デジタル機器環境下での制作

デジタル環境での複製性

これまで現実世界での複製とは常に部分的複製であるとした。しかしデジタル環境での複製は全的な複製が為されるとされる。それは間違いがない、何故か?

複製を行うには、複製対象を構成する事物の材料、対象を形成する方法に同型性を持たせることが必要であるが、現実世界では材料となる事物にせよ、方法にせよ、人為的に根元的なところ遡行できない要素、つまり自然的要素が存在する。それを複製できない限り現実世界での複製は常に部分的な複製となる。

これに対し、デジタル環境でのそうした根元的な要素は扱われない。それ以上遡行できないという原子的単位が確定されており、制作はそこから遡及的に為される。これはつまり原理的に全的な複製が可能であることを意味する。

例えば現実世界での組立的複製の量産は、かなりの複雑性を削減したところにおいて成立した。逆に名匠の描く途方もない複雑性を持つ絵画の複製には、贋作画家という特別な才能が必要であった。写真という記録・複製技術はそうした特殊な技術の必要性を無効にしたといわれるが、それは暴力的な説明である。写真という技術が為したのは、あくまでも名画の光学的二次元的領域における部分的な複製でしかない。また贋作画家もしくは名画を制作した当の本人にせよ、全的な複製は不可能であろう。絵の具の配合という複製、光線・湿度など環境の複製、自らの描く筆の物理的運動の複製など、そこに関わる全ての事物を根元的なレベルにまで遡って複製しなければならない。そしてまさに根元的な領域を我々は確定することが出来ない。

デジタル環境とはそのような無限ともいえる複雑性を取り払った、有限の世界であるが故に複製を全的に為すことが出来る。そうした無限に遡行するかに思えるレベルを材料にしないことでそれは可能である。この環境は形式的にそうした複雑性の世界を自らの要素から排除している。それは扱われないのではなく、無意味化されている。

デジタルテクノロジーを用いた制作は視覚的、聴覚的なものをしか扱わない。これは上の複雑性の規制と間接的に関係する。それは我々の文化が二次元的な事物へ三次元的な事物を変換する技術を開発することが出来たこと、もしくは音を空気の振動であること、その複製、合成の方法を技術化できたことによっている。ヴァーチュアルリアリティは五感のその他の合成を目指し技術化しようと目指すが、そこには印画紙、振動板などの五感を変換する媒体の発見、発明が待たれて劇的に発展するといえる。

制御の欲望としてのデジタル化

諸メディアのデジタル化は、行為をシステムへ取り込むことによる制御がその前提にあるが、たとえば録音技術を考えてみるとよくわかる。磁気テープを用いたアナログ的録音技術は記録というその本質においてというより、その加工の簡便さによって発展したと考えられる。デジタル技術への移行は逆に本質的な記録という側面の精度を落としてもその圧倒的な制御性を獲得したいという欲求からのものだ。コンピュータは、我々が生み出してきた個々のツールをデジタル化することを前提に、すべてを同階層の素材として扱い、様々な制御の形を生み出すことが可能なツールである。いわば「究極の制御系」ということができようか。しかしこの制御系は、圧倒的な情報領域の形式化による排除の上で成り立っていることも注意すべきだ。デジタル化は、他者同士を同じ前提において、等価に扱うための共通化である。それは第三のシステム内において、両者のコントロールが可能であるということだ。わかりやすい比喩でたとえるなら、それは分数計算での通分である。共通分母をそろえることで各項は同じ前提をもつことになり、諸要素を操作することが可能になる。興味深いのはデジタル化が、一度このような「共通項」への変換が必要であるという事実である。カラヴァッジオの作品を画集で、つまりコピーされた媒体によって観るとき、そこにある闇にオリジナルにはないメタリックな艶のようなものを帯びていることに気づく。この画集の「艶」とはこのデジタル化による共通化の痕跡である。