ねっとCafe/nc:小説工房談話室


タイトル  :RE:Re:RE:こんばんは (スランプ考)
発言者   :和香
発言日付  :1998-08-29 11:56
発言番号  :198 ( 最大発言番号 :298 )
発言リンク:196 番へのコメント

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 山口和明さん。こんにちは〜。

> 和香さんはCPを使い慣れているみたいですけど、お仕事で使ってますか?。

 仕事では、大きな流れの末端で肉体労働を担わせてもらってる、というだけですね。
 仕事で使っているコンピュータは、遊びゼロの代物です。
 職場には他にパソコンもありますので、それで、ときたまインターネットなど覗いています。
 ただ発信はちゃんと、自宅のものでやってます。 (^^)
(夜勤なので、昼間発信ということも多いですが。 ・・・私もフォーラムに発言などするようになったのは今年の冬からですよ。まだ初心者です)

 私のような楽しむ側ではなく、描く側として、漫画への思い入れ、相当におありのようですね。芭蕉が「求めるものは一なり」と言ったように記憶していますが、芸道はやはり、相通ずるものがあるのだろうなあ、と感じました。いずれ、核心を拝聴させていただけるものと、お待ちしております。

> 和香さんも芸術家ですからスランプという事はご存じと思いますが、もし、
> 自分がその立場に陥ったらどのようにしますか?。

 「芸術家」はこそばゆいです。
 せいぜい「ものかき」でしょうね。

※ ついでに言うと、「文学」「文学者」という名称は、間違っているような気がします、私は。「音楽」のように「文楽」という名前をなぜ、明治の頃の人はつけてくれなかったんでしょうねえ。別に「ぶんらく」があるからと言うなら、「章楽」あたりでも。読みは「しょうらく」にして。(だめか、こりゃ)
 今は、「文芸」というのがこのジャンルの名称で一番しっくりします。

 スランプで何も手につかない、ということは、私はほとんどありません。まあ、素人ですから、私が書かないと誰かが困るということもなくずっとやってきました。一日のうち、最低でも日記が書けていれば、まあいいかな、程度の心構えです。
 ただ、その日その日は深刻にはならないのですが、何年も経ってから振り返ってみると、ああ、あのころはスランプだったんだ、と気付くことは多いです。
 多忙を理由に作品といえるものを数年の間ほとんど創れなかったり、がむしゃらに書いてはいてもことごとく極限近い愚作だったり。
 ・・・鈍感なだけかもしれませんし、ちゃんと論評してくれる人がいなかった、つまり孤独だったということかもしれません。

 スランプにはいくつかの種類がありそうですね。
 一つは、「枯渇」ですか。
 書くべきものが内側に無いのに、無理に文字を並べている。小説という形にだけは仕上げている。自己満足ならこれでもいいでしょうが、もし全くの孤独ではなく、これを読まされる人がいるとしたらたまらないでしょうね。
 また、一つは、「高望み」ですか。
 そこまでの力がないのに、挑みかかってずり落ちている。棒高跳びの初心者が、いきなり世界記録のバーを越えようとするようなもので、息切れして放り投げるのは時間の問題でしょう。あるいは自己催眠で、そのバーを越えたのだと決める、とか。
 それから、「自己模倣」というのもありますか。
 いわゆる、マンネリで、過去にうまく書けた作品、人からほめられたパターンを、何度もなぞる。自分では少しずつ工夫を加えて伸びていっているつもりでも、客観的に見れば、輝きが徐々にすり減っているだけ。狭い枠の中をいきつもどりつしているだけ。最悪、ギャラリーに誰もいなくなるまで、気付かないなどということも。

 他にもあるでしょうが、こういうよくない状態を自覚さえできれば、少なくともじたばたができますよね。私は、「じたばた」は大切だと思います。
 ああでもないこうでもないと苦しんだり、滅茶苦茶にはしったり、遊びほうけたり、あるいは、閉じこもったり、そういうのですが。
 誰が見ても、自分でも、停滞、後退以外の何物でもないときでも、「じたばた」しているあいだというのはきっと、内なる力が蓄えられているときでは、と思います。
 この力がある限界を超えると、ひらめいたり、さとったり、ということで、突き破って現われてくる。

 まとめますと、「じたばた」しながら「現われる」時を待つ。
 これですか、私がもしスランプに陥ったと自覚できたときの対処は。
 おそまつでした。


 でも、考えようによっては、「じたばた」すらしなくてもいいのかもしれない。
 あきらめて、忘れてしまう、というのも有りですか。
 運がよければ、体調、心情、生活環境、題材との巡り合い、そんなものが、たまたま具合よく流れにのれば、また芽生えてくることもあるでしょうから。
 若いときのように、焦って摘み取って味見してしまうこともなく、楽しみいつくしみながら眺めていることができるかもしれない。
 たわわに実ったら、ではいただきましょう、 ・・・これが、一番幸福かなあ。


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