物語論(断片)

1・接近するための視点

  1. 継起する運動の二点をとり、後ろから、前を振り返る(時間の組織化、弁証法)
  2. 反物語(ゴダールの映画
  3. 情報を組織化する情報(吉岡洋の定義、端的に言うとメタ情報もしくは操作情報)
  4. 語り(口頭の文化、生成する外部記憶装置)
  5. 言語との類似−ソシュールのいう線条性・無秩序からの秩序化
  6. 自己言及性
  7. 解釈系として(価値体系の表現)

3・時間の線状性

物語は、線的時間を前提とするのか、そうではなく不均質な時間を、なのか。もしくは、近代とそれ以前では物語は違う構造をもつのか。

4・比喩

時間を語ることは比喩でしかできない。時間を語る技術が物語である。

5・カタルシスの共有コード

物語の進行が劇的になるほど、カタルシスをもよおすものになる。しかし、劇的な表現とは共同体のコードに依存している。つまり、物語には共同体的な受容能力が付帯する。劇的とは?

6・物語が解体される場

− 継起的順序の論理的矛盾、継起的順序の矛盾を物語だと正当化する物語の組織化の方法の不在。

8・メモ

比喩    =組織化?
パラフレーズ=ピックアップ?

9・作品の概念

物語が、作品という概念と関係しているといえるのだろうか。物語は近代に生じた「作品」によって、その性質を変化させたものであるという意味では、影響関係があるといえる。それは、物語が口頭によって伝えられ変化してきた、生成しつづける連続体であったのが、印刷技術と「作品」の概念によって、閉じたものとなったといえる。

10・物語の形式

物語の形式は、人間の言葉文化に著しく影響を受けているが、言葉の文化はオーラル・カルチャー、肉声による意志伝達の段階が極端に長い。つまり物語の形式はこのオーラル・カルチャーの持つ物理的な情報伝達の形式的側面に大きく影響を受けていると考えられる、と吉岡洋はいう。

11・受容

人は物語を受容するとき何を受容するのだろうか。
言い直せば、物語の内容と形式とは何かという問いになる。

16メモ

・物語−出来事がより大きな出来事を含む
排除・省略の性質を持つ

18・メモ

(1)出来事が物語に含まれる
(2)出来事を語ろうとすると物語になる。

−(1)出来事はある体系を外部から語るとき、その出来事と認め得る意味が生じる。
物語とは、完結した体系を前提とする?

−(2)現象を言語化しようとするなら、物語にならざるを得ない。
言語の時間化が物語である。
現象として捉えるとき、言語をともなう−物語化してしまっている。
−言語化することなしに現象を捉えることは可能か?(知覚論)

19・文章(文の集合)と物語の違い

物語は言語を前提にしていることは疑いようがない。ただし柄谷行人のいう「原因と結果の転倒」の問題がある。物語が文章から成っていることは自明であるのだから、両者の違いがなんであるのかという疑問は当然沸く。論文は物語といえるのかといわれると変な気がする。つまり物語は「時間の組織化」という説が頭に浮かぶだろう。論文には時間の推移がその論理には存在しないということからも、物語ではないといえる。だが本当にそうなのだろうか。論文等の文章には、その論理には時間の推移が存在しないが、論理そのものの形式は物語的だとはいえないか。

つまり、
形式としての物語
内容としての物語
を仮に区別できるかもしれない。

20・{(物語/反物語)/物語} という図式

    a ・物語とカタルシスとの関係
    b ・情報論的、哲学的な意味としての時間と物語
内括弧の物語がaのとる領域の物語だとすると、bはもう一方の領域の物語になる。
メンバーとしての物語、クラスとしての物語

21・メモ

形式としての物語は、内容のレベルでそれを解体しようとしてもなんら影響しない、形式的な存在であるのだろうか。

22・3に関して−

物語が線的時間を前提にするのか、という疑問は柄谷行人のいうアリストテレスの「時」(クロノス)の考え方を想定している。それは、「前後」の区別から生じ、近代的線的時間は、「時」を超越的にみることで生じる。近代は、因果関係の結果と原因を転倒する。継起する出来事の二点をとり後者から前者を記述する、という物語は、そうした「近代的遠近法」の中で変化が生じたのではないか?ということ。ただ、物語とは言語のコミュニケーションに存在する、形式的普遍性ではないかということである。

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「原因と結果の転倒」とは、
原因は結果を生じさせる、ということを、結果を根拠とし、原因をその結果生じたものだとする倒錯である。たとえば、システム理論における機能と結果の関係は、定常的に作動するシステムにみられる機能(原因)を静止した状態として取り出したものが構造(結果)であるが、構造(結果)から機能(原因)を導き、システムを説明しようとするものであるといってよいだろう。
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24・宇野邦一 「物語と非知」から(1)

「物語を近代的な知の限界において、近代的な知と不可分な真理や体系をめぐる言表の外にあるものとして捉える」

 「物語は、起源や祖先に復帰する言表ではなく、真理から離れた、言語の空白に引き寄せられ、新しい機能を帯びるのだ。この機能は、物語の古代的なありようと決して無縁ではないが、確かに近代的な知を脅かし、またそれに試されながら、絶えず未知の次元に向けて言語を変化させてきた。」

「多義性と循環性の形態そのもの(つまりたえず反復し移動するもの)として、物語を定義する」

「物語は「心を動かしたものをもっと正確な、もっと印象的な仕方で語ること」を阻害する。物語は、「時間と出来事と場所と感情の混沌とした塊り」を一つの直線的な時間におしなべることによって、その混沌を裏切ってしまう。」

「結局「物語」の特性は、「間接的な」伝達方法であること、人や物が存在しなければ不可能な「運動」に関わること、しかも話者の名においてその言葉が引き受けられないこと、というふうにあたかも否定的な事柄だけである。」

25・蓮實重彦の「物語批判序説」

の中に出てくる「紋切り型」という言葉に心惹かれたのは、私が物語を想定するときの、マスメディアの流通する物語の、もしくは、人々の会話でみられる、一種のパターンの「紋切り型」に辟易としていたからだと思う。 蓮實はここで、物語は「紋切り型」と同義として使用している。物語と「紋切り型」の接点は何処にあるといえるのだろうか。 例えば、物語のもつ簡略性。複雑に絡まりあう出来事を記述するための効率化としてか、物語は必然的に簡略化される性格をもち、それなりに論理の類似するが違いを含む出来事同士も、物語られることで、なんら変わらないような出来事の物語になってしまう。

26・宇野邦一 「物語と非知」から(2) ベンヤミンの物語観

 「ベンヤミンは物語を情報と対立させながら、語る行為にともなうあらゆる不確定な、多義的な側面は、単に情報を交換する以上に、はるかに多様な時空を触知することを可能にしていたと考えている。」

「つまり情報が公約数に向けて物語から離脱し、物語を幽霊のようにさまよう言葉になってしまってから、小説のほうは「公約数」を拒否してやはり物語から離脱してきたというのだ。」

27・情報伝達の形式による効率の違い

吉岡洋は物語のもつ伝達の側面について、コンピュータ等の機械の行う情報伝達処理と、我々動物の行うそれとを比較している。現行の人工知能の問題で、対象を知覚する際に、機械の為す対応は、自分のもつデータベースを検索するが、膨大なそれを一からすべて検索していくというものである。我々動物はそんなことはしない。状況に応じたいわゆる「当り」をつけて「直観」による確信めいたものにいたる。

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ここでの、機械と動物の違いは小さいようで大きい。例えば、チェスの世界チャンピオンがコンピュータと試合をするという話がある。次に打つ一手をその先々まで想定することで決定するということが行われているが、コンピュータは考えられるあらゆる手順を超高速でシミュレートする。人間はこんなことしたくてもできない。そのかわり、数手先を読みつつ、過去の経験に照らし合わし、相手の人間のもつ個性を考えながら一手を打つ。それは、身体的な記憶と結びつくもので、しかしその身体的な蓄積をすべて検索しているのではなく、現状におかれた身体が蓄積された経験を選りすぐるのだ。それは、明確な論理でなく、「たぶん、こんな感じだろう」というような感覚的なものでしかないが、それによって状況を一定の効率で乗り切ることができる。
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機械の行う情報処理は人間等の行うそれに比べ質が違う。限られた物理的個体のもつ能力で情報処理をしなければならない動物と、外部にいくらでも能力を拡張できるという発想をもつ機械。どちらが現実的、効率的かといえば、今のところ我々動物のほうであろう。

つまり物語とは、効率的なコミュニケーションのためのツールだといえないかということである。個人のもつ情報をすべて伝達することは、我々には不可能である。様々な伝達手段、言葉や音、身振り等と使ったとしても、我々が感じているイメージを完全に伝えることはできないのではないだろうか。それに、すべてを伝えることができるとするなら、世界はこれほどダイナミックであっただろうか。個々人のはらむずれが、個々人を刺激する。と吉岡はいう。

28・松岡正剛の物語へのアプローチ

松岡正剛は、物語の起源を「マザー」という形で問おうとする。現在存在する物語は、「マザー」から派生する膨大なヴァリエーションであると仮説をたてる。

 私は、松岡の物語へのアプローチにはそう関心がない。私が関心があるのは、思弁的な方法である。考古学的に遡ることではたぶん見いだせるものではないような、物語のあり方に興味があるのである。 私のいう物語とは、「現象を記述するために、言語を組織化する際に必要な形式」であるといえる。これは吉岡洋の物語の定義である「情報を組織化する情報」となんら変わることはない。

 また、もう一つの軸を立てるなら、「物語は時間の組織化」であるというものである。これは、ダントの物語の定義であるが、ダントが歴史を記述する際、物語によってでしか行うことができないというような文脈からわかるように、統辞論的意味合が強いと思われる。私がいう「物語が時間の組織化の形式」とは、カントが時間を我々人間が世界を認識する際の形式であるとするなら、それを表現する形式であるということである。つまり、物語とは、「認識を表現する際の形式」ではないか。

32・カントの先験的形式論

カントは先験的認識の形式として時間を定義したが、まさに定義であって、近代の時間観念が色濃く影響しているはずのものである。その時間観念とは、線的なものであって、例えば、円環的時間観念を有するヘレニズム文化の中では、出来事の前後区別が時間であるというようなことは通用しないのではないか。物語を出来事を前後する二点をとり、後者から前を語ることだという定義だとするのなら、この文化の中では、物語は別様になるだろう。これは、私のいう認識の形式としての物語が別様なのではないかということであって、現在に普遍的に存在する叙述の形式としての物語との対比しての別様な物語ではない。つまり、形式のレベルでの違いであり、内容のレベルでの違いではない。そういうものの、実は密接に関係があるが。

 ただし、認識表現としての物語の形式はやはり別物でではないとも思われる。というのも、我々はギリシャ時代の書物を読むことができ、理解不能だということはないからだ。

34・出来事の表現

出来事の形式(言語、物語)は人間の時間概念とどの様な関係をもつのか。時間を組織化する物語と、人間の歴史的な時間概念はなんらかの関係をもつはずであると思われる。線的な時間性を前提としない限り、物語は存在できないはずだ。しかし、ヘレニズム時代、アリストテレスは物語の定義を行っている。ヘレニズム時代、時間は円環的なものだとされていたはずである。するとやはり、物語の発生の起源への考察を必要とされるのだろうか。上の何処かでも述べた通り、物語は人類の口頭文化の影響を大きく受けていると考えられる。その時に物語は決定されたのだとすると、移行の歴史的な文化の変遷は物語にそう影響を与えなかったと考えられる。すると考えなければならないのは、口頭文化の時間概念と、当時の文化と物語の関係である。

35・時間の四つの形態

原始共同体の時間    繰り返す逆転の反復・対極間の振動
  ヘレニズム文化の時間  円環
  ヘブライズム文化の時間 線分
  近代の時間         (無限の)線

物語が口頭文化の時代から存在していたとするなら、原始共同体の時期に、時の前後は概念化されていたはずである。それとも、抽象的な時間の概念なしに、時の前後を指摘していたのか。そうなると、物語は抽象的な時間の概念なしに成立できるということになる。単に、出来事の前後を組織化することができれば物語は成立するのだろうか。

36・物語−時の前後関係の組織化

出来事の具体的な前後関係は抽象的な時間概念なしに成立するのか?

−そうであれば、物語は抽象的な時間に関係なく、人間の身体的なレベルで成立するといえる。実際、抽象的な時間概念の生じていない、原始共同体では物語は存在するのだろうか。太古の原始共同体と現代観察できる原始共同体との共通性は調べてみなければならない。口頭文化の成立する時代に物語は存在していたのであるとすると、物語の成立する時点は、その中でも、抽象的な時間観念の生ずる前なのか、後なのかによって、問題は変わってくる。

・出来事の前後関係を捉えることができることと、言語の分節能力の関係 −出来事の前後関係を捉えることができる能力があるということはかなりの抽象化を行えることだと思える。言語の分節能力は当然生じているものと考えられる。言語は突然生じるもの、もしくはいつのまにか存在するものだと考えられる。言葉の進化の過程というものは当然考えられる。言葉の進化を肯定するのならば、物語もその過程の後ろのほうにもってこなければならないだろう。物語と言語は同じレベルでみることができるという私の仮説は間違っていることになる。

37・出来事の前後関係

出来事の前後関係を捉えることができるということと、物語るということは同時であることはない。物語るということにとって、出来事の前後関係の把握は必要条件ではある。出来事の前後把握を組織化するという物語行為は歴史的な経過で成立したものなのだろうか?なぜ人は物語りを始めたのだろうか。

39・3・について(2)

 物語が均質な時間を前提とするのか、それとも不均質な時間を前提にするのかという問いは何を意味するのか?均質な時間の均質とは、線的であるということを暗に前提しているが、均質とは線上の均等な目盛り(マーク)を意味するということだ。円環の時間モデルでは目盛りは均等に配置できない。それでは、円環の時間イメージは何を意味するのだろう(疑問)。

 上で挙げた、時間の四つの分類の中では、均質とは近代の時間モデルが当てはまるといえる。それでは不均質な時間は、どれに当てはまるかというと、それ以前の原始共同体、ヘレニズム、ヘブライズムの時間モデルが当てはまると私は考える(ヘレニズムの時間モデルを不均質だとすることはこの四つの時間モデルを提示した真木悠介の考えとは違うと思われるが)。

物語が前後関係の組織化であるとの仮定に立つのなら、問題は具体的レベルでの前後の区別としての時間観念の成立、もしくは抽象的な時間概念の成立、それらとの関係が考察される必要のある認識の術である言語の成立、それぞれの起源の関係が考察される必要がある。  つまり「前−後」を成立させるものはなにか。

40・物語の線状性、時間の形式

それにしても物語は明確に前後関係を想像させるものとしての、均質な時間モデルを前提にしていると考えてしまいがちだ。だが、物語の内容をみてみるとその時間の組織化の仕方は実に不均質のように思えてしまう。いや、逆に物語は夢のような不均質な秩序のないものでもなんでも組織化してしまうという意味では、厳密に均質なロジックを持っているといえるかもしれない。だから言い直すと、物語は不均質な現象を組織化することで、知覚しやすくするという表現する手段である。それは良いやり方であり、悪いやり方である。

 39・で物語の成立の基盤は近代的な均質な時間モデルではなく、原始共同体ような時期のもの、口頭文化の時期のものであると考察した。しかし、物語の構造は強く線的な性質、つまり、近代的な時間モデルを前提にしているかのように思わせる。

 ここで詳細に調べる必要のあるのは、物語の「線的な」性質と近代的な「均質・線的」な時間モデルとの類似、もしくは差異である。

40・ポール・リクール「時間と物語」

彼は、時間の持つ哲学的アポリア、過去−現在−未来という心理学的、現象学的時間とアリストテレス的な瞬間同士の前後関係から析出される時間の自然学的、宇宙論的時間は相互に還元できないという側面、は物語において物語的象徴化によって統一されるとした。

41・現象学的なアプローチ

貫成人は現象学において、主観の生成が連合的総合によって行われるが、その連合的総合は物語的構造を持つとし、その意味においても個々の物語を逃れることはできても、物語という形式そのものからは逃れられないとする。

この貫の考えは、物語は人間の認識の普遍的形式であるとする私の考えとかなり近いものだ。私の考えと貫の考えの相違は何か?主観の生成過程のメカニズムが、物語の構造と類比的であるという貫の考えであるのに対して、私の考えは主観の認識そのものが物語を介して行われるというものであり、直接的であるといえる。

 思考は物語の形をとらざるを得ない。こう言う時、ここでいわれる物語は言語と同義だとすぐ思われそうだが、ここでの思考を形成するものはそれこそ言語ではなく物語である。では、いったいここでの物語と言語の違いは何なのか。言語は漠然とし過ぎている。線条性と言うものが、言語にも物語にもその性質として考えられるが。

42・反物語

反物語が認識の普遍的形式であるという仮説としての物語に反するものとして遠ざけることは話にならない。考察すべきなのは、反物語が形式としての物語と個々の(内容としての)物語と、どの様に関係するのかということだ。

45・物語による伝播

言葉が人間の歴史と共にあるというとき、同時に物語も人間の歴史と共にあるといえる。しかしこう言われるとき人の頭に浮かぶのは、言語の本質性・始源性であろう。つまり、物語は言語から派生したものだという認識である。これは言語の起源に遡及する問題に触れる。もし物語が言語の高次の洗練された、組織化された形態であるのならば、言語はそれこそ、「語」という単位から進化論的に発達してきたものであるのかというような問いが問われることになる。つまり「卵かさきか鶏がさきか」という問いが。言語学は起源に対する問いを保留している。物語の起源はどうかというと、これはどのような研究がされているのかはわからない。しかし物語の性質から思弁を働かせるのは可能だろう。例えば、物語の持つ伝達経済性から考えられる他者に不在の現象を伝達するという効果。これは文化が広域に広まる原因だと考えられる。しかしこれは、別に言語の象徴機能と変わらない。ある技術が、ある共同体から商人を介して、口承で別の共同体に伝わるというときこれは物語ではないといえるかも知れない。それではそれはなんなのか。言語だといえるのか。もちろん言語活動の一つの機能だといえよう。やはり物語だとしか言えないと思われる。それが、それこそ口伝いに行われる情報の伝達形態だからであろうか。文書による情報伝達は物語ではないのだろうか。

46・時空間表現性としての物語−物語と言語の領域

 宇野邦一「時間の再現としての「物語」は、空間の再現としての「描写」と対立するといわれているが、(中略)運動と対象を切り離し、物語と描写を分割するのは、あまりに古典的な二元論に基づいていて、私たちがむかっている物語の、循環的な、しかもねじれたトポスを記述するのにはほとんど役に立たない。このような時空の概念は、対象と運動、時間と空間が、ほとんど境界を失うような不確定性の次元にある物語の位相を捉えるにはあまりに静的すぎるのだ。」物語が時間を表現するものというやや定説めいた言い方には飽き飽きさせられる。

47・メモ

物語のもつ強力な力とは、その無限の循環生成性であり、表現の効率性であり、まだ他にもありそうだ。物語とは時間の組織化であるという、A・ダントの物語定義は物語を語る上での紋切り型であるといわざるを得ない。ただ、そうした物語を時間と密接に関係するものとして捉える前提がカントの時空間論から派生するものだといえるとするなら、カントの時空間論の議論を成立させる、時間・空間という区別自体が標的にされなければならない。というのは物語を考えることとはそうした時間・空間の区別が問題にならざるを得ないことだからだ。

48・アリストテレスの時間論

物語文とは行為の記述文であるとダントが言うとき、行為とは持続される時間的幅を持った出来事である。時間的幅を持った出来事を記述するには、今を記述する現在形の文ではなく、現在(もしくはある過去の一点)からからそれより以前のある一定の過去の点を記述するという過去形の文でなくてはならない。つまり、物語の構造とは、時間の構造をそのまま模倣する形をとっているのだ。その意味で物語が時間との関係で語られることはわかる。

 時間を問題にすることとは、時間を実体あるものとして、つまり言葉を持って語ることと同じである。しかし時間を実体として、抽象的に語ることは、前後という線上の二点を想定することなしには済ますことはできない。つまり、時間は物語を通してしか語ることができないという論理が生まれることになる。

物語の構造が時間的であるとする仮説は、物語の構造そのものが時間的であるため、形式的に時間を表現する構造をもつということである。ただし、ここで注意しなければならないのは、ここで想定される時間の定義である。ここでいわれる時間とは、アリストテレス的な前後関係としての時間である。リクールは、こうしたアリストテレス的客観的時間と、時間知覚の現在の優位性をいうアウグスティヌス的心理的時間という交わることのないアポリアを統合するものとして、物語の象徴的統合を考える。しかし、ここまでの考察で導き出されたこととして、物語とはアリストテレス的時間を表現するものとしてあるようにしか考えられない。つまり、非存在としてしか語ることができないが確実に存在するものとして実感するものとしての時間を表現するものでは、物語はないということだ。

 果してそうなのか。リクールは客観的だとしたアリストテレスの「時間」を柄谷行人はそのようなものだとはしていない。

51・映画と物語

映画と物語の関係は比較として興味深い。実際、映画の中での物語の位置として考えることもできるが、ここでいうのは、両者の構造についての比較である。

 映画の統辞法として、編集と演出が存在する。ここでよくいわれるのは、編集が時間的、演出が空間的統辞法だという意見である。演出は、いわば使用されるショットに内在する現実的素材の操作−撮影現場での空間的配置、役者の演技指導、美術的判断、等−であるのに対し、編集はそうした現実的素材を内包する各々のフィルムをある一定の仕方で実際に観客が受容するショットの時間を長くしたり短くしたりして結合する操作である。

 物語に於て、こうした編集、演出に対応するものがあるといえるか。演出に相当するものは、物語る者の話し、記述する言葉を色どろうとする操作する意志であり、編集に当たるものは物語る当の対象そのものを全体として構成し語ろうとする意図である。これは映画を制作するものに同意見を得られるだろう。ここに於て、映画の本質が物語と密接に関係することがわかる。こう考えると当り前の話ではあるが、編集と演出が切り離される性質の者ではないことははっきりする。

 演出家は、時間を考えはしないのか。もちろん時間的語彙を使用するはずである。現実的素材をフィルムに納めるための物理的な、始まりと終りを判断するのは演出家であるし、フィルムに納められる出来事の空間的演出は当然そこに現われる諸要素の関係を判断しながら行われ、そこには絶対的に要素の結合の仕方−空間的なものと時間的なものの結合、リズムの生成−を判断せずには行えないだろう。

同時に編集者は、空間を考えはしないのだろうか。もちろん考えるだろう。

ここで、映画と物語が操作するものはそれぞれの内的な構造であり、実際的な時間ではない(本当は最終的な限界点として実際的時間の操作を考えてはいるが)。

52・物語の組織化

循環性における効率性、過剰性といった二つの言葉は、重要である。それは、物語の編集性に密接に関係がある。人の興味ある面白い話を聴いたとき、誰かにその話を伝えたいとする。しかし、その話し自体、説明するのにはいささか饒舌すぎるか、伝えたい相手にとって、興味の範囲がずれていたりする。そこで、物語ろうとする者は、いま聞いた物語を編集しだす。相手が興味を持つように削除したり、つけ加えたりする。それに、話をしてくれた者が意図していなかった者をこの物語る者は受け取り、話の軸そのものを変形することだって有り得る。ここまでいくと、物語とは、効率、過剰といった言葉が前提する事実や中心と関係がなくなってくる。物語は、様々な物語と結合し、分離される。その仕方はある大きな規制を受けていることも事実だともいえる。と同時にそれを逸脱していくこともできる可能性をも大いに持つ。

 さきに人づてに面白い話を聞いたとき、という言い方をしたが、聞いた人間は、その時点で物語としてその話を自己の内に管理をしているはずだ。いや、話を聞いたときは、面白いなと思ってその話の細部を話してくれた人間に問い尋ねたりして、全体を明確にする努力をするだろうが、少し時間が立てば、そんな話を聞いたことも忘れるかも知れない。しかし何かのきっかけで、別の人間にその時聞いた話をしてみようと思うかも知れない。その時物語る人間は思いだそうとするか、話してみようとするかどちらが先かわからない、渾然一体となった状態で物語をしだすのだ。

 整理すると、人間が物語行為を作動させるときというのは、相手とのコミュニケーションの場においてである。受容する話の物語化、放出する物語化、という二つの系列があると考えられる。話を受容する場合、自己に内在する記憶となんらかの符号によって、分類され記憶化されることになろう。それは次に自分の口から物語られるときそのような関係の仕方でもって即興的に物語られることにもなる。

53・ジェラルド・プリンス

ジェラルド・プリンスは、「物語は抽象を嫌い、具象こそを嗜好する。」という。しかし、人づてに話されていく物語のことを考えるとこの言い方はおかしい。ある物語が様々な人間によって語られるとき、物語するものが聞かせる相手によって様々な変形を物語に施すが、時間が経つにしたがって物語の形は変化していくが、一定の形式は残ったままであると考えられる。それは、物語の主体の名前でも行為の具体性でもない。もちろんそれは残りもするだろうが。それはその物語自身の面白さを消しさらない程度の物語としての変化の構造の具体性である。いうなれば、抽象と、具象の中間とでもいえそうな性質のものが物語にはある。

55・伝言ゲーム

伝言ゲームを観察してみると、人がどの様に情報を伝達するのかがよくわかる。それは別に言語的情報でなくとも特にかまわない。絵であろうと、音楽であろうといいのだ。ある程度の複雑性がある方がその様子は顕著に現われる。

 最初、順番に並んだ最初の者に、お題がだされるがもちろんその者は確実にそれが何だかはわかっている。それを技術的に伝えるとき何が二人の間に起きるのか。それがあるまとまりをなす文章でありそれを正確に伝える場合、単純に一語の単語を伝えるように全部を瞬間的に記憶するということは難しい。伝達者は対象である情報をその本質を抽出することでもって伝えようとする。細部を瞬時に見分けることは自分にとって難しいからだこれは絵を例にとってみるとわかりやすい。ダ・ビンチの「モナリザ」がお題の伝言ゲームでは、「モナリザ」をそのまま描いたとして相手に伝わるのは難しいかも知れない。というのもこの絵には全体を特徴づけるものが乏しいからだ。

 そんなことはない、あれだけ有名な絵であるはずのものが、と反論する人は大勢いるだろう。そう、実際我々は「モナリザ」の写真をみると「モナリザ」であると特定できるほど、この絵にはなじみがある。それではなぜこの絵が特徴に欠けるというのだろうか。「モナリザ」は布施英利が言う「目の視覚」によって得られる情報だからである。これと対になるのが「脳の視覚」であると布施はしている。両者の違いは、対象を象徴化することによって、簡便にそれを捉えるようにするのが「脳の視覚」であって、「目の視覚」は対象の持つ複雑な情報をそのまま捉えるというものである。前者を「理性的」、後者を「感性的」というふうに呼ぶのは勝手であるが。

 伝言ゲームでみられるのは、瞬間的な「脳の視覚」的認識の援用にほかならない。我々にとって「モナリザ」は「目の視覚」によって認識している対象であるので、突然それを「脳の視覚」的認識に変換せよと言われても戸惑ってしまうのである。では我々は「モナリザ」を「脳の視覚」的に認識することはないのだろうかというと、もちろん認識している。我々は、よくできている有名人の似顔絵をみて誰だかすぐわかり、感心したりする。普段、「目の視覚」的にその有名人をみているが、「脳の視覚」的にみてもいるというわけだ。しかし、ここでちょっと思い出す必要があるのは、その似顔絵が目に入ってきた瞬間からよくできていると感心するほんの短い間に生まれる焦点合わせのような感覚である。この感覚は「目の視覚」から「脳の視覚」への移行に伴うものではないだろうか。

 「脳の視覚」化とは、現実の複雑性を抽象化、本質化、中心化、する情報の組織化のメカニズムのことであるといえる。この文脈こそ、吉岡洋が「物語」と呼んだものにほかならない。但し、ここで、抽象化、中心化、本質化といった言い方をしたのには注意がいる。個体の持つ身体性に根ざした、抽象化、中心化、本質化、という組織化の仕方が行われるのであって、それは普遍的な仕方とは関係がない。実はかなりの度合で普遍的であるともいえるのだが。

 整理するなら、情報の受容・伝達というコミュニケーションにみられる現象は思考の過程そのものである「物語」によって組織化される。言い換えるなら、思考とは物語そのものだといってもよい。思考は言語によって規定されるという定説は言われて久しいが、その規定の形式とは物語そのものの構造である。つまり、ソシュールのいう、言語の無秩序からの秩序化としての線条性の原理こそ「物語」というメカニズムであるし、A・Bという二つの要素があるとするなら、「A と B」として結びつける組織化のメカニズムである。

 ただし、この組織化は、A「と」Bという同列化ではなく不可逆な「から」という方が正しい。こうやって、「AからB」という図式ができたが、実はこれではまだ足りない。「(Bからの視点としての)AからB」というものが必要とされる。

しかしここまで述べてきた、「と」の組織化としての物語は、A・ダントの「物語文」の定義にほかならない。別にダントといわなくとも、文学理論からの物語の定義はおおむねこの類似型とされ、文章という単位が各項に代入されるような、ミクロ的なものの発展として物語を捉えているように思われる。私は、常に集積体としての文を物語とみなしたい。ここでの相違は微妙かも知れないが大きな違いが存在する。ミクロ的視点からの物語定義では、常に時間の組織化という定義を満たさねばならない。

56・論理学的時間論

再び、時間の論議に移る。マクタガードの時間論では、時間を事象の配列の関係とし、時間を二つの系列に分け、一方を過去・現在・未来の順序というA系列、他方を前後関係からなるB系列とし、B系列はA系列から導出されるとした。

A系列を主観的な時間、B系列を物理学的な時間だと考えることができるが、ラッセルはいわゆるこのB系列(前後関係)から時間を構成しようとしたが。

57・F・ガタリ「スキゾ分析の方へ」

 「物語における言表行為のアレンジメントは、原則としてメタモデル化の活動と定義されるだろう。つまりそれは様々な形のモデル化を通じて、一つの器官なき身体、新しい座標を構成し、生産する能力なのだ。(‥…)メタモデル化は、単なる書記のためのメタ言語ではない。いつも新しいのはこのメタモデル化であり、表現の突然変異はこのメタモデル化によって起きる。(‥…)物語は普通、言語的生産として上部構造とみなされるのだけれど、実際には、下部構造のメタモデル化のすぐれた装置になっている。したがって物語の問題はとうてい文学の枠にはおさまらない。」

58・物語による時間解釈

物語が、アリストテレス的宇宙論的な時間とアウグスティヌス的心理的時間を象徴的に統合するものであるとリクールはいうが、興味深いのは物語がもしダントのいう「物語文」の定義を満たすものであるのなら、物語とは「いま」という現在性を特権視するものであるということになり、それはアウグスティヌス的時間の枠内に絡めとられているものだということになる。物語がこのようなものであるのならば、両者を統合することが可能だといえるのか。もしくは物語の定義自体、ダントの「物語文」を採用することができないということになる。

59・物語の衰退

近代印刷術のおかげで、物語の衰退が嘆かれる言説が現われて久しいが、私はなんら物語は衰弱などしてはいないと考える。それはいわば、物語を支える高次の物語が変化したに過ぎない。