平成10年8月4日(火)〜


惟喬の親王

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惟喬(これたか)のみこという親王がいらっしゃいました
(伊勢の斎宮であった方の同腹のお兄さまになります)

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山崎の向こう
水無瀬というところに別邸がございました

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年毎の桜のはなざかりには
その別邸へゆかれるのでした

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その際に
右の馬頭(うまのかみ)である人を
常に率いてゆかれるのでした

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時が経っておりますので
その右の馬頭である人の名は忘れてしまいました

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狩はなおざりにしかしないで
酒ばかりを飲みつつ
やまとうたに興ずるのがならいでした

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このごろも狩をよくする
交野(かたの)の淀川べりにある
あの渚の院の桜がことのほかに
みごとで見映えようございました

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その木の下で馬からおり
枝を折って冠や髪にさして
上位の方も
中ぐらいの方もしもじもも
皆で歌を詠みました

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馬頭である人が詠みました

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世の中に
まったく桜というものが
なかったなら
春の心は
のどかそのものだったでしょうに

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こう詠みましたところ
また別の人が詠みます

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散るからこそ
いっそう
桜は愛されるのです
このうき世に
永続するなにものがありましょうや

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このようにして
その木の下からは引き返したのですが
日が暮れてきました

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お供の一人が
地元の民に酒を運ばせて
野原から現われました

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この酒を飲もうと
かっこうの場所を求めてさらにゆくと
天の河というところに至りました

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親王に
馬頭が大御酒(おほみき)の口をささげすすめました
親王はおっしゃいました

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交野を狩りて 天の河のほとりに至る
を題にして
歌を詠んでから
杯にさすように

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こうおっしゃいますので
かの馬頭が詠んで奉りました

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狩に明け暮れた今宵
七夕の織り姫に
宿を借りましょう
天の河原に
私は来たのです

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親王は
この歌をくりかえし繰り返しとなえられていましたが
どうしても歌を返すことができません
紀の有常がお供の中におりました
有常が代わって返します

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ひととせに
ひとたびだけいらっしゃる
尊いみこを待っているのですから
あなたごときに
宿を貸す人はいないと思いますな

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遅くなって
水無瀬の別邸に戻りました

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夜の更けるまで
酒飲み物語などして
あるじの親王が酩酊なされて
奥へゆこうとなさいました

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十一日の月が
西に隠れようとしていました
かの馬頭が詠みました

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飽きるにはほど遠いのに
はやくも月は隠れてしまうのですか
あの山の端が逃げて
月を入れないで欲しいものです

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親王に代わりたてまつりて
親王のお心を
紀の有常

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峰という峰が
おしなべて平らになってくれたなら
山の端というものはなくなって
月も入るところがなくなるのだろうが
(そういうことはないので
 入らざるを得ない
 もうかんべんしてくれ)

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水無瀬に通われた
惟喬の親王
例の狩をするお供に
馬頭である翁が仕えました

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数日も遊んで
別邸に帰り着きました

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ご挨拶をして
早めにおいとまさせていただこう
そう思いましたが
大御酒をたまわり
御褒賞をくだされるということで
お許しいただけませんでした

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この馬頭
実は逢いたい女がいたので
気が気でなく

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旅の枕にと
草をひき結ぶことはしますまい
秋の夜長でもないので
せっかくの夜が
すぐ過ぎてしまいます

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こう詠みました
時は弥生(旧暦三月)の終わりの日でした

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親王は
そういうことか
と帰してはくださいません
夜を徹して興じられて
おやすみになりませんでした

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このようにしつつ
お仕えして参りましたが

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思いがけないことに
髪を下ろされ
出家をされてしまいました
(至上への望みが絶たれたためでしょうか)

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年賀のご挨拶に
そう思い
小野に参りました

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比叡の山の麓でしたので
雪がたいそう深かったのです

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どうにか
御僧房にまでたどり着き
お会いすることができました

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退屈そうで
隠しきれずに
さみしげな様子でいらっしゃったので

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長めにはべらせていただき
いにしえのことなど
笑い声を交え
思い出話をいたしました

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このままずっとお相手を
そうまで思えましたが
翁にも
公のことなど控えており
そうはできませんで
夕暮れに帰ることになりました

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もろもろを
忘れれば
夢かとまで思えます
思うなどできませんでした
雪踏みわけて
あなたさまを見るとは

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こう詠んで
子供のように
泣きながら
帰ってきました

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