組立論

組立の定義

諸事物を材料として一つの事物を構成することを組立と呼ぶことにする。組立には人為的な意図が伴い、組立物は常に先行する複数の参照の対象をあるレベルの要素でもって組み替えたものである。またこの参照の対象を先行対象と呼ぶことにする。ここにおいて先行対象から組立物という事物の移行を見ることができる。

組立の範疇

組立の材料の範疇の大部分は物理的な形態を持つものであるが、非物理的なものも存在する。組立は別の言い方をするなら様々な範疇の事物を材料にして意味を形成するといえるが、この点において両者は区別されず同じ組立物であるといえる。範疇を分類するなら、三次元的、二次元的、非形態的(無次元的?)事物というふうになる。この範疇は形態という視点により分類されているが、これにより分類できない事物が存在する。三次元的事物とは我々が最も多く所有するものである。建築物、食料、日用品、衣服といくらでも例を挙げることができる。二次元的事物とは事物を構成する形態自体三次元的であるが、それが二次元的な形態において意味が見出される組立物のことを指す。文書、設計図などの図像、絵画・写真などの画像、映画・ビデオ・コンピュータの映像等。ただし絵画などは印象派などの筆致の厚さを考えると三次元的な意味を持つと言うこともできる。また映像を単に二次元的事物と呼ぶことは難しい。というのも映像に我々が見出す意味とは形態だけにではなく、形態の変化つまり運動にでもあり、その運動を二次元的事物ということは無意味だからだ。形態的事物とはイメージのみによる組立物を指す。熟練した棋士が頭の中で仮想敵を設定し将棋を指すことができる、というような例はまさにこの非形態的組立である。つまりイメージのみで為す思考などがこれに当たる。またこの形態的分類に漏れるものとは音声や匂い、触感などという視覚以外で知覚される事物や先ほどの映像での運動である。この分類を用いることを弁解できるとすれば、我々の日常生活が圧倒的に視覚に依存しているという事実である。そこで為される組立は必然的に視覚的なものとなる。いいかえるとそれは形態的な組立である。この考察ではこの物理的形態を扱うことになる。だがこれらの分類から漏れる事物の組立は物理的組立の仕方と変わることがない。というのも我々は組立をイメージにより為しているという点でこれらの分類から漏れる組立も同様であるからである。

イメージと組立

我々は一般的に物理的事物(三次元的、二次元的事物、また先の分類から漏れる事物をまとめて)を材料として組立を行う。また同じくらい一般的にイメージ上での組立をも行う。イメージによる組立は主観的なものであり可視的ではなく、組立物であると他者が認めることができるのは物理的組立である。イメージとは表象や心像などと呼ばれるものに類し(イメージそのものの考察が必要であるが、まとめることが出来ていないのでひとまず保留する)、イメージは物理的事物を代理している。可知的であるがゆえに物理的組立こそ我々は組立であるとみなすが、上で言ったように組立を可能にするのはイメージに他ならない。また上で組立には先行対象から組立物という事物の移行が見られるとしたが、この物理的組立では先行対象とそれを組み替えるイメージ、イメージによって組み替えられた組立物という基本的な事物の移行を見ることができる。散在する諸形態の事物から新たな組立物を生成するための組立のためのイメージが伴う。このイメージに沿って主体は事物を物理的に運動させ、結合し、排除しなどして組立を進める。上で言ったように、これと同じ過程は意識上において全く物理的事物を用いることなしにイメージを用いることで可能である。「先行対象から組立物」という組立における事物の移行は「先行対象からイメージにおける組立物」と言うことになる。物理的組立においてイメージの存在は不可欠といったが、このイメージのみによる組立が最もシンプルな組立といえる。だが我々は普段物理的事物を全く用いないイメージのみの組立を行うことに慣れてはいない。我々がつぶやく独り言さえも、何らかの物理的世界の状況という物理的事物を用いたイメージとの相互作用によって可能になる組立である(だが良く考えてみると話すことの先行対象とはもはや記憶の中にしか存在しないイメージに他ならない)。イメージのみによる組立は特殊な経験が必要となる。しかしこのようなイメージのみの組立とは何らかに自律したものではない。組立に用いられるイメージとは物理的事物を代理するものといったが、たとえば「ことばを用いない思考」という言い方がこのイメージのみによる組立物でないことは明らかである。存在するのは「物理的事物としてのことばを用いない思考」であり、いいかえるなら「イメージに変換されたことばを用いた思考」である。だがイメージと事物の関係をよく観察してみると、イメージは単に物理的事物に対応する代理物ではないことがわかる。イメージはその形態を物理的事物に規定されながらも形態を自在に変形させることができる性質でもって、物理的事物に対応するイメージの事物を自在に組み替えることができる。ここにおいて形成される組立物は、もはや物理的世界に存在しないイメージ上の事物である(ここでイメージとはことばと密接な関係にあると見当をつけることができる)。イメージは物理的事物に依存しているのは間違いがないが、我々の身の回りの事物の多くは組立物であるということを思い出すならば、その物理的事物自身イメージの非物理的世界によって生み出されているという転倒が見られる。そこでは事物をイメージが代理し、逆にイメージが事物を生み出すという循環が生じているように我々には見える。イメージは組立に先行している、と捉えることで生じる組立物とイメージに関する循環とは、イメージが先か組立が先かというものだ。我々が組立を行うに当たってその出発点はイメージに他ならないと我々は見なす。しかしそのイメージを産出したのは行為主体の事物との何気ない接触である。これを組立の出発点にすることが出来ないのはそれが無目的なきっかけにすぎないからである。組立はそのような前提を元にイメージという目的から始められる常に目的論的なものである。たとえば手をなぞるという行為は手形を描くという意志と手形のイメージによって可能になるようにみえるが、それは必要条件ではない。手の形の軌跡を形成することは、単に手の形態に沿ってもしくは手形という全体のイメージを前提することなしに可能である。手をなぞることは手形というイメージを必要とする、ということではなく、手形というイメージを想起して我々は手をなぞってしまうのである。この想起により我々は効率よく手形を形成することが出来るようになった。いいかえるとこの循環が成立したのは、手形を形成するということを目的としてつまり行為として見なすようになってからである。つまり我々は手をなぞることを行為化いいかえると形式化することで行為の原因と結果を循環させ、起源を正確に記述することをやめる。この循環とともに生じるのがイメージである。手形というイメージは既に形成されたイメージ上での組立物である。この組立物を用いて我々は二次元的組立物としての手形を形成するのである。

組立の工程

先行対象と組立物の間の関係をどう見るかで二つの組立の捉え方が可能である。一つは複製としての組立、一つは創造としての組立、というふうに。前者の場合、先行する組立物は代理物として見なされ、それを構成する諸材料の関係は当の組立の諸材料に対応し、両者は代理関係にある。ただし組立を構成する材料の範疇がそれぞれ異なる場合、それは単なる代理とはいかず相互作用によって組立は進行されることになる。これは複製論で見た複製の具体化の問題である。また後者の場合、先行する組立物はまさに参照の対象になる。組立物の関係性は当の組立に様々に取り込まれることになる。先行対象はこの場合複数である。というのも創造としての組立は差異から引き起こされるからであり、両者の関係性を組み合わせることで組立が可能になる。その意味ではこの創造性の組立は組立の本質的な在り方である。ただし創造性は複製としての組立の量的な延長上に見られるともいえる。というのも複製物の組み合わせこそが創造的組立であり、素材は既製の組立物である(自然物を組立の材料に選択することは自然物を組立物に仕立てる)。どのように組み合わせを選択するかということに創造性を見ることができるが、その選択の仕方自体既存のものである。またこの創造としての組立を用いて複製としての組立が可能になるという意味で、両者は複雑な循環性を持つ。

表示物という言い方

物理的組立から見ると、それを可能にする代理物としての組立物が存在するという視点が存在する。この組立物を表示物と呼ぶことにする。表示物は複製を行う場合必要な対象の関係性を表した存在であった。複製技術ではそれは対象から直接に写し取られたものであったが、組立においては組立に必要な技術、材料、実作業の手順を示すものを指す。ここにおいて表示物とはイメージによる組立物、もしくは物理的組立物を指す。つまり組立物が代理物として参照した諸事物もしくは組立物すべてが表示物である。あらためて物理的組立における基本的事物の移行をいうならば「先行対象−表示物−組立物」というふうになる。

組立の循環的形成

複製技術論では定規による直線の生産は復元工程の典型的な例でありながら、その先行対象を考察しようとすると困難が出てきた。そこから定規という表示物自身の形成の問題があらためて考えられる必要がある。定規に先行する複製対象はいわばイメージとしての直線である。直線そのものは定規によってはじめて生成もしくは具体化されたものである。しかしイメージとしての直線自体どのように形成されたのかという疑問が生じてしまう。だが、イメージを形成するそれに対比される具体的対象が外的世界に存在し、また我々によって形作られたとも考えることができる。たとえば木切れのでこぼこしつつも真っ直ぐさを抽象できる形態、地平線、フリーハンドによる線など。これらの具体的な線とそれから生じるイメージの相互作用が、直線というイメージを形成したのではないかと想像することができる。だがこのイメージが完成されるのはやはり直線が何らかの定規「性」によって」生産されたときである(謎なのは世界初の定規とはどのように作られたのか、ということである)。つまり定規は直線というイメージによってもたらされたものであるといえるが、それは完全なイメージではなく何か直線を想起させるイメージという程度のものである。このイメージが定規を生産しようという意図をもたらしたのである。定規が生産され直線が具体的に生産されたときはじめて直線という完全なイメージが獲得されることになる。この表示物の形成とは組立の過程そのものである。材料がイメージを喚起し、そのイメージは別のイメージを産出し、それが組立に反映される、というふうに。

組立領域の変遷

組立の歴史的経緯を考察すると、当初先行対象を構成する素材は物理的事物であり、目的とする組立のレベルも物理的な領域であった。イメージは当初表示物としてのみ機能したはずであり、また二次元的組立物もまさに表示物として機能したはずである。しかし組立が展開するに従い、組立は先程の三つのレベル全てでなされるようになる。それに従い、表示物は組立物を指示する先行する組立物への機能的な命名でしかなくなる。また先行対象の素材は物理的であるとしたが、イメージが物理的事物から乖離してイメージのみで組立がなされることになり、先行対象の範疇は相対化することになる。前に先行対象はイメージとして取り込まれた物理的事物であるとしたが、これとは矛盾しない。

組立物の複製

制約付きながらも我々が組み立てたものは原理的には複製が可能であると我々は考える。複製は複製論でも述べたように、ある対象を形成したのと同様の技術と方法を用いて事物を制作することで可能である。組立によって制作された事物はその技術が比較的特定できるので、その対象を複製することが容易である。またその技術を特定できないものを複製する場合の組立が存在する。また対象を形成した技術すべてを用いる必要がない、対象の部分的関係性の複製が存在する。このような場合には、我々はその対象を形成した技術と同型性を持つ部分的なものを用いて組立による複製を行う。それはある意味では創造としての組立である。複製を行う場合必要なのは対象の関係性を表した表示物の存在である。複製技術ではそれは対象から直接に写し取られたものであったが、組立における表示物は上で述べたように意味合いを微妙にかえる。たとえば絵画の模造を作る場合、それは何か具体的な手引き書が存在するわけではない。それを形成した技法や、絵の具の開発の技術は言語化されたりしているが、画家の筆致が言語化されているわけではない。つまり我々はその作品自体を表示物と見なすのである。我々は作品を見ることでそれを形成した技術を推測する。というのもこの組立が言語化するよりも実際習作を描きながら探求する方を選択されるものだからである。

表示物による複製

対象の代理としての表示物(イメージ)の存在により複製が可能であるのは、複製技術でも組立の複製によっても同様である。組立による複製ではそれが物理的な表示物を伴うことで量産化がより形式化して可能になった。現在のすべての産業は複製技術とこの組立による複製によっている。イメージによる表示物の複製ではそれは明らかに達成されなかった。というのもイメージは主観的な方法でしかなく、伝達することが困難だからである。これはいいかえると現行の組立による制作物が、物理的な表示物によって組立可能な程度の複雑さしかもっていないということである。個人の洗練された技術により可能になった制作物、たとえば絵画作品を複製するのには、贋作画家というような特殊な才能が必要である。このようなイメージによるような恣意的な表示物での複製は、産業化することが困難であったために無視されることになる。