Ex-Terran

UFO ディスクロージャー プロジェクト

イントロダクション

「2001年、ナショナル・プレス・クラブでの記者会見」

これは、2001年5月9日、米国の首都ワシントンにあるナショナル・プレス・クラブで20余人の、UFOとET(Extra-Terrestrial:異星人)に関する直接体験をした証人を集め、政界人や世界の著名なメディアの参加のもとで、CシーSETIセティが「秘密公開」に向けて行った記者会見を録画したビデオである。

ジョン・サイファー 俳優

何年も前、偉大な映画俳優、ジミー・キャグニーが舞台に立っているとき、同じ舞台に立つ女優が役から降ろされそうになりました。キャグニーは監督に、その女優と話をさせてくれと頼み、彼女に言いました。「とても簡単だよ。部屋に入って足をしっかり地面に据えて。目をまっすぐ見つめて真実を言うんだ。」

テレビドラマ「X-ファイル」のサブタイトルは「真実はそこにある」です。まさにその通りです。私はこれを「真実はここにある」と言い換えようと思います。

これからあなたがたは、真実と対面しようとしています。私は俳優のジョン・サイファーです。7年間、ドアを通り続け、足をしっかり地面に据えて、テレビドラマ「ヒルサイド・ブルース」ではダニエル監督署長として、また、大ヒットした人気ドラマ「メジャー・ダッド」ではクレイグ大将として、真実を語るようにしてきました。2年間はドラマ「ダイナスティ」に、1年は「ノットランディング」に費やしました。昼のメロドラマ5本、ブロードウェイミュージカル10本、そして20の映画に出演しました。

素晴らしいブロードウェイミュージカル「ラ・マンチャの男」では、リチャード・カーリーの代役を務めました。そのなかで私は、「実現不可能な夢を見ろ、無敵の敵に立ち向かい、耐え難い悲しみに耐え、勇気さえ足を踏み入れないところに向かって走っていくために」と歌いました。

私は今日、ホストのスティーブン・グリア博士を紹介するために来ました。博士は、勇気ある者さえ足を運ばないところに向かってがむしゃらに突っ走っています。彼は緊急医療室の医師で、ノースカロライナ州の有名な病院の緊急病連課長でした。

3年前、奥さんと4人の娘さんを前にして言われました。「これまで7年間、片手間に真実を追求してきたけど、これからは本職としてやっていくよ。」博士は真実を追求するために高収入の職業から身を引かれました。

私はいつも、ハムレットがホレーショに言った台詞を思い出します。「ホレーショ、君の夢見る哲学なんかより、天国と地獄の間にあるこの地上には、よっぽど色々なことがあるよ。」

今から紹介する人は、「私たちが受け入れてきたことよりも、色々なことが、この地上に存在する。そして、私にはそれを証明する目撃者と書類がある」と言える人です。

それではみなさん、スティーブン・グリア博士です。

スティーブン・グリア博士の説明

スティーブン・グリア CSETI創始者 医学博士

ありがとう。ジョン。記者のみなさん。アメリカ国民のみなさん。そして世界のかたがた。今日私たちは、今まで50年ものあいだ、馬鹿にされ、疑問に思われ、否定され続けてきた問題の真実を明かすために、ここにいます。今日ここにいる人たちと、それに加え、350人以上の軍事、諜報機関のいわゆるUFO、宇宙人の目撃者たちは、この宇宙に存在するのは私たちだけではないということを証明します。

今日ここにいるサラ・マクレンドンに感謝します。彼女はホワイトハウスの記者で、今日の主催者です。ありがとう、サラ。

1993年に、私はこのプロジェクトの軍事関連のアドバイザーとバージニア州の田舎町で出会い、一般市民と軍事、諜報部員、そしてほかの人々が一緒になって、UFO問題の真実について明かす時が来たという意見で一致しました。

その後、私はクリントン政権の最初のCIA長官だった、ジェームズ・ウールシー氏と個人的に会見し、また国防諜報部長、諜報参謀長、上院諜報員会のメンバー、多くの国会議員、ヨーロッパの閣僚たち、日本の国会議員や、世界の人たちと会って話をしてきました。

誰もがUFOの存在については驚きませんでしたが、みな一様に、UFOプロジェクトにアクセスできないことについて恐れていました。私たちが身元を確認した現時点で400人以上にものぼる証人たちは、CIA、NSA(National Security Agency, 国家安全保障局)、NRO(National Reconaissance Organization, 国家偵察局)の職員、空軍、海軍、海兵隊、陸軍の隊員と、あらゆる分野での諜報機関部員、軍の機関職員、また、会社員、政府の請負企業の会社員で構成され、彼らを通して、この問題を確証できます。

彼らは闇の予算や極秘の未確認のプロジェクトに参加してきた人たちです。これらの未確認の特別プロジェクトは1年に、少なくとも400億から800億ドルを費やし、永久に世界を変えることのできる技術の上に腰を下ろしているのです。

私たちが今、公然と現れた理由は、アメリカ国会とブッシュ大統領に、この問題に関して公式な調査と公表を促してもらいたいからです。この課題は人類の未来、アメリカの国家安全保障、そして、世界平和に密接な関係があります。

特にUFOと地球外飛行物体に関する技術は、一般に公開され、それが平和的なエネルギー生産と推進に利用されれば、深刻なエネルギー危機問題を解決することができ、また地球の温暖化に終止符を打ち、今、地球が直面している環境問題を改善することができるのです。

また、私たちは社会共同体として、宇宙に武器を配置することの妥当性について討議し始めることが必要です。もし私たちだけが宇宙に存在しているのではなく、ほかの文明と領地を共有していることが証明できれば、宇宙に武器を配置することは無分別なことで、状況を不安定にしかねません。

この問題は、アメリカ国内と国際社会にとって認識の範囲外だったので、議論されてきませんでした。ですから、この問題を認識の範囲内におくことが必要なのであって、そのために、私たちは今日ここにいるのです。

私たちはUFOが時速何千マイルのスピードで飛び、停止し、そして右に曲がったのをレーダーが捉えたことを証言することによって、この問題を確証することができます。それらの飛行物体は反重力推進方式を使って動きます。この方式はすでにアメリカ、イギリスやほかの国々での機密プロジェクトでどのように作動するのか研究され、解明されています。

UFOは地球にすでに着陸しており、特にアメリカのチームによって撃墜され、また回収されてきました。そして少なくとも50年ものあいだ、異星人も回収され、彼らの飛行物体は没収され徹底的に研究されてきました。

私たちは、今日公開する証言と書類によって、私たちが知っている限り、少なくとも2代にわたる大統領の政権によって、この議題が議会のメンバーから隠されてきたことを証明できます。合衆国憲法は、これらの機密プロジェクトの増大する権力によって堕落させられてきました。これは国家の安全保障にとって非常に危険なことです。ここで強調したいのは、異星人たちが私たちに対して敵意を持っているという証拠はどこにもないということです。

ところが、異星人が私たちの敵意を懸念しているという証拠はたくさんあります。彼らが私たちの大陸間弾道ミサイルを作動不可能にしたり、発射能力を鈍らせたりしたこともあります。今日、証言者たちがこれらの出来事についてお話します。

ETは私たちに、宇宙に兵器を配備してほしくないということを明らかに示してきました。しかしながら、私たちは危険な道を推し進めています。国会と大統領、そして国際社会によって管理されてこなかったので、この問題は国家の安全保障を脅かすものになってきました。だから私たちは、事実を明らかにしなければならないと感じているのです。

これが「秘密暴露のキャンペーン(ディスクロージャー・プロジェクト)」の始まりです。先週ブッシュ大統領に渡したメモに、私は、私たちの目的が達せられるまで、このキャンペーンは続けると書きました。

そしてその目的とは、UFO問題についてアメリカ議会で率直で公正な公聴会を持つこと。恒久的な宇宙への武器配備の廃止と、すべての地球外物体への攻撃の禁止。これ以上の環境破壊を防ぐのに間に合うように石油の使用を撤廃し、また、今後10年間に確実に起こるはずのエネルギー危機戦争を防ぐために、どのようにして、このUFOに関する技術を明らかにし、そしてそれを使ってどのように平和的にエネルギー生産ができるかについての十分な研究をすること。これは最も緊急な事項です。

もちろん今まで、UFO問題は馬鹿にされ続けていました。私は、緑色の小人について記事を書きたがる多くのメディアの人々を知っています。しかし実際はUFO問題が笑われるのは、それが大変重要だからです。

私はペンタゴン(アメリカ国防総省)や議会のメンバーである大の大人たちが、泣いてこういうのを聞いてきました。「いったい私たちはどうしたらいいんだ」と。私たちは、この問題が正当に世間に明らかにされるのを見届けます。

私たちがすでにビデオでインタビューした、100人以上もの人々なかの、勇気ある最初の21人の証人たちが前に出て、真実を語ります。人々は懐疑的な目で見ると思いますが、無分別にそうするとは思いません。なぜなら、この証人たちは信用に値し、自分たちが何者であるかを証明でき、また、人類にとって最も重要な出来事の第一目撃者だからです。

彼らの何人かはアメリカで核兵器の扱いを指揮し、国家の安全保障についてのすべてにおいて多大な信用を得てきた人たちです。私たちは今、彼らの言葉を信用しなければなりません。

バチカン市国のバルドゥチ司祭は最近のインタビューでこう答えました。「この目撃者たちの証言を受け入れないのは愚かなことだ」と。疑問に思うのは結構です。でも、偏見を持って見たり、頭でっかちな態度でこれに対応したりするのは見当違いです。これはとても重要な問題なのです。

メディア、科学学会、そして政府の官僚たちがこの問題を真剣に受け取り、人類と私たちの子供たちにとって正しい行動をとってほしいのです。

私たちは何十人もの最高機密の目撃者たちの500ページ近い書類と証言のコピー、そして4時間にまとめたビデオを、メディアと国会のメンバーのために用意しています。このビデオは商用ではなく、私たちがインタビューした120時間にわたるビデオを4時間にまとめたもので、メディアと国会議員の人たちに見てもらうために用意したものです。私はこの問題が真実で、人類の未来にとって非常に重要だということを確証できます。

今、これを聞いているすべての人々にお願いします。議会のメンバー、世界の国々のリーダーたちにコンタクトを取り、この問題について率直な調査を行うように、また私たちはほかの生物と宇宙を共有しているので、宇宙兵器の廃止を支持するよう頼んでください。そして、これが人類の子供時代の終わりだということを理解してください。今こそ、私たちが宇宙文明の一員である大人に成長するときなのです。

そのためには、私たちは平和的な文明にならなければならず、宇宙に進出するのは辺境に兵器を配置する目的ではなく、ほかの文明と協力していく意図のもとでなければなりません。

証言者の話は、あなたがたの向かって左側から順番に始めます。彼らが自己紹介し、どんな政府や軍の仕事に従事し、何を個人的に体験したかを話すまで、質問はしないでください。

会の終わりに、会場が閉まるまですべての質問を受け付けますし、あなたがたが必要なすべての情報を提供します。それでは最初の証人から始めます。ジョン・キャラハン氏です。

ジョン・キャラハン
(元アメリカ連邦航空局職員)

証言者たち

ジョン・キャラハン

Mr. John Callahan: FAA Head of Accidents and Investigations

私は退職したFAA(米国連邦航空局)の職員で、ジョン・キャラハンといいます。「ワシントンDC事故評価・調査部局」の局長をしていました。

退職する2年ほど前、アラスカ局から「メディアに何と言って伝えたらいいのか?」という電話を受けました。私が「マスコミに何を伝えるって?」と聞き返すと彼は、「UFOについてです」と答えました。事態はこれから悪化していきました。「UFOだって?」と私は言い、そのころすべての政府職員が言っていたのと同じように、「調査中だ」と答えました。

)それから私はアトランティックシティのFAAの技術センターにすべてのデータを送らねばならず、私の直属の上司と軍務長と一緒に、その翌日アトランティックシティに出かけました。私はビデオカメラを購入したばかりで、その出来事をビデオに録画しました。私たちはアトランティックシティで、パイロットと管制塔員が見た通りのものを彼ら(Plenned View Display)に再生させました。そして、管制塔員が言った言葉と彼が聞いたことを映像と同時に聞けるように、彼の声が入ったカセットテープとビデオを同時に流しました。そして、私たちはそれを録画しました。

次の日ワシントンDCに戻り、管理者のエンゲン海軍将官にことの次第を報告しました。彼は5分間ですべてを報告するように言いました。私たちが報告をし始めると、彼は録画したビデオを見ることができるかどうかを知りたがりました。私たちはビデオを再生し、彼はそのすべてを見ました。

その次の日、エンゲン海軍将官はレーガン大統領の科学スタッフと、彼らが連れてきたほかの人々へ手の込んだプレゼンテーションをするために、ミーティングを設定しました。そして、すべてのデータを渡すために、その朝9時か10時ごろ、FAAの会議室で3人のCIA職員と3人のFBI職員と、あとはよく覚えていないほかの誰かに対して、私と私の連れてきたFAAの専門家たちとともに、プレゼンテーションを行いました。私たちは彼らにすべてのデータと、ビデオとコンピュータのプリントアウトを見せました。

彼らは一様に興奮していましたが、すべてが終了したとき、CIA職員の一人が「私たちは秘密を誓わなければならない。そして、このミーティングは開かれなかったし、この事件は起こらなかったことにするように」と全員に言いました。私は「なぜですか?」と尋ねました。その時点で、その物体は単なる秘密の爆撃機と思っていたからです。彼は、「これはUFOがレーダーに記録された最初の事件だ」と言いました。それを聞いて、そこにいた人たちは色めきたちました。そして私が「一般にこのことを公表しますか?」と聞くと、彼は「いや、一般市民には伝えない。パニックになるからだ。私たちはデータを持ち帰って研究する」と言いました。そして私は、「そうか、彼らはそうするのだ」と思いました。

私はこの話を色々な人に何度もしてきましたが、ときどき人々は怪訝な顔をします。

私はこのことに関わった管制塔員の声が録音された、FAAのオリジナルテープを持っています。大統領のスタッフにこの件を引き渡してから、FAAはこのことについてどうすればいいか、わからなかったのです。FAAはUFOと飛行機との区別をつけないので、これは私たちの仕事の範囲内ではありませんでした。

私は、かなり興味深いオリジナル・ビデオのコピーを持っています。すべての報告が終わったあと、私のオフィスには多くの報告書が入ってきました。これはFAAの仕事の範囲外だったので、報告書は私の机の上にくる羽目になったのです。その報告書は、私が退職し、スタッフが私の荷物をまとめ、私の家に運び込むのを手伝ってくれる日まで、私のオフィスの机の上に山積みになっていました。

また2、3日前、1992年の私の税金還付用紙と一緒に、レーダーターゲット(目標物)のUFOのコンピュータ・データを出力したものを、箱の中に見つけました。その時にレーダーが捉えたすべての目標物(UFO)を見たいのであれば、ここにあるプリントアウトをもとにして、再生することができます。そしてこれは、「UFO事件、日本1648号」と呼ばれるものです。これは1986年11月18日に起きました。

私は議会で、ここで私がお話したことと、ここにあるすべての証拠は、真実だと誓うつもりです。ありがとうございました。

チャールズ・L・ブラウン(元アメリカ空軍中佐)

Lt. Col. Charles Brown: US Air Force(Ret.)

おはようございます。すみません、少し緊張していて。私はチャールズ・L・ブラウンといって、7年間の海外任務のあと、退役した空軍中佐です。私は自分の名前を気に入っています。というのも、スヌーピーの漫画でチャールズ・シュルツ氏が、この名前を有名にしてくれたからです。

第二次世界大戦中、私はウェストバージニアの若い農夫でしたが、愛国心に目覚めてアメリカ陸軍に入り、ヨーロッパで爆撃機を操縦する羽目になり、戦争が終わるとき、太平洋で輸送をしていました。

1949年の夏の終わりに大学を卒業し、新しく設立されたアメリカ空軍に召還され、特別調査室という組織に任務を与えられました。大概のかたがたはご存じだと思いますが、アメリカ空軍は1947年に結成されました。特別調査室はアメリカ空軍のなかで中心の調査室で、私の記憶では1948年に作られました。ですから、比較的すべてが新しかったのです。

言うまでもなく、1947年に始まったUFO問題はかなり新しい事項でした。空軍技術諜報センターはライトパターソン空軍基地にあって、私のオフィスの隣のビルにありました。私の所属する特別調査室は、空軍におけるUFOについての世界的な調査局でした。これは2年ほど続きました。そしてプロジェクトの名前は、「プロジェクト・グラッジ(Project grudge)」といいました。これはエド・ルペルト率いる「プロジェクト・ブルーブック」の前の形でした。

私はデータを集め――私が集めようとしたわけではありません――データは私のオフィスに送られました。私はそれを分析しました。私はパイロット調査官だったので、空軍技術調査員の人々にアドバイスをすることができました。とても大きなオフィスを想像なさるかもしれませんが、私が思い出す限りでは、中尉と秘書と技術下士官だけで構成されていました。

これらの様々な文書報告を分析していくうちに、私は、これらの報告書の中には何らかの真実があると、はっきり確信するようになりました。地上有視界、地上レーダー、空輸有視界、空輸レーダーで、これらのUFO目撃が確認されています。目撃者たちは、民間航空機パイロット、軍事機パイロット、警官やその他の、私たちが日常生活において頼りにしている人々でした。そして彼らは尊敬すべき、信用に値する人々なのです。

私はここで、ほかの信用できる人々の証言があなたがたを納得させ、グリア博士のディスクロージャー・プロジェクトを進めていくことを願っています。このプロジェクトには、アメリカ国民だけでなく世界中の人々の関心を集めるために、後押しが必要なのです。

異星人の宇宙船は世界中で目撃され、確認されています。私は喜んで誓いの声明にサインしますし、私の判断と私が観察したことを、証言します。

どうか私が言ったことと、ほかの証言者たちの言うことを、信じてください。ありがとうございました。

マイケル・スミス(元アメリカ空軍管制官)

Mr. Michael Smith: US Air Force Rader Controller

私はマイケル・スミスです。1967年から1973年まで、私は空軍の下士官で、任務は航空機管制官と警告オペレーターでした。

1970年にオレゴン州クラマスフォールで任務中のことでした。私がレーダー室に着くと、そこにいる人々は約8万フィート上空を旋回していたUFOが、レーダーに映っているのを見ていました。UFOは約10分ほど静止していましたが、その後ゆっくりとレーダーから外れるまで下降していきました。そして5分から10分間レーダーから消えていましたが、その直後、再度8万フィート上空に現れ、停止しました。次にレーダーに入ったのは200マイル先で、静止状態でした。10分ほど旋回し、そしてもう2度、同じことを繰り返しました。

私はUFOを目撃したときに、通常するべきことを学びました。それはまず、NORAD(北米防空軍)に報告し、このことについて、何も書類を書き残さないで自分のなかに収めておく、ということでした。このことは必要な者だけが知るべきだったのです。

NORAD(北米防空軍)はその後、同じ年のある夜に、UFOがカリフォルニアの海岸線上に現れたと電話で知らせてきました。私は彼らに、このことについて何かするべきことはないか、と聞くと、彼らは何もないと答え、「何も書き留めなくていい、ただの警戒報告だから」と言いました。

そして1972年の後半に、ミシガン州の753レーダー飛行中隊に駐在中、非常に狼狽した二人の警官から電話を受けました。彼らは高速75号線に沿うマッキナウ橋から3機のUFOを追跡しているところでした。すぐに私はレーダーをチェックし、そのUFOがレーダーに映っているのを確認したあと、NORADに電話しました。NORADの人たちはそのころ2機のB52が、キンチェロー空軍基地に向かっていたので心配していました。彼らはUFOがB52に接近してほしくなくて、B52の進路を転換させました。

その夜私は警察、保安庁とそのスタッフから多くの電話を受けましたが、私の応答は「レーダーには何も映っていませんでした」でした。私は議会の公聴会で、このことを証言します。

エンリケ・コルベック(メキシコ国際空港管制塔員)

Mr. Enrique Kolbeck Senior Air Rraffic Controller

おはようございます。私の名前はエンリケ・コルベックといい、航空運輸の管制塔員をしています。

英語があまり上手でなくてすみません。大勢の前で話すのに慣れていないので、とても緊張しています。私は証人としてここに来ていて、いまから、私の仕事についてお話ししたいと思います。私はメキシコ市のメキシコ国際空港でレーダー管制塔員として働いています。

それでは、メキシコで数年にわたって起きたUFO目撃事件について、例を挙げたいと思います。不幸にも、私の国ではUFO事件が多く起こっています。

たとえば、1992年の3月4日、私たちは国際空港から15マイル以内の距離にある、トルカ空港の西側で15機の飛行物体をレーダーに捉えました。それから1994年の7月28日、国内線エアロメキシコ129便とUFOとの、ほとんど衝突事故ともいえるほどの事件がありました。パイロットのレムンド・セルバンテス・ブルーノは、着陸ギアのすぐ左側から、激しく何かが砕けるような音がするのを聞きました。それは、だいたい夜10時半ごろのことでした。

そして次の週、朝の11時30分にコルソ機長が操縦するエアロメキシコ904便が、危うくUFOに衝突するところでした。私たちは突然、その物体を一瞬だけレーダーに捉えました。

さらにその次の週には、それぞれ違った時間帯に、矢のように飛ぶ光を見たという、航空機パイロットたちからの多くの目撃報告を受けました。私たちはその週、そのいくつかをレーダーで捉えていました。

1994年9月15日には、約5時間ものあいだ、新しいレーダー装置のモニターに、ある物体を捉え続けました。私たちは、その装置が正しく作動していないからだと思っていました。というのも、同じ物体が静止したまま、5時間もレーダーに映り続けることは、普通ではないからです。技術者によれば、そのレーダー装置にはどこにも問題がないということでした。とても驚き、興奮する出来事でした。

次の日、ジェイミー・モーサンというメキシコのUFO目撃事件を調査しているセラピストから情報を受けたとき、私たちは驚きました。彼によれば、トルカ空港の南西の地点で多くの人々が直径15メートルもの、巨大なUFOを目撃したということです。UFOは痕跡を地面に残しました。そして1994年11月24日、私たちは公式に、新しいレーダーシステムを導入しました。この時点で私たちは、パイロットがUFOを目撃したのと同時に、レーダーに目標物を確認することができるようになりました。

そういうわけで、わたしはここにいます。わが国では、この問題はとても危険だと考えています。もっと多くのケースがありますが、これ以上時間を割きたくありません。これらの出来事は、とくに私の国では、航空管制上とても危険だということを、世界中の人々が知ることは、とても重要なことです。

なぜメキシコにUFOがよく現れるのかわかりませんが、私が言いたいのは、UFOは出現していて、それはとても危険な問題だということです。一般の人たちは不幸にも、このことを知らされていません。しかし私たちにはこれ以上、UFO事件が起こってほしくないのです。

ありがとうございました。英語が下手で、失礼しました。

グラハム・ベスーン(元アメリカ空軍中佐)

Commander Graham Bethune US Navy (Ret.)

私はグラハム・ベスーンといいます。退役した海軍中佐パイロットで、最高機密へのアクセス許可証を持っていました。

50年前の1951年2月10日、私の操縦する機は、アイスランドからニューファンドランドのアルジェンティアに向かって飛行していました。夜間で、辺りはとても暗かったです。アルジェンティアの300マイルほどの地点で、私は、何か光るものが街に近づいているのを海上に見つけました。私たちがこの光る物体に近づくと、それは巨大な、水に映る丸い白い光へと姿を変えました。

この光を観察していると、しばらくしてそれは消え、海には何も見えなくなりました。次に私たちが見たものは、もとの白い光よりもっと小さな黄色の光の輪でした。その光輪は私たちから15マイルほど先にありました。そして、急に海面から私たちと同じ高度へ向かって上昇してきました。ヒュッ!と。

その光輪を避けるため、私は自動操縦装置を解除し、この光の下すれすれに、何とか潜り込もうとしました。そのとき下のほうで物音がするのが聞こえ、私は、その光る物体が私たちの機にぶつかったのだと思いました。しかし実際は、何人かの乗組員が突っ込んで、交互にぶつかった音でした。

その光は私たちの右側に現れ、ゆっくりと動き、私たちと一緒に飛行しました。その光はまだ、私たちの高度まで達していませんでしたが、私はその形を見ることができました。ドームがあり、かんむりから光を発していました。

私はもう一度、パイロットのアル・ジョーンズに操縦を任せ、客席の様子を見に行きました。コックピットに戻り、私は皆にこのことについて誰にも報告しないように言いました。乗っていた心理学者が、「たぶん彼らは私たちを監禁するだろう」と言ったからです。

コックピットの機械には、コンパスの系統で基本的に4つか5つのトラブルが起こりました。方位ファインダーとこの種の計器類に関しては、電磁波の影響があるからです。レーダーによれば、UFOは時速1,800マイル以上で飛行しているということでした。しかし、私たちの高度には達しませんでした。

31人の乗客と心理学者が一人、そして乗組員全員が、様々な方向に、このUFOを目撃しました。ニューファンドランドのアルジェンティアに着いたとき、空軍のポールソン大尉から質問を受けました。パトゥックセット川の海軍エアーテストセンターに着陸したときは、空軍の諜報部員からここに報告を提出するように要求されました。

私は国の公的記録により、18ページの海軍と空軍の報告書類を持っています。私は真実を語るために、報告書を作りました。このことについて書かれている書類がこれだけの量に上ります。私は国会で、私が言ったことがすべて真実であると証言します。

ダン・ウィリス(元アメリカ海軍)

Mr. Dan Willis US Navy

私はダン・ウィリスといい、アメリカ合衆国海軍に所属していました。当時、私は最高機密レベル14、特別物質取扱い許可証を所持し、サンフランシスコの海軍駐屯地通信室で働いていました。

1969年に、私はアラスカ近くにいた船から、機密扱いになっていた重要メッセージを受け取りました。それは、湾の湾曲部近くの海から、明るく光る赤っぽいオレンジ色の、直径約70フィートの楕円形の物体が出現したという報告でした。その物体は海の中から突如現れ、空に飛び出し、時速約7,000マイルのスピードで飛行していきました。これは、船のレーダーで探知され、確認されました。

それから何年もあと、私は13年間サンディエゴの海軍電気工学センターで勤務しました。そこで一緒だった私の同僚は、NORAD(北米防空軍)で働いたとことがありました。彼がNORADの施設で働き始めたある日、宇宙と空中に行き交うすべての飛行物を探知するスクリーン上に、ある物体が映っているのに気づきました。その物体は信じられないような動きをし、右に直角に曲がりました。彼がその物体について尋ねたとき、「それは、私たちの小さな友人たちが訪問しているだけのことだ」と年上の上司が言いました。これは少し異例の出来事でした。

これらの供述は真実であり、私は喜んで議会の前で証言するつもりです。ありがとうございました。

ドン・フィリップス(元アメリカ空軍 CIA請負業)

Mr. Don Phillips: Lockheed Skunkworks, and CIA Contractor

私はドン・フィリップスといいます。アメリカ合衆国空軍に所属し、政府のある諜報機関とともに働いていました。空軍に入る大学在学中、設計工学者として、有名なロッキード・スカンク・ワークス(戦闘機プロジェクト)で働きました。

ケリー・ジョンソンという人と仕事をしたときは、私の人生の中で、最も誇りの持てる時期の一つでした。皆様にも、それはわかっていただけると思います。私たちが組み立てていた飛行機のモデルはすべて機密扱いで、ディープブラック(闇)の部類でした。

私が参加したのは、U-2プロジェクトの終わりごろでした。私の関わった主なプロジェクトは、のちにSR-71と呼ばれていました。SR-71には前の型があり、CIAのために独自に作られたモデルでした。そのモデルは乗客一人、パイロット一人用の特別な航空機で、一つの場所からほかの場所へ、大変速く移動することができました。

現在、私たちの知っているSR-71はブラックバードと呼ばれ、その飛行速度と、保持するスピードの記録に関しては、いまだに機密扱いになっています。わたしは、この航空機が冷戦の終焉に大きな役割を果たしたと誇りを持って言えます。

その前の型の航空機は、おそらく空中に出ると違った役割を果たしたという、強力な証拠を示しています。パイロットたちは――私も何人か知っているのですが――離陸する前に任務を割り当てられました。彼らは離陸直前まで、その任務について知らされませんでした。そして、その任務には二重の役目があったという確かな証拠があります。彼らは、地球から出るものと入ってくるものの、何らかの交通量を監視していました。

これはあとから証言することにして、私の軍での体験をお話しします。私の空軍での最初の駐屯地は、ラスベガス空軍ステーションでした。ラスベガスでの私の最初の体験で、私には、なぜ人々がこのような場所に好んで来るのか理解できませんでした。しかし、1年後にそれがわかりました。ネリス空軍基地があったからです。

ネリス空軍基地は特別航空機と戦闘機の主な訓練地の一つで、世界中のパイロットが集まってくる訓練地だったのです。しかし、私の任務地は50マイルほど街中から離れたチャールストン山の近くのレーダーサイト基地だと知ったとき、私には、どのように行けばいいのか全く見当がつきませんでした。何とか日中の光で場所がわかり、任務に就いた報告をしました。それは1965年のことでした。

1966年のある深夜、1時から2時のあいだに、私は基地のなかの8,000フィートほどのところにある兵舎で寝ていました。誰かが大騒ぎしている声が聞こえました。標高が高いので、音はとてもよく響きます。私は、夏だから暖かいし、起きて見に行くべきだと思いました。本当はそうしたくなかったのですが、私のオフィス近くの道を出て、指揮官の部屋に行きました。その部屋には指揮官のスタッフがいました。指揮官はチャールズ・エバンス中佐です。

私は、誰がこのような騒音を立てているのかわかりませんでした。誰がこんな深夜に大騒ぎしているんだろう。私が4、5人の人たちが立っているところの50ヤードまで近づいたとき――そのなかの一人はセキュリティ・チーフでしたが――全員が同じ方向の空を見上げているのに気づきました。私も西北西に目を向けると、驚いたことに空に光が点滅していて、その光は、時速2,400から3,800マイルのスピードで動いていました。私たちが遠距離から見当をつけただけでも、これは凄いことでした。

引き続き、これらの矢のように飛ぶ光を見続けると、光は空を横断したあと、停止しました。全くの停止状態になり、そして鋭角に反対側に方向を変えて飛んでいきました。その光はとても速く飛んでいたので、空に跡が残ったように見えました。コンピュータを使う人にはわかってもらえると思いますが、マウスをモニター上で素早く動かすと、尾のようなものが見えます。それは、まさしくこの6機か7機の飛行物体に起こったことでした。

5分間ほどこれを観察していると、飛行物体は西北西の方向で一緒になり、円形を作りました。私が強調したいことは、これらのUFOは、「エリア51」として知られた場所のすぐ東側の位置の、私たちから見て北北西の方向で円形を作ったということです。

エリア51はAEC(原子力委員会)のもとの名前でした。私たちは、空軍のグルームレイク飛行テスト施設として知っていました。スカンク・ワーク・プロジェクトで原型の航空機を製造したあと、そこでテストをしたのです。

さて、話をUFOが作った円形に戻しましょう。UFOは一つに合体し、そして円状に回り、そして消えました。私は、これは秘密にしておかなければならない事件だと思いました。それは、セキュリティ・チーフからも証明されました。私たちはそこで待ち、おそらく1時間くらいはそれについてしゃべったと思います。

それから、高度1万フィート以上にあるスコープのレーダー監視者たちが来ました。彼らは深夜2時に来たのです。バスから初めに降りた人は、アンソニー・ケイサーという私の親しい友人でした。彼はベッドのシーツのように白くなっていました。彼は私に言いました。「あれを見たか?」そして私たちは全員「ああ。いい見せ物だったな、いいショーだった」と答えました。

彼は「私たちはレーダーで証拠を捉えたけど、機密扱いにはしなかったよ。飛ばせとけっていう、軍の命令だった。6つから7つのUFOを確認した」と言いました。

誰があれを操っていたのか知りませんが、明らかに頭のいいやつでしょう。それらのUFOは一つに合体して消えてしまったから、どこに着陸したかはわかりません。

ということで、この時点で私の言いたいことを一言でいえば、私は、いま私の言ったことが真実であると議会で証言します。ありがとうございました。

ロバート・サラス(元アメリカ空軍大尉)

Captain Robert Salas

私はロバート・サラスです。履歴書に書いてあることに反しますが、私は空軍で大佐ではありませんでした。空軍士官学校を卒業したあと、1964年から1971年まで空軍に所属し、退役したときは空軍大尉でした。

1967年の3月、モンタナ州にあるマルストラム空軍基地で、ミニットマンミサイル打ち上げ将校として任務についていました。1967年3月16日の早朝、階上の第一警備兵から連絡がありました。そのとき、約6人の安全警備兵いたのを覚えています。私は60フィート地下にある階下のカプセルのなかにいて、先端に核兵器が搭載された10基のミニットマンミサイルを監視、管理していました。

私はその日の朝、警備兵から空に妙な光が飛んでいるという報告を受けました。私はその連絡を無視し、もっと重要なことが起こったらまた知らせるように、と言いました。

私が次に連絡を受けたとき、その警備兵の声のトーンは違っていました。彼は明らかに怯えていて、「とても明るい赤い物体が、正面の門の外側を旋回していて、それは楕円形でした」と言いました。彼はほかの全員の警備兵に武器を取らせました。

私はすぐに、睡眠中だった私の指揮官で、現在は引退したフレッド・マイワルド大尉を起こし、私は大尉にその連絡の内容を伝えました。私が説明していると、ミサイルが次々と発射不能状態になりました。2度目の連絡を受けてからほんの数分間、UFOが正門の外を旋回しているあいだに、6基から8基のミサイルが稼働不能になりました。

そして同じ日の朝、指揮官に報告したあと、私たちは大変似た事件がエコー飛行隊でも起こったと知らされました。私はオスカー飛行隊でした。エコー飛行隊でもUFOがミサイル発射施設で目撃され、彼らの10基すべての核ミサイルが制御不能になりました。整備工と警備兵がそこにいて夜を過ごし、UFOを目撃したと報告しています。エコー飛行隊の指揮官は、いまは退役しているエリック・カールソン大尉でした。

私たちにはこれらの証人がおり、いま挙げた人たちはこの事件について以前に語っており、私の話を支持するでしょう。私はまた、空軍からの要請でFOA(情報公開条例)から受け取った証拠文書も持っています。それにはエコー飛行隊の事件の概要と、UFOに言及している文書も含まれています。

また、この事件のことを述べているテレックスも持っています。そして、そのなかの一つには、「10基のミサイルを失ったのに、明確な理由がまったくわからないということは、この司令部にとって重大な関心事である」と書いてあります。これはSAC(戦略空軍司令部)の司令官からです。

私たちにはこれらのテレックスがあり、約12人の目撃者がいます。そして、そのなかにはこの話の一部を証言できる、空軍の依頼でこの事件を調査した人もいます。次の証人も、このことについて少し触れると思います。

そしてまた、同じときにUFOを目撃したほかの警備兵もいますし、ほかのUFOを報告した、いまは大佐として退役している将校もいます。

それに付随して私は、1966年8月にノースダコタのマイノット空軍基地で起きた、とても似た事件の完全な報告書も手に入れました。これは、私たちの事件が起きた日から1週間以内に起きたもので、ミサイル地下格納庫の上でUFOが目撃され、空軍が調査したという、私たちの事件に酷似したUFO事件です。

私は、いま言ったすべての事件の真実を、喜んで議会で証言します。ありがとうございました。

ドゥウェイン・アーネソン(元アメリカ空軍大尉)

Lt. Colonel Dwyne Arnesson US Air Force (Ret.)

おはようございます。私はドゥウェイン・アーネソンといいます。26年間ベトナムを含む世界中で、アメリカ合衆国空軍の情報電気将校として働きました。

私は運よく、3つの異なる空軍の部隊で、指揮官として選ばれました。最高機密SCI(特別区分情報)の許可証を持っていて、このことを知らない人のために言いますが、これは最高機密(トップシークレット)のさらに少し上を行くものです。私は1986年にオハイオ州にあるライトパターソン空軍基地で、大尉として退役しました。

それでは、UFOに関連した3つの異なる経験をお話しします。

1960年代前半、ドイツのラムスタイン空軍基地で、若い中尉として私は暗号センターを管理していました。私は最高機密許可証を所持していました。私は暗号センターに入ってきたメッセージのことを、とても鮮明に覚えています。それは、「1機のUFOがノルウェーのスピッツバーグに墜落した。科学者チームが調査に来ている」というものでした。

時間的に進んで、1967年、私がモンタナ州のグレートフォールにある第28空軍隊で任務に就いていたときのことです。私は、そこの情報センターを監督する将校でした。機密の口座を持ち、その口座の管理人でもありました。私はまた、核兵器発射の承認者でもありました。その期間に、情報センターから来た通信を見たのを覚えています。それには、基本的にボブ(すぐ前に証言したロバート・サラス)がいま、話したことが書かれていました。1機のUFOがミサイル地下格納庫の近くで目撃され、ミサイルが発動不能になったというものでした。

偶然にも、ミサイルがなぜ発動不能となったかを調査するためにボーイング社がよこした人は、ボーイング社で、私の最初の上司だった故ボブ・カミンスキ氏でした。私は別の状況で、彼と関わったことを覚えています。彼は、私の故郷であるワシントン州のオーバーンの、私の家の近所に住んでいました。彼は、「アーニー、ミサイルは完璧にきれいなままだよ。あれは何かの結果だったんだ」と言いました。

最後の事件は、メイン州のカスウェル空軍基地で、ある部隊の指揮官だったときに起こりました。私はメイン州のローリング空軍の警備警官に知り合いがいました。彼らは、ローリング空軍基地の核兵器保管所の近くでUFOが目撃された、と私に言いました。

私は、これらのことがまったくの真実であると、喜んで議会で証言します。ありがとうございました。

ハーランド・ベントレー(元アメリカ陸軍)

Mr. Harland Bentley US Army

おはようございます。ハーランド・ベントレーです。1957年から1959年のあいだ、私はワシントンDC北部、メリーランド州オルネー近くのナイキア・ジャックス・ミサイル基地で、アメリカ陸軍の一等兵として任務についていました。

1958年5月の朝6時ごろ、外で物音がするのが聞こえました。それは、鼓動している変圧器のようでした。寝床から起き上がり、窓から外を見ると、ある飛行物体が空から地上に墜落し、その物体から欠片が落ちるのが見えました。そしてそれは、またすぐに離陸し、飛び去りました。これについてはもっと色々な話がありますが、少し手短に言います。

翌日の夜、レーダーを監視する任務に就いていると、ゲイサースバーグミサイル基地隊員から連絡を受けました。彼が「ここから50から100フィート上空に、12から15機のUFOが確認されました」と言ったので、私は尋ねました。「それはどんな音を立てているんだ?」彼はヘッドマイクを外し、窓からそれを出して私に聞かせて言いました。「これです」。それは前の朝、私が聞いた音と同じ種類でしたが、この日の音はもっと激しいものでした。

私のレーダーは待機状態だったので、すぐさまスイッチを入れると、レーダースクリーン上に光を捉えました。そして数分後、その光は突然離陸しました。その光が離陸すると、レーダースイープが回ってきてその光を捉えました。そしてレーダースイープが再びその光を捉えました。2度目にレーダースイープが捉えたとき、その光は、最初の位置からレーダースコープの2/3ほどに動いていました。そこまでの距離に行くには、継続速度時速17,000マイルはあったと思います。これが、私の体験した最初の事件でした。

10年後、私は電気工学の学位を取得し、カリフォルニアで働いていました。カリフォルニアのある場所としか言えませんが、私は、そこの仕事とは別に、機密扱いのプロジェクトに参加していました。

カリフォルニア時間の朝の2時か3時に仕事をしていると、ヒューストン宇宙飛行士の情報交信が聞こえました。私は「おばけ」という単語を聞くまで、とくに注意して聞いていませんでした。「おばけ」という単語を聞いて、もちろん、私はすぐに聞く耳を立てました。未確認の飛行物体か、航空機か、隕石か何かが、月の周りを回る宇宙船と衝突したと言っていました。

私はしばらく通信を聞いていましたが、そのあと聞くのをやめ、仕事に戻りました。そして、しばらくすると「ほら、またあそこに」と言うのが聞こえました。

何人かの人たちはご存知かもしれませんが、宇宙飛行士のあいだで使われていた、「緑色の亀グリーン・タートル」という用語があります。いまはどうか知りませんが、その用語は以前、品のない言行は通信ネットワーク上で禁止されているという意味でした。誰かが品のない言動を発したあと、それを聞いた人が「緑色の亀グリーン・タートル」と言うと、言動を発した人が「緑色の亀」と言った人とその家族に、ケープカナーバラル市で一番高級なレストランで、ディナーをおごらなければなりませんでした。

さて、無駄話は省くとして、通信をしているなかの一人が「こんちくしょうdamn」と言い、彼はまた、「こんちくしょうdamn,、すごく速いぜ」と言いました。誰かが、「緑色の亀」と叫びました。

そして、その宇宙飛行士は「くそったれ」に類した言葉を使い、また違う誰かが「緑色の亀」と叫びました。その宇宙飛行士が、歯ぎしりして悔しがっているところが目に浮かぶでしょう。2回も豪華なディナーを奢る羽目になったのですから。

私はこの特別な体験を、議会で証言します。そして必要であれば、正確に何が起こったのかを証明します。

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