平成9年12月13日(土)〜


武蔵の国

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これが
かの男の話なのか
一行の誰かのことなのか
そういうことは
だんだんわからなくなっていきます

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さまようような旅をして
男は
武蔵の国まで来ました

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さて
この国の娘に
求愛をしたときのことです

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娘の父親は
あれはいけない 別の人に嫁がせた方がいい
そう言いいましたけれど

母親の方は
高貴な人の嫁にと
つねづね考えていました

父親は
ふつうの人でしたが
この母親の出自は
藤原の一族だったのです

母親は
この婿の候補に歌を届けました

この一家は
入間ごおり みよしのの里
というところに住んでいました

みよしのの
田の面の雁も
ただひたすら
あなたにお頼りしたい
そう鳴いています
(娘はその気ですよ)

婿の候補の返し

私を頼りにしたいと鳴く
みよしのの
田の面の雁を
いっときでも
忘れはしません
(おまかせください)

よその国に来ても
男の
このようなことは
やむことはなかったのです

あづまへ旅だって
まだどこか途上にいるらしい
男から
京の友らのもとへ
歌が送られてきました

忘れないでください
隔たりは雲ほどにもなってしまいましたが
空を行く月が
まためぐりくるように
きっと戻って
お会いしますから

男が
女を盗んで
武蔵野まで落ち延びてきました

追っ手である国の守に
間近まで迫られたため

女を
草むらに捨てて
逃げてしまいました

土地の人たちが
ここに盗人がひそんでいるそうだと
火をつけました

女は絶望の中で
こう歌ったといいます

今日だけは
武蔵野の野焼きは
やめて
あの人がまだ逃げおおせていません
わたしもいます

様子を見に戻っていた
男は
女の手を取ると
炎と煙の中
必死に走ったのです

武蔵に住み着いた
男から
京の女の元へ
文が届けられました

こういうことになってしまい
京のあなたにお便りするのが
恥ずかしい
といって
お便りしないままでは
苦しいのです

文の上書きには
武蔵鐙(むさしあぶみ)とあります
これは
武蔵特産のあぶみにかけて
この地で妻となる女に逢った男
住み着いてしまった男
そういう意味を持っていました

そしてそれきり
便りは途切れました

京の女はこう返しました

武蔵でお逢いになりましたか
ずっと慕っておりますのに
今もあなたのお言葉が届かないのでとてもつらい
でも届くのも 心騒ぐばかりで嫌です

男はこれを見て
しだいに
耐え難い気持ちになっていきました
返します

お便りを差し上げればわずらわしい
差し上げなければ恨むのですね
武蔵鐙は
どうすればいいのです
こういうときに
魂がちぎれて
ひとは死んでしまうのでしょう


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