桝山寛「マルチメディア試論」を読んで

桝山寛は「マルチメディア試論」(『テクノカルチャー・マトリクス』所収、ntt出版)においてマルチメディアにおける使いこなし能力を、w・オングのいう声の文化、文字の文化におけるそれぞれのメディアでの使いこなし能力と比較している。「ユーザーレベル(使用の段階)」と彼はいうが、文字の文化がそれ独自の方法で声の文化に属する主体の思考や行動様式に影響を与えた意味では、このマルチメディアでも同様に主体の在り方は移行することになるだろうと指摘する。「ユーザーレベル」とは、マッキントッシュ・コンピュータの有名な「ハイパー・カード」というオーサリングソフトの解説書での用語であるが、この主体の在り方のモデルとして桝山は挙げる。

「ブラウザリング」「タイピング」「ペインティグ」「オーサリング」「スクリプクティング」という五段階から「ユーザーレベル」はなる。「プラウザリング」とはカードと呼ばれる書類を見る能力、「タイピング」とはカードに文書を作成することができる能力である。ペイントツールを用いて画像を作成する能力を「ペインティング」と呼び、「オーサリング」とはカードに「ボタン」や「フィールド」をつけ加えることができる能力である。最後の「スプリクティング」とは「ハイパーカード」上のプログラミング言語「ハイパートーク」の内容を変更することができる能力を指す。現在の映画や音楽などはこの基準からすると第一段階にとどまり、ゲームでも1と2の間に位置するという。最近のコンピュータを用いたマルチメディアでもせいぜいプログラムされている要素を組み替えることが可能となっていることを見ると第三段階止まりであるという。要するに現在のメディアの「ユーザーレベル」は低い段階にとどまっているが、これからのマルチメディアはこの全ての段階で為されるかどうかはわからないにしても、可能性として存在するという(たとえば全ての人間がこの第五段階のプログラムを変更するといったことを行うことになるのか、また逆に一部のプログラマーだけがアプリケーションを制作するのかという問題)。

桝山は文字文化の「ユーザーレベル」が「読み・書き」にあったとすれば、マルチメディアはこれまで見てきたように多様なレベルを持つことになり、オングが「口承文学」という言い方が後に登場する文字文化の基準から見た、声の文化の制作物の呼称であり転倒していると批判したことと同様、その意味で単純に文字文化のアナロジーとしてマルチメディアを語るべきではないと戒める。この桝山のいう「アナロジー」が、文字文化における「読み・書き」がそのままマルチメディアでの「プラウザリング」「タイピング」に当てはめることなのか、私には疑問だ。戒めはこの当てはめによって可能となるように私には読めるが、もしそうだとすると誤った理解のように見える。また別の理解もある。つまり文字文化が「読み・書き」という二つの段階であるのに対し、マルチメディアは五つの段階からなるという複雑さを持つ、という理解である。この場合「読み・書き」は最初のように5つの段階の中の二つに当てはまるのではなしに、5つの段階そのものと比較される対象となる。つまりここでは「ユーザーレベル」の複雑さを比較しているわけだ。そしてこの理解からすると桝山は文字文化が二つの段階しか持っていないからという比較そのものがマルチメディアからの基準というものとして、オングの批判した文字文化から声の文化への比較へと同型であるとするのだ。多分桝山のいうのはこの後者であるといえる。

この五つの段階が「読み・書き」という使いこなし方相当するともいえるし、またそれを拡張したものであるという言い方もできる。私はマルチメディアでの使いこなし方が文字文化のそれを拡張したものという言い方よりも、文字文化のそれに相当するという言い方を読んでいて思いついた。「読み・書き」という方法がこの五段階に比べると何か単純なものに見えるのはそれらが「ブラウザリング」「タイピング」と同様のものと見なされてしまうからだ。しかし文字文化における「読み・書き」とはこの五段階全てを含むものであるともいえる。マルチメディアとは複数のメディアを統合して制御する効率性のことに他ならないと私は考えるが、いいかえるなら我々ははじめから全ての用を済ますことができる唯一のメディアを持つことができなかったということだ。いやこの言い方は正確でない。もともと数少ないメディアでやっていたのをどんどん効率的にしたいといくつものメディアを個々に生み出し、やっと現在になりそれを統合することができるかもしれないと喜んでいる、というのがマルチメディアに関する我々の態度である。原始的なメディアではできなかった様々なことが新たに発明されるメディアで可能になっているという意味では時代は進歩しているのかもしれないが、新たな便利さは複雑に行為を分節することで可能となり、この分節によりことを行うことがややこしいと感じるようになったのは私だけであろうか。

たとえば「ハイパーカード」は図書館の検索カードと原理的には変わりがない。「ブラウザリング」とは我々一般の図書館利用者の為すことだ。「タイピング」とは図書館司書のできる行為である。ここでは「ペインティング」に当てはまる行為が存在しないが、「タイピング」に含まれると考えてもよいだろう。「オーサリング」とは図書カードのはいった棚をどのように分類するかというようなものであり、「スクリプティング」とは図書カードを廃棄してコンピュータを導入しようというような提案が当てはまるだろう。

図書館の例はもっと個人のデスクトップレベルで語ることができる。というより「ハイパーカード」の原型はまさに鉄の輪でつながれた試験暗記用などで用いられた単語帳である。ここに先程の五段階は全て含まれている。「読み・書き」が一枚の紙において為される行為だとすれば、この単語帳での五段階の使われ方とは高次の「読み・書き」に他ならない。複数のメディアが行っていることはこの「読み・書き」にすぎないのではないか。映画や写真が「書く」ことができるのか?という反論がある。しかしそれは受容としての映画や写真である。制作者が存在しなければ「読む」ものが存在しない。メディアは「読み・書き」の可能性が整備されることで認知される存在である。つまりメディアとは「成る」ものであり「ある」ものではない。桝山のいうマルチメディアでの五段階が誤っているということではないが、それは抽象化することができるといいいたいのだ。桝山の主張は現実的な文脈にとって重要なものであると考えられる。この五段階を私なりにいいかえてみるなら、それは四段階になる。参照、組立、編集、高次の組立、というふうに。ここでは「ペインティング」が省かれている。ある階層での組立と参照。同階層の諸事物の編集。階層そのものの組立。