ヒョンなことからこの文章を書く羽目になりました.
わたしはコスタリカには一度も行ったことはなく(一度トランジットでサンホセの空港には降りたが),コスタリカの人ともお付き合いしたことはありません(札幌在住のコスタリカ人とお話をしたことはありますが)
映画「軍隊を捨てた国」の上映を前に,事前(事後も?)にコスタリカの歴史を知っておいたほうが良いだろうということで,パンフレット代わりに書き出したものです.
パンフレットの1ページにするには少し長くなりすぎましたので,とりあえず,ここに載せます.今後,皆さんのご批判を仰ぎたいと思います.
なお,コスタリカの歴史に関しては,すでに立派な入門書があります.寿里順平さんの「中米の奇跡 コスタリカ」(東洋書店 1984)という本です.すでに絶版になっているかもしれませんが,図書館にはあると思います.まずこちらをご覧になるようお薦めします.
注目!
この文章を脱稿後,とてもおもしろい資料を見つけました.85年11月,大統領選挙の直前にアメリカの政治学者が行ったインタビューです.フィゲーレス,オドゥベル,カラソという三人の元大統領に,共産党系の議員一人の生の声が載せられています.資料価値としては第一級です.そればかりでなく,内容としてもおもしろいものです.とりあえず訳してみました.ぜひご一読をお願いします.
コスタリカはアメリカ大陸がもっとも細くなるパナマ地峡と同じ,中米と呼ばれる地域に含まれます.面積,人口ともに自他共に認める小国です.
中米の一国でありながら,かなり特異な性格を持つ国でもあります.他の中米諸国との共通性と特異性を念頭に入れながら,この国を見ていく必要があります.それには,この国の歴史を学ぶのがいちばんの早道だろうと思います.
コロンブスは1502年,この国の北岸に上陸しました.コロンブスの第4次航海というのは悲惨なもので,最初から最後まで良いことはひとつもありませんでした.このときもホンジュラス沖で大しけに会い,ほうほうの態でコスタリカ海岸にたどり着きました.彼はこの海岸をウェルタスと名づけます.現在のプエルト・リモンの近郊と言われます.
ここでコロンブスは住民から思わぬ歓迎を受けます.彼はここで疲れを癒し,酋長から金細工のプレゼントまでもらい,パナマ地方へと向かいます.ついでに若い女性二人もいただいたそうです.私がもらったわけではないので,そう怒らないでください.
このときコロンブスが遭遇したのは,タイノ族の系統と思われます.当時タイノ族はカリブ海岸沿いに広く分布し,半農半漁の生活を営んでいました.1492年,コロンブスが最初に上陸したサンサルバドル島もタイノ族の住む島でした.キューバもイスパニョーラ島もそうでした.
コスタリカの地名の由来
コロンブスが名づけたという記載もありますが,日記を見る限りその根拠はありません.実際にコスタリカの名が登場するのは1550年過ぎからだといわれるので,コロンブスとの関係はなさそうです.タイノ族は,海洋民族で,カリブ海を我々が庭としていましたが,もともとは南米北岸の出身のようです.カリブ海岸沿いには同じ南米のベネズエラあたりを起源とするカリブ族なども入っていました.またコロンビアのチブチャ族も,海岸伝いにこのあたりまで進出していたようです.
コスタリカでは,カリブ海岸から山を越えて中南部に出る人を,「一度越えたものは勇者であるが,二度目になればキチガイだ」と言っていたそうです.どこかで聞いたようなことわざですが,そのくらいの難関だったのです.19世紀の後半に鉄道が建設されるまでは,同じコスタリカでも,カリブ海岸沿いはまったく隔離された世界でした.
いっぽう,中南部には紀元前1千年頃から,文明が起きてきます.ただ,それは北方のマヤ文明や,南方のチプチャ文明と比べるほどのものではありません.
13世紀頃になると,北のほうからチョルテカ族が進入してきます.もともとメキシコあたりに住んでいたのが,アステカ族に追われ,この地に逃げて来たのだそうです.ニカラグアのニカラオ族なども同一の種族に属しています.彼らはすでにとうもろこしや,豆などの栽培を行い,聖職者を頂点とする階級社会を形成していたようです.
彼らは太平洋岸沿いに勢力範囲を広げ,南方のチプチャ族との交易も行っていました.豊富な金やエメラルドなどは,南方との交易を通じて獲得したものです.(サンホセ北方の山中に金鉱が発見されたのは19世紀に入ってから.それも20年余りで枯渇)
この南方からの財宝を狙い,アステカ帝国も直接進出してきました.コロンブスが来る半世紀前頃には,ニカラグアやコスタリカの各所にアステカの駐屯所が作られ,チプチャ王国や遠くインカ帝国との交易を仕切るようになっていました.
コスタリカからニカラグアにかけての太平洋岸に,これだけの文明があることは,ヨーロッパ人には知られていませんでした.コスタリカに征服者が足を踏み入れるのは1522年,すでにコルテスがアステカ帝国を征服した後の話です.
当時,パナマに総督府を建設したペドロ・アリアス・ダビラ(通称ペドラリアス)は,太平洋岸を北上する探検隊を編成しました.ゴンサレス・ヒルの指揮する探検隊は現在のニコヤ湾に上陸しました.先住民はこれを歓迎し,金銀財宝を差し出しました.そしてスペイン人の申し出に従い,キリスト教徒に改宗しました.おそらくアステカの方面から何らかの情報を得ていたのでしょう.
ゴンサレス・ヒルの部隊は,その後ニカラグアからエルサルバドル東端のフォンセカ湾まで進出しますが,勇士ディリアンヘンの率いるニカラグアの先住民に追い出されてしまいます.翌々年,今度はコルドバが送り込まれました.コルドバはコスタリカを制圧した後ニカラグアに進出.この地域の制圧に成功します.
こうして太平洋岸沿いのニコヤ,ベラグアス地方がスペインの支配下に入りますが,中央高原の征服ははるかに遅れます.当時の中央高原は資源もないただの原野で,散在する先住民が半ば共同体的な生活を送っていました.彼らはスペイン人入植者に激しく抵抗し,征服は難渋を極めます.
スペイン側にも事情があって,ピサロがインカ帝国を征服した後,多くのスペイン人がペルーやメキシコを目指し,辺境のコスタリカなどには目もくれなくなります.
1560年になってやっと,中央高原もスペイン人の支配の下に置かれることになりました.グアテマラ総督府から州知事が派遣され,カルタゴの町を州都と定め,国土の建設を開始します.(この頃,パナマ総督府は一時廃止になっている)
しかしスペイン人の支配に激しく抵抗した先住民は,隷属を拒否しタラマンカ山地に逃げ込みました.そして戦いのなかで絶滅してしまいます.17世紀初め,入植者人口はわずか330人.実質的には無人の野です.
占領した国土を開発するのは,スペイン人自身をおいてほかありません.このことから,コスタリカの最大の特異性が生まれます.つまり白人のみ,自営農のみの均質な社会です.それは西部劇に出てくるアメリカの農民たちとも似ています.いったんそういうピューリタン的世界が生まれると,それが良くて引っ越してくる人もいるわけで,いつのまにかコスタリカ中央高原には,およそ新大陸にはそぐわない雰囲気が育っていったのです.
この間も,カリブ海岸は別世界として隔離されたままでした.
話は一気に200年飛びます.19世紀初頭,ヨーロッパに戦争が勃発しました.いわゆるナポレオン戦争です.ナポレオンはスペインを征服し自分の弟をスペイン国王に据えました.
新大陸のスペイン人たちはナポレオンの仕打ちに怒り,スペイン新政府への不服従を宣言します.ベネズエラやコロンビアではスペインからの独立を宣言し、ボリーバルらが戦いを開始します.コスタリカが帰属していたグアテマラ総督領も新政権への不服従を宣言しました.しかし独立の宣言まではいたりませんでした.グアテマラにはそれだけの度胸も国力もありませんでした.
ナポレオン戦争が終わり,旧王フェルナンドが復位すると独立戦争も一段落したように見えました.しかしフェルナンドのあまりに古臭い政治にアキアキした人々は,1820年に自由主義革命を起こします.この革命は新大陸の独立運動に火をつけました.
表向きはフェルナンドを支持するような見せ掛けをとったりしましたが,実はナポレオン時代に謳歌した本国支配の中断と,英国などとの自由貿易の味が忘れられなくなっていたのです.現に英国からの支配を脱却した米国はすさまじい勢いで経済成長を遂げています.
そういうわけで,コスタリカを含むグアテマラ総督領も,遅ればせながら独立を宣言しました.中米連邦州という名称です.時のグアテマラ総督がそのまま大統領に横滑り,という,なんともおざなりのものでした.実はこのことをコスタリカの人たちは知らなかったのです.中米の中でも他の国と比べ,コスタリカはプロビンシアと呼ばれ,一段低い位に置かれていました.なんと1ヶ月もたってから,中米連邦樹立の知らせが届いて,コスタリカの人たちは始めて独立を知りました.
人々は首都カルタゴに集まり,連邦内の州として独立することを宣言.グアテマラ総督府から派遣された知事をそのまま州統領に任命しました.ここまでは田舎芝居もどきですが,それからが大変.独立したということは,自分のことは自分で決めなければならないということなのです.
ここでコスタリカ中央高原の二つの町,カルタゴとサンホセが対立するようになります.二つのライバル都市の対立というのは,どこの国にもよくあることです.たとえば前橋と高崎,長野と松本といった具合です.ただ,この二つの都市の対立は,抜き差しならないものを含んでいました.
それはグアテマラの中米連合州政府に従い,メキシコへ併合するか,共和国として独立するかという選択でした.これまでの支配体制の中で恩恵を受けていた人々は,既得権益を守りたいので,メキシコへの合併を支持します.これまでの支配体制に反感をもつ人々は,旧体制の手先である合併派の驥尾に付すには不満が残ります.それでは独立した意味がありません.
独立派と併合派の対立は,共和派と君主制派の対立でもありました.そしてその基盤となったのは土着農民層とエリート層の対立でした.この対立がサンホセ対カルタゴという形に収斂していくことになりました.
23年4月,両者はオチョモゴの丘という所で戦火を交えました.この戦いは,激戦というほどのこともなく,サンホセ派の勝利に終わりました.代官様の軍隊が,百姓の軍隊にあっけなく敗れてしまったのです.
カルタゴには,その後も悲劇が待っていました.同じ年カルタゴは地震に襲われ壊滅的な打撃を受けました.41年にも別な地震がカルタゴを襲います.こうしてサンホセは,没落した州都をしのいでコスタリカ第一の町となりました.やがて州都もサンホセに移動します.当時コスタリカには二つの町のほかにエレディア,アラフェラという大きな町がありました.このうちサンホセを除く三つの町が連合してサンホセを攻撃したこともありましたが,サンホセの守りの前に敗れ去ります.
サンホセはオチョモゴの戦いを指揮したフアン・モーラを州統領に選出します.フアン・モーラを支えたのは,政治的には中米連邦政府が同じ自由党のモラサンによって支配されたこと,経済的には北部山地に発見された金山が順調に富を生み出し続けたことです.これらに支えられたフアン・モーラは,司法制度を確立し公教育を拡大するなど国家としての近代化に務めます.
とりわけ新政府が力を入れたのは,コーヒー産業の育成でした.19世紀初めキューバから移植されたコーヒーは,1820年に初めて輸出され,その後コスタリカ国内で飛躍的に拡大します.しかしこのコーヒー栽培が,国内に階級分化をもたらし,新たな水準の政治対立をもたらすことになります.
1838年,中米連邦は混乱のうちに崩壊していきます.残された中米五カ国はそれぞれが共和国として独立を宣言.現在と同じ国家群が出来上がります.コスタリカではフアン・モーラの後継者ブラウリオ・カリージョが終身大統領を宣言.独裁制へ移行しようとします.
国内の反対派はカリージョ政権を打倒しようとして元中米連邦大統領フランシスコ・モラサンを担ぎ出しました.歴戦の雄モラサンは,手勢500名を引きつれコスタリカに上陸.サンホセへと向かいます.モラサンの軍に恐れをなしたサンホセ軍は,戦うことなく逃げ出してしまいました.
ところがモラサン,コスタリカの政治などまったく念頭にありません.とにかく中米連邦を再建することだけです.彼は軍資金集めのため重税を課しました.そして新兵を狩り集めると,グアテマラに向け旅立ちます.これにはニカラグア,エルサルバドル,ホンジュラスの兵も加わります.
数の上では4対1と優勢ですが,グアテマラ軍には地の利とイギリス軍の支援がありました.連邦軍は撃破され逃げ出します.モラサンの栄光は地に墜ちます.コスタリカに帰ったモラサンを待ってたのは逮捕,そして死刑でした.
モラサンの勝利と敗北がもたらしたものは,コスタリカの「孤立主義」でした.中米の中でも辺境に位置されたコスタリカが,そのまま連中とお付き合いすれば,今度の事件のように利用されるだけです.まず自国の発言力を強めなければどうにもならない,これが教訓だったのではないでしょうか.中米統合への姿勢を捨てたわけではありませんが,つねに他の中米諸国とは一歩距離をおいて,自国の強化に専念するようになります.
この頃,コスタリカではコーヒーの生産がようやく軌道に乗り始めました.政府は,農民に栽培に適した農地を与え,種を提供するなど,大いに生産を奨励します.それぞれの生産地の中央には,ベネフィシオと呼ばれる処理工場が建設されました.
ヨーロッパではコーヒーがブームとなり,大都市のあちこちに喫茶店ができ社交の場となりました.コーヒーは非常な高値で商売されました.それは,コスタリカのような辺鄙なところで,高い運送費をかけても十分元が取れるほどのものでした.(コスタリカのコーヒーははるばる南米南端のマゼラン海峡を回ってヨーロッパに送られた)
もうひとつは蒸気船の発展です.汽船ができたことにより,大西洋を渡る船は,風任せではなく安定した安全な旅ができるようになりました.「七つの海をまたにかけ」という言葉が現実のものとなったのです.ペリーの黒船が浦賀に来航したのも,このころのことです.
コーヒー産業の発展につれ,自営農のあいだに階層分化が始まりました.ベネフィシオの所有者,いわゆるカフェテーロ(コーヒー成金)の出現です.当然彼らに使われるコーヒー労働者の層も出現しました.カフェテーロはやがて国の政治も握るようになります.その代表がラファエル・モーラです.
モーラは当時のご多分に漏れず,富国強兵策をとるようになります.そこへやってきたのがウォーカーでした.ウォーカー戦争についてはニカラグア史をご覧になっていただきたいと思いますが,この戦争は中米諸国が始めて外敵に対して団結してたたかった戦争でもありました.そして中米連合軍の総司令官となったのがモーラ大統領だったのです.
ニカラグアを制覇したウォーカーが最初に攻め込んだのはコスタリカでした.いちばん弱そうに見えたのかもしれません.あるいはパナマに行こうと考えたのかもしれません.中央高原への北の入り口に位置するサンタ・ロサで最初の戦闘がおこなわれ,コスタリカ軍は勝利します.モラサン軍の前になすすべもなく敗れ去ったときと比べれば,強くなっていたのでしょう.
このあとウォーカー軍を追撃したコスタリカ軍は,ニカラグア領内リバスの決戦でもウォーカー軍を撃破します.このときの戦いで鼓笛兵フアン・サンタマリーアの決死の戦闘行為が有名となりました.『死んでもラッパを離しませんでした』という木口小兵の伝です.コスタリカでは彼が伝説上の人物となって,あちこちに銅像があるそうです.たしかサンホセの空港も,正式にはフアン・サンタマリーアではなかったでしょうか.逆に言えばこのくらいしか軍神がいないということは,平和の証なのでしょう.
戦争に勝った軍隊は,しかし大変なおみやげを持ち帰りました.コレラです.死亡者だけで人口の1割といいますから,すさまじい猛威です.モーラはこの猛威に耐えてウォーカー戦争に勝利しました.でも彼の勝利を祝福するものはいません.乃木大将どころか,東条英機並みの扱いを受け,国外に追放されてしまいます.(後にクーデターを企て処刑される)
孤立主義は農民国家の本質なのかもしれません.しかし新興ブルジョアジーは国際膨張への思い断ちがたいものがあります.その間合いを計ることはなかなか難しい作業です.
デラ・グアルディア将軍は,そこを見事に成し遂げました.彼はウォーカー戦争を指揮した人物で,終戦後も軍の大立物として君臨しました.しかし時の政治は厭戦・復古の雰囲気が濃厚で,欲求不満を募らせていました.
1869年,デラ・グアルディアはクーデターを起こし政権を握ります.国内もようやくコレラの痛手から立ち直ろうとしていました.彼は隣国を相手にせず,ヨーロッパを相手の貿易振興により国力の発展を遂げようとします.いわば『脱亜入欧』路線です.それはコーヒー農園主の要求に沿ったものでもありました.
一連の欧化政策が採られました.政治・司法・教育の全般にわたり欧州先進国の制度が導入されました.なかでも,初等教育を義務教育とし,男女の差別なくすべて無料化したことが特筆されます.それは公教育の徹底であり,世俗教育の徹底であり,宗教による教育支配の拒否です.
こういう改革に対しては,他のラテンアメリカ国では,伝統的なカトリック勢力が保守層と組んで激しく反対するものですが,幸か不幸か,辺境の国コスタリカにはそのような強固な伝統はありませんでした.檀家宗教と化した仏教が,明治の近代化の前に成すすべもなく崩壊していくのと似たところがあります.
コスタリカにとって悲願とも言うべきプロジェクトが,カリブ海岸へのアクセスでした.コスタリカに限らず,中米諸国の中心部は太平洋側に偏っています.そこで生産された商品をカリブ海側に運ばない限り,船で南米大陸の南端を大回りするしかありません.グアテマラはイギリスを相手に屈辱的な条約まで結んで,鉄道建設をおこないました.
コスタリカはアメリカ人マイナー・キースに鉄道建設を委託しました.工事は難渋を極めました.熱帯病のために5千名もが命を落としたといいます.黒人,中国人,イタリア人などの労働者もストを起こします.キースは何度も倒産の危機に直面しますが,そのたびに不屈の闘志で切り抜けました.
マイナー・キースは労働者の食糧補給のため鉄道の沿線にバナナを植えることを思いつきます.そのうちこのバナナが莫大な商品価値を持っていることに気づきます.キースはこのチャンスを逃しませんでした.開通した鉄道を政府に引き渡すに際し,キースは99年間の鉄道使用権と,鉄道周囲の広大な土地の占有権を手に入れます.コスタリカの横断鉄道は,そのままバナナ会社の鉄道になりました.
莫大な利益を手にしたキースは,1999年,ボストンで会社を興します.これが有名なユナイテッド・フルーツ社です.このバナナ会社は中米・カリブ地域で我が物顔に振る舞い,気に食わない政権にはクーデターを起こし,労働者を抑圧してきました.これについては年表,特にホンジュラス年表をご参照ください.
幸か不幸か,コスタリカのバナナは20世紀初頭に病虫害で壊滅します.以後ユナイテッド・フルーツ社の本拠はグアテマラやホンジュラスへと移動していきます.したがって,あまり露骨な内政干渉もおこなわれなかったのです.
19世紀末から第一次世界大戦にかけて,世界中に帝国主義の荒波が押し寄せるようになります.中米・カリブ地域も例外ではありませんでした.それどころか,中米・カリブこそが帝国主義進出の最も激しくおこなわれた地域でした.その主役はアメリカ帝国主義です.
パナマには1870年頃から年中行事のように海兵隊が上陸していました.しかしそれが本格的に展開されるのは,1898年キューバ独立戦争以来です.最後までスペイン植民地として残されたキューバの人たちは,ホセ・マルティの呼びかけに応え独立戦争を開始しました.そのたたかいが独立軍優位に傾いたとき,突如アメリカは事件をでっち上げてこの戦争に介入して来たのです.
これが米西戦争です.戦争はアメリカの圧勝に終わり,アメリカはキューバ,プエルトリコ,フィリピン,グアムを手に入れました.おまけにドサクサ紛れにハワイまで併合してしまいます.戦争の立役者セオドア・ルーズベルトは大統領になり,今度はパナマをコロンビアから『独立』させます.
新大陸で無敵となったアメリカは,コロンビアからパナマを奪取し(当時パナマはコロンビアの一部だった),ホンジュラスに侵攻し,ニカラグアの民族派大統領を辞めさせ,抵抗するものには海兵隊を派遣して虐殺します.ドミニカの税関を押さえ,財布を握ります.第一次大戦が始まって,欧州列強の手が届かなくなると,アメリカはさらに触手を伸ばします.ハイチ,ドミニカに海兵隊を送り,これを占領します.キューバやニカラグア,ホンジュラスでも占領状態が続きます.時あたかも革命真っ盛りのメキシコにも軍隊を派遣します.
前置きが長くなりましたが,20世紀初頭のコスタリカを取り巻く情況はこうだったのです.頭を出せば叩かれる.内輪もめすればつけこまれる.ひたすら平身低頭しながら,匍匐前進する以外の道はなかったのです.しかしながらも『やむにやまれぬ大和魂』という厄介なものがあって,国内の階級矛盾は,その国が発展すればするほど激化せざるを得ない側面があります.
コスタリカは,孤立主義によって,中米諸国のごたごたからはフリーでした.白人のみの均質社会ですから,地方での先住民の反乱に悩まされるということもありませんでした.(まったく先住民がいないというわけではなく,ニコヤ地方には数万の先住民がいるといわれる)
カトリック教会の政治からの排除と法治国家路線によって,見かけ上は『分かりやすい国』になっていました.いまその主権を守るとすれば,いずれ沸き起こるだろう労働者階級の要求を先回りして取り入れる『上からの民主主義』がもとめられていました.
1890年,コスタリカの教科書では「これぞ民主主義の開始」といわれる出来事が起こります.デラ・グアルディア派の候補と保守派の候補が大統領選挙で激突しました.
えてして改革派の政治は放漫財政になり勝ちです.その際たいてい汚職・腐敗がつき物です.積極財政の結果として財政赤字が生じ,財政赤字がインフレを呼び,勤労者の不満が強まります.保守派はそこをついて,政権交代を訴えます.
この選挙もそんな選挙でした.選挙といっても制限選挙の間接選挙ですから,旦那衆の選挙です.選挙では保守派候補が勝利します.ここでデラ・グアルディア派の候補が抵抗します.選挙の結果は認められないといって居座りを図るのです.元は確かに改革派ですが,20年も政権の座に座っていれば,実体としてはもはや利権集団です.
ここで保守派は思い切った手に出ました.デラ・グアルディア派の降板をもとめて大衆動員をかけたのです.コスタリカの教科書では「自由党,政権を保守党に無血譲渡.以後,コスタリカでは政権移行が平和的に行われるようになる」と記載されています.
この文章は,分かったようでわからないところがあります.『条件』と『結論』がむしろ逆の関係にあるからです.私はこう考えます.この事件は『大衆動員による選挙結果の変更』を禁じ手とするという合意が出来上がるきっかけになったところに最大の意義があるのではないか.
とりわけ保守党にとって,大衆を動員しその力に依拠するというのは,およそ似つかわしくない手法です.この手法を公認するのは『パンドラの箱』を開けるようなもので,いずれ手痛いしっぺ返しを食うことになります.
もうひとつ,この手法をとった場合,ひとつ間違えば内戦になりかねません.いま内戦を起こせば,それはアメリカ帝国主義の好餌です.アメリカの海兵隊が入ってきて,政府の建物に星条旗が翻るようになれば,何十年もかけて築き上げてきた国家としての尊厳はどうなってしまうでしょうか.
大衆動員という『禁じ手』を使わないようにするにはどうしたらよいか,その前に体制側が妥協することです.平たく言えば『なれあう』ことです.ここに『民主主義とは馴れ合うことである』という,コスタリカ風理解が広がることになります.
実例をいくつかあげましょう.@10年後の大統領選挙で自由党が勝ちそうになったとき,保守党のイグレシアスは自由党の一部と談合,エスキーベルを大統領とすることで,みずからの地位保全を図りました.イグレシアスこそ1890年に大衆を動員して議会にデモをかけた張本人です.
A1932年,大統領選に敗れたヒメネス候補が反乱の構えを見せたため,政権党の候補は大統領就任を辞退.ヒメネスが大統領に就任しました.B1958年の大統領選挙で,フィゲーレス大統領は10年前に銃をとって戦った人物,マリオ・エシャンディを大統領候補として認めた.エシャンディはフィゲーレス派の候補を破り,後任大統領となった.
これは日本の政治における馴れ合いとは違い,国家の命運をかけるほどの厳しさを含む『馴れ合い」です.モーゼの十戒ではありませんが「汝,馴れ合わざるべからず」というところがあります.それは迫りくる帝国主義の脅威という極限的情況の中で迫られた選択という側面を持っています.『ならぬ堪忍,するが堪忍』です.だから,それはリアルさを徹底して追求した先の『平和主義』といって良いのかもしれません.
というところで,コスタリカの政治スタイルを規定するいくつかの歴史的なキーワードを探し出すことができたと思います.農民共和制,孤立主義,「脱亜入欧」路線,『馴れ合い』民主主義… ただのレッテル貼りに過ぎないかもしれませんが…
コスタリカの歴史を誰も書きたがらないのは,もし書き始めれば,この二人をどう描き分けるかが否応なしに迫られるからではないでしょうか.もうひとつは,たとえ彼らが,その人なりに複雑な側面を持っていたとしても,たとえばサンディーノのように,二面性を描ききるだけの魅力ある人物かといえば,それほどでもないということです.(サンディーノはカルデロンやフィゲーレスと同じ時期に,ニカラグアでアメリカに真っ向から戦争を挑んだ人物)
カルデロンとフィゲーレスは,ともにエスタブリッシュメントであり,二人の違いは純粋に政策的なものであり,どちらがどちらになってもそれほど違和感のあるものではありません.だから私たちは,彼らそのものを知るよりも,彼らを分けたもの,彼らの背景にあったものを知りたくなるのです.
時代はもう一度さかのぼります.第一次世界大戦でコスタリカは存亡の危機に頻します.コスタリカのコーヒーが最大の消費地としていたヨーロッパが,戦火のなかでコーヒーを必要としなくなってしまったからです.時の大統領フローレスは,財源を捻出するため所得税の累進税率を強化しようと図ります.ただでさえ輸出激減のあおりを受けて四苦八苦のコ−ヒー業界は,増税に猛反発します.
金持ち連中が金を出さないと知ったフローレスは激怒し,軍隊を使ってでも強制取り上げに出る構えを見せます,コーヒー財閥のほうもしたたかなもので,政府に税金を納めるくらいならばと,軍隊に献金しクーデターをそそのかします.軍隊としては政府に従って金持ちから税金を取り立てるか,金持ちに寝返ってうまい汁を吸うかのどちらかです.ならばと,ティノコ将軍がクーデターに立ち上がりました.1917年のことです.
コスタリカにとって,軍事クーデターはデラ・グアルディア以来60年ぶりのことでした.このクーデターの最大の誤算は,アメリカがどう出るかの観測がなかったことでした.
アメリカは「軍事クーデターは民主主義の破壊だ」として新政権を認めません.クーデターを起こされた側の共和党も,新政権を認めません.やがてホルヘ・ボリオが武装蜂起を開始しました.これを待っていたかのように米国は装甲艦デンバーを派遣.海兵隊が上陸し武力干渉の構えを見せます.最悪のコースです.
恐れを成したティノコは退陣し,共和党政権が復活しました.ボリオは矛を収めました.コスタリカは大きな教訓を得ました.二度とこんなへまをやってはいけないと.それはクーデターが悪かったのではなく,アメリカに通告して支持を受けてからでなければ,行動に移してはいけないということです.そしてアメリカが欲するのは「アメリカ流民主主義」の御旗だということです.逆にアメリカ流民主主義に従っていれば,クーデターも汚職も人権抑圧も,たいていは大目に見られるということです.
これ以来、コスタリカは親米の旗を降ろしたことは一度もありません。そしてアメリカ流民主主義の中米におけるショーウィンドウの役割を積極的に果たして来ました。20年代のクーリッジ米政権のあいだ、サンホセには中米諸国の調整機関が置かれ、中米裁判所が設置されました。これまでの歴史から言えば、グアテマラに置かれてしかるべきかも知れませんが、米国の強力な後押しがあってのことと思われます。
それを証明して見せたのが,21年のコト紛争です.これはコスタリカがおこなった唯一の『侵略行為』です.ティノコ退陣後のどさくさにまぎれておこなわれました.コスタリカとパナマの国境には未確定部分があり,コト地方と言われていました.コスタリカ軍はここに武力侵入しました.
アメリカはすべて承知の上でした.それどころか,パナマ政府に抵抗をやめるよう説得したのです.そして,この紛争を利用しパナマ西部のチリキ,ベラグアス地方に海兵隊を送り占拠.その後,この地域の利権をパナマ政府に認めさせたのです.チリキには早速ユナイテッド・フルーツ社が進出してきました.まさに「できレース」です.
『トラの威を借る」コスタリカに対し,パナマの怒りは収まりません.このあと20年にわたり国交断絶状態が続きます.
20年代後半から,ようやくコスタリカにも労働運動が起こり始めました.この労働運動は,まず上からの改革として始まりました.ティノコ打倒運動の先頭に立ったホルヘ・ボリオはカトリック教会の神父さんです.ずいぶん血の気の多い神父さんですが,こういう例はラテンアメリカのあちこちで見られます.さすがはラテンです.
このボリオは改革党を結成,キリスト教社会主義を唱え,労働者を結集して23年の大統領選挙に臨みます.カトリック教会の最高位であるビクトル・サナブリア大司教がボリオを全面支援します.ボリオは選挙には敗れたものの,当選したヒメネスの半分の票を集めます.決選投票に臨んだヒメネスはボリオと協定を結び,その力で大統領に就任しました.
ヒメネス政権は,保健事業を国有化するなど一定の労働者向け政策を採るようになります.こうした雰囲気の下,コスタリカでも急速に労働運動が発展するようになりました.
1930年,ユナイテッド・フルーツ社のバナナ農園に病虫害が発生.たちまちのうちにすべての農場が全滅します.ユナイテッド社はこれを機に陳旧化したコスタリカの農園からの撤退を図ります.バナナ農園の労働者も黙って首を切られるわけには行きません.国中を揺り動かすような大闘争が始まりました.コーヒーと匹敵するほどの輸出高を持つバナナ農園が閉鎖されるのは,コスタリカ政府にとっても看過できません.
こうしてバナナ労働者のストは,全面撤退案の撤回,太平洋岸への新たなバナナ農園の開拓などの成果を勝ち取り勝利します.この闘争の中からコスタリカ共産党が誕生しました.共産党は改革党左派や海岸部バナナ農園の労働運動を吸収し急成長していきます.
労働者の運動の高揚は,一人のポピュリスト政治家を生み出しました.共和党のラファエル・カルデロンです.
ポピュリストというのはラテンアメリカ独特のもので,大衆的な装いを凝らした既製の政治家が,保守勢力とのバランスの上に半ば独裁的な権力を握るというものです.19世紀のカウディージョと本質的に通じるものがあります.労働者階級が独自の階級政党を形成するには至らない時期の過渡期的な形態とみなされますが,ファシズムとの近縁性も指摘されています.まぁ,そんなところにしておきましょう.
1940年,すでにヨーロッパでは第二次大戦が始まっています.与党共和党の次期候補にはカルデロンが指名されました.かなり革新的な傾向を持つ人物でしたが,カトリック教会の強力な支援もあり,候補の座を獲得しました.
大統領となったカルデロンは一気に社会改革を推進します.まず公約に基づいて国立コスタリカ大学を創設しました.この年まで大学がなかったのでしょうか? 次にCaja Costarricense de Seguro Social (どう訳したら良いのでしょう?)と呼ばれる社会保障制度を制定.これは中米最初の社会保障システムとなりました.イギリスのビバリッジ計画にも先駆けていたのですから,たいしたものです.そのあと団交権を保障する労働法改正,土地法改正による貧農救済,協同組合運動の奨励など目白押しです.
カルデロンについで大統領に就任したピカド・ミチャルスキーも改革をさらに進めます.そしてその切っ先は,ますます鋭いものとなります.累進所得税制を採り入れた所得税法,最低賃金制度がそれです.それらは,これまでの「ばら撒き福祉」ではなく,資産家のふところに直接手を突っ込む内容です.この改革がどこまで進むのか,金持ち階級のあいだに不安が広がります.
カルデロンが改革を強行すればするほど,国内に反対派も広がりました.一つは身内からです.カルデロンの前に共和党の大統領を務めたレオン・コルテスはカルデロンのアカかぶれに怒り,共和党を飛び出します.元の政権党である農民党もカルデロンに攻撃を集中します.
集中攻撃の対象となったのは共産党でした.共産党は当時人民戦線の立場をとっており,反ファシズムの立場さえ明確にすれば,そして相手が拒否さえしなければ,どんな候補でも無条件に支持していました.隣のニカラグアの独裁者ソモサや,キューバの独裁者バチスタさえも支持したのです.ラテンアメリカで最初に枢軸国に対して宣戦布告したカルデロンなら,当然諸手を挙げて大歓迎というところです.
もともとが,筋金入りの労働者幹部と理論派の知識人の集団ですから,おのおのの持ち場でたちまち頭角を現します.上昇気流に乗った共産党は他の革新政党も合同し,「人民前衛党」と改称.さらに大衆的基盤を広げます.反共主義者には相当目障りだったろうと思います.
ホセ・フィゲーレスは農場主の息子で,アメリカで法律などを学びました.ゴチゴチの保守派ではありません.カルデロンの改革には共感するものがあったのですが,それ以上に共産党とカトリック教会の進出が,彼の危機意識をあおりました.ダニエル・ベルではありませんが,脱イデオロギーこそが彼の最高の価値観でした.それこそがアメリカ的イデオロギーであり,たんなる拝金主義に過ぎないことについては無頓着でした.
彼は既成の政治勢力とは関係を持ちませんでした.まず自分で行動を始めました.1942年,彼はラジオ放送に出演し,カルデロン派,カトリック教会,共産党の「偽りの同盟」を激しく糾弾します.たちまち放送途中に踏み込まれたフィゲーレスは捕らえられ,メキシコに追放されました.それでも彼は意気軒昂です.亡命中にグアテマラやドミニカの社会民主主義者と交友を深め,武装蜂起の計画を練るようになります.
ホセ・フィゲーレス
同じ時期,国内でもロドリゴ・ファシオ、カルロス・モンヘといった知識人がカルデロンに対する批判を強めていました。44年、恩赦で帰国が許されたフィゲーレスは早速組織作りにとりかかりました。これが社会民主党,後の国民解放党です.日本で言えば,昭和20年代半ば,共産党に対抗して労農派と民同左派が結びついて左派社会党を結成したようなものでしょうか.
社会民主党は「カルデロンは共産主義者だ.まもなくコスタリカが西半球で最初の共産主義独裁国家になる」といったたぐいのデマ宣伝を広げます.そのいっぽうで,ウラでは警察や共産党に対する襲撃を組織します.
44年から45年にかけてグアテマラではウビコ軍事独裁政権が打倒され,アレバロ政権が成立しました.キューバでも第一次バチスタ政権に代わり真正党政権が誕生しています.これらはいずれも社会民主主義を標榜する反共リベラル政権で,フィゲーレスの立場と一致していました.彼らは中米・カリブ地域での独裁国家を武力で打倒しようと計画を立て,秘密の同盟を結びました.
その陰の軍隊が「カリブ軍団」と呼ばれるものです.当時は第二次大戦が終わったばかりで,あちこちに戦争ヤクザみたいのがごろごろしていました.「カリブ軍団」のとりあえずの目標は,ドミニカの独裁者トルヒージョでした.ハバナ大学に入学したばかりのカストロも,このドミニカ侵入計画に参加しています.(詳しくはキューバの歴史を参照)
フィゲーレスもこの同盟に加わりました.フィゲーレスは「カリブ軍団」を使って反政府の武装蜂起をたくらみます.反乱部隊はグアテマラ軍により訓練され,武器はグアテマラからフィゲーレスの農場にひそかに空輸されました.
コスタリカの大統領は4年を任期とし,連続再選は禁止されています.カルデロンは40年から4年間大統領を務めたあと,ピカドに道を譲りました.48年,カルデロンはピカドのあとふたたび大統領に立起しました.しかし二度目はだいぶ事情が変わってきました.
最大の変化は,冷戦の開始です.当時の米大統領トルーマンがソ連との冷たい戦争を宣言したあと,レッドパージ旋風が吹き荒れます.米政府は南北アメリカ大陸を反共の拠点にしようと,各国に干渉を始めます.共同で共産主義の脅威を防衛しようというリオ条約が締結されました.これと平行して米国と各国政府のあいだに相互防衛条約が結ばれました.アメリカ大陸の各国が加盟する米州機構(OAS)は,反共産主義の審問の場と化しました.
各国で共産党が非合法化されました.当時ラテンアメリカで,共産党の勢力が強大だったのはキューバ,ブラジル,チリなどでした.これらの国での共産党に対する弾圧は,日本におけるレッドパージを髣髴とさせるものでした.こういう情勢の中だけに,コスタリカの政権が共産党(人民前衛党)を容認し,政府部内にも多数の容共派を抱える現状は,ある意味で異様な突出ぶりでした.
米国はカルデロン政権の成立を阻止すべく活発に動きます.国内の保守・中間勢力を結集し「野党連合」を結成,新聞社社主のオティリオ・ウラテを対抗馬にすえます.金にものを言わせた猛烈な選挙戦で,ウラテは1万票差という接戦ながら勝利をものにしました.おそらく沖縄の県知事選挙のようなものだったのだろうと思います.
予想外の敗北を喫したカルデロン陣営は,選挙に不正があったとして無効を申し立てます.ここまでは当然の行為です.多分相当ひどい選挙違反があったでしょう.
ところが,カルデロンはこの申し立てを選挙管理委員会や裁判所に対して行うのではなく,議会に対して提出してしまったのです.議会は当然カルデロン派が多数を握っていますから,この申請を受理してしまうのです.すなわち選挙の無効を宣言してしまったのです.この間,何者かにより投票所が放火され,票が焼失するという事件が相次ぎました.誰がやったかは察しがつこうというものです.
米国は烈火のごとく怒りました.そしてウラテに政権を渡すようピカド大統領に強い圧力をかけはじめました.
このときを待っていたのがフィゲーレスです.満を持していたフィゲーレスは,好機到来とばかりに兵を挙げたのです.
念のためはっきりさせておかなければならないのですが,フィゲーレスは選挙に負けたから怒って蜂起したのではありません.この選挙にまつわるゴタゴタを,千載一遇のチャンスととらえたから蜂起しただけです.だいいち,負けたのはフィゲーレスではなく,保守派のウラテです.選挙の勝ち負けは,フィゲーレスにとってはかかわりのないことだっだのです.
いくら威勢が良いとはいっても,社会民主党はカルデロン派と保守派の対立のハザマに埋もれた存在に過ぎません.黙っていれば,カルデロンが退陣してもウラテに政権が行くだけです.ここで乾坤一擲,やってみるほかありません.
48年3月10日,フィゲーレスは国民解放軍の旗を掲げ武装蜂起しました.2日後には早くも南部でかなりの地域を支配下におさめます.カリブ海岸には,グアテマラとキューバに支援されたゲリラ組織「カリブ軍団」がフィゲレスを支持して上陸しました.
これに対し,政府側では正規軍のほか民兵隊が創設されます.その主力となったのは人民前衛党とコスタリカ労働者委員会(CTCR)でした.人民前衛党はファリャスの指揮下に労働者武装軍を組織,政府軍に加わりたたかうことになります.ここまではスペイン人民戦線と似ているようにも見えますが,似ているのはそこまでです.
彼らが支持しているのは,選挙で選ばれた合法的な政府ではなく,選挙で負けたあとも居座りを決め込もうという政権です.彼らが敵対しているのは,冷酷卑劣な独裁者ではなく,「合法的に」実施された選挙結果の受け入れを迫る人々です.これでは国際的な支援は期待できません.
第二にスペインと違い,ここコスタリカは圧倒的な米国の影響下にあります.いわば裏庭=バックヤードです.その米国が相手についている限り,勝ち目はありません.特に装備を全面的に米軍に依存している軍隊が,米国を相手にまじめに戦うとは到底思えません.それは6年後のグアテマラで,アルベンス民族政権が打倒された際に,事実として確認されました.
ほとんど戦いらしい戦いもなしに非勢に追い込まれたピカドは,なんと隣の国ニカラグアの独裁者ソモサに支援を求めます.もともとコスタリカに領土的野心を持つソモサはこれに応じて国境地帯に兵を派遣します.
なお,ソモサの軍隊は正式には軍隊ではなく国家警備隊(Guardia Nacional)です.軍隊は1926年,米国の手により解散させられました.もちろん,実態としては軍隊そのものです.憲法にどう書いてあったかは知りません.
人民前衛党はソモサとの連携に猛反対しますが,無駄でした.軍隊はすでに戦意を放棄し,労働者武装軍が孤立した戦いを続けることになります.カリブ海岸地帯ではユナイテッド・フルーツ社の労働者がカリブ軍団を相手に頑強な抵抗を続けました.サンホセからは各地に民兵部隊が派遣されていきます.しかし政府からの物資補給は滞り,やがて途絶えました.労働者を見殺しにするウラで,政府はフィゲーレスとの秘密交渉に入ります.
4月17日,米国は内戦にとどめをさす最後の行動に出ました.マーシャル米国務長官はピカードに退陣を勧告.人民前衛党が権力内の地位を維持するのなら,直接武力干渉すると脅迫します.パナマ在留の米南方軍は,これにあわせ出動態勢に入りました.
これをみたカルデロン=ピカド陣営は降伏を決断します.フィゲーレス軍の代表団がサンホセに入りました.米軍の監視と外交団の調停の下,和平協定が成立します.政府側幹部,将兵の身の安全と財産・身分が保証されることになりました.
この6週間の戦争で,戦死者は2千人に上りました.その多くは労働者委員会(コンセホ)の下に戦った左翼の活動家たちでした.スペイン人民戦争を想起するとき,次のことわざがつぶやかれます.「歴史は二度登場する.一度目は悲劇として,二度目は喜劇として」
もちろん,人民前衛党の戦いはまごうことなき悲劇であり,決して喜劇などではありません.主体的な立場からはいろんな批判があるとはいえ,このとき少なくとも相対的には,人民前衛党と労働者委員会こそが,もっとも正当性を主張できる立場だったといえます.
たしかに選挙の不正があり,それを理由にした選挙の無効化という民主主義破壊があった.しかし武力で政府を転覆するということは,そのような理由で許されることではありません.立憲制度を守り,民主的秩序の破壊者から国を守るという行為は,是認されてしかるべきでしょう.
内戦に勝利したフィゲーレスは社会民主党を母体に国民解放党を創設.国民解放党の体制は70年代後半まで続くことになります.どちらかというと弱小な武装集団に過ぎなかった社会民主党が,30年にわたり安定した国内政治を作り出し,激動期にはモンヘやアリアスのような政治家を生み出し,現在もなお有力な野党として存続してこられたのでしょうか.その理由は,権力掌握した直後に彼が見せた鮮やかな「変身」によって説明するしかないでしょう.
48年4月末,フィゲーレスが権力を掌握したとき,彼はたんなる反乱軍の司令官にすぎませんでした.政権の正統な後継者はウラテでした.そうでないと彼の反乱には大義名分がなくなってしまいます.それに当時はクーデターを認めないという立場を取っていた米国も,フィゲーレスへの不信を強める危険性があります.しかし簡単に政権を譲り渡してしまったのでは,何のための蜂起か分からなくなります.
1920年代,中米で頻発するクーデターに手を焼いた米国のクーリッジ大統領は,「武力で権力を獲得した政府は承認しない」と宣言,これを各国政府に確認させます.
このドクトリンは戦後まで生き続けましたが,キューバ革命以来,実質的に放棄されました.CIAはむしろクーデターを奨励・指導するようになりました.60年代以降,一時はコスタリカなど4カ国を除く多くの国が軍事独裁政権に移行します.そこで考え出されたのが,18ヶ月間に期間を限定した革命評議会構想です.戦火まだ冷めやらぬ5月1日,フィゲーレス=ウラテ協定が発表されました.政権移譲までの18ヶ月間,フィゲーレスと国民解放軍が全権を握り,国内の治安確立をおこなうこととなったのです.
1年半の絶対権限を握ったフィゲーレスは,まず和平協定を無視してアカ狩りに乗り出しました.旧政府幹部の資産を没収し,国外に追放します.カルデロンらはいったんメキシコに亡命した後,ソモサの庇護の下に入ることになります.人民前衛党と労働者委員会が非合法化され,党員は公職を追放されました.左翼系活動家/文化人が捕らえられ殺害されました.ただその程度については情報を持っていません.
左翼勢力を無力化した上で,フィゲーレスは政策を左展開します.戦略としては見事なものです.「革命」後の政治的配置をしっかりと頭に描いています.資産家層と中間層でこれからの政治を支配する.その際,保守党が秩序と自由競争を重視する旧来型の政治を行うのなら,社会民主党が民衆の意見を代弁する立場で機能しなければならない,これがコスタリカの新しい戦略配置になると踏んだのです.
これらの戦略立案にあたってはCIAが関与していた可能性があります.社会民主主義者が弾圧された共産党に代わって労働運動を掌握し,「左翼の代表」となる過程は,少なくともラテンアメリカ諸国では多かれ少なかれ類似しています.アメリカの側にある種のマニュアル的なものが存在していたと思われます.
なおフィゲーレスは75年,自らがCIAと接触していた事実を認めています.彼はあれほど反対していた,カルデロンによる40年以降の諸改革を尊重すると公約します.さらに婦人参政権の実現,黒人の全面的な市民権が承認されました.すなわち,それまでの改革をご破算にするのではなく,そこでストップをかけることによって,政治を安定させる.昔のシステムに戻そうとする連中に対しては,相対的な改革派のポーズをとるということです.そのスタイルは国中から真の左翼を根絶やしにすることで初めて可能となったのです.
そして半年後,革命評議会は驚くほど大胆な指令を発します.民間銀行・保険会社の国営化です.これは国による経済管理・計画経済への道を開くものです.もっともこれは30年代にケインズ派の提示を承けて,独占資本の生き残り策として始められたもので,戦後はプレビッシュなど国連ラテンアメリカ経済委員会(ECLA)のエコノミストが盛んに唱導したものです.それにしてもすごいものです.議会などがなかったからこそできた改革でしょう.
それらの諸改革の中で,軍隊の廃止も決定されたのです.
フィゲーレス本人の名誉にもかかわることなので,あまりきびしい評価は控えますが,産別に代わり労働運動の指導権を奪取した民同左派が,「平和4原則」を掲げ,平和運動の担い手になったわが国の歴史とダブります.ただし,フィゲーレスのほうがはるかにあからさまな右翼ですが….
軍隊の廃止というだけなら,先例はあります.20年代にニカラグアもドミニカも軍隊を廃止しました.それまでは軍隊がオポチュニストの集団と化し,政界の対立がそのまま持ち込まれ,内戦の絶えない状況が続いていました.
これらの国は米国が介入し,一時占領しました.米軍は内戦の元凶となっているのは軍隊そのものだと考え,軍隊を廃止しました.その代わりに作られたのが,国家の保安と秩序維持をもっぱらの任務とする国家警備隊でした.
建前だけ聞くと,とても良い組織のように思うかも知れませんが,実態は自国の政府よりもアメリカのほうに忠実に従う,もう一つの軍隊ができただけのことでした.そしてこの二つの国家警備隊から,20世紀を代表する二人の独裁者,ドミニカのトルヒージョとニカラグアのソモサが生まれ出たのです.
コスタリカの場合はこれら二国とはまったく異なります.コスタリカは自分たちの判断で,自分たちの力で軍隊を廃止したのです.それは軍隊のために金を使うのをやめたということであり,アメリカのバックアップ(むしろ干渉と言うべきか)を受けるのをやめたということです.そして軍の用地を教育省などの施設や学校に切り替えたことです.それを憲法に明記したということです.これらの点については,私よりも「軍隊を捨てた国」キャンペーンの皆さんのほうがはるかに詳しいので,省略します.いずれにしても建前ではなく,実体として軍隊を廃止したという点で,コスタリカの経験は類を見ないものです.
50年から80年にかけて,コスタリカは長期に安定した時代を過ごします.この間,経済はほぼ順調な伸びを続けます.1978年の調査によれば,平均寿命は70歳に達し,乳児死亡率は20/1000まで低下しました.識字率は中南米では珍しく9割を超える水準まで到達しました.失業率は5%にとどまりました.賃金労働者の3/4がなんらかの社会保障制度でカバーされるまでにいたりました.公務員は5万人に達し,全労働者の1割を占めるようになりました.これがフィゲーレス体制30年の成果です.
49年12月,革命評議会は解散しウラテに政権が引き渡されました.ウラテが4年間の任期を全うしたあと,フィゲーレスがいよいよ大統領に当選・就任します.58年には野党の国民統一党(PUN)が政権を掌握しますが,これもかねてフィゲーレスが考えた目論見どおりの結果です.
62年にはふたたび国民解放党が政権を獲得します.そして66年には国民統一党が勝つという具合に政権が交代していきます.政権交代を繰り返すうちに,与野党間の政策の差はほとんどなくなってしまいました.それこそが米国流の二大政党政治を目指すフィゲーレスの狙いだったのでしょう.
1970年にはフィゲーレスが自ら二度目の大統領に出馬し当選します.しかし任期中に目立った政策の変化はありませんでした.74年,フィゲーレスのあとには,これまでの慣例を破り国民解放党政権が続くことになりました.ダニエル・オドゥベル大統領です.
彼の時代,親米反共の枠組みを残しつつも,外交政策はかなりの転換を果たします.米国銀行に対する各種の特権が廃止されました.政府はチリ軍事政権を非難し,北朝鮮と国交を樹立するなど対米追随一点張りだった外交姿勢が左展開します.77年には革命以来途絶していたキューバとの外交関係が復活しました.国内ではこれまで非合法化されてきた人民前衛党の活動が認められるようになりました.オドゥベル大統領は,ユナイテッド・ブランド社のスキャンダルを厳しく糾弾,事件が解明されなければこれまでの契約をすべて破棄すると通告します.
70年代半ばといえば,チリやアルゼンチンの軍事独裁などラテンアメリカ全土に反共の嵐が吹き荒れた時期でもあります.コスタリカの路線転換はこれらの逆風に対峙するものでもありました.
これらの路線転換は,発展途上国としての自国の再認識,アメリカ一辺倒から周辺の国との連帯へ,民主主義と中立路線の強化という80年代の路線への伏線となっています.それは社会民主党の初期の目標でもあったといえます.オドゥベルの政治がもたらした変化は,もっと注目されてもよいのではないかと思います.(オドゥベルはフィゲーレスらとともに,社会民主党創設者の一人)
軍隊を廃止して,果たして大丈夫だろうか? という疑問は,二度の経験で実践的に証明されました.
一度目は48年12月,フィゲーレスが軍の廃止を宣言した直後のことです.ソモサ大統領に支援されたピカドの部隊がニカラグア国境沿いから進入しました.
革命評議会はただちに民兵集団「カリブ軍団」を再召集しました.考えてみれば当たり前で,軍隊は半年前に戦った相手です.こんな連中は信用できません.おまけにテンから弱いときています.自らの手兵のほうがよほど信用できます.つまり,軍隊を廃止したことは,フィゲーレスにとって何の痛手でもありませんでした.むしろ軍に余分な気を使わなくてよいのでよほど気楽だったでしょう.
ピカドの進入を食い止める一方,コスタリカはただちに米州機構に提訴します.米州機構の盟主アメリカはニカラグアに強力な圧力をかけました.「可愛いコスタリカに何をするんだ」というわけです.これですっかりソモサはビビッてしまいます.ピカド軍は二週間ほど粘りましたが結局撤退.これで一件落着です.
フィゲーレスは見事に侵略を防止することができましたが,そのかわりアメリカには大きな借りをつくることになりました.この事件をきっかけに,市民警察とは別に地方警察が編成され,国境警備にあたるようになります.
二度目の侵入事件は55年に起こりました.前年の6月頃から国境沿いで挑発を繰り返したピカド(元大統領の息子)は,1月に入って国境を越えて侵入してきました.同時にアメリカ人パイロットがサンホセなどいくつかの町に爆弾を投下します.
コスタリカ市民警察はただちに予備役1万人を召集,侵入者との対応を始めます.一方で米州機構に調査を申請,米州機構は直ちにニカラグアの関与を明らかにし,ソモサに厳しい警告を発します.ソモサが手を引いたため,ピカドは孤立し,二週間後には撤退を余儀なくされました.
このあと,フィゲーレスは大胆な路線変更を行います.そもそも,自らも合意した停戦協定を無視し,反対派に対し財産・身分の剥奪と国外追放を強行し,共和党の発言権をいっさい封じたところで「民主政治」を続けることには無理があります.内戦の前までは,なんといっても共和党こそが国内の多数派だったわけです.それにカルデロンの時代こそ急進的な改革に走ったものの,この党の本質は保守派そのものです.
大胆な妥協,馴れ合い路線はイグレシアス以来のこの国の政治の知恵です.フィゲーレスも非合法化していた共和党を復活させました.そして仇敵に恩赦を与え,政治活動の自由を認めたのです.そして58年の大統領選挙で,ウラテらの国民統一党に一敗地にまみれ,政権を潔く引き渡したのです.
旧軍の廃止のウラには,市民警察の準軍事組織としての強化,アメリカへの「可愛い子ちゃん」路線,そして政敵との大胆な妥協などの知恵が秘められているのです.ただしこれらのマキャベリックな「手法」を賞賛するか否かは,その人の価値観にかかわってくるでしょう.
二度の侵入事件を切り抜けたコスタリカは,親米路線をますます強化していきます.
60年,サンホセで開かれた米州機構外相会議は,あげてキューバの急進主義に対する非難の場となりました.それはやがてキューバの除名,そして経済制裁へとつながっていきます.
61年,キューバの反革命集団が侵攻作戦を実施し,見事な惨敗に終わります.これがピッグス湾事件です.このときグアテマラやニカラグアは基地を提供するなど,作戦に深くかかわったのですが,コスタリカ政府も支援活動に参加していたとされています.(詳細不明)
63年,コスタリカのイニシアチブで中米首脳会議が開かれました.会議ではキューバの影響を受けた国内外の大衆闘争と,全面的に対決する立場を表明した共同宣言を採択しています.アメリカの差し金であることは明らかです.
65年,ドミニカで立憲派の軍人によるクーデターが成功します.彼らは二年前軍事クーデターで追放されたフアン・ボッシュ大統領の復権を求めていました.民衆は狂喜してこの政変を歓迎しました.フアン・ボッシュはフィゲーレスが反乱を起こす前からの「カリブ軍団」の盟友でもありました.
しかしアメリカは「クーデターは違法だ」としてこれに介入,海兵隊を送り反乱を鎮圧します.正統に選ばれた大統領を軍事クーデターで葬ったのは,どこの誰だったのでしょう.
このときコスタリカは「米州機構の求めに応じ」なんと軍隊を派遣するのです.「コスタリカに軍隊があったかしら?」と思うのですが,おそらくは市民警察の一部なのでしょう.他のラテンアメリカ諸国は,かなりの反共国も含め,ドミニカへの派兵には躊躇せざるを得ませんでした.実際に派兵したのはコスタリカとブラジルだけです.これが「軍隊を捨てた」ことの見返りだとすれば,かなり辛い選択ではあります.
80年代の激動を規定する二つの要因はニカラグア問題と対外債務問題です.問題は二つの問題がまったく独立しているわけではなく,連動している面があることです.なぜ連動するかといえば,アメリカがふたつの問題をリンクさせてしまうからです.
順を追って説明したほうが良いでしょう.まずニカラグアからです.
ニカラグアではソモサ親子による独裁政治が40年以上も続いていました.とくに最後の息子ソモサ・デバイレの支配は,その凶暴振りといい,腐敗振りといい,目を覆うほどのものでした.73年にニカラグアの首都マナグアを大地震が襲いますが,これに対して寄せられた各国からの支援や義捐金などをソモサが着服してしまうのです.
国内では反対闘争が強まりますが,ソモサは穏健派であろうと,教会関係者であろうと遠慮会釈なく,片っ端から血祭りに上げていきます.オドゥベル大統領はニカラグアの状況に義憤を感じ,反対派の運動に何くれとなく面倒を見るようになります.いつの間にかニカラグアのあらゆる反体制派勢力がコスタリカに結集するようになり,サンホセはニカラグア革命のセンター兼サンクチュアリになって行きます.
78年に大統領が交代し,保守系連合のカラソが大統領となりますが,ニカラグアの進歩勢力への支持は変わりません.79年,サンディニスタから財界代表まですべての勢力をふくむ臨時政府が,サンホセに樹立されました.この臨時政府はただちにニカラグア国民に対し一斉蜂起を指示します.
ニカラグア国内での蜂起と同時に,コスタリカ領内から革命軍が出陣しました.この部隊の司令官はエデン・パストラ.1年前の国会宮殿占拠事件の指揮をとった人物です.部隊を構成したのはニカラグア人だけではありませんでした.ベネズエラやコロンビアの義勇兵,パナマからはなんと現職の厚生大臣が職を投げ打って参加しています.
コスタリカだけが突出していたわけではありません.むしろ,いちばんはしゃいでいたのはベネズエラのペレス大統領だったでしょう.彼は革命軍の根拠地コスタリカがニカラグアから攻撃されないよう,コスタリカと相互防衛条約を結びました.コロンビアやメキシコも,コスタリカに力強い声援のエールを送ります.コスタリカの長い歴史の中で,これほどラテンアメリカ諸国との連帯を感じたときはなかったでしょう.
アメリカのカーター政権は中途半端な態度に終始しました.「人権外交」を唱導する手前,明からさまにソモサを支援することはできません.さりとてサンディニスタに政権を奪われるのもしゃくな話.というわけで,実際には手をこまねいたままでした.
7月,ニカラグア革命は成功し,ソモサは国外に追放されます.コスタリカは口先だけなく,実際の行いとして,ラテンアメリカ諸国の一員であることを証明して見せたのです.革命成功後,臨時政府が真っ先に招いた国賓はカラソ大統領でした.
これでめでたしめでたしとなればよいのですが,そうは問屋がおろしません.
問題は別のところから生じました.70年代を通じてコーヒーの国際価格は比較的高水準で経過しました.ブラジルで不作が続いたこと,消費者のあいだに高級志向が高まったことなどが上げられます.
しかし70年代末頃から,コーヒーは生産過剰になり,価格は一気に急落します.そこへ持ってきて,二度のオイル・ショックです.輸入製品の価格が高騰しました.日本でもトイレット・ペーパー騒ぎなど深刻でした.
とくに78年の第二次オイル・ショックは激烈でした.実は第一次オイル・ショックのあと,世界中にあふれたオイルダラーが投資先を求めて中南米に集中したのです.それが二度目のオイル・ショックで一気に海外流出しました.
輸出不振のため,経済成長率は10%からマイナス2.4%に落ち込みました.政府は緊急の景気浮揚策をとりますが,これが結果的には裏目に出ました.対外債務はあっというまに40億ドルに膨らみます.不況とインフレが同時にやってくるという状況に加え,海外からの資金がいっせいに逃避する事態が,混乱に拍車をかけます.「福は外,鬼は内」の世界です.
81年に米大統領となったレーガンは,高金利政策でドルを呼び込む政策をとりました.80年代前半,米連邦債金利は10%を超えます.オイルダラーとかユーロダラーなどと呼ばれる投機的資金が,いっせいにアメリカに流れ込みました.このために,中南米の経済危機は一層深刻なものとなりました.
82年には中南米第二の大国メキシコで,金利支払いが不能になります.これが次々に各国に波及,あおりを食らった軍事独裁政権がばたばたと倒れます.ラテンアメリカ諸国が軍事独裁を終わらせ民主化を達成できたのは,皮肉なことにこの金融危機のおかげでした.しかし民主化を達成した国々は,その後イバラの道を歩むことになります.
81年9月,コスタリカ政府は対外債務の利払い停止を発表.IMFの管理下に入りました.失業率は10%を上回りました.通貨が切下げられ,賃金は凍結され,福祉の切り捨てが強行されました.基礎食糧への価格維持政策も停止されました.経済成長率は実にマイナス7.3%を記録します.
労働者の生活困難は深刻化,これに抗議する労働運動も激化します.これを力づくで押し込めようとする市民警察は,暴力的色彩を強めます.バナナ労働者のストライキに対して銃を発砲するなどの事件も,この時期には発生しています.
アメリカは,早速こうしたコスタリカの弱みにつけ込んできました.極右で鳴るカークパトリック国連大使がコスタリカに乗り込み,カラソ大統領と直談判します.会談後,カークパトリックは,コスタリカが経済援助の強化と引き換えに「防衛協力」を受け入れたと発表します.「防衛協力」とはコントラ支援に協力するということです.
カラソはこれを全面否定し,カークパトリックに謝罪を求める声明を出します.解放の最大の功労者として,ニカラグアの国を挙げて歓迎されたばかりのカラソにとっては,とんでもない話です.しかしこのとんでもない話が,実は真実だった可能性もあります.カラソの声明を聞いたサンホセ駐在のウィンザー米大使は,カラソを「精神異常者」とこき下ろしたといいます.
このあと,米国からの援助額は急増します.84年にはキッシンジャー勧告を受け,総額80億ドル(1兆円)の資金援助が中米に投下されるに至ります.
アメリカの「支援」の条件は「防衛協力」ばかりではありませんでした.従来,IMFの貸付条件はマクロ経済の改善,つまり緊縮路線の押し付けだけでした.それ以上の条件をつけることは内政干渉であり,経済主権の侵害であるとみなされてきました.経済構造の改善や近代化が必要な場合は,その国のもとめに応じて世界銀行や,国際開発援助機構が支援に入るという役割分担になっていました.
この頃から,重債務国への「支援」は,その国の経済構造の変化まで迫るようになりました.それが資本自由化,開放経済,民営化などのマネタリズム路線です.手っ取り早くいえば,IMF・世銀・開発援助機構がグルになり,ひん死の病人から布団を剥ぎ取るように,未来永劫にわたって徹底的に搾り取ろうという仕組みです.
アメリカは,財政支援に「構造改革」の紐をつけました.コスタリカには,フィゲーレス以来国有化されていた銀行業務を民営化せよとの条件です.ウィンザー大使は「21世紀を発達した国として迎えるため,国民解放党はもう少しプラグマチックな考えを持つべき」と圧力をかけます.議会は連続20時間にわたる討議の末,援助の受け容れと銀行の民営化を決議しました.営々と築き上げてきた経済主権を放棄する屈辱の内容です.
79年,ニカラグアでサンディニスタ革命が成功したとき,グアテマラも,エルサルバドルもホンジュラスもすべて軍事独裁国家でした.それらの国でも,同じように民主化闘争が高揚していました.特にエルサルバドルでは,軍部の厳しい弾圧にもかかわらず,あと一歩で民主化実現というところまで来ていました.
サンディニスタの成功を見て,これらの運動にはいっそうの弾みがつきました.とくにエルサルでは,81年の革命勢力の一斉蜂起へと結びついていきました.まさにこのとき大統領となったレーガンは,いかなる手段を使ってでも民族主義政権の成立を阻止しようと決意を固めました.
当初レーガンはエルサルバドルの解放闘争を押さえ込むことに力を集中しましたが,それだけではだめで,解放闘争の聖域となっているニカラグアを叩く以外に道はないと決めました.
しかし主権を持った独立国家であるニカラグアをやっつけるには,それなりの口実がなければなりません.そこでレーガンはニカラグア国内の反政府分子をかき集め,コスタリカやホンジュラスで反政府宣伝を行わせました.また「ニカラグアはエルサルバドルの革命勢力を支援し,国際平和を乱している」と宣伝.同時に旧ソモサ軍兵士をかき集め,テロリスト部隊を編成します.これがコントラです.コントラとはコントラ・レボルショナリオ(反革命)の通称です.
アメリカはコントラを組織するに当たって,手練手管を用います.ニカラグアの北側の国ホンジュラスは当時軍事独裁国家でした.だいたい,軍部というのはアメリカの言うなりの組織です.したがってホンジュラスでは何の遠慮もなしに,アメリカ軍の直接指導の下に強力な部隊を形成します.中核となったのはソモサ時代の軍人たちです.戦争には慣れていますし,サンディニスタに対する敵愾心も旺盛です.
しかしこの極悪非道な連中をコスタリカに持ってくるわけには行きません.コスタリカ国民は,そこまでは許さないでしょう.そこでコスタリカには元サンディニスタとか,あまり手の汚れていない連中を集めます.司令官となったのはサンディニスタ政府で国防次官をつとめたパストラでした.
パストラを中心に「民主革命同盟」が結成されました.アメリカとしては,これを将来の臨時政府の足がかりにしようと考えていました.82年4月,彼はサンホセで記者会見を開き,「今やサンディニスタは,ソ連・キューバにあやつられた裏切り者,暗殺者集団である」と非難します.
83年3月,コントラの総攻撃が開始されます.北からは,ホンジュラス空軍の全面支援を受けた落下傘部隊1千5百名が,首都マナグアの100キロ北に降下しました.コスタリカのパストラ部隊も,ニカラグアへの侵入を開始します.5月にはコスタリカ国境地帯で激戦が展開され,コスタリカ当局の発表によれば,死傷者300人以上を出す程の規模となりました.もはや全面戦争です.
しかしコスタリカ領内におけるコントラの活動は,どんな装いを凝らそうと,国内法に照らし合わせれば明らかに非合法です.自国の軍隊すら持たない国が,どうして,得体の知れない武装勢力が国内に存在することを許すことができるでしょうか.
アメリカにとっては,軍隊を廃止することを決めたこの憲法が,邪魔で邪魔でなりません.まずアメリカは,ニカラグアとの戦争において,コスタリカが中立の立場を捨てるよう求めました.コスタリカがニカラグアに対して敵対的立場をとってこそ,コントラも活動する根拠が生まれるからです.
ついでアメリカはコスタリカが事実上の再軍備に踏み切るよう促しました.コスタリカとニカラグアが事実上の敵対的立場になれば,さすがに自前の軍備なしでは自国の防衛は不可能だからです.しかし,再軍備を促す真の理由は別のところにあります.軍隊を持たないということは,武装の禁止であり,武器を持たず,持ち込まずということだからです.そうなると,コントラに武器・弾薬を補給することは明らかな違法行為であり,もしそれをアメリカがやれば,まごう事なき国際法違反になるからです.
アメリカはその国際法違反をすでに行っていました.ニカラグアとの国境近くに民間人を装ったCIAのエージェントが牧場を持っていました.この牧場内には秘密の滑走路が建設され,エルサルバドルの基地から定期便が飛んでいました.
この定期便で軍事物資が運ばれ,なんと麻薬まで運んでいました.これらの事実はイラン・コントラゲート裁判の中で明らかにされました.逆に,もしコスタリカが再軍備を行えば,軍事物資は堂々と表口から運びこむことができます.あとは軍隊にちょっと手心を加えてもらえば,それらの軍事物資は大量かつ迅速にコントラ部隊の手へと渡ることが出来るわけです.
あとはもちろん,コスタリカ政府とのあいだでコントラ支援に関する協定が締結できればいうことはありませんし,場合によってはアメリカ軍が直接進駐したり,共同作戦本部を設置する事も考えられます.それらはすでにホンジュラスで実施済みのことです.しかしアメリカは,とりあえずそこまでは高望みはしていませんでした.
日本の憲法9条と違い,コスタリカの憲法は軍隊を持つことを絶対的に禁止しているわけではありません.非武装はむしろ政策原則として確認されている事項です.日本の「非核三原則」と同じような位置づけです.福田官房長官ではありませんが,絶対的なハードルではないのです.
したがって,この間の政治的せめぎ合いを通じて,コスタリカのニカラグアに対する中立の立場を突き崩せるかどうかが,究極的な争点となっていくのです.
ラテンアメリカの現代史を勉強していると,アメリカが気に食わない政府を倒すときの手口はおおよそ分かります.まず新聞・テレビなどを使った大々的な反政府宣伝です.それは明確にデマ宣伝です.ほとんどの宣伝文句について,それがデマであったことが後に証明されています.
コントラ戦争の場合は,謀略戦としての色彩が濃厚なだけに,デマ宣伝も激烈かつ破廉恥でした.「ウソも百回つけば真実になる」とうそぶいたナチスのゲッペルス宣伝相も,草葉の陰で嘆いていることでしょう.
さまざまな「大事件」が繰り返し報道されましたが,そのほとんどは出所不明であり,後にデマであることが明らかになりました.しかしレーガンは,嘘がばれても恬として恥じないだけの鉄面皮の持ち主でした.あるいはすでにボケが始まっていて,善悪の価値判断ができなくなっていたのかもしれません.もしそうだとすれば,我々は恐ろしい時代にいたということになります.
このゲッペルスも真っ青のデマ作戦の統括者がオットー・ライヒ,国務省の公共宣伝局主任です.彼は後にイラン・コントラゲート事件で失脚しますが,ブッシュ二世の下で復活.ベネズエラ大使に任命されます.彼が任命されたベネズエラで何が起こったかは皆様ご承知のとおりです.
コスタリカでデマ宣伝の主役となったのは,発行部数75万部を誇る最大の新聞「ラ・ナシオン」紙です.この新聞はかつてウビコが軍事クーデターを起こしたとき,軍事クーデターをあおった前科を持つ新聞です.ウビコ政権が打倒されたとき,この新聞社は焼き討ちにあったのですが,その後性懲りもなく反共宣伝を繰り返してきました.もうひとつの全国紙プレンサ・リブレも似たり寄ったりのものでした.いわばコスタリカの全国紙は読売新聞と産経新聞しかないという状況なのでしょうか.
最初の事件が航空会社爆破事件です.82年7月,ホンジュラス航空のサンホセ事務所で爆弾事件がありました.ラ・ナシオン紙は犯人がニカラグア・ナンバーの車に乗っていたとし,プレンサ・リブレ紙は外交官プレートをつけた赤の車だったと報道します.考えてみれば,もしどちらかが本当なら,片方は嘘になるといったきわめていい加減なものですが,なんとなく二つの新聞を読むと「あぁニカラグア大使館の誰かがやったのか」と思ってしまいます.
まもなく「犯人」が挙げられ,その「自白」によってニカラグア外交官三人が拘留されました.三人は即日国外追放となります.事件はこれで終わりました.ところが,翌年4月,この「犯人」の証言が虚偽に基づくものであることが判明しました.犯人はひそかに釈放されますが,このことはコスタリカの新聞は報道しませんでした.もちろん謝罪もしませんでした.
次は83年8月,バスク人テロリストが逮捕されました.米国務省報告によれば,彼はパストラの「家」をスケッチしているところを不審尋問されたといいます.当局は,このテロリストがサンディニスタの依頼を受け,パストラを暗殺しようとしていたと発表,反ニカラグア感情をあおります.なおパストラは84年に記者会見の席上爆弾を仕掛けられ片足を失っています.このときも,当局は「サンディニスタの依頼を受けたバスク人テロリストによる犯行」と発表しましたが,のちにCIAの雇ったゲリラによる犯行であったことが明らかになっています.
続いて9月,パストラの部隊が越境し,ニカラグアの国境事務所を襲撃します.ニカラグア軍の追撃にあい戻ってきたパストラ部隊は,ついでにコスタリカ側の事務所も破壊しました.「ラ・ナシオン」紙は事件をニカラグアの挑発として大々的に宣伝しました.そしてこの事件を引き合いに,「モンヘは中立宣言を再考しなければならない」とおどします.モンヘ大統領はこれに応じニカラグアに激しく抗議します.
これらのデマ宣伝の中で頂点をなすのがラス・クルシタス事件でしょう.85年5月28日,コスタリカ領内から出撃したコントラ部隊が,ニカラグアの国境警備隊と交戦します.戦況不利となったコントラはコスタリカ領内に逃げ込みました.これと交戦したニカラグア軍の銃弾がコスタリカ市民警察の兵二人に当たります.
マスコミはいっせいに「クルシタスの悲劇」を取り上げ,サンディニスタの侵略姿勢の表れと報道します.サンホセのニカラグア大使館には暴徒が押し寄せました.モンヘ大統領は事件を,ニカラグアによる計画的攻撃と断定,コスタリカ大使を召還し,両国関係を凍結します.米政府はただちに緊急の武器供与を実施しました.
実は,これらの宣伝がデマだということは,分かる人には分かっていました.フィゲーレス元大統領は「事件の責任がサンディニスタにあるというが,それは完全に証明されたとは思えない.むしろ,それは国際的に作り出された策略の一部分のようにみえる」と語っています.おそらくモンヘも分かっていただろうと思います.対外債務問題で妥協したからには,分かっていても沈黙を守らなければならないのです.しかしそれがどこまで続くのか,どこまで広がっていくのか,悩みと不信も深まらざるを得ません.
反共デマ宣伝の下,社会の「準軍事化」も野放図に広がって行きます.早くも81年には準軍事組織「コンドル軍団」が創設されました.翌年には「コブラ軍団」も創設されます.
82年に入ると準軍事化の波は政府機関まで覆うようになります.それが半官半民の準軍事組織「国家緊急人民組織」(OPEN)です.最大のミステリアスな特徴は,世界反共連盟の支援を受け,エルサルバドルのORDENを手本にするという極右テロ組織でありながら,政府組織の後援を受けているということです.たとえばジョニー・カンポス公安副大臣は,「OPENのメンバーは民主主義に対する信仰が試されたものでなければならない.したがって共産主義者の参加は許されない」と述べています.
オルデンの名前を聞いたら誰でも縮み上がらずにはいられないでしょう.
殺人狂ダビュイソン大佐が率いるオルデンは,1980年のあいだ毎月千名づつエルサルバドル人を虐殺しました.ロメロ大司教もその一人です.アメリカ人の尼さん4人も強姦の末殺されました.サンサルバドルの町では毎晩,ラジオのサッカー中継の音にあわせて,拷問される人の悲鳴がどこからともなく聞こえたといいます.(拙訳「エルサルバドル便り」をご参照ください.
彼らの仕事振りは異常なほどマメでした.死体の首と手足は必ず切り離され,市営のゴミ捨て場か,海岸の崖の下に投げ込まれました.女性は必ず強姦され,性器をえぐられたあと殺害されました.オペンには公称で1万の市民が結集しました.週末を利用して軽火器の取り扱い,救急処置などの訓練を繰り返したそうです.殺人鬼の集団が市民を相手に,猫なで声で救急処置を指導するシーンなど,想像するだけでもおぞましいものです.
これらの準軍事組織を政治的に指導する結社も創設されました.名前を自由コスタリカ運動(MCRL)といいます.この組織は世界反共連盟の指導を受けて創設されました.エルサルバドルでいえば,オルデンが陰の軍事部門,アレーナが政治組織です.このアレーナはいまだにエルサルバドルの政権を握り,支配しています.
この組織の指導者はベンハミン・ピサといいます.彼はコスタリカ商工会議所の会頭で,右翼の大立物です.後にモンヘ政権に食い込み,公共安全相をつとめるまでになります.MCRLは街頭で妄動を展開し,左翼や平和活動家への襲撃を繰り返すなど,エルサルバドルやグアテマラと同じ状況を作り出すようになります.
アメリカがこれらの組織を立ち上げたのは,公然の秘密となっていました.コスタリカ領内のARDE軍千5百,コンドル,コブラ軍団などの準軍事組織に豊富な武器が供与されます.
しかしこれらの準軍事組織は,国内で民主勢力を弾圧するには大いに威力を発揮しますが,ニカラグア軍との直接対決を想定した場合は圧倒的に力不足です.さらに市民警察をそのままにしておいたのでは,準軍事組織との関係もあやういものになります.どうしても市民警察の武装を強化し,事実上の軍隊化させる以外に道はありません.
実は81年の「精神異常者」騒動のとき,すでに市民警察の装備強化が米=コスタリカ両国のあいだで合意されていました.カラソはそれを秘密にしておきたかったから,カークパトリックの発言に「激怒」して見せたに過ぎません.コンドルもコブラも市民警察の別働隊に他なりません.
それでも市民警察への「軍事援助」は,援助が開始された81年には,30万ドルに過ぎませんでした.それが85年には1千万ドルを超えるまで増加していきます.軍事援助の伸びは,財政援助が1,600万ドルから,2億ドルへと急増したことと符牒をあわせていました.
目に見えて変わったのは,市民警察の装備です.以前は街をパトロールする警官は丸腰でした.しかし治安の悪化を理由に警官の装備も強化されます.サンホセの中心部でも,海兵隊戦闘服スタイル(警官服)の警官が,M16自動小銃を肩に濶歩するようになりました.この時期数千丁のライフルがアメリカから持ち込まれたといわれます.警官一人が1丁づつもって,まだお釣りがくる計算です.警察車両もMPと見まごうオリーブ色のジープとなりました.
85年,ついに市民警察内に本格的な戦闘部隊が誕生します.これが「稲妻大隊」(Batallon Relampago)です.指導したのはグリーンベレーの「特殊部隊移動訓練チーム」24人です.総勢750名の堂々たるカンパニーです.ナシオン紙は,「彼らはピストルだけの警察官とはまったく異なり,M16小銃とM60マシンガンで完全装備し,M2,M3榴弾砲,迫撃砲,対戦車砲,武装ヘリを保持しいる」と報道しています.
小隊長以上の将官は,これに先駆け,ホンジュラスの米軍訓練センターに派遣されました.彼らは二ヶ月にわたって,対テロ工作のノウハウをみっちり仕込まれます.
ここまでくると政府としても沈黙を守ったままではいられません.85年4月,大統領府は「イスラエルと米国の支援を受け,警察内に対テロ作戦部隊が組織された」と発表します.しかしその詳細は明らかにはされませんでした.とても明らかにできるような中身ではなかったからです.
アトラカル大隊
同じような経過で編成されたのが,エルサルバドルの「アトラカル大隊」でした.彼らの対テロ工作というのは,ゲリラ浸透地区に侵入しては,住民を皆殺しにすることでした.厳重な秘匿にもかかわらず,彼らの悪行はすでに中米全域に知れわたっていました.
中でも有名なのが81年5月のリオ・スンプルの大虐殺,そして11月のエル・モソテの大虐殺です.リオ・スンプルではおよそ3千5百人が行方不明となりました.エル・モソテ地区で展開された掃討作戦では,女性と子供を中心に9百名が虐殺されました.エル・モソテの現場に居合わせたCBSの記者は,米軍事顧問団が作戦に参加していたことを確認しています.(私のページ「エルサルバドルの歴史2」をご参照ください)「軍隊のない国」のはずのコスタリカに,いつの間にか中米屈指の戦闘部隊が出来上がっていたのですから,市民の驚きは大変なものでした.市民の抗議はモンヘと米大使館に集中します.
82年5月,カラソのあとを継いだ国民解放党のモンヘ大統領ほど,激動の中で揺さぶられ続けた大統領はいないでしょう.82年,カラソの後をついで大統領に就任したとき,すでに財政は破綻状態にあり,膨大な対外債務が残されました.
これだけでも手に余るほどの難題なのに,ニカラグア問題をめぐってアメリカが露骨な干渉を仕掛けてきました.そしてこの国の国是である「非武装・中立」を根こそぎ破棄し,強大な軍備とコントラの武力を背景にニカラグアと戦わそうとしたのです.それはコスタリカの独立国としての尊厳を犯し,事実上のアメリカ植民地にする攻撃でもありました.
しかし,親米を外交の基調とし,アメリカに依拠することによって自国の安全を守ってきたコスタリカにとっては,そのアメリカに逆らうようなまねはできません.まして対外債務と財政破綻を前に,なんとか経済の再建を図り国民の生活を守るためには,アメリカからの援助に頼らざるを得ないという台所事情もあります.
アメリカからの財政援助を受けながらも,何とか「非武装・中立」の国是は守り,ニカラグア=コントラの戦争に巻き込まれないようにするという,手品のような外交が開始されました.しかしそれは,アメリカの側から考えてみればずいぶんと虫のいい話で,そのような話が通じるわけもありません.実際にはモンヘの4年間は妥協に次ぐ妥協,追認に次ぐ追認,後退に次ぐ後退で,ほとんどニカラグアとの開戦一歩手前まで行ってしまうのです.
しかしモンヘは,フィゲーレスらとともに国民解放党の創設期からのベテラン活動家です.非武装・中立路線を守る立場は彼なりに貫かれていたものと思われます.客観的な結果は別にしての話ですが.
その表われが,83年11月の非武装・中立宣言です.これは正式には「コスタリカの永世的、積極的、非武装中立に関する大統領宣言」と呼ばれます.
このころ,コスタリカを拠点とするコントラ部隊は,ホンジュラス側のコントラを上回るような派手な破壊活動で,国際的注目を集めるようになっていました.双発セスナ機が,民間専用のサンディーノ国際空港を爆撃し,管制塔を破壊するなどの被害を与えます.ついでコスタリカ国境地帯から出撃したゲリラ部隊が,ニカラグアとコスタリカの税関事務所を破壊しました.これがナシオン紙の一大デマ作戦の題材となったのは,先ほど述べたとおりです.
CIAはこのとき,来るべきニカラグア新政府を,パストラを中心に構築するつもりだったといわれます.なにせホンジュラス側のコントラは,ほとんどが旧ソモサ軍で,とても国際的世論の支持は得られないと踏んだからです.
コントラにここまでやられたのでは,とても中立国としての体面が保てません.それどころか,ナシオン紙は中立宣言を再考すべきだとモンヘに迫る始末です.
アメリカの体面を傷つけることなく,コントラの活動を抑える方法はないだろうか,ということで考え出されたのが,この大統領宣言でした.これは議会決議でもなく法律でもありません.出すだけなら大統領が勝手に出せばいい話です.靖国参拝と似たところがあります.しかしモンヘは,この宣言に対する国民アンケートという手段を考えつきました.国民投票ということになると議会の承認が必要ですが,ただのアンケートであるというのがミソです.
宣言の中身もなかなか巧妙でした.非武装・中立の上に「永世的、積極的」という形容詞を乗っけて,これまでの非武装・中立をさらに厳粛かつ壮大なものにするような装いを凝らしました.軍隊を復活させないこと,近隣諸国の内戦に介入しないなどの一般的義務条項が再確認されました.しかしこの宣言の真の狙いは,付則のようにつけられた第三の義務,すなわち「国を交戦当事者の作戦基地に使わせない義務」条項でした.
この条項には細則が加わっています.すなわち,(1)当事者へのあらゆる支持と援助の禁止、(2)軍事輸送の領土通過の否認、(3)当事者との通信用無線施設の否認、(4)当事者のための徴募用事務所開設の阻止、(5)国内に侵入してくる戦闘員の武装解除、隔離、留置などの義務,です.
国民の支持は圧倒的でした.83%が軍創設に反対,77%は武器購入にも反対の意思を表明しました.
その後の経過を見れば明らかなように,この「宣言」はアメリカや国内反動層によってないがしろにされました.大量の武器が輸入され,大隊規模の軍隊が創設されました.市民警察はどう見ても軍隊としかいえないようなものに変質していきました.コントラの活動は野放しにされ,国境ぞいには大規模な前進基地が建設されていきました.
それではこの宣言がまったく無意味だったのでしょうか.そんなことはありません.この宣言が成立したために,再軍備と戦争準備は,国民の圧倒的多数の意見に逆らって進行するという形をとらざるを得なくなりました.それらの計画は,大統領の意見にすら逆らっているということが,日々確認されることになりました.この宣言は,戦争に反対する人たちにとって,移り行く情勢,激動する状況を評価する上での座標軸となりました.たとえ一時,荒波がその上を越えていこうと,「宣言」は平和を愛する人々が必死で守るべき防波堤となりました.そして戦争勢力を追い詰めて行くたたかいの合言葉となりました.
「宣言」の意義は,その成立過程ではなく,そこに人々が如何に生命の息吹を吹き込むかによって決まります.「宣言」の価値は,平和を愛する人々の壮大な隊列の上でこそ,輝きを増すのです.そういう点では憲法第9条にも似たところがあるかもしれません.
リアルな政治の世界に戻りましょう.
アメリカはこの大統領宣言を明からさまに無視する態度に出ました.ウィンザー米大使は宣言式典を欠席しました.式の直後,アメリカ政府は「戦闘技術者」千名の国境地帯への派遣と,道路・橋梁の整備を提案します.議会はこの提案をきっぱりと拒否しました.それにしても「戦闘技術者」とはどんな技術者なのでしょう.
年末にかけてニカラグアとの国境地帯を視察したアメリカ国防次官補アイクルは,うっかりか意識的かは分かりませんが,マスコミにリークします.「クリスマス前には米技術者100人が入り,道路や防衛施設を建設することになるだろう」と.大統領宣言をなめきったこの発言に,コスタリカの世論は沸騰します.抗議を承けたモンヘは「プロジェクトの停止と見直し」を発表しました.
モンヘの煮え切らない態度に業を煮やしたアメリカは,政権への直接介入に手をつけます.84年7月,保守派・財界・マスコミが一体となった政府攻撃が開始されました.旗振り役を務めたのはMCRLのピサ,最大の応援団となったのがナシオン紙でした.
政府への攻撃はまずソラーノ公共安全相に集中しました.ピサはソラーノを共産主義者と断罪.更迭を求めます.そして8月末までに行動が起こされなければ資本家ストも辞さないと脅迫します.ナシオン紙はソラーノに親サンディニスタのレッテルを貼り,罷免を要求する大キャンペーンを展開します.ところでソラーノは共産主義者でもサンディニスタでもなく,ゴチゴチの社会民主主義者です.ただ党内では中立派を代表する人物とされ,この間コントラの取締りを強化してきました.
与党内にも,アメリカ大使館に買収され寝返る大物が出現してきました.その中心がアラウス第一副大統領とカーロ内相です.カーロは8月初めナシオン紙とインタビュー.「モンヘは立場をあいまいなままにするのなら,アルマンド・アラウス第一副大統領にその席を譲るべきだ」と述べます.
おひざ元での反乱もさることながら,「資本家スト」という言葉は恐ろしいものです.かつてチリで人民連合政府は,あいつぐ資本家ストでずたずたにされ,最後にピノチェトのクーデターにより崩壊しました.それらはすべてアメリカの差し金でした.「資本家スト」という言葉は,米大使館が「言うことを聞かなければチリのようになる」というメッセージを発したことになります.
8月中旬,モンヘは内閣を改造しました.ソラーノは更迭されました.同時に公然たる反乱を起こしたカーロも更迭されました.しかしこの改造で最も重要なのは,反共の旗手ピサをソラーノの後任にすえたことです.コスタリカの伝統たる大胆な馴れ合い路線の延長かもしれませんが,それがその後の政局を一気に先鋭化させる伏線となったことは間違いありません.
モンヘは,いかにもバルカン政治家らしく,閣内の力のバランスを保とうとしたようですが,しょせんアメリカへの屈服でしかありません.このあと政府の統率力を失い,ピサに政局の主導権を奪われ,二年近い任期を残して事実上のレームダックと化してしまいます.多少の蓄財だけはしたようで,最近になってコスタリカ政府から訴えられているようです.
いっぽう,ピサのほうはやる気満々,9月にモンヘがヨーロッパに出かけると,その隙に独断で米大使と交渉.市民警察の米特殊部隊による訓練を依頼する協定を締結してしまいます.この協定こそが,先ほど述べた市民警察の事実上の武装化へと道を開いていくのです.協定交渉に関してモンヘへの事前通告はまったくなかったといわれています.しかし帰任したモンヘには,もはや協定を破棄する力も,ピサを更迭する力も残っていませんでした.
ここまでの話は,極めて錯綜しています.分かってはいるのですが,錯綜した問題をテーマ別に整理して述べると,時系列的にはずいぶん時期が前後してしまいます.いずれにしてもコスタリカにとって1983年から85年にかけての数年間は,それまでの500年近い歴史と匹敵するほどの濃密な時間であったということでしょう.
そしてラス・クルシタス事件の起こった1985年5月が,後で振り返るとコスタリカの流れの大きな転換点になっていることが分かります.
この時点での勢力配置をもう一度おさらいしてみましょう.アメリカでは1月にレーガンが再選を果たしています.後で明らかになるのですが,このときすでにレーガンのアルツハイマー病はかなり進行しています.政権の実権はブッシュ副大統領が握り,その配下としてノース中佐ら国家安全保障会議のスタッフが,大統領補佐官を上回る威勢を放っていました.もともと保守反動のレーガン政権ですが,この時期,その非道徳性,傲慢さ,暴力性は頂点に達していました.
彼らが求めたのはコスタリカのホンジュラス化でした.政府の統制を受けず,事実上米軍の指揮の下で動く常備軍.コントラの活動に対する無制限の許可.米軍の全面展開が可能となるような軍事協定.いざとなればニカラグアとの全面戦争も辞さない強硬姿勢.国内の反戦・親ニカラグア勢力への統制….これらがアメリカの求めたものでした.
国内では「非武装・中立」を掲げたモンヘ政権が,自ら引き入れたトロイの木馬により空中分解し,アメリカのごり押しに対する抵抗能力を失っていました.市民警察の武装化は着々と進行し,準軍事組織も拡大・強化されました.反戦平和勢力への暴行やテロが日常化し,サンディニスタへの支持などとても口にできないような状況が生まれました.もちろんコントラの活動は野放し状態です.まさに「有事体制」そのものです.
いっぽう,稲妻大隊の存在が明らかになったことから,国内の反対運動も急速に盛り上がっていました.このままでは大変なことになってします,そのことに対する危機感が急速に国民のあいだに浸透して行ったのです.
アメリカの強引な介入,極右勢力の跋扈,そして何よりも自ら築き上げてきた国民解放党の崩壊状況に,フィゲーレスは強い危機感を持ちました.すでにこの頃80歳を越えていたと思います.その老フィゲーレスが自ら事態の打開に乗り出しました.
ここから先しばらくは,かなり著者の個人的見解が入ります.
お互いばらばらになり,不信感を募らせ,憎しみ合う国内の諸勢力を,少なくともその大多数をどの旗の下に結集できるか,どこの線に第二の防御線を築けば,敗走する味方の軍勢を立ち止まらせ,ふたたび攻勢に転じることができるのか,それこそは政治家の判断のしどころです.
フィゲーレスはそれを『不戦』という一言に集約しました.アメリカがどんな不当な要求を突きつけようと,市民警察がどう重武装しようと,コントラがどんな勝手な行動をしようと,とりあえず目をつぶろうということです.そしてこの線で崩れかけた国民解放党の再結集を図ります.
フィゲーレスは,単身ニカラグアへ乗り込みます.おそらく,ニカラグアから何らかの心証を得るための行動でしょう.「不戦」で戦線を構築した際,もしニカラグアがこれを破るような行動に出れば,たちまちその戦線は瓦解してしまうからです.
ニカラグアはフィゲーレスを熱烈に歓迎しました.当時の新聞を見ても,行動の詳細はあまりはっきりしませんが,おそらく軍事機密も含め明らかにできる情報はすべて提供したと思います.そして国境沿いでのコントラ挑発に対し最大限の忍耐を続ける決意を表明したと思います.
85年6月,ニカラグア政府は,ホンジュラスとコスタリカ両国に対し書簡を送りました.そのなかで国境に非武装地帯を設定するよう提案します.両国政府は,この提案を一蹴しました.そのあと,今度はオルテガ大統領がモンヘ大統領に書簡を送り,「もしコスタリカが非武装地帯構想に応じなくても,ニカラグア独自に非武装地帯設ける」ことを明らかにします.最初の提案は煙幕で,こちらがニカラグアの真意でしょう.
国民解放党とキリスト教社会統一党は来年の大統領選挙に向けて候補者撰びに入りました.国民解放党はコスタリカ大学教授オスカル・アリアスを選出します.いっぽうキリスト教社会統一党は元大統領の息子ラファエル・カルデロンが立候補します.
カルデロンは中立政策に反対.ニカラグアとの断交,市民警察の増強を主張しました.彼は「もしニカラグア=ホンジュラス間に戦争が始まれば,市民警察部隊をホンジュラスに派遣し,ともに戦うべきである」とまで主張しました.これに対しアリアス陣営は中立維持と中米紛争の話し合いによる解決,コントラ支援政策の停止を訴えました.争点はきわめて明確です.
9月,最初の世論調査の結果が出ました.カルデロンが圧倒的優勢を示します.勝負の勢いというものでしょう.大統領選挙は戦争か平和かを決める国民投票ではありません.不況とインフレ,失業に苦しむコスタリカ国民にとって,アメリカからの援助はのどから手が出るほど欲しいものです.たとえひも付き援助であろうと,軍事援助であろうと,その金が市中に出回れば,庶民の懐もそれなりに潤うことになります.
国民解放党にとって,これらの要素は織り込み済みでしたが,やはり結果は厳しいものでした.「平和を唱えるだけでは選挙には勝てない」と痛感したのです.とくに最大の支持基盤であった都市中間層が不況の中で没落し,その力を失いつつあったことは大きな痛手でした.劣勢のアリアス陣営は,未だ投票態度を決めていない下層階級の取り込みに的を絞りました.新たな政策は住宅建設,雇用の発掘などを公約の真っ先に掲げました.そして厳しい経済情況の中でも社会福祉制度を維持すると訴えます.
85年の後半は,ますます戦争の危険が迫る時期でした.8月にホンジュラスのコントラが一斉攻撃をかけます.ニカラグアの北部は一時コントラの支配下に入りました.ニカラグア政府軍は懸命の努力で奪還に成功するのですが,国内の経済はこの攻防で無茶苦茶になりました.生産はストップし,対外債務は天文学的数字に達します.
アメリカはコスタリカ政府に対する攻撃をますます強めてきました.あらたにコスタリカ大使に任命されたルス・タムズは,ノースとともにレーガン政権の陰の実力者でした.今こそ決定的なときと読んだタムズは陣頭指揮に乗り出してきたわけです.CIAも悪名高い「暗殺マニュアル」の執筆者といわれるフェルナンデスを支局長として派遣します.
早速,サンホセのニカラグア大使館が襲撃されました.ニカラグアを戦争へと挑発しようという魂胆です.その後も連日,ニカラグア大使館前でMCRLが気勢をあげます.
事態を憂慮する平和団体,宗教団体等のメンバー約300人が「中米の平和のための行進」を実施しました.行進団はMCRLの襲撃を受け,4時間にわたり殴る蹴るの暴行を受けました.しかし居合わせた警察官は,それをただ見守るだけでした.いまや,コスタリカは「サルバドル化」しつつあります.
アメリカは,いまや御用達となったナシオン紙などを使い,大々的なデマ宣伝を開始します.インタビューに出演したタムズは,サンディニスタが「国境なき革命」を意図していると強調.サンディニスタを支援するキューバとソ連が,すでに国境の北側に配置されていると語りました.品性のかけらも感じられない真っ赤な嘘です.
さらにフィゲーレスに対する個人攻撃が開始されました.「サンホセ駐在のニカラグア大使レオネル・アルグエージョからフィゲーレスにあてた手紙」なるものが,マスコミで公開されます.この文書ではフィゲーレスがニカラグアの第五列であるかのように描き出されています.この「手紙」は,通信内容および,消印,署名などから偽造文書であることが,のちに発覚しました.
事態はまさに一触即発の危機を迎えていました.コスタリカの国民は事態の重大さをひしひしと感じるようになりました.それはアメリカをとるか,債務をとるか,景気をとるか,それとも平和をとるかという選択でした.
国民解放党の政策の最大の弱点は,アメリカとけんかしたとき経済がどうなるのか,しっかりした展望を出せないことです.野党側は徹底してそこを衝いて来ました.マスコミを使った大宣伝が効いて,当初は野党が優勢を示しました.
しかし2年にもわたって極度の政治的緊張が続くと,さすがに平和をもとめる声が高まり,戦争の真実も少しづつ知られるようになります.アメリカの傲慢さに対する反感も強まります.とくに国民的英雄であるフィゲーレスまで槍玉に挙げて,ニカラグアのスパイ呼ばわりする攻撃は,コスタリカ国民の神経を逆なでする結果となりました.
ことにコスタリカ国民にとって衝撃だったのは,「ラス・クルシタス事件はコントラのでっち上げだった」という現役コントラ兵士の証言でした.グリバリーとデービスという二人の英国人雇い兵は,CIAにリクルートされて,国境地帯でコントラの一員として破壊活動を続けていました.彼らは別件で当局に拘留されていましたが,逮捕の直前にCIAから指示を与えられていたといいます.
与えられた指示は,「町を砲撃した後,現場にニカラグア兵士の死体を“移植”せよ.ニカラグアによる侵入事件をでっち上げ,米国の干渉を誘発せよ」というものでした.その町はクルシタスとは違いますが,同じくコスタリカ領内の町です.
こうして国民は,アリアス支持に回るようになりました.そして86年2月,アリアスと国民解放党を勝利へと導いたのです.決して楽勝ではありません.アリアスの52%に対してカルデロンは46%,まさに薄氷を踏む勝利でした.国民は,迷いに迷いながら,平和を選んだのです.
これまで経過が錯綜しないよう,意識的にコンタドーラ・グループ(以下CGと略す)の動きについては触れないできました.しかしアリアスが提案し中米和平合意の基本となったエスキプラス協定は,CGの根気強い努力抜きには語れません.アリアスの功績をけなすつもりはありませんが,CGこそがノーベル平和賞を受けるにふさわしい組織ではないかと,今でも考えています.
CGが結成されたのは83年1月のことです.パナマのコンタドーラ島で,メキシコ,パナマ,ベネズエラ,コロンビアの4カ国外相会議が開かれました.会議は紛争の平和的解決に向けて調整活動を継続することで合意,ここにCGが創設されます.
会議の文書は「域外国の干渉を廃止,中米紛争を東西対立の文脈においてとらえず,関係国の対話・交渉による問題解決の必要性を訴える共同声明」と題されていました.ちょいと長い題名ですが,まさにCGの方向が示されています.
話せば長い経過になりますが,度重なるアメリカの干渉にもかかわらず,CGは粘り強い調整努力を続けました.直接それが実を結ばなくても,ラテンアメリカ諸国の総意を代表する機構として,アメリカをけん制するのには十分でした.
中米諸国も,CGの調停努力には十分敬意を払うのですが,なにせアメリカにがっちり喉元を握られているばかりでなく,それぞれが内戦状態にあるのですからおいそれと応じるわけには行きません.
それが86年に入ってから俄然,風向きが変わってきます.ラテンアメリカ全体に軍事独裁の終焉と民主化の波が押し寄せます.ペルー,ブラジル,ウルグアイ,そしてアルゼンチンなどです.この4カ国は民主化を達成するや直ちにCGを支持する立場を明らかにします.これらはCGに対して支持グループ(以下SGと略す)と呼ばれるようになりました.
CG+SGは86年1月,コロンビアのカラバジェーダで会議を開催.あらためて包括的な中米和平案を提示します.なおCG+SGは,のちにパナマをはずし7カ国でリオ・グループを形成することになります.
中米でも重要な変化が生まれてきました.アリアスよりわずかに早く,グアテマラで軍政が終了し,文民大統領が就任します.ホンジュラスでは軍内の権力移動があり,コントラに対して批判的な「自主派」が軍中枢を握りました.
グアテマラの新大統領セレソは,カラバジェーダ提案に沿って中米和平を実現しようと精力的に動き始めました.グアテマラは中米5カ国の中で比較的(あくまでも比較的ですが)アメリカの影響力が強くなかったため,いち早くCGに歩調をあわせることができたのです.86年1月に,グアテマラで行われたセレソ大統領の就任式にはCG諸国と,オルテガを含む中米5カ国の首脳が参加しました.セレソ新大統領はCG提案支持の立場から中米首脳会議を提唱します.
一つ一つの国は,弱いけれども,中米五カ国が何とか和解に向けての合意を実現できれば,その合意をラテンアメリカの諸国家が一体となって守る.そしてラテンアメリカが総がかりで,アメリカからの干渉を跳ね返そうという考えです.そんな考えが,中米全面戦争の瀬戸際で「希望」となって芽生えたのです.
私はその頃「自由か死か:ニカラグア」という本を出しました.その後書きで次のように書きました.多少はその頃の雰囲気が分かってもらえるかと思います.
任期切れを目前にしたモンヘ大統領は,最後っ屁を放っていきます.両国はクルシタス以来凍結されていたニカラグアとの関係を正常化.さらにコンタドーラ・グループの援助を受け,国境地帯に国際監視・査察団を配備することで合意します.CGは得たりとばかりに国際監視団の創設を決議しました.
しかしアメリカはまったく知らぬ顔です.米陸軍工兵部隊186名が国境ぞいのコスタリカ領内に入りこみ,滑走路の整備工事を開始しました.しかもニカラグアの偵察ヘリを撃墜までして見せます.他人様の国ですよ! いったいどういう神経をしているのでしょうか.しかもモンヘはこれに抗議もできません.
五月,アリアスの就任式が行われました.アリアスはコントラの領土利用を拒否するとともに,コンタドーラ提案を遵守すると宣言します.オルテガは保安上の理由で出席を拒否されました.
就任後,早速アリアスはコントラへの規制を始めますが,最初はモンヘもやっていた程度のご挨拶でした.コントラ兵士を捕まえては何日か拘留し,国外追放するというアリバイ規制です.ところが,そろそろ馴れ合ってきたかとおもった86年9月,アリアスは突然大胆な行動に出ます.
コスタリカ政府は米政府に対し,国境地帯の米国人ジョン・ハルが所有する農場を閉鎖すると通告しました.いうまでもなくCIAの秘密基地です.市民警察は間髪をおかず農場を急襲,ドラム缶77本のガソリンを押収し,滑走路を閉鎖してしまいます.作戦終了を待ってアリアスは記者会見.作戦の概要を説明するとともに,これ以上のコントラの活動を許さないと表明しました.
まさに驚天動地です.アメリカにとっても寝耳に水の出来事でした.後に公開されたNSCの秘密文書で,ノースはこう発言しています.「アリアスを呼びつけてこう言ってやる.『もし作戦を実施するなら,8千万ドルの経済援助を停止し,レーガンとの会談予定もキャンセルしてやる』と」
モンヘがいかに歯軋りしてもできなかった,CIA基地の閉鎖をどうしてアリアスができたのか,その辺はよく分かりません.しかしいずれにしても,それが乾坤一擲の大勝負だったことは間違いありません.レーガンは任期の切れた米大使の後任を指名せず空席のままとします.事実上の召還です.次に何がくるのか,コスタリカ国民は息を詰めて見守っていました.
小国の政治指導者というのは,ある意味で相当したたかです.政治の流れを読み,タイミングを計り,思い切って手を打ちます.時によっては,それが裏切りとも,面従腹背とも,馴れ合いともとれることになります.アリアス政権も時代の流れを読んだのでしょう.レーガンと会談した際は,ぬけぬけと言ってのけます.「あなたがたがコントラ援助を強化すれば,その分オルテガはソビエトからせしめるでしょう」
このころレーガン政権はかなり追い詰められてきていました.強引な政治手法とあまりにもウソの多い不誠実な態度に,アメリカ国内からさえ不審の目が向けられるようになりました.86年3月にはコントラへの軍事支援が議会で否決されてしまいます.6月には国際司法裁判所が,ニカラグアに対する破壊活動を国際法違反とする判決を下しました.10月にはコントラへ武器を密輸していたCIAの飛行機がニカラグアで撃墜されました.捕虜となったハーゼンファス飛行士は,CIAが直接コントラの支援に当たっていたこと,ブッシュがこの作戦を熟知していたを自白します.これがハーゼンファス事件です.
コントラ援助については,懸命の努力で復活に成功しますが,その総額には厳しい枠をはめられました.この頃からノースらNSCにすみついたギャングたちは,麻薬資金やダーティーな関係も含め,見境なく資金集めに狂奔するようになりました.ブルネイの王様から金をせびったり,ノリエガと結びついてコカイン・マネーに手を出そうとしたりと,もはや倫理観のひとかけらさえも失われてきます.
その典型がイラン・コントラゲート事件です.事件の全容はいまだに分からないことが多いのですが,とりあえず私の年表を参照してください.
11月はじめ,レバノンの新聞「アルシラア」は,米国がひそかに武器をイランに販売したと報道.アメリカ国内は蜂の巣をつついた騒ぎになります.レーガンは最初,武器供給の事実そのものを否定しますが,隠し通せなくなります.
この事件ではノースとポインデクスターが罪をかぶる格好になって,うやむやのまま一件落着してしまうのですが,今日ではブッシュ(当時副大統領)が全面的に指示した作戦であったことが明らかになっています.
それでなくても,財政面ですでに支えきれなくなっていたコントラ支援作戦は,この事件を機に下り坂に入ります.アリアスのコントラ基地摘発は,まさに絶好のタイミングだったわけです.
イラン・コントラゲート事件でレーガン=ブッシュ政権が身動きがとれなくなっている間,国際情勢は大きく変化しました.ソ連ではゴルバチョフがペレストロイカ路線を推進します.中南米諸国では,軍事独裁をもたらした責任者アメリカに対する批判が大きく広がります.合法的政府を転覆し,ピノチェトのクーデターを企画・推進したCIAへの批判はとりわけ強烈でした.西ヨーロッパ諸国でも,ラテンアメリカの人々への共感と,アメリカの強引な干渉に対する反感が広がりました.
2月,サンホセでCG+SGと中米5ヶ国による外相会議が開かれました.サンホセで会議が開かれるのはこれが三回目になることから,サンホセVと名づけられました.この会議の特徴はEC諸国の外相も参加したことです.とくにフランスのミッテラン,ドイツのブラント,スペインのゴンサレス政権は,いずれも社会主義インターに結集する中道左派政権で,中米問題の自主的解決をわがことのように重視しました.
アリアスとオルテガ大統領
この会議の席上,主催国代表としてアリアスが新たな和平提案を行います.正式名称は「中米における確固たる持続的な平和を樹立するための手順」と呼ばれます.この提案の特徴は,一言で言えばあからさまな「ケンカ両成敗」方式だということです.最近は,アリアスを賛美するあまり,アリアス提案まで理想的なものだったように言う人がいて,困ってしまうのですが,これが発表されたときは,ニカラグア支援運動を続けてきた人間はかなりむっと来たものです.
コスタリカを除く中米4カ国はいずれも国内に内戦を抱えていました.しかし問題の焦点はあくまでも,エルサルバドルにおけるファラブンド・マルティ民族解放戦線と,ニカラグアにおけるコントラの扱いとにありました.
両国の内戦に至る経過は非常に異なっています.エルサルバドルでは残虐非道な軍事独裁政権が国を暴力支配し,これに対して保守・財界まで含む改革勢力が外交・軍事努力を通じてたたかって来ました.いわば典型的な内戦です.この内戦を解決するためには,両者が交渉を通じて和解し,自由で平和な新政治システムを作っていくことことが必要です.
いっぽうニカラグアは,国民の圧倒的支持を受けた合法的政府に対し,アメリカに雇われたテロリスト集団が破壊活動を行っているだけで,アメリカさえ手を引けば,事態はすぐにでも鎮静化する性格のものです.
平和と民主主義を愛し,民族の自決を尊重しようとするものにとっては,エルサルバドルにおけるファラブンド・マルティ解放戦線の勝利と,ニカラグアにおけるサンディニスタ政権の勝利を求めること,中米に対するアメリカの干渉を排しコントラの解体をもとめることは当然の要求です.
アリアス提案は,一方においてエルサルバドルの民主勢力に武装解除と屈服を求め,他方ではニカラグア政府に対しコントラ雇い兵集団を正式の交渉相手として認め,和解せよという要求です.おいそれと飲めるようなものではありません.ただ現実の政治には落とし所というものがあって,彼我の力関係によって決まるものです.そしてその力関係を評価できるのは熟達した政治家の力量以外にはありません.
逆にアメリカにしてみれば,コントラがサンディニスタ政権をやっつけ,ニカラグアに依拠していたファルアブンド・マルティも崩壊するという筋書きだったはずが,ニカラグアもファラブンド・マルティも生き延びてしまうことになるわけですから,面白くはありません.おまけにアメリカ抜きで,中米=ラテンアメリカ諸国=ヨーロッパ諸国の枠で物事が決まってしまうのでは,顔に泥を塗られたようなものです.賛成などするはずがありません.
問題は各国の内戦当事者が相互に納得できるような和平合意を作るところにあるのではありません.アメリカが「決して賛成はしないが,ドアを蹴飛ばしてまで入っては来ない」という,アメリカとのぎりぎりの妥協ラインを探ることにあります.おそらく,アリアスはその線を見つけ出すことに成功したのでしょう.
サンホセVのアリアス提案を受け,各国は持ち帰り検討を開始しました.ニカラグア政府はもちろん提案には強い不満を持っていましたが,現実に国内経済が疲弊し,これ以上の戦闘は続けられなくなっていました.いずれにしてもコントラへのアメリカの支援がなくなれば,交渉の過程で政府側がイニシアチブを握れるだろうと踏んでいましたから,アリアス提案に乗る決断をしました.エルサルバドルのゲリラにとっては,これまでまともな交渉を拒否していた政府側をテーブルにつかせるきっかけとなるわけですから,大筋で賛成です.
こうして87年7月,グアテマラの避暑地エスキプラスで開かれた中米首脳会議は,アリアス提案を骨子とする和平案で合意します.1年前にも=エスキプラスで和平案が提出され,議論した経過があることから,今回の合意はエスキプラスU合意と呼ばれるようになりました.いずれにしても歴史的な合意です.
中米和平交渉はCGの支援を得て,最初はグアテマラの積極的なイニシアチブの下に始まりましたが,レーガン政府との腹の探り合いという芸当は,やはりコスタリカにしかできなかったろうと思います.その意味ではアリアスがノーベル賞を獲得したのも,妥当なところといえるでしょう.
エスキプラスU合意を期に,コスタリカ領内でのコントラの武装闘争はほぼ消滅しました.アメリカが財政的に続かなくなったことが最大の原因です.ホンジュラス側のコントラ部隊はその後も何度か大規模な進行を繰り返しますが,もはや末端の兵士には戦意は消失していました.
戦意喪失はニカラグア政府軍とて同じです.私が二度目に行った89年には,マナグアの町は荒れ果て,店屋の店頭からは商品がなくなり,道路には物乞いが出没していました.物価は1週間の間に倍になりました.1年で100倍のインフレといいますから,もはや破滅状態です.
翌年の選挙ではついにサンディニスタ政権が敗北してしまいます.日本の1/3の国土に600万人という小国が,アメリカを相手に10年間歯を食いしばって戦った結果がこれでした.5万人がコントラの犠牲となり,生活はどん底に突き落とされました.同じ頃,エルサルバドルの解放戦線も武装放棄,軍事独裁政権への屈服という苦渋の選択を迫られます.エルサルバドルでは十年間で十万人が殺され,20万人が海外へ逃げました.
いっぽうコスタリカは無傷のまま,非武装中立を貫くことができました.もちろんそこには国を指導する政治家の知恵と勇気があったとはいえ,その平和は中米諸国のみならず,ラテンアメリカ諸国の団結,ヨーロッパ諸国の連帯の力があったからこそ成し遂げられた平和でした.そしてニカラグア・エルサルバドルの人民と連帯したコスタリカ人民のたたかいがあったからこそ成し遂げられた平和でした.
ニカラグア人居住者は,一応公式入国者15万,非公式の入国者が同じく15万人といわれています.しかし実際にはさらに多くのニカラグア人がいるようです.ただ日本人訪問者のレポートには七十万から百万という数字まで挙げられていますが,これはさすがに誇張した数字でしょう.
博愛精神からニカラグア人を受け入れているように言われていますが,この博愛精神は,元をたどれば連帯心の風化したものだろうと思います.もちろん現在は,残念ながら,より低レベルでの思惑も支配的ですが.
私がマナグアに行ったとき「ロメロ大司教追悼ミサ」に列席しました.ミサのあとのデモには多くのサルバドレーニョが参加しました.それは「聖者の行進」でした.彼らはみなニカラグア人やインタナシオナリスタの尊敬を受けていました.翻って日本の戦後史でも,同じことが言えます.日本の平和と繁栄は朝鮮戦争での数十万の犠牲者,ベトナム戦争での百万人に上る犠牲者の墓標の上に築かれています.憲法第9条を,アジアの平和の象徴としているのは,日本人民の闘いもさることながら,こうしたアジア人民の闘いが反映したものとしてとらえ返す必要があります.
86年の大統領選挙で,アリアスを選んだ国民の選択は,平和か豊かさかを問われたとき平和を選択するというものでした.アメリカが怒り狂い,コスタリカをいじめにかかるかもしれない,ということは覚悟した上での選択です.
はっきり言って,平和を選択した結果は,経済的には厳しいものでした.いわば戦争特需のような千載一遇のチャンスを逃がしてしまったのですから,もったいない話です.対外債務は返済不能な額まで増大しました.しかし国内にアリアスの選択に対する非難は盛り上がりませんでした.
90年の選挙では前回選挙で破れたPUSCのカルデロンが当選しました.しかしカルデロンは,コントラ支援や対ニカラグア開戦論などはもはや口にしませんでした.そのことによって,事実上アリアスの選択を是と認めたのです.その上で,カルデロンはアメリカとの関係修復を強調します.
つまりコスタリカは野党が当選することで,逆に超党派的な合意として非武装中立のモンヘ宣言を確認したことになります.
94年,ふたたび政権を握った国民解放党は,市民警察憲章を制定しました.この憲章では,警察の政治活動への不参加とプロフェッショナル化が改めて謳われました.つまり,それまでは,かなり政治への関与があったということです.また人権への配慮も求められました.つまり,それまでは,かなり無視できない人権侵害があったということです.
96年,国民解放党政権は,市民警察の統合・再編を実施します.それまで市民警察とは別建てで,内務省管轄だった国境警備隊,地方警察が「公共保安隊」に再編成されました.こうして公共保安省の管轄下にすべての警察部隊が一本化されることになりました.
こうして80年代にほとんど「軍隊」化した市民警察は,人権を重視する「おまわりさん」へと変貌を遂げつつあります.連中が自分で言うことですからかなりの眉唾ものですが,各種人権団体の報告を見ると,たしかに重大な人権侵害は減ってはいるようです.
ごく荒っぽく,私の結論を言えばこういうことです.40年代フィゲーレスの下でたしかに軍隊は廃止された.それは単なる名目的なものではなく,間違いなく軍隊としての性格を失った.しかしそれは鵺(ぬえ)のようなところもあった.抜け道はあったし,それを利用しようとする力も働いていた.
しかし80年代の厳しい情勢の中で,非武装中立の問題はその真価を問われた.そしてまさにその瞬間に,コスタリカ国民は言葉だけでなく実体として非武装中立を選択した.それは何よりもまず選択であり,一つのイデオロギーである.それは非同盟の思想であり,アメリカの全一的支配からの自立の思想であり,中南米諸国,ヨーロッパ諸国との連帯の思想である.
もうひとつの結論としては,コスタリカの非武装中立は,80年代における中米人民の激しい闘争があって初めて,真の意味で実現したものだということです.たしかにニカラグアやエルサルバドルの闘いは,それ自体として成功したとは言えません.しかしニカラグアの闘いがコントラの侵略を跳ね返すに十分な力を持っていなかったら,コスタリカは今頃非武装中立どころか,市民警察という名の軍隊が支配する恐怖国家となっていたかもしれません.このあたりが歴史の弁証法でありおもしろいところです.
巷間,日本とコスタリカの違いが強調されますが,私はむしろ両国人民の平和を守る闘いの,驚くほどの共通性に注目しています.コスタリカの非武装中立を,ぎりぎりの局面での,「何よりも平和を!」という,ぎりぎりの国民的選択としてとらえるとき,それはわたしたち日本の国民に,ずしっとした感動と示唆を与えてくれます.
廃案にこそ追い込めなかったとはいえ,有事立法(秘密保護法を含めて)の成立を拒否し,政府を窮地に立たせ,憲法改悪への道を踏みとどまらせた今回の闘いは,国際的に見て大きく評価されるべきものがあると思います.逆説的な言い方になるかもしれませんが,戦後憲法制定以来の日本人民の平和・非同盟運動の歴史的到達点をどう見据えるか,ここにコスタリカに対する評価の分岐点があるように思えます.
2002年8月28日 とりあえず脱稿