平成11年8月7日(土)〜
あまり眠れない。
食も細ってきたか。
一種の敗戦だったのではないか、と思う。
死屍累々。
「また、朝食を抜くの」
「時間がないの」
妻はそう尋ねる。
「気にするな。今夜は早いと思う」
そんな言葉を交わして、私は、公園に出勤する。
一時間ばかり電車の吊革につかまって、何度目かのその駅に降りる。
罪のないうららかな晴天の日、ベンチに座り、緑色のそよ風に吹かれて、新聞を広げる。
じっくり読み込めば、数時間は潰れた。
ショルダーバッグで家を出るが、折り畳んだ紙袋を入れてある。電車に乗る前にはこの紙袋を広げて、バッグは逆にこの中に。網棚やゴミ箱から、他紙やマンガも採集してつど紙袋に入れる。
知らない街、知らない公園ばかりだった。
が、それらも回を重ねるうちに、見当がついてきた。沿線一帯の内、居心地のいい場所は次第にしぼられてくる。私とたぶん同類や、私のはるか先輩やらも、同様の嗅覚を働かせるのだろう。彼らの影が、濃いか、と思う。
何日も続けて同じ公園だと、顔見知りになってしまって、それはまだ嫌だった。まして、ベンチの半ばが彼らで埋まる吹き溜まりのようなところでは、さすがにみじめさに耐えられない。
ある街で、その周辺まで含めたいくつかの公園で、その娘を見かけた。
ありふれた装いの娘だが、紙袋を運んでいる。といって、それは生活関連が詰まっているたぐいのこちら側の意味の紙袋ではなく、菓子パン類が大量に入っているのだ。
彼女は一人だった。
ベンチの男たちの前で立ち止まる。
「要る?」
透明包装のジャムパンや、クリームパンを取りだして、そう尋ねる。
男たちは黙って受け取ったり、なにがしか礼や世間話をするようだった。
最初に見かけたとき、私の前は素通りした。
髭もきちんと剃っているし、背広にくすんだところもなかったから、眼中になかったか、慎重になったのだろうと思う。
二三度目に初めて、私の前で足を止めた。
新聞をおろすと、
「食べます?」
練りチョコレートの入った巻き貝の形のロールパンを、私の前に差し出していた。
「ありがとう。でも、お腹空いてないから」
「そう。またね・・」
逆光だったけれど、伏し目がちでもの静かな気色だった。
これ以上高くならないうちにと、無理気味の計画でマンションを購入した。買えたのは、ごくささやかな城だったのに。
そして、以後価値は下がるばかりであり、現在では売り払っても借金しか残らない。その額は、今の私にはあまりに過重である。
妻は知らない。
あと何十年かすれば、ローンは払い終えるのだと思っている。
方法はある。
私が死ねば、保険が効いて、自宅はほぼ無借金状態で妻のものになるはずだ。
行方不明でもいいのだろうか。
妻と娘は、やって行けるだろうか。
・・・・・
雨の日は、図書館が重宝する。
老人や主婦、無心にノートを繰ったりする受験生、などにまじって、さまざまな段階のわが同類が席を占める。晴天のときと比べると、図書館という屋根付の公共の場の意義がよくわかる。
館側も心得ているのか、雨の日だけではないかと思うのだが、壁際にいくつかパイプ椅子が増えている。ここで、紙袋を横に、男たちが寝入っている。
ある財団のものらしい図書館でのことだが、服装で入館を断わられているのを目撃した。彼は、あっさりとあきらめたが、無言のまま私を一瞥した。私は、そのまま入館したが、彼の眼と表情が忘れられなかった。
図書館には休館日というものがある。腹立たしいくらいよく休む。
これと雨が重なったときは、少々つらい。
もっと慣れてくれば、どこの図書館の休館日がいつで、ということまで頭に入ると思うのだが、私はまだ初心者だった。近くに別の図書館がある記憶が無く、山手線でぐるぐる回るのも気が進まなくて、雨用の公園の心当たりをめざした。
陸橋の下にある公園、というのも知っていたが、そこは常にうす暗く、もう公園というよりは、段ボールハウスの団地だった。雨だからとまぜてくれる雰囲気はないのだろう。特に、私のように、未練を残している格好では、と回避した。
あずまや風の休憩所がある場所を知っていた。あそこなら屋根がある、いつもどおり新聞や雑誌をゆっくり読める、そう考えた。
思惑は当たったが、当然のように、私だけではなかった。
傘をすぼめて中にはいると、席の隙間はやっと一人分だった。
音のない雨が、なんの抑揚もなく、樹木や草花に降りしいて、そのあずまやは隙間なく包まれているようだった。
眠っているのか、起きているのか、息遣いすら消す塑像のような男たちの中で、新聞を開いて物音をさせているのは私だけだった。扉や窓硝子があるわけではなく、吹きさらしだから、六月とはいえ冷えた。
知っている顔があったが、互いになんの挨拶もなかった。
息がつまりそうなのだが、この程度に嫌気がさす段階はもう過ぎていたのだろう、読むものがなくなると、私も腕組みをして目を閉じた。
パンを配っている娘のことを想った。
心に引っかかっていたのだが、どこかで以前、会っているという気がする。
いや、あんな顔はどこにでもいるか。宗教かなにかにかぶれてしまった、ある意味かわいそうな子なのかもしれない。・・そんなことを考えながら、うとうとしたと思う。
ある晩家の寝床で、彼女のことを思いだした。
どうでもいいとは思ったが、確かめたくて、その街に通った。
数日した晴天の日、彼女が現われた。
私のところに来るまで、じっと待った。
「食べる?」
私は、うなずいた。
「ありがとう。ねえ、君、・・」
「なに」
人によって意味づけがあるのか、私に差し出すのはいつもチョコのロールパンだった。
「まだ商売しているの」
顔を上げ、目がふと燃えたようだった。
「おじさん、やっぱりお客さんだったか」
にっと笑んで、
「制服着てね。本職になっちゃったよ」
「はは、そうか。どうしてこういうことしてるの」
えへへー、と頭をかく幼いしぐさで、あのときの一室での情景が浮かんだ。
私は、そのまぼろしに打たれた。
言いよどむ風だったので、私は手を横に振った。
「いや、いいよ。人それぞれだもんな」
「・・うん。がんばって、おじさんも」
さよならと、指先を揺らして、娘は隣のベンチへ移った。
あれから会っていない。
彼女はまだ、配っているとは思うが。
(了)