複製論

複製の欲望

複製することにより我々は何を為そうというのか。有用な道具が私の目の前にあり、私はそれを頻繁に用いている。これを別に同じ物を増やそうという欲望はどこから生じるのだろうか。道具が私の手の届かないところにあるとき、また私以外の人間がその有用性を認め同じ物が欲しいと望むときなどが考えられる。こうしたとき私はもしくは私以外の人間はこの道具をもうひとつ作ろうと試みることになる。

全的な複製の欲望

複製技術が写し取るのはその形式に則った性質のみであり、例えば音にせよ発音元の事物の接触という運動を録音技術は複製するわけではない。映像が複製するのはカメラの前の光の分布の時間的推移であって物理的状況そのものではない。録音技術が複製するのは、そこで発せられている音のみを複製し、撮影技術は光と影の陰影を複製する。これは自明のことであり、音楽を複製するというとき、それが音楽を演奏する人間と楽器、それらが生み出す接触そのものを複製することを指す、というのはばかげているだろうか。しかしそれは現在の複製技術の持つ技術的困難がもたらした見解ではないだろうか。恋する人間がその対象の不在を嘆き、電話や手紙を試みたり、対象の写真をしげしげと眺めるのは、恋する対象を「今ここに」全的に在らしめたいという欲求の代理行為ではないだろうか(ここには例えば、自分の思い通りになる対象というような都合のいい代理物が創造されているという、複雑な状況が存在するだろうが)。少なくとも全的な複製の欲求が存在すること自体不思議ではないわけである。複製対象はつまるところそれを可能にする物理的三次元的な事物とその運動であり、写し取りはそれを三次元的形態、二次元的形態、非形態(?)的形態に制約した形で為す(ただしこれは基本的な言い方であり、複製はまさに複製をする今いった領域すべてを対象にする)。

複製という日本語

「複製」という日本語は「複数制作する」を意味すると考えてよい。複数制作するという言葉は現在量産という概念と関わっている。するとここには「ある事物の模造を制作する」という意味が希薄である。これはそもそも「複製」という言葉の源である英語やその語源であるラテン語の意味にそうした意味が希薄であることと関係している。ラテン語の「copia」は英語の「copy」の語源であるが、このラテン語には「豊富」「多数」という意味があるといわれる。つまり複製は数に強く関係する概念であるとみなされたわけである。これは複製の行為そのものに視点が置かれたためであろうか。ここにだからといって「模造を制作する」という概念が存在しないわけではないのも確かである。というのも多数のものをいうにはある共通性を前提にしなくてはならないが、この共通性とは事物間の同型性であり、ここに先行する事物とそこから同型性を持つ事物が形成される関係が存在するのであれば、そこには模造関係が存在するといえるからである。

三つの複製

現在我々が為す複製は三つの方法がある。一つは複製技術による、一つは組立による、一つはその併用による複製である。組立での人間の手による事物の分解・統合という方法が最も有効であるのは、分解統合により制作された組立物そのものであり、しかもそれは誰にでも同じようなものが制作できるような形式化されたものである必要がある。この場合組立はかなり主観的な判断による恣意性を縮減することが出来るが、我々が為す組立はそのような制限を設けておらず、自然物や名画と呼ばれる一人の超絶技巧を持つ専門家の組立物を手軽に模倣しようとする。このときの複製対象の分解は諸個人の主観に任され、そこでできあがる複製はさまざまな類似度を持つことになる。複製技術とはこのような組立による複製の持つ恣意性を極力排除する形式化された技術である。組立が常にイメージという媒介を必要とする間接的なものであり、その文節統合という方法を複製に応用したものであるのに対し、複製技術は自動的直接的である。複製技術は複製対象の形態を写し取ることができる複製媒体を用いる。ここには複製主体の主観的な文節によるイメージが必要とされず、直接的に複製対象の形態に応じて複製が形成される。複製技術と組立による複製の違いは何か。複製技術は一つの属性の形状しか複製することが出来ないのに対し、組立による複製はそのような制約がない。

複製の歴史

唯一性の複製から量産性の複製へ。複製の歴史とはこのように端的に括ることができるが、それは組立による複製に複製技術による複製が加わり共存する経緯である。この経緯に沿って複製の意味も変化していく。唯一性の複製の時代、そこには生産されたコピーをオリジナルとして複製を繰り返していくという、複製の連鎖が存在する。量産の複製の時代を前後二つに区分することが出来るが、その基準はその生産量の劇的な変化故の質への転化によってである。前期において単にコピーは一つの表示物から一斉に生産されコピー同士は同型性を持つ。オリジナルとコピーの違いが消滅するというような言い方がここで為される。これはコピーはオリジナルとして用いられないことを意味する。厳密に言うならば、量産性の複製においてもコピーはオリジナルとして用いられうるが、コピーと同型性を持つ複製を生産するためには、コピーはオリジナルになる必要がないということである。この複製は複製技術の一複製の工程の中で済まされる。後期において複製は技術力を背景に爆発的な量産体制を可能にする。ここにおいてすべてのものが複製を受容する環境に加え複製技術をも所有することが可能になり、個人単位において情報を発信することができる。組立、複製技術どちらの複製においても、オリジナルとコピーの差異は存在する。これは基本的な前提である。組立と複製技術のそれぞれの複製方法の間には類似度の違いが生じる。この違いは複製技術による複製では、複製対象との類似度は組立のそれに比べ明らかに精度が高いが、複製の領域のほとんどが排除されていることで可能となる。これに対し組立の複製では全的な複製が為されるのではないが、全的な領域において複製を為そうとする。基本的な前提を踏まえた上で、しかしオリジナルとコピーの差異が存在しないというのは、この大部分の複製の領域の排除により二つの間の相違が大きく、オリジナルとコピーという関係を言うことが無意味に見えることと関係がある。複製技術においてオリジナルコピーの差異がないとは、そもそもコピーとして形成されたコピーは流通するオリジナルであるとみなすことができ、コピーの量産とはつまり全的な同型性関係を持つオリジナルの生産であるといえる状況にあることに原因がある。

複製される情報

複製により先行する複製対象の形態が再現されるが、一体複製される形態とは何なのか。例えば様々な日本人により「あ」という文字が書かれるが、これはこれらの人々が「あ」という文字の複製をしていると考えていることができる。そしてこれは組立による複製である。諸個人の文節の仕方により複製はまったく皆と同じではない。それにも関わらず我々は「あ」という文字が成立するために必要な関係性を身につけていることで、そうしたことが可能となる。複製が成功したかどうかはこの複製対象の持つある関係性を模倣する必要がある。この関係性とは複製情報と呼ばれてもいる。現行の複製技術は常に複製対象を部分的に規定したものとして複製を行う。複製された対象の関係性は、我々受容者にとり読み取ることができる情報となる。複製技術が常に目的論的であるというのはこの情報を目的として複製を行うからであり、これを形式化しているからである。複製技術は唯一の形態、いいかえると唯一の目的しか複製することが出来ない。

複製の類似度

複製の類似度は我々の知覚・思考に依存した相対的なものである。産業製品の外観は我々にとりほとんど見分けがつかないような類似度を持つ。しかしそれは単純な観察によるものであり、少し厳密に観察すればそれぞれの微妙な違いを指摘することが出来る。また二つのものは一方のものとは別のもう一つの存在であることからすると、同じであるという事はありえないという意味で、これらのレベル設定そのものを無化する、非類似度のレベルが存在する。私がこの類似度で考えたいのは、知覚上の類似度が、微細なレベルでは大きく違うものだとして、それはその細部を限定して比較することで違うということがいえるのであり、限定しないのであるならばそれらはやはり類似しているといえるのではないのか?ということである。意識が為す抽象化は極限までこの類似度を持たせる性質を持つ。

模造と量産

複製についての二つの印象を創造することが出来る。「模造を作る」「量産する」という二つである。「量産する」ことを複製として言う場合、我々は常に前者の「模造を作る」ことを前提にしている。しかし両者は直接関係しない。量産は模造を作ることの反復であるともいえる。このとき両者は直接的な関係を持つように見える。しかし量産は模造を作ることと関係なしに成立する。ある一定の形態が存在すれば、そこから事物を量産することが出来る。つまり量産物同士の間には同型性が存在するが、その一定の形態と寮産物との間には何らかの同型性は必要ではない。そこに存在するのは何らかの変換を為すことで両者が同型性を持つといえるような直接的な対応性である。模造を作ることの反復が量産であるということは、この過程を模造制作の工程が含むからである。先行する事物の形態を直接的な対応性で持って写し取りを繰り返すことが、模造の内実であるといえる。一回の写し取りにより形成される事物とは写し取った事物の変換した形態であり、そこには直接的な対応性が存在するといえるが、同型性は存在しない。量産そのものに模造を作る可能性は含まれていない。複製を語るときによく使われるいい方をするならば、模造はオリジナルとコピーの関係を持ち、量産に存在するのは諸コピー間の同型性の関係である。我々が複製の印象を語るときの困難は、その本質がこの印象の両方を持つことにある。どのような形態からでもそれを変換することが出来るような媒体が存在するなら、そこから事物を量産できる。しかしその形態が何らかにもと存在した形態の複製であるのではない。それはある事物の形態の直接的な対応性を利用した変換した形態でしかない。複製技術を考えてみるとそこには不可逆な規定がその工程に存在する。複製対象の形態を複製媒体により写し取り、複製媒体として形成された形態を反転させることで、複製対象と同型性を持つ形態が形成される。しかしこれは複製対象の完全な複製ではない。複製媒体の形式によって、例えば色や表面の三次元的形態、もしくは二次元的形態など複製対象のある形態のみが選択的に写し取られるという規定が伴う。この工程を逆転させ複製物を変換することで複製対象が再現されることはない。

知覚の複製

複製が我々にとり複製であるかは再現する事物との類似度に左右されるが、その類似度自体我々の知覚に大きく依存した主観的な問題である。電気的複製技術として共通する録音技術と映像技術の二つはその全的な個体をではなく、例えば観察主体が見たような外界の状態を複製対象とする。いわばこれらの複製技術は我々の知覚をシミュレートしている。録音技術は我々の耳がそこにあるものを聴くようなものとして、その周囲の振動とともに生じる音を記録し、また映像技術は同じように我々の目がそこにあるものを見るものとして、その周囲の光の分布としての像を記録する。両者とも物理的なエネルギーの様の違いとして物理的に写し取り、その写し取ったものを電気系へと変換することで固定性を形成し、それを用いて再び物理系へと再変換することで、時間的空間的に遠隔する場に物理的エネルギーとしての音や像を再現する。録音技術にせよ撮影技術にせよ、これらの複製技術は本当の音や像を生産することでもって複製を為している。しかしこの「本当の」という言い方は像に対しては誤っているように思える。像とは我々が受け取る二次元的な光の分布であり、それは三次元的な実体を持つ事物の放つ光の状態をのみ写し取ったものである。つまり現実世界の像は我々が平面的事物に三次元的事物を写し取ろうとすることで生じる。われわれにとり音は目を閉じても存在するが、象は単体では存在し得ない。事物の二次元的形態としての像を取り出すことは道具の力を必要とする。現実の音を複製により生産することに比べ、像を複製することが何か偽者の像を生産することではないかという念を抱くのは、像自身三次元的事物を見ることと切り放すことが出来ないからである。そもそも像とは我々が見るそのあり方である。三次元的事物という言い方自身、我々こうした像としての見方だけでなく様々な知覚を統合することにより可能となる。しかし我々が見ているものを像であるとみなすことはない。我々が見ているものを像として捕らえるには、道具を用いてそのありさまを単体で取り出すことによって可能である。視覚つまり光の複製は三次元的領域での複製でない。それにも関わらず我々は何か事物そのものを複製しているのではないかというような錯覚に捉えられるとするならば、それは事物が知覚によって可能になるとしか我々には言えず、つまりそれは視覚に多くを依っている。視覚の捉えたものの再現はそのまま事物の複製であると我々はみなしてしまうのである。映像技術が不思議なものであるとすると、音のように聴覚のみで知覚するように、三次元的事物を「見る」ことなしに、視覚により像を見ることが出来るということによる。この特殊な仕方は複製の「本物さ」にも限定を加える。音の発生は発音元がスピーカーであることを除けば、その受容に何か本物の受容と変わったものは見ることはない。だが、映像の受容はブラウン感を通してみることになり、それは我々が普段事物を見る仕方ではない。像のみを見るというのは特殊な経験である(写真技術的な意味での映像が壁などの映ることを見ることはあるが)。このことは知覚そのものの再現の問題と関わってくる。受像機の解像度を端的に増やすことのみが視覚の再現を意味するのではなく、そもそもこのフレームの存在が本物といかに違和感あるものかを気づく必要がある。

複製の連鎖

組立による複製においてはオリジナルを全的に複製しようと意図され、それはある精度で成功する。そのコピーをオリジナルとみなしてコピーを生産することが出来る。このようにオリジナルとコピーは循環し複製の連鎖を形成する可能性を持つ。複製技術においては大本のオリジナルをコピーは全的に複製することは例外を除いて出来ない。一旦形成された複製対象の形態を、固定的に定着させた表示物から全的な同型性を持つ複製を、量産的に生産することが出来る。ここにおいて(大元のオリジナルとコピーの関係をどう納得するかを見る必要があるが)、組立のように複製を量産するために為される、オリジナルとコピーの循環という複製の連鎖は存在しない。組立による複製と複製対技術を用いた複製の違いは、同階層的な類似度を試み、それが成功する可能性を原理的に持つものが前者であれば、後者は原理的にそのような類似度を持つ複製は副生物辞退を複製対象とする例外を除いて不可能であるということである。しかしこの複製技術による同階層的な類似度を持つ例外的な複製、別の言い方をするなら複製技術による複製の連鎖も、型取りと写真や伝記的複製技術とでは量的な違いを持つように見える。量産を一回ずつ形成工程を用いることでなし、同階層の類似度をオリジナルとコピーが持つために、複製物をそのオリジナルとするわけであるが、型取りにおける複製の連鎖が微細な差異をはらむことは可視的なレベルでは確認できないのに対し、写真や電気的複製技術での複製の連鎖では可視的なレベルで確認できるものとなる。というのもこれらの複製を為す際に複製対象と副生物の変換の領域が異なり、型取りでは必要のなかった変換媒介を必要とするからである。このことで毎回の複製の連鎖では恣意性をよりはらむことになる。

記録と複製

録音技術や撮影技術は記録技術または記録メディアなどと呼ばれるが、これを複製技術とはあまり呼ばない。逆に塑像などのレプリカを元の対象の記録物とも呼ばない。このことは元の事物とそれを記録もしくは複製した事物の関係の間にある類似度と関係するといえるかもしれない。いやそうではなく、単に「記録」が状態の複製を指し、「複製」が固定的な事物の複製を指す、ということなのかもしれない。

認識の材料としての複製物

増成隆史は複製の流通が我々のに認識を成立させていると指摘している。つまり現在の我々の社会では複製による事物がその構成要素として大きな地位を占めている。我々が行為する場合、複製物を用いることなしには不可能であり、またそれを伝達しようとするとき不可避的に複製の技術を用いざるを得ない。これは当然ながら現在の話だけの問題ではない。事物の代理により伝達を効率化しようとするとき、そこには複製が生じるという意味で、複製は我々の原始的生活の時代から存在した。音声としての言葉は音声を同型性を持った形で再現的に発生させることが出来る性質を利用することで可能となった。事物を概念化するには複数の同型性を持つ事物が必要となる。それを何度も知覚することでそれらが同じ事物であると認めるとき、そこに抽象的な観念が生じる。