リアルタイムとは

時間の中に生きる我々がリアルタイムではないということはおかしいのではないか。つまりリアルタイムとわざわざいうことはおかしいのではないか。それにもかかわらずリアルタイムな判断といういい方をする。音楽での演奏の適切な判断、スポーツの試合での選手の動作の適切な判断、また商社マンの商談の駆け引きでの適切な判断等、リアルタイムな判断が要求される場は、「ここ」という瞬間的な判断である。それは「後で顔を洗ったらいいや」というようなものではない。それにもかかわらず顔を洗うことも時間的世界での行為であるはずなのだ。両者を区別するのは何だろうか。それは行為を限られた時間の中でなされるものであると認識することである。いいかえるなら、閉域を世界という時間の中に作りあげることであり、その中で要求される行為が唯一的なタイミングでなされなければならないのだ。要するに、これは時間の外に我々の視点をおこうとすることで生まれてくる問題である。ハイデガーが本来的といったのが、この時間の外を意識する状態だといえるかもしれない。死を意識せずにぬくぬくと生きる状態をハイデガーは反対に非本来的だとしたが、「後ですればいいや」と考えることはその行為の属するある領域を閉じたものとみなさないからだ。たとえば音楽の演奏での一曲、スポーツでの一試合、一つの商談などは閉じた領域の世界である。けれどもう少し大きな領域での緩やかなタイミングでよいとされる行為は、その適切さを忘れることになりはしないだろうか。たとえば人生などはそのだいたいの時間領域を我々は他人の寿命から自分に当てはめて知っているが、それを普段は考えない。というのもその領域をリアルなものと捉えられないからだ。しかしその広い領域でも適切なタイミングに反応しなければならないのに「後でいいや」としてしまうのは我々の怠惰であるのか。そうともいいきれないだろう。というのも、閉じた領域であるとしても、それがどのような判断かがなされることでその領域は成立しているといえるような性質のものだからだ。今顔を洗うタイミングであるかもしれないが、今でなくとも誰も何もいわない、また自分にも影響しないのであれば、それは数あるタイミングの一つのにすぎなくなる。またタイミングとは行為と結果が結びついたところに想定されるものである。つまり結果の内容が予測されるときに、その行為の適切な時点をタイミングというのである。スポーツの試合などのように、一つの目的のある閉じたシステムであれば、そのような行為−結果を比較的想像することも容易かもしれないが、我々の人生の中で様々な人間、もの、出来事などがおりなす現象の行為と結果を想像することは困難である。我々は多くのシステムという区切りを入れることで自らの行為のタイミングを決定しているのだ。賢く生きるとは、人生を決定的に操作するという意味でタイミングをすき間なく埋めていくということになる。しかしその努力が完全でないことが人生でもあると人は知っている。