2005/02/
02/28
「ことばの跳躍力」についての反応(02/13)
下の文章について、ある人からメールをいただく。
そこで、エンジニアリングに対しストレスを感じる、というふうな意味のことを書かれていた部分が腑に落ちた。ここではそのことだけに触れてみたい。
これはどこからくるのかというと、僕のことばでいうなら、自然なり機械ではない道具なりとの接触によってもたらされるもののように、それらの形式がもたらす自動性によっていないということだと思う。ここでの形式とは対象の形式のことではなく、対象との接触の物質的な形式を意味する。このことをギブソンのアフォーダンスを持ってきて説明する人もいるのだろうけれど。テクノロジーにはこれらの形式に対する接触者の直感的な感覚とそれによって扱いうる材料で組み立てられる操作の行程を、論理的で時空間的に変換された領域での意味の選択の形式に置きなおすようなところがある。
エンジニアリングは広義においてテクノロジーの運用においての、そうした部分に関わる様々な位相でのインターフェースの開発そのものだといえるかもしれない。彼がテクノロジーではなく、エンジニアリングと書いたのはもちろん僕の書き方に受けてのことで、下の文脈ではおそらくテクノロジーと呼んでもそれほど意味の違いが生まれるというわけではない。けれど僕がテクノロジーではなくエンジニアリングと書いたのは、そこにおけることばの用いられ方や、彼や僕が感じるストレスというものが、その部分にまで深く関わっているからだ。
受容
- 音 [ inorganic clarity ] twerk ()
- 音 [ eero ] iota (360°records)
- ソフトウェア [ sonasphere ] 徳井直生 ()
- 本 [ 論理学入門 ] 三浦俊彦(nhk出版)
ことばの跳躍力(02/08)
哲学のことばをエンジニアリングのことばは、現象を動かすという側面において排除してしまう。このように感じるときの僕の抱く前者とは、科学を脅威に感じなかった時代のそれ(科学を後追いするような現代のそれに対しても当てはまるのだけれど)を指している。ほとんど詩かsfに思えるだろうこれらを排除してしまう感覚の解像度のあり方には意識的であれと、自戒しておくこと。