十二 放浪
 
 
 
 空腹だった。歩くとき、痛めたほうの脚を引いて、かしぐ。服は内側は垢に外は埃にまみれ、すり切れてところどころ糸がほぐれていた。道端に座っていると、たまに施しがもらえる。畑のものや木の実を失敬してもひとつかみ程度なら見のがされた。
 空を飛ぶ小さな、でもその姿勢の見覚えある癖を見ていて、犬人間ははっとした。ある海辺の集落でのことだった。尋ね歩いて夕暮れどきに、人気ない入り江の、ずいぶん古びた小屋にたどりついた。
 戸を開けて応えたのは、思った通り雉娘だった。
「まあ」
「やあ、ひさしぶりだな」
 茶を入れてもらって、何十日ぶりかで人家の居間でくつろぐことができた。雉娘は犬人間のあれからを聞きたがったし、犬人間は雉娘のほうを聞きたがった。お互い、笑った。
「ゆっくりしていって。なんにもないけど、泊まっていってよ、ね。どうせ急がないんでしょう。あらあら、落ち着いてみるとかなり痛めつけられてるみたいねえ。海水だけどお風呂沸かすわ。主人のものがあるから着替えて。洗濯と繕いぐらいしてあげるから」
 涙が落ちそうだった。夕餉も、海草と小魚の質素なものだったが、温かさが腹にしみた。
 雉娘は、裏島と夫婦になったと言う。なりゆきと言えばなりゆきだけど、たぶんに、こっちが押しかけたというところ。裏島はいつもいつも沖で仕事をしている。海の調査探索というのが本来で、ついでに魚を獲ってきたりするけど、帰ってくるのはよくて三日に一度、長いときは十日二十日も行ったきりだ。どこそこのあたりと言うからじれったくて飛んでいって捜したりも最初のうちはしたけれど、言った場所にいたためしがなくて、今ではあきらめた。とんでもない道楽者に惚れてしまった、と、ほがらかにあけた口を手でかくした。
「道楽って言うけど、その調査にどこからか金は出ているんだろう」
「まるで無し。あの人がしたいからしているだけ。とんでもないお宝を見つけてくるなんて、内心期待したこともあったけど、それも一切、今もって気配すら無し。こまっちゃうわ」
「はは、じゃあ、どうやって暮らしてるの」
「お金なんてたいしてかからないから、なくてもどうにかやっていけるけどね。でもまあ、あって困るもんじゃないしさ、すこしはわたしが稼いでるのよ」
 手紙や小荷物の配達をしている、と雉娘は言う。あちこちの街や村に中継ぎ人を頼んで、二日に一度ずつぐらい顔を出してくるのだそうだ。
「なるほど、えらいなあ」
 彼女を見つけるため村人に聞き回ったとき「でんしょの女の人」と誰かが言ったのを思い出した。つまり「伝書」のことだったのだ。
 夜、犬人間は熟睡した。
 ふと醒めて、波の音が耳にはいって、おやと思ったがまわりはまだ真っ暗だった。犬人間はさっきから、つつかれていたらしい。羽根が彼の胸や脚ですれている。女の息が匂った。
「よせよ。ひとの女房に手え出すほど飢えてないぜ」
 雉娘は黙っていた。少しして、しししというように笑った。
「そう、もてるのね」
 それであきらめたらしく自分の寝床に戻って、犬人間もうつらうつらとしてしまい、気がつけば本当の朝だった。雉娘はすでに起きて煮炊きをしており、おはよう、と犬人間のほうに手を振った。
 それがまぶしくて全く悪びれたところもなくて、夜半のことは夢かと疑わしくなるほどだった。
 朝の浜辺を散歩して帰ってくると、小屋の裏手に何やら大きなものが、雨ざらしというか塩にやられ赤錆びて、打ち捨てられているのに気付いた。よくはわからないが、何かの機械だった。
 小屋に戻って雉娘に訊いてみた。
「あれはねえ、うちの人の『音姫探知器』の一号機なの。成果がないからって今は二号機を作って持って行ってるわ」
 犬人間はこの日ずっと、時間を忘れてその一号機を調べた。聞いたことも見たこともないくらい複雑で、不思議で、彼の知識でなんとか理解できた部分だけでも驚くべき仕組みを持っていた。
「もう少し調べてみたいんだ。悪いけど、あと一晩だけ泊めてくれ」
 快諾された。裏島はその日も帰らなかった。
 深夜、今度は犬人間のほうから、しのんでいった。雉娘は拒まなかった。

 桃幻郷に行ってみたらどうかしら、きっと身の立つよう世話してくれるはずよ、と雉娘は言った。当面の入り費にと金もくれた。ほかに当てはなく、そうするしかないと歩いてはいたが、いまさらどのツラさげてと思うと、犬人間の悪い脚はいっそう進まなかった。
 何日かして、人や車の行き交う街道の脇で、犬人間はへたり込んでいた。心から信じているらしいそれぞれの目的地へと向かう、人々の流れを、ぼうと見るともなく見ながら、人生には多少でも意味があるのかと自問していた。雲の全くない、容赦ない青空だった。
 意味があるとしたら俺にはそれと親しくする力がないのだろうし、意味がないとしたらないものをあると信じる力がないのだろうな……
 ようよう、とずっと呼びかけられていた。顔を上げると、犬人間にそこをどいてくれないかと談判するふうの行商人が一人立っていた。荷車が停まっており、のぼりがはためいていた。
「俺だよ。わかんねえかなあ」
 麦わら帽やてぬぐいで日差し除けをし、影の中の顔は真っ赤で、口もとがにやにやしている小柄なおやじ。犬人間は、ああ、と言って立ち上がった。
 猿人間は言った。
「珍しいところで珍しいやつに会うもんだ。どうだ、一つ食べないか」
 犬人間はまだ相手の顔をじっと見ていた。すっかり様子が違っているが、あいつだった。猿人間は、荷台の箱の蓋をあけ、冷気の立つ氷水の袋の間から、淡紅色の桃の実を一つとって、ほいと投げてきた。
 しばらく立ち話をし、疲れたと犬人間が座り込んでからは、猿人間だけが立っていた。のぼりは荷車の後ろに二本、ともに薄桃地紋に太い緑の葉文字で『日本一の種なし桃』とあった。日本一かどうかは知らないが、冷えて、甘く、大層美味しかった。
 別れ際に猿人間はのぞき込むよう言った。
「どうだい、昔のよしみで雇ってやってもいいよ。ききき。だいぶ苦しいみたいに見受けますぜ」
「遠慮しとく。ふふ、そういう仕事は、俺には合わないと思うんだ」
 犬人間は見上げてそう答えた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

(『桃』  十二 放浪  了)

 
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小説工房談話室 No.81 ■■■■■■ 
1999/12/09 18:28 和香 Home Page ■■■■■■ JustNet TOP 
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HP採録 平成12年2月15日(火)〜