長性を認めないことで堅固で有効なシステムが可能となっている(言い換えれば、現在のコンピュータによるデータベースシステムは自ら検索を可能な程度まで規模を縮小したものだといえる)。

コンピュータによるデータベースの短所も当然のとごく存在する。高次構造としての操作分類が静的であることで内部の情報処理の効率を維持するため、構造が規定する以外の属性は排除される(もちろんこれは言葉のメカニズムと同様だ)。つまり情報に対して決まったパラメータによってしかアクセスが出来ず、それと関係して情報群を別の構造として扱いたいと思いついた場合は、そのデータベースでは用をなさない。

こうした短所にも関わらずこうした情報の縮減によって、情報を(ある側面からという制約をつけながら、それゆえに)(効率的に)操作できることを可能にするインパクトをデータベースはもたらした。また人間が行うアクセスの能力に問題があるというのではなく、コンピュータを用いたデータベース検索は直感的な認知(把握)を超えた世界的な規模の情報群のアクセスを可能にしたということだ。ところで興味深いことに人間はこうした都度の構造そのものの廃棄もしくは変更を行えているようにみえる。無駄なものだとかいった判断に関係なくひとまず受け入れることができ(本当に必要がなくなれば廃棄することができる)、それをプールさせることができ、それはいずれデータベースに組み込まれる可能性をも持つような柔軟さがある。人間が用いる言葉という記号操作がコンピュータのそれに優っているのは、それが優っていると思われているデジタルな操作においてである。ただし上で言ったようにそれは実際処理を行う問題の範囲の決定という高次の枠組みの組み立てについてであり、またそれに付随する処理形式の構造の組替え、変更、選択などを効率的に行える点においてである。よく言われているように決められた固定的な範囲での処理に関してはコンピュータの能力は人間の比ではない。

受容

web/illustration [ monstera deliciosa ]
音 [ debussy: la mer ] herbert von karajan (polydor)
音 [ makesnd cassette ] snd (mille plateaux)
音 [ live from a shark cage ] papa m (drag city)
音 [ loveless ] my bloody valentine (creation records)
この音色を最も引き継いでいるのは彼らのフォロワーではなくovalだという吉田仁がどこかで言っていた指摘
音 [ satie best selection ] 高橋悠治 (日本コロンビア)
poemgrapghy [ 旅する少女の憩 ] 沼田元氣 (京都書院アーツコレクション)