画面を読むことに対するメタコンテクストへの意識。
素描であるdrawing for the allegoryなどに特徴的であるのだけれど、クリムトには絵画のキャンバスに、新聞や雑誌のように複数のコンテクストを持ち込む編集者の意識があるように伺える。僕にはこのようなグラフィック・デザインの意識がいつ頃から絵画に反映されるようになったのかという知識がない。ただ当時明確になりつつあった概念としてのデザインの存在は少なくないと思う。彼の作品には女性が数多く登場するが、そこで捉えられた彼女達の表情は写真の影響、それも映像の中の一枚のコマとして取り出されたような印象を与える。背景となる壁、服や小物のグラフィックデザイン的幾何学性やアクセントとしての金色の使われ方と、それとは裏腹なポスト印象派の影響を色濃く出した点描法がもたらす、人物や背景の表現の微細さとのアンバランスに加えてこのリアリズムの組み合わせが、彼の作品群が絵画であることのいびつさを引き起こしている。
リメイクを再解釈による複製だとすると、今回リメイクされた「座頭市」は「座頭市」そのものを想起させるのかどうかについてではなく、支配的なポップ・フォーマットとしての物語をいかに模倣するかという「菊次郎の夏」において彼が言及していた姿勢を、時代劇というフォーマットにおいても実践することにその意識が北野にはあったのではないかと想像したりする。僕は「座頭市」ではなく「時代劇」という形を意識させられるように作品を受け入れざるを得なかった。つまりメタアンビエントという言葉があるのなら、メタ時代劇とでも言うことになるのかもしれない。けれどそうしたものとして受け入れられるような明確さではなかった。この模倣が成功したかどうかについては見た個人が持つそれぞれのフォーマットとの照らし合わせにかかっている。そこらかしこにこの時代劇フォーマットと呼べるもののコピー&ペーストの様が伺えること、物語の直線的な進行を撹乱する彼特有の(笑えない)笑いの演出や今回話題とされている金髪やタップダンス、鈴木慶一によるチープな音楽などが取り合わされていること、cgによる殺陣のアニメーション的表現、それに反するともいえるビートたけしの市のいびつな演技など、物語性をほころばせる要素をどう捉えるかという。このほころびは以前書いた彼の詩性に対応する。
受容
- web/browser [ opera7.20 ] opera software
- 映画 [ 流星 ] 張國榮
- 音 [ i'm happy, and i'm singing, and a 1, 2, 3, 4 ] jim o'rourke (mego)
- 音 [ school girl distortional addict ] number girl (東芝emi)
- 雑誌 [ 季刊d/sign ] 戸田ツトム、鈴木一誌責任編集 (太田出版)
- 特集:複製、読み応えあり
- 本 [ 芸術としてのデザイン ] bruno munari/小山清男 訳 (ダヴィッド社)