道具と機械を隔てるものは何か。現象の発現が人間と道具によってなされるとき、人間と道具の接触の諸性質が現象の性質を決定する。石を持つ。石を持ち投げ、それが岩に当たり音を放つ。当たったのが飛んでいた鳥で、鳥は地面に落ち人間の食い物になる。とがった石を持ち物を切り刻む。石を持ち地面に絵を描く。大きな石の上に座る。たとえば石を投げそれが飛ぶ鳥に当たるという現象を考えるとき、機械の本質が見えるかもしれない。機械とはこの場合存在しないと我々はいうかもしれない。機械とは人間が直接的な関わりを持たない現象をなし得るための複雑な機構を引き起こす選択をしうる道具、とでも定義するかもしれない。しかし私が挙げる例でいいたいのは道具そのものの本質がそのような人間と道具と分けることのできるものであるかということである。確かに道具と機械は人間の動作が直接に現象に反映するということで区別しうるかもしれない。しかしいずれにせよ機械とは人間といわゆる道具と環境に引き起こしうる機構そのものだといえないだろうか。道具は機械を含む概念といえる。
現象は直接的な身体と道具の運動によって引き起こされるのでない場合その道具を機械という。この言い方は正しいだろうか。私が石を持ち肉を切り刻む場合、そこで見られる私の運動はたとえば肉の塊に対し直線に縦に石を奥から手前に動かすだろう。そのとき単に直線運動ではなく肉の深さに対し私は手前に石を移動させつつ下方向へも石を動かす。つまり私は石を肉に対し下手前方向に向けて動かすことになる。この場合道具が石であるのでなかなか上手く切れることはないだろうが、私の手の動きを反映した石の動きが見られ、肉は不細工ながらも切断されることになる。手の動きと石の動きは直接的といえる対応性を見せるのである。
歯車こそが機械の本質ということができるかもしれない。それは運動性の変換である。つまり現象を人間の行う動作に対応しない別の運動に変換する媒介の存在が機械であるということがいえないか。
機械の本質を過剰代替にあるというものがある。これはここでの機械に対する仮説と近いように見える。過剰代替は人間のなす事を過剰になす事をいう。人間が穴を掘るとき、機械は大きな動力、大きなスコップを持つことでより大きな穴を掘ることが可能になる。人間の身体が道具へ及ぼす運動を直接的に反映しないというここでの仮説とは意味のレベルを異にすることになるが、含むところは近い。
現象を人間の行う動作に対応しない別の運動に変換する媒介の機構を持つ存在を機械という。このように機械を物理的な実体とみなすことは抵抗を感じないか。つまり人間の存在は機械にとりいわば選択を決定する「神」の存在であるが、この人間の存在が機械には不可欠であるのだから機械の一部であるということはできないだろうか。我々はよく「社会の歯車となって」という比喩を使うが、工場のライン作業にはいって機械が製造した物を検査したり、別の行程へ移したりということをしていると我々は機械の部分になったような気がしてくる。これは特別なことではない。たとえば我々の科学の欲求は「鉄腕アトム」を作ることである。つまり自律した行動する機械を創造することであるが、論理的に考えたとして、それは自律などしてはいない。最初の「神の一撃」が最低限必要となってくるという話であるが、実際「鉄腕アトム」が可能となったにせよ、この一撃が必要である限り実際自律しているにも関わらずこのロボットを一撃を加えた人間まで含むということがいえる。
ただしこのような論議は視点の取り方により変化するけれど結局同じことをいっているのである。現象を自律した物と捉え実体化するか、そうではない他律体でありプロセスと捉えるかという対立である。これは哲学上の二元論として問題にされているが、ここではそのことに対し考察を加えない。
ここでは機械を規定する物は何かということを丁寧にすることが目的であった。それは仮説段階にとどまっているが、とりあえずある見通しはついた。