平成10年4月24日(金)〜
さもあらばあれ
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男は ひそかに逢って語らうことも できなくなりました .
あの方はいずこへ行かれたのか 心もとないあやしさに 詠みました .
わが身を
吹く風にしてしまえれば
たとえ玉座に近いすだれであろうとも
隙間をさがし
吹き入ることができるのですが
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女は返しました .
とりとめのない
風の流れであったとしても
玉すだれです
そのような隙間を
誰が許すというのですか
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帝がご寵愛になった ある女性がいました 尊い色を着用することまで お許しになりました .
その女性は 大御息所(おほみやすんどころ 皇太后様)の 従姉妹でした .
奥まったところにさぶらい仕える 在原の一族のその男とは いえ、大変若いころでしたので その少年とは すでに知り合いであったのです .
この少年は 後宮への出入りが許されていました なにかにつけ この女性のそばに来て離れないものですから .
疑われます 身を滅ぼしましてよ ね、もう来ないで .
とたしなめましたけれど .
この想いに
しのぶ心はすでに負けました
あなたに逢えることと取り替えられるなら
なるようになればいいのです
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こう詠んで それからもお勤めのあとは 女性の御曹司(宮中の部屋)に来るのでした .
この部屋は人目も多いというのに 少年には気も回らず やってくるものですから .
この女性は こころ病むほどになって 里にさがりました .
これは好機ではないか と少年は思い 女性の里に行き通うようになりましたので .
これを噂して 大人たちは 若気といっても程度があるものを と笑いました .
朝早く 主殿寮(とのもづかさ 宮中の庶務係)が見ていますと この少年は さも殿中で終夜 宿直をしたかのように 脱いだ沓(くつ)を 奥へ投げ入れてから 上がるのでした .
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このような 尋常ではない思い入れのまま 時が過ぎるうちに とうとう 色情に狂うか まさに身も滅ぶかという ところまで 堕ちてしまいました .
どうしたらいいのです わがこころを どうなるかもわからないこれを おしとどめてください .
そう仏に願いましたが とどめようなど すればするほど 燃え上がるばかりで もうままならないほどに ただ恋しさのみに 心が占められていくのでした .
陰陽師(おむやうじ) 巫(かむなぎ) を招き 恋せじという祓え の霊具を身につけ 水のほとりに参りました .
祓いは終わりましたけれど 重苦しい気持ちがつのってきて 以前よりも 異様なほどに迫ってきて 圧しつぶされそうになったのでした .
恋をすまいと
御手洗川(みたらしがは)で
禊ぎをしました
神は
うけいれてはくださらなかった
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こう嘆いて 去っていきました .
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帝は すがた顔立ちの とてもお美しい方でした .
仏への帰依も御心深くに住まわせておられました そのためかお声も尊くあって 釈尊の名を唱え そうとは知らずにいろいろと 諭すのでした .
御前を下がってから この女性は 泣き崩れました .
このようなご主君に ただつましく仕えることすらできなかったなんて なんと前世の悪いことでしょう 悲しいことでしょう あの男に ほだされたばかりに .
こう漏らしながら 泣きました .
このようなうちに ついに帝のお耳に これらのことが伝わりました .
すでに青年とも言えるかの男を 洛外に追放しました .
御息所は いとこであるこの女性を 正式に里に戻してしまう手配をして 蔵に閉じ込めました .
蔵の中で泣きました .
あまの刈る藻には
われからという虫が棲むそうです
わたしのせいでこうなったのです
声だしてないても
世間をうらみなどできません
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こう嘆いていましたところ かの青年が 夜毎に洛外から やってきては 笛をたいそう巧みに吹くのでした .
笛の音は どこかおどけるように慰めてくれるのですけれど 響きはやはりもの悲しいのです .
こういうわけで 女性は蔵に籠もったまま ああ すぐそこに来てくれている とは聞こえるのですが 抜け出すことはかないませんでした .
あのひとが
そういうことかと思ってしまうのが
つらいのです
生きているとも言えない
このありさまを知らぬままに
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渡すすべもなくこう詠みました .
青年は この女性が どうしても逢ってくれませんので .
このように笛を吹いて 夜をさまよいながら 未明に 配流先に戻ると 歌うのでした .
むなしく行って
また帰ってくるのです
そうして
あの方にお目にかかりたくて
いざなわれて
また行くのでしょう
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水尾(清和帝)の御時にちがいありません 大御息所は染殿の后(藤原のあきらけい子さま)です 一説には 五條の后(藤原ののぶ子さま 文徳帝の御母)とも
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