audio scrobblerを利用し始めるが、ナーバスになってしまっている。
2005-05-30T10:15:00+09:00更新
spdillのアルバムではじめて聴いたのだけれど、現在はライブだけのようでほとんど音源が存在しない。
http://www.de-fragment.com/zuinosin/release.htmlでは、「forthcoming release ZUINOSIN (EnhancedCD format)」となっている。
最初のものは、この組み合わせがどんな音を生み出すのかちょっと想像できない。次のものは、いまだ新譜を見つけると何のためらいもなしにレジに持っていくにも関わらず、ライブを体験したことがない。最後は、久しぶりのゴッホということで。いずれも行けるかは分からない。
僕が「音色」と「即興」にただならぬ興味を持つとすれば、それは近代西洋音楽とそこから派生したポップ・ミュージックがこれらを排除しつづけてきたからです。そして現代のコンピュータによる音楽は真正面から、これらを扱い得る能力を部分的にせよ得始めています。
この音楽では、そもそもハードウェアの技術的可能性がその性格づけを行ったといえ、工程的には音色の制作とリアルタイムによる微細な音の振る舞いの表現を中心においたのだと考えられます。けれどそれにも関わらず、ここには音の響き、音色への意識が中心にあり、「即興性」だとか「音と音が作り上げる運動性」という部分にはそれほど意識が配られていないような気がしました。「音と音が作り上げる運動性」というのが、うまくないのですが、「リズム的な要素」だとか「構造が静的である」くらいにでも思ってください。
「インプロヴィゼーション」ということばが指し示す音楽の一ジャンルの内実は、広義の意味においてはもちろん、狭義の意味においてもかなりの幅を持ち、これで何かを射抜くことは非常に難しいと思います。試しに定義づけを行ってみると、
ということになるでしょうか。けれどこれは足りているかもしれないし、不足しているかもしれません。デレク・ベイリーの音楽での内実を、このムーヴメントに当てはめることもできるのかもしれませんが、これがムーヴメントとして成り立っていること自体、なにがしかの共通化によって成立しえているのでしょう。そこにはある形骸化のようなものも当然含まれると考えられます。あなたのいう「インプロ風」の演奏というものも。
「即興」という音楽は、コンピュータによるリアルタイムな表現の可能によって、再度組織化されはじめていると思います。ひとまず「即興」という概念はそれを強いられています。
久保田晃弘氏のライブ・コーディングの文章もなかなか興味深かったのですが、これはmaxやcsound等のもたらすインパクトの範疇に収まるものだと僕は捉えています。ただし、それはgui/cuiというインターフェースの違いがもたらす、表現への形式的可能性/制約が大きく異なってくるところをきちんと見る必要があります。
彼はコンピュータを利用することを
- 「操作するというよりも「委譲」するという感覚に近い」
- 「人間とコンピュータのインターフェースは間接的になっていかざるを得ない」
「ライブ・コーディングの可能性」、ユリイカ2005年3月号「特集*ポスト・ノイズ 越境するサウンド」より
というふうなことを書いていましたが、これらは基本的に行為と発音との間の即時的で直感的な対応性が崩れてしまうということを意味するのでしょう。
つまりコンピュータが処理を行うのにかかる時間をこの制作は常に孕みむことを意味します。操作する者(委譲者)は、演奏中この時間的な遅れをなんらかのストレスとして受け入れざるを得ないでしょう。それがロック・ミュージシャンのようにアタックとそれを生み出す身体運動の対応づけをライブの重要な一つのアクセントとして利用しようとする者にとっては、それはフラストレーションでしょうし、ミスを極度に恐れるクラシックの演奏家のような人間にとっては、これはなかなか羨ましいことかもしれません。けれども、この遅れは単にずれてしまうということであって、現在した選択を単に現前していないという理由によってそれが誤ったものだとしても取り返すことは難しいような質のものであると、これはこれでよりねじれた状況を生み出しただけなのかもしれません。いずれにせよプログラミング自体がそうした非直感性や抽象化による効率的な大規模な群の多様な操作を目的とするからには、当然これによる音楽制作もそのような性質をもつことになるでしょう。そこで生じる受容論なりこの形式が強いる制作への影響を見ることが必要になってくると思われます。
僕自身が、未だ「即興」「即時的な(演奏)行為」というものを真正面に取り組むことができていないこともあって、そこに加えてコンピュータのこのありかたは、難問でもあります。
話がどんどん冗長になってしまっているので、そろそろ切り上げないと。
あなたは「音響」「即興」の「いずれにも属したくない」としていますが、よく分かります。ただそうだとして、それぞれのジャンルが射抜こうとしている部分が、それぞれ非常に重要な問題を音として試行しているとみなすこともできるはずです。その意味でそこに留まることも肯定されてもよいとは思います。
あれらの質問をしたのは、「いずれにも属したくない」にも関わらず、あなたが両者にバランスよく関心を抱いているように見える点にあります。別個の問題として捉えず咀嚼しようとしているように見える点が興味深いのです。
ところで、最後に再度質問です。「あらゆる計算や手作業によって常に様々な変化を伴う質感(「音の振る舞い」と訂正していますが)を求める方向」という部分です。この「振る舞い」とは、楽器を手にして発音を手の指や口によって直接的に対応する運動によって操作するという意味ではなく、より基底的な部分の要素を、そしてより大規模な量の自律的な運動を意味するのはないでしょうか。そしてこれを扱うには、楽器演奏という既存の方法論ではなく、やはり何らかのアルゴリズムの介在を想像しますが、そのあたりはどうなのでしょう。