平成10年1月28日(水)〜


下紐とくな

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男は
津の国
菟原(むばら)のこおりに
通う女がいました

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都にたつとき
これで
行ってしまって
もう来ないつもりなのですね
そう言いたげな女の様子でしたので
男が詠みました

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蘆(アシ)の生える水辺のほうから
満ちてくる潮が
しだい次第に迫ってきます
あんなふうに
あなたへの想いも増してきているのですよ

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女の返し

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めだたない小さな入り江ですけれど
いっぱいに沈めた
この心を
浮かべた舟の棹(さお)で探ったぐらいで
どうして
知ることができるのです

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田舎人にしては
女の歌は
いい出来でしょうね
わるいでしょうか

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つれない女のもとに
男が送りました

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言葉にすれば
あなたに嫌われるし
言葉にしなければ
胸で何かが騒ぎわめくのです
このごろは
この心に閉じこもって
ただなげき苦しむばかりです

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呆れてしまいます
こう詠んでしまうとは

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心ならずも
別れた人のもとに
送りました

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玉を貫く紐を
万葉から言い伝え通りの
沫緒縒り(あわおより)にして
わたしたちは
結び合わせましたね
このように
引き離されましたが
かならずまた
逢えるようになると信じていますから

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もうお忘れですね
そうなのですね

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こう
女から
問いただされましたので

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狭い谷を
峰まではいのぼる
美しいつる草たち
わたしたちの繋がりは
それほどのものでしょう
絶えてしまうなんて
思いもしないことですのに

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魅了されてしまう
そういう女に
逢うことができました

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あとのことが
ひどく心配な気がして

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私以外には
下紐は解かないでください
朝顔が
夕暮れも待てない
花だとしても

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女の返し

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ふたり一緒に
結んだ紐ですもの
それを一人身のわたしが
お逢いできないうちに
解いたりしませんわ

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紀の有常の邸を訪ねました
けれど
出かけていて帰りが遅かったのです
長いあいだ待っていました

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用が済んで
いとまをいう頃にはもう明け方でしたので
男は
こう詠んで送りました

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あなたさまのおかげで
初めて教えていただきました
世の中の人たちは
こういうことを
恋と呼ぶのですね

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有常も返しました

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わたくしもよく知らないので
世の人に会うごとに
尋ねていたのです
教えていただいたのはこちらの方です
恋とはこういうことでしたか

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