2004/12/

12/27

受容

ウェブ [ Webビジネスコンサルタントのネタ帳 ]  ()
映画 [ barry lyndon ] stanley kubrick (warner bros. studio)
ピカレスクとピクチャレスク、という高山宏の論文を想定して
音楽 [ ngo ] 坂本龍一 (warner)
new balanceのシングル版をどうしても聴きたくなって
本 [ des special-edition macromedia ] (翔泳社)

12/20

受容

ウェブ [ http://www.kimoto-k.com/ ] 木本圭子 ()
本 [ Imaginary・Numbers(イマジナリー・ナンバーズ) ] 木本圭子 (工作舎)
音楽 [ suite for jazz orchestra, no. 2 waltz ] shostakovich / concertgeboux amsterdam (warner Brothers)

12/09 類似する抽象的な線描二種

下の二つに近いテクスチャーを感じないだろうか。

これは前者の展示を見てきたときに感じた印象だが、ディスプレイ上で比べてみると思ったよりは似ていないかもしれない。けれども、両者に自らが制御の困難な非線形的な幾何学的線描と色彩の漸次的に変化するコントラストの組み立てに魅入られ、それを高次においてどうにか制御しようというような意志を感じることはできないだろうか。

これらの効果に感じるのは幾何学的形態の心地よさである。けれどそれは単なる幾何学性ではなく、それが現実世界の条件によって影響を受け細部が崩されるような質ものである。プログラミングによるものは逆算的に複雑化することでそれに近づこうとしている。またティルマンスによる手作業のものと思われる素材の運動の自動性が生む効果は、コントラストとそのグラデーションの微細さにもやがかかることで、見る者(僕)の一層の心地よさをもたらしている。比べてリースの生成される線描は、こうした滑らかさでは劣るかもしれないが、そのかわり、現実の制作過程に被ると思われる素材、身体、道具、それらの運動のもたらす可動限界等の様々な制約からは自由であるかのごとく、ティルマンスの色彩の同一性から逃れるような色彩の変化を持つというようなことになっている。

僕が興味を持つのは、方法や意図が異なりながら、受容者にとって類似するような効果を生む両者の、類似点と相違点である。写真というメディアを用いるティルマンスの作品が静止画であるのに対し、リースは運動とそれのキャプチャを見ることができる。ここで運動している、していないの如何をどう考えるのか。ティルマンスがビデオカメラを持つならば、それともリースがプログラミングを動的に変化する線描の生成ではなく、完成された線描の表示にすれば、両者のメディアの質的な違いは存在しなくなるのか。しかし、ティルマンスの作品がビデオによって提示されるようなものかは疑わしい。というのも高密度な画素によってあの線描の形態と色彩を大画面によって提示することで、その細部までを味わって欲しいというような意図を形式的に読み取ることができるからだ。またリースが描画ソフトウェアではなくプログラミングを用いるという点が、その主眼が動的に生成する構造を記述することにあり、審美性の許す固定的な形態を決め打ちすることではないことを示している。リースでは、彼が構造を与え動作するプログラムがそれを表現形として都度唯一的な形態を生成する。ティルマンスはおそらく手作業によって個々の形態を様々に試行し、彼の目に適ったものだけが作品として世に出される。

展示では何枚もの類似するプリントを見ることができたが、それはリースのプログラミングが刻一刻と生成する形態を取り込んだ静止画と対応しているといってもいいかもしれない。リースはそうした微細さの固有性に関心を示しているのかは分からない。この[ microimage ]と題されたものとは別に類似するものがgroupc.netに存在することから考えると、同じ作品としてではなく別の新しいものとしてアルゴリズムを変化させ、再度満足のいくものを作り上げようとしているのかもしれない。

制作者は、どのような素材と方法論を作り上げ表現形を成立させる構造を定着させるのかというレベルと、どのようにそれを運用することで、実現される表現形を制御するのかというレベルを行き来している。リースは、ソース・コードというポータブルな環境を用いることで構造レベルの制作を軽やかに移動しており、ティルマンスは表現されていく具体的な素材、道具の運用にあたかも写真機が比べられた、絵画のような蓄積される手作業の熟練により、個々の表現形という作品群を移動していく。ティルマンスが愚鈍にみえるとするならばそれは、リースに比べひどくアナログな手法だとか、写真の作品展示というメディアの歴史性にあるのだろう。けれども、プリントがもたらす解像度とサイズ、制限された受容環境故の心地よさは、あいかわらず映画というメディアの映像が、他のディスプレイに比べ強力な受容体験をもたらしているという事実同様に説得力をもち、単に手に馴染んだテクノロジーを手放さない理由としてでも十分に機能しているように思えるのも確かだ。

僕が、ティルマンスのこの線描写真に刺激されたのは、この日記を書いているように、明らかにリースを想起させられたからだ。提出された作品は、ティルマンスによって選ばれた価値のある形態ではあるのだろう。しかし、それが客観的な心地よさを持つにせよ、それは一つの上のような手作業の方法論を想定しえてしまう。つまり、その方法による数々の同じ系統の作品の存在は、一体リースのプログラムの生成したものを静止させたものと、どれほど違うのだろうか?ということであり、もっと言ってしまえば、ティルマンスのこの作品群とは、結局のところリースの構造の設計を、人力で行ってしまっているだけではないのだろうか?ということだ。もちろんこれは大雑把な議論ではあり、再度検討が必要だろう。再度、僕の感じた刺激とは何なのだろう。細部や表現を志向するものと、それを生み出す構造を志向するもの、同じ印象をもたらす結果において、表現者の力点が違う二つの位相への知覚がもたらしたものだと思う。

ところで、今回のティルマンス展の他の作品の感想を少し書いてみる。心地よさを持った作品群だと思う。けれどそれ以上何か語りたいと思えなかった。見続けていると、多様な題材を持っているにも関わらず、テーマは消え去りカラフルな色の組み合わせと、それを引き立たせる淡い光という共通性だけが目に入ってくる。椅子にかけられている重ねられた濃いグレー、赤に近いオレンジ、薄いグレーというそれぞれの色を持った衣服とそれらを引き立たせるがごとくフレームに入るオフホワイトの背景というような作品、窓際とそこに置かれた赤い花の一輪挿しだったり緑の植木やグラスという作品、自らの焦げ茶色のスニーカーをフレームに入れた海と砂浜とそこを歩くカラフルな衣服を着たカップル、一連の色からなる並置された抽象的な写真群、等々。「ファッション誌の写真を撮りつづけた経歴を持つ写真家」という説明がどのようにこの印象に影響を与えているのかはすでに分からない。すでに僕はその説明を知ってしまっている。

受容

本 [ Javaプログラミング・ノート 日本語化と日本語処理 ] 風間一洋 (ascii)
展示 [ project N19 小西真奈 ]  小西真奈 @東京オペラシティ アートギャラリー
展示 [ ヴォルフガング・ティルマンス展|Freischwimmer ]  ウォルフガング・ティルマンス @東京オペラシティ アートギャラリー