九 裏島研究員
灼けつく陽、濃密な潮の香、けだるい波の動き。雉娘は黒く濡れ光る岩の上で、翼をすぼめ素足を伸ばして、同じように腰を下ろして沖を見つめる背高い男に寄り添っていた。
裏島研究員は、物語った。
「今となっては気の遠くなるほど昔のことです。私は旅立ちました。ミズ星を飛び歩きました。海と海の生物の調査のためです。いつも船と私だけ。生身の人の声を聞き、生身の人の耳に話しかける、ずっとそういうことがありませんでした。さびしいということはなかった。肉親とも、友とも、同じ時代に生まれたすべての同胞とも、最初の出発のときにお別れだと覚悟していたのですから。後の時代の、やはり多くの人々が、生まれ育ち、死んで、また生まれて、絶えることがないことも信じていましたし。私は独りで、自分のために、自分の命を生きる。誰でもに言える当たり前のことなのですから」
「船との会話はとても心暖まりました。彼は私の親だったり、兄弟姉妹、息子や娘だったりしてくれました。親友であったり、きびしい教師であったり。私は人の心が彼にあることを疑いません。あるとき、あるミズ星で、彼と話し合っているうちに、ふと気づいたことがあります。私がいて、彼がいて、それだけだろうか。そのまま疑問を声にしましたら、彼は答えました。たぶん、もう一人いるね。そう、私もそう思っていたのです」
雉娘は、それはだれ、と訊いた。
「海です。その時になって、やっと気づいたのですけれど、海には心があります。生きています。だけれども、私たちと同じ言葉を操ることができないので、いつも私たちのそばで静かに聞き入っていたのでした。私たちは、小声で、しだいに大きな声で、海に話しかけました。潮騒が、応えているようでした。あらゆる方法を考えました。だけれども、あまりに私たちとは異質で大きさの桁も違って、翻訳は、たぶん互いにできていないのだろうと思います」
「それからの私は、海の心を知るすべの探索にすべてをかけてきました。いくつものミズ星の調査をすでに済ませていたのですが、そのすべてがうわつらの仕事であったことに気づきました。後戻りして、一つ一つ、全部やりなおしたのです。私が狂ったように苛酷な要求をし続けたからでしょうか、彼自身困難な課題に悩み抜いたからでしょうか、船は途上で病気になって死んでしまいました。初期設定から育て直さなければなりませんでした。その彼がむなしくなる前に私に言い残したのです。我々が努力しているように、海も努力しているということはないだろうか。我々に近づきたいとちょっとでも考えてくれているのではないか。どこかのミズ星の海は、もう方法を見つけているかもしれない。彼は海の用意してくれた私たちへの呼びかけの方法を仮に『音姫』と名づけました」
「私は音姫を捜してそれからも長い旅を続けてきました。そしてとうとうこの旅立ちの星にまで戻ってきてしまったのです。人も街も何もかも変わっていましたけれど、海だけは変わらずに私を迎えてくれた。このなつかしい海。ここでさえも、音姫にめぐりあえなければ、私の今までの時間はすべて、つらい、かなしい、何かに変容してしまう、そんな気がして、必死に頑張ってきました。だけれども、やはり見つからなかった」
「あきらめることはないわ。必ず見つかると思う」
「ええ。まだ本当にあきらめたわけではないのです。でも、だめだったときのことも考え始めています。そういう、人の小さな力ではどうしようもないこと、そういう壁の前での人の選択、考えれば考えるほど、根元からむなしくなっていく怖い雰囲気が、この世には満ちていたんだなと気づくのです」
「だから、あなたが光なのでしょう。言い古されたことだけれど、あきらめることはいつでもできます。挑みたくても挑めない事情の人もたくさんある中で、あなたはまだずっとそれに挑んでいける。命ある限り進んでいくことだってできるはずです」
「ありがとう。元気が出ます。これからでも気の遠くなる時間が残っていると思えば、調べていないミズ星もまだあるし、あるいは三度でも四度でも調べ直せばいいのだし、――そうですね、弱気だった」
「亡くなった彼にも悪いと思いますよ」
「うん。ほんとにそうだ」
わたしも、と雉娘は言った。
「ほんとにほんとにささやかな力しかないけれど、あなたのお手伝いができれば、と思っています。だめですか」
しばらくして、雉娘は尋ねた。
「あのオドリコヒメと一緒になりたいのですね」
裏島はため息を吐いた。
「深海の麗城で踊る私だけの音姫になっていただけるかと妄想をしました。でもほどもなく、あの人のとうとさは舞台の上だけにあるまぼろしと悟りました」
「真実をおっしゃってください。あなたがあの美しい方と結ばれたいのなら、わたしはその手助けであろうとかまいません。世界で一番澄んだ湖にいる亀を捜すことをあなたは誓いました」
「ああ、あれですね。それもなかったことにしましょう。あとの二人がきっと目的を果たすでしょうから、私が約束を反故にしても困りますまい」
「本当にそれでいいの」
「はい。それに、話すような目、透明な甲羅、そして光を発している亀、私はもう彼に会っています。たぶん、あの船のことでしょう。彼自身といえるものはもう死んでこの世にいませんし、二世をああいうことのために利用したいとも私は思いません」
(『桃』 九 裏島研究員 了)
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小説工房談話室 No.76 ■■■■■■ 1999/12/02 11:57 和香 Home Page ■■■■■■ JustNet TOP |
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HP採録 平成12年2月15日(火)〜 |