2005/04/

04/30

受容

映像+音 [ live coding ][ wysiwyh ] 久保田晃弘 ()
ライブ・コーディングの実際を映像で見ることができるということだが、モニターの内容はつぶれて見れない
音 [ op. ] 池田亮司 (touch)
今更購入、スタティック、という印象
音 [ 長い夢 ] yuki (epic records)
本 [ pluto 2 ]  浦沢直樹 (小学館)

ipod的なるもの2、セルフアーカイヴィングと並列化された受容環境について:ユリイカ2005年3月号「特集*ポスト・ノイズ 越境するサウンド」についてのメモ1(04/24)

この中の大友良英菊池成孔、大谷能生の三氏による鼎談で、ipod的なるものの受容論的なことが話題になっていた。以前上のような題でipod的なるものの持つ技術的なインパクトについて書いたこともあって、それについての印象を書いてみることにする。

以下、印象に残った発言を引用。

大谷「線状的な歴史観みたいなものが薄くなって、ほとんど並列的に過去が処理されるってことだと思う」
菊地「アーカイヴィング化にはたまらない快感と安心があるから、裏返しにものすごい不安がある」
菊地「いま情報がフラットになったことが嬉しい人は誰もいない」
「ディストピック!」、ユリイカ2005年3月号「特集*ポスト・ノイズ 越境するサウンド」より

1つ目の引用の中に出てくる「線状的」ということばは、対象である音楽群が単一で不可逆な近代的時間の性質に則って配置されてきたこと指していると思われるが、事態はより広範囲に及ぶだろうと思われる。つまり時間的にだけでなく、空間的、位相構造的にも配置はなされており、それらが変容を強いられるということではないだろうか。

時間的な線状性は、録音作品による音楽産業の歴史的な未熟さが強いる空間的時間的な選択肢の制約が可能にしたが、歴史に厚みを持ち世界的なレベルで成熟・安定することで、この線状性が単一どころか線であること自体が物語によって形成された相対的な視点であることが露になり、これらの選択肢が多様であるように再組織化される。それに応ずるかのごとく、構造主義的な視点や操作を主眼とする(デジタル・)テクノロジーが、この時間的、空間的、位相構造的な線状性による音楽受容のありかたを、ポストモダン的なフラットなものとして物理的に実現してしまった、その象徴としてipodは位置付けられる、ということではないだろうか。

2つ目の引用で菊地は、セルフ・アーカイヴィングのもたらす没入性について語っている。それはこのウェブでも関心を持つ、人間の持つテクノロジーやあらゆる対象への全的なコントロールの欲望というものが大きく関係するのだと思われる。彼が言う「たまらない快感と安心」に伴う「大きな不安」というのも興味深い。そこでふと思うのは、はたしてアーカイヴィング行為には没入しているが、音楽の聴取そのものに没入しているのだろうか?という疑問だ。たとえば菊地は「ipodが恐ろしいのは、レコードマニア、ステレオマニアといった音響にこだわる人たちが喜んで買って行っていること」とも語っている。このことは全く無関係なのだろうか。

つまり、彼らはレコードやステレオ機材と同様にipodという音楽の受容のためのツールを手にしていると考えているのだろう。それだから自分は音楽の受容を行っていると当然のごとくみなすのかもしれない。けれどその実、彼らはipodで音楽の受容よりも、音楽を要素にしたアーカイヴィングという文脈の組み立て(コントロール)作業を行っており、それに強烈な快感を得ているのかもしれない、ということだ。

最後に引用した菊地の発言は、歴史という一回性や物理的な要素が強いる制約つまりセントラル・ドグマを本当に転倒させてしまったポスト・モダニズム的な思考への現実的な感覚としての述懐とでもいえる。これについて、何か言うことは今の段階で少ない。この発言に対応するようなこの鼎談についてのウェブ上の文章を引用しておく。

「ムーブメントなき均一な世界では、「新しさ」を売り物にするロックスターはかつてのような輝きを放てない。どんな音を鳴らしてもそれは必ず過去の音楽と比較され、よくて「〜の再来」にしかなれないからだ」
Atahualpa「【日記】iPodをぶっ壊せ!」

確かにそうだと思う。けれどそれは過去への参照によってではなく、ロックならロックという音楽が、「音楽」すべてを意味するのではないということを、受容者が知ってしまっていることによるのではないだろうか。

新しい音楽は常に存在し得る。けれどそれは自分の耳の状態に関わる小さく個的な体験のものだろう。スーパーフラットという考え方を肯定的に捉える意味は、ここにあるといえるかもしれない。すべてのものが並列に配置された状態で、対象のコンテクストが剥ぎ取られたということは、そこに付着した物語や高次情報に無縁であるということである(もちろんこれは全くそうではないのだけれど)。ビートルズとニルバーナを同時に体験する事態が生じるとして、それらが過去の情報の参照によって、新しさの意味が剥ぎ取られるということはここではあまり重要ではない。そのような聴き方自体が線状的な歴史観を前提しており、遅かれ早かれ相対的な意見になるだろうと想像できるからだ。

そのようなありかたと同時に、両者が併置されたことなどによって、音へのフォーカスがこれまでとは全く違った部分に当たることが生じるだろう。そこでは情報の参照が、なされる状況、受容者のおかれた情報を組織化する体勢などに従うという多様性によることなるだろう。そのような中では、自分の認識や価値を決定する物語は、個的なものになるか、それに準ずるものになるだろう。もちろんそのような事態の萌芽はすでに見て取られている。

受容

ウェブ [ すきやき いろは ]  ()
ウェブ [ ゆかた展 呉服 なか志まや ]  ()
ウェブ [ http://www.geocities.jp/kumacoopdisc/ ]   森本アリ
音 [ tokA2西川文章/森山ふとし (gule audio)
音 [ oyster ] oyster (fukk god lets create)
ただただ心地よい、落とすことができるのでぜひ
音 [ <COLEZO!>韓国の音楽 ] v.a. (victor)
[ 鳥打令 ]という曲の伽耶琴の音色とそこで聴こえるフィンガーノイズ?が非常に心地よい
本 [ ひと月9000円の快適食生活 ]   魚柄仁之助(飛鳥新社)