異なる質のループを重ねる恩田、物音(ノイズ)を物語的に構築する西川、一つの音から複数の音群を生成し組み立てるアンバーチ、というそれぞれの方法論の違いが興味深い。
ポータブル・カセットテープ・プレーヤーとディレイ・エフェクター、サンプル機能によるループ、とこれらの即時的な操作によって三つの質のループが任意のタイミングと持続を確保するものとして作り出され重ねられる。これが恩田のパフォーマンスの技術的な側面からの説明といえるだろう(恩田氏の機材セットに関して、共演した西川氏に確認を取らせていただいた)。
三つのループとは、一つは直接テープの再生とその巻き戻しによって作られるものであり、一つはテープの音の断片がループ機能によって取り込まれて作られるものであり、一つはディレイによって作られるものである。テープによるループは、任意のタイミングによる巻き戻しによって加わるアタック(録音された音に応じて変化するキュルルという巻き戻し音)が特徴を残す。ループ機能によるものは、いわゆる機械的な反復であるが、再生されているテープから音が取り込まれ反復がなされるという意味で、テープに従属的である。またディレイによるループも、テープのある音の持続に従属的であり、またそれを減衰する形で反復がなされる。いく本かのテープが前もって用意されており、同じ(部分が重なる)持続がそれぞれのテクノロジーによりそれぞれの性質をもったループとして、ずれを伴いつつ反復される、あるいは違う部分の音の持続がそれぞれの質として重なり合う。
ダンス・ミュージック用のトラックでみられるような機械的なループを要素にもつ音楽を僕は基本的に退屈に思っているのだけれど、それは端的に言って複雑性の低さつまり高次構造からみて静的であることやループの外が存在しない情報量の少なさに受容者が気づいてしまうことにあると考えている。かつてオヴァルにあれだけ焦がれたのは、この音楽があくまでもループ・ミュージックであるにも関わらず、それぞれのループが微細なずれを孕む複雑さを実現しえていたからだった。けれども、彼らのループでさえ、ループ・ミュージックが形式的に孕む単調さから逃れえたわけでなく、オヴァルはポップ・ミュージックの構造の援用により、そこへの受容者の意識のフォーカスをずらすことで、成功を収めたといえるかもしれない。恩田のパフォーマンスは、そうした方法論をとらないという意味で、この限界を突破しえていない。けれども、オヴァルと同様にループを裏切ろうと別のアプローチをとりそれに成功している(つまりループやループ・ミュージックの資産はきちんと利用しつつ、ということ)。つまり、複数のループの質が合わさる総体としてのテクスチャーがもたらす豊かさと、複雑なリズムの揺れを生み出すことによって、この音楽には情報量を多く感じることができる。それはこの「カセット・メモリーズ」という名前である作品群のコンセプトにどう関係するのだろうか。
西川はこれまでに何度が見たように、ギターを寝かし、複数の道具を一つずつ順番に弦に接触させいくことで生じさせる物音の継時的な現前という方法論をとる。今回はその発音をよりハードにさせたほとんどノイズといえるものであり、これを即時的に非常に物語的に構築したといえる。道具の選定のメリハリ、持続の時間、発音の開始と終了時のアタック等、発音数は単純にただ一つであることを考えると、単に音色が移り変わっていくシンプルな構造ではあるのだが、ひとつずつの音色が全体として和声を構成するがごとく印象付ける。それを錯覚させるがごとく、発音から発音という継起全体をおそらく彼は順次イメージしながら即興を行っているのだろう。と書いたのを読んでみると、本当に当たり前のことを書いているという気にしかならない。ただ、意外な道具の様々な連続による各音色の発音は計算されたようなものであり、前もって慎重に作曲されたような構築的なものを感じる。宇波拓の「熱海」などにも感じた「音楽的」「物語的」ということばを形容することができる気がする。
ただし、このことには西川(や宇波たち)はおそらく反対するかもしれない。また彼らの音すべてにこの印象を抱くわけでもない。それでも、物音やノイズを用いようとも、形式的に「音楽的」「物語的」であり得るもしくは認識し得る。このサイトでは、度々これらのことばを用いて制作の部分的な領域を捉えようとしているが、前者は後者の部分的な意味で用いている。事物を配置していくパターンと、それが流通し複製され類型性という形で参照される有力な型のあり方を「物語」と僕は便宜的に呼んでいる。その配置される事物間の関係性やそれを含む全体には様々なパターンがあり得るが、それは何を要素とするかを問わない。そしてそれは認識可能である、もしくはより認識が容易な抽象的なものが採用される。
ここでは、ノイズという要素が用いられているが、それを聴取する者には、その聴こえ方に、それを単に「音の継起をただただ感じる」というあり方や「意味を感じることができない非楽音のつながりをある既存のパターンとして感じ取る」というあり方など、それこそ多様性があるはずだ。けれど、この西川のパフォーマンスは、そうした様々に立ち現れる音たちの間にパターンを見て取ることができるようなものだった。このとき僕は、音楽における「物語」のある既存のパターンの形式的な部分を、現在聴取している事物(音たち)の関係に当てはめ、感じる・理解するというあり方を、有効なものとしてみなし利用していたのだと思う。このことは、聴く側だけでなく、おそらくパフォーマー・制作者である当人も、このパターンをモニタリング・システムとして用いて、制作を行っていたのではないだろうか。一度聴いてみたいと思う部分である。個人的にはもっとも笑みがこぼれたパフォーマンスだった。
アンバーチは、遺伝系として一つの音を変形させたものを継時的に複数発生させ持続させるという方法論を採っているようにみえる。彼の音を[suspension]ではじめて聴いたのだが、後にギターで作られていることを知って驚いた。というのも、一聴してこの作品で聴ける音は、ギターの音に聴こえず、コンピュータによって作られたような印象を与えるからだ。けれど、この制作はギターを主要素と言うことはそもそもできないような質のものだろう。彼にとって音源であるギターは重要であるかもしれないが、受容者にとっては特に重要ではないと思う。それは単純に音だけを聴いている限り想像できないということでもあるし、彼の方法論には音源よりもそれ以降の制作の過程の方が本質的に思えるからだ。つまり音を派生させ持続させ保持し加工し出力するシステムが彼の方法論にとって重要に思える。
ところで、彼がこの日具体的にどういった方法で音を作り出していたのかを具体的に言い直してみようと思ったが、それが上手くできない。ひとまず理解している正確でなく具体的でもない説明は以下のようになるだろうか。
- エレクトリック・ギターでなにかしらのフレーズを弾く。
- 接続されている複数のエフェクターから一つあるいは複数いじり、現在鳴っている音に変化を付ける。
- 音の持続が続く中、別のギターの音が鳴らされる。
- 1から繰り返す。
技術的に興味深いのは、一つの音が持続しながら、別の音が加えられ、鳴っている音たちは即時的に音を変化させることができる、ということだろうか。複数のエフェクターとミキサーのつなぎ方によってこのような循環する方法が可能なのだろうが、想像できなかった。
上で言ったように、聴く側にとって、ギターを弾くことは、彼の音楽にはそれほど本質的な意味はないという印象を与えられる。それよりも印象的であるのは、音源にエフェクターなりの機材によって変化を与える際の、彼のつまみをせわしくけれど繊細に触っていく様子だった。あるひとつの音が、ほとんど原型を残さないくらいに複数の音色として変化あるいは破壊されていく。時には、やわらかい「ブツッ」というノイズを多く含むものとなり、時には、オクターブがいくつも低くなりつぶれてしまうものとなり、時には音の持続を微細に揺らすものとなり、という具合に。彼の作品がこのような方法論に形式的に従うことは、彼の作品が音色の変化に受容者の注意を促すようなものと強く関係するだろう。逆に言えば、静的であるという性質を作品は背負わされているのだが。