2003/11/

11/22

演奏行為と確率的な選択行為

ライブ [ undirected/eight ]
インスタレーション [ undirected/four ]
christophe charles @神戸 xebec hall

久しぶりのジーベックでのライブなわけだけれど荒んだ感を持ったのは、この施設のその後の経緯を中途半端にしか知らないからだろうか。

彼の音源は様々なリミックスや[ undirected ]、[ dok ]で聴いているが、最近の[ undirected/dok ]や[ undirected 1992-2002 ]などは知らない。[ undirected ]で聴いたフィールドレコーディングされた要素の加工と組み合わせと、microstoriaの[ reprovisers:japan ]での楽曲との違いは、ちょっと想像できないものだった。それは半野喜弘のリミックスにおいてもそうだった。今回聴くことが出来たものでは、[ dok ]や[ undirected ]のものが使われていたのが分かったが、全体としての組織化は予想の外のものだった。[dok]が好きで[ undirected ]を聴いて退屈した者は、ovalの粒子のような音色に魅力を感じたかもしれないし、また彼が苦手と言っていた反復的なループやそれどころか明らかなダンス仕様のビートの音色を聴くと、彼は変わってしまったのだろうか、と心配する者もいるのかもしれない。

それでも彼らしいという部分があるとすれば、一つには音色の重ね合わせの仕方にある。彼がダンストラックのループを用いようと、ダンスものに聴こえないのは当然というか部分的な用いられ方しかされていないということがあるけれど、それだけでなく配置のされ方がこのような音を冷ややかに見つめるような視点を強いるからでもある。オヴァルの音色にあれほど焦がれた者がここでは色あせて聴こえるとすれば、それはすでに音響派というジャンルが飽和したという意味においてかもしれないが、同時に音色の心地よさに浸ることを、それが許さないということでもある。彼の音楽を「静謐」だとか「冷ややかな」などと形容するのは紋切り型な反応ということになると思う。同時に「論理的」だとかも。彼の音楽を聴くことの楽しみは、音がどのように組み立てられているのかということについて意識を向けることにあるという安易なものなのだろうか?確かに彼の音を聞くとその場で鳴っている音への没入を回避せざるを得ないように僕には思えた。というよりそのことに音楽を受容する喜びがあまりないと思えたという方が適切かもしれない。

ふと演奏している姿がスクリーンに映し出されるのを見ていて、fenneszの大阪でのライブを思い出した。ラップトップを使いながらも、オヴァルと違いその演奏がある長さを持ったサウンドファイルを用いたいわゆる即興演奏と言えることに共通しているからだ(別にフェネスでなくともいいのだろうけれど)。フェネスは音楽的にはポップストラクチャーを用いることに意識的であるという意味ではオヴァルとの類似の方が強いといえるけれど、彼のライブは過去の音源を構成するサウンドファイルをバラバラに再構築した持続を作り出している。そこでは各サウンドファイルという部分においては既聴感を持ちつつ別の全体がそこに現れ、全体はポップ・フォーマットの境界を往復するという印象を持つ点で、オヴァルとは似ない。彼のcdなどの固定されたメディアでの作品群が、音色のレベルでの既存のフォーマットの境界往復を行っていることを考えると興味深い。

音の重ね合わせの方法論において、フェネスのライブでの組織化とシャルルのそれは類似している。けれどもそれは上で言ったようにオヴァルを基準に両者を対比した上で言えることで、フェネスに存在した境界は、そもそもシャルルには関係がないようだ(存在しないのではなく)。それでも彼らに共通するのは、やはりというかラップトップ・コンピュータというツールによって、いくつものサウンドファイルをその場で生じたもしくは明確な前もっての、意図によって音を「即時的に」構築していると思われる点にある。このことはいくらラップトップ・ライブが退屈だからという言われ方が一般的になろうが、このスタイルの強みになると思われる。ところでこのことは利点と欠点を持つ。利点とは上で言ったように楽器演奏とは異なる高次のレベルでの確率的操作により、想像し得ない複雑な厚みを持つ音の結界を場にもたらすことが出来、それを操作できるという点であり、欠点はその確率から漏れる部分が静的であると受容者に気づかれる可能性は楽器演奏より未だ目立ってしまうという点である。

受容

音 [ first take ] roberta flack ( atlantic records )
音 [ freddie king(1934-1976) ] freddie king (rso records, Inc.)

11/16

情動の種類における語り方の溶解

  • 映画 [ kill bill ] quentin tarantino@三宮 神戸国際松竹

タランティーノの新作を観たので、簡単に感想を書いてみる。様々な質の暴力的な描写が延々と続くわけだが、そこにはそれから乖離するような要素の組み合わせも同じように離れず配置されている。冒頭のアメリカ郊外一般的と思える家庭での、そこに住む主婦と彼女を訪ねた友人か何かと思われたウマ・サーマン扮する主人公の、突然に始まる殺し合いのシーンの唐突さに、虚を付かれ思わず笑ってしまう人間はいるだろう。それは何もタランティーノの映画を理解できる映画通としてのポーズでそうしている人間がいたとして、そういうスタンスでだけ、出るものではないということだと思う。僕は何を言いたいのか。この組み合わせを受容者が受け入れる際、この映画に対するスタンスを決めかねることが難しいというような決まりの悪さや、それを単なる映像の組織化上のミスやセンスの違いであり自分には退屈だと決め付けてしまった姿勢、タランティーノというか映画通であることの表現としての、どのような映像をも受け入れることができるという姿勢の誇示としての自動的な笑いなど、いかにも分かれてしまっているかに見えるそれぞれの反応も、似たようなものでしかないだろうということかもしれない。

この乖離する表現の並置とは、最も個人的な振る舞いに直結しやすい感情や身体的な反応を天秤に掛けるようなものを意図するのだろうか。僕が思ったのは、そうした暴力(がもたらすシリアスであるとみなされる語り)も笑い(とみなされる語り)も同様(そしてこれらのいずれかという二者択一の並置だけでなく)に提示し、映像的現実として受容しようとする姿勢が、彼の中でかなり明確になってきているのだろうか?というようなことだ。シリアスな暴力シーンは目を背けたくなる。これは自らの身体的な受容を想像力が補完的に喚起するからだ。しかしそれが過剰なり、自らの想像力の限界なりで、自らがリアルだと規定することから乖離していくことで、それは空虚になっていく。それが要素間でリンクを持っていると受容者が感知できれば笑いを引き起こすかもしれないし、そうでなければカオス、理解不能なものとしての無関係な態度、欠伸をもたらす。

意識のない寝たきりであったサーマンを犯(そうと)した男たちの明らかに女性をモノ化しているゆえに可能な行為と会話は、女性の受容者(やそれに想像力を働かせる男性)からすれば、自らに対してもまさに現実として起こりうる暴力として、それは映像的現実などではなく、可能的世界の潜在的な要素として、許せるはずなどない目の前の現実として受容されたのではないだろうか。けれども歯がかみ合わないような怒りをそのように感じつつも、あのシークエンスはそれを含めて笑いを喚起させるものであった。少なくともタランティーノはそれを意図していたとしか思えない。上で書いた映画開始直後のサーマンの主婦との冗談ではない殺し合いに、[ pulp fiction ]同様の導入の爽快さを感じ取った者は少なくないだろう。これは「不謹慎だけれど笑ってしまう」というような定型的な言い方を意味はしない。この言い方は明らかに後者に重点が置かれている。けれどもこのシークエンスは両者が均衡しどちらの立場にも立ち得ないような位置に受容者を置くような性質のものではないかと僕は思う。そして繰り返すけれども、これはシリアスと笑いという対立でもなく、いくつかの語りに対する受容のイメージに対して僕たちが作り上げる、それぞれの物語という理解のためのフォーマット間の対立である。この映画に感じたのはこうした複数の語り方の溶解の在り方だ。それでは、それに対して上で書いたようなそれぞれの対応とは違い、どのような反応(という語り方)をするのか。

受容

web/search [ girafa ]
音 [ multia ] vladislav delay ( basic channel )
音 [ one bed room ] the sea and cake (thrill jockey)

11/09

音そのものから物語化へという誘惑、それとも?

  • レクチャー [ lecture * OuterLimits_SoundAct_004 ['90年以降の非主流音楽〜現在とその後] ] 佐々木敦丸谷功二 @天王寺 remo

物語化、類型化した形式、材料を用いるのではない方法で、音楽を作ること。コンピュータの自動性を利用することで、既存の方法論、組織化論から乖離することが容易となった90年代半ば以降のポスト電子音楽(ここには電子音楽だけではなく、アヴァント・ミュージック、音響、ポストロック、インプロヴィゼーション、等の広範な領域を意味するジャンルを意味する語句が挙げられるだろう)の中でも、「音響」と呼ばれて括られる音楽が行ってきた制作とはつまり、こうしたものであったのかもしれない。字義どおり捉えるならば、音そのものを聴取するということになり、これらがこうした方法論により受容者が響きを楽しむことに注意するような制作を行ってきたといえるかもしれない。

もちろん「音の響き」としたところで、ここには既存の意味での音楽形式の類型を何らかに利用することから逃れたものがあるとはいえない。[ vakio ]でのpan(a)sonicや[ +/- ]の池田亮司、[ seven tons for free ]のpitaらが登場してきたときこれらの作品が引き付けたのは、テクノ、ミニマル・テクノの音色が極度に殺ぎ落とされた、それらからみれば骨組みとしか思えないようなミニマルな電子音が要素とされており、質的なジャンプアップがなされたような感覚がひとつにはあるのではないかと僕は思っている。けれども、これらはやはり、論理的展開によって可能になった「テクノ」の子孫だろう。これらはテクノ・ミュージックというリズムの定型性を引き続き採用している。このことは一度両者を聴き比べてみた者であれば素直に出る指摘だろう。

音階やハーモニーを使用せずとも既存のポップ、音楽のフォームの公約数的な要素は、音楽が音(二つの音の違い、もしくは連続する音を聞き分ける音の変化)を使用していること、それらを人為的に作り出していることという、形式的なレベルでの採用する要素の共通性(制約)から逃れることはできない

(リズムを放棄できるのか?という問いに関しては、僕はできないと考えている。このことはもちろんテクノがもつ4つ打ちのビートのことを言っているのではない。そうではなく要素のパターンの何らかのレベルでの反復のことだといってもよい。音階やハーモニーが音の違いをよりよく受容するための複雑性を生み出す音楽家の努力の一つの方向だとすれば、それはもう一つの方向だ。人間の記憶に関わる要素としてリズムの存在は本質的であり、心地よさはここに結びついている。反復性としての要素の回帰が存在しなければ、僕達はここに心地よさを見出さないだろう。音楽とはこのパターンをいか作り出すかの人為的な制作であると言い換えることもできると思う)。

メディアの使用によく見られるパターンとして、記録から生成(物語化)という経緯が言われる。絵画や映画などはこれにぴったりと適用することができるかもしれない。リュミエール兄弟の「列車の到着」が単にこの題名のとおりの出来事をシネマトグラフという当時の最先端メディアによって記録したことから、舞台演劇の記録(内容としての物語の記録)や「月面着陸の日」のようなアニメーション的欲望の実験を含みつつ、編集の映像の物語文法を築き上げていくというような。

このポスト電子音楽(「音響」だけのことでない。現代のコンピュータ・テクノロジーは音楽聴取の布置のコンテクストの再構築をもたらしている。「音響」以外のものもこうしたコンテクストの在り方をフォーマットとして、既存の電子音楽環境の否定的影響下から制作を行わざるを得ないようなところがある)の潮流は、こうした経過を逆転することに意図を見出していたといえるかもしれないし、またはそもそもこれらの音楽の核にパーソナル・コンピュータの性能のブレイクスルーがあることを考えると、やはりこのメディアの使用の経緯を踏襲しているといえるかもしれない。

今回のレクチャーは要するに上で挙げられているゲスト二人が、自分が関心を持つ上のような音楽を掛けながら、それらについて批評家、音楽家・ディストリビューターの立場からこれまでの一時的な総括したということになる。彼らが掛けた音楽とは、音響派やそれによって括られて認識されるようなものとして90年代半ば以降から現在に至る響き、音色を作品の大きな要素に扱ったムーブメントに属するものである。上で言ったように、これらはこれまでの電子音楽がもたらしたフォーマットの影響下にある。

ここでの話題とは以下のようなものだった。一つには、これらのムーブメントと呼べるようなものが出てきてから8年ほどが過ぎ一段落ついた飽和状態にあること、一つにはヨーロッパ、アメリカ、日本によって先導されていたこれらの音楽が、第三世界によって再発見(生成的複製)されることで、新たな動きを持とうとしていること、一つには音色、音の響きという低次のもしくは純粋(?)な音の状態を扱うことに制作者や受容者の眼目があったことがスライドし、高次ともいえる物語構造をそこに加えようとする動きが出てきていること。

これらは密接に関連するものであるのだけれど、これらの音楽のこれからについて、僕は制度的な存続などを求めたいわけではなく、上の2つの話題にはそれほど興味はなかった。けれど3つ目に関しては興味を持った。つまり、fenneszなどの作品が、既存の音楽に回収されるようなものでしかないというような批判が寄せられていること、そしてこれに対して、佐々木がfenneszの音楽は、それとは別物の感動がもたらされる新たな経験である、というような意味合いのコメントをしていたことについてである。これについて、彼はこのような批判の前提が既存の音楽という対象とそれに対する受容者の感動の質を固定的な一括りなものとしているとして適切ではないというような仕方で反論していた。

これについて僕は、ovalやその場で掛けられていたstephan mathieuというラインと、またそれとは別のautechreというライン、steve rodenbernhard günterなどのライン、それらとはまた違うインプロヴィゼーションというラインを交えて述べたいと思うのだけれど、それはまた改めて。

受容

web/java + music [ jMusic ]
web/music [ pal@pop ]
音 [ ballads ] derek bailey ( tzadik )
音 [ sun pandämonium ] hecker (mego)
音 [ filament 2 ] filament (for 4 ears records)
音 [ draft 7.30 ][ confield ][ gantz graf ] autechre (warp)