2002/04/

04/27

先行してイメージを作り上げ変換する。

書かないと覚えられない、という言い方がある。これは、書かないと考えられない、ということを意味すると思う。

棋士などの例を出すまでもなく、人は書かずに考えることができる。けれどそれは、考えることが何か外部の技術なしにできるようなものである、ということを意味しない。考える時我々は何らかのメディアを利用している。書くという外部のテクノロジーを用いた行為以前に、イメージ領域でのシンボル操作によって考えている。このイメージも人間が後天的に獲得したメディアだと思う。

考えることとは、何らかのメディアを利用した表現行為だと思う。ここではメディアはは考えを表すという言い方と、メディアによって考えは生じるという言い方とが、循環している。

例えばこの日記を書くとき、言いたいことは書かれながら生じてくる。僕は、書きとめておこうか、と朧げながら思い浮かんだとき書き始めるが、それは書きながら変更されていき当初のイメージとはかなり違ったものになることがままある。

その反対に事務的な文章を書く場合、そこに要求されるのは目的にそった内容であり、それをできる限り容易に相手に伝える為の技術であり、効率などであると思う。そこで生まれる文章は明確な意図があり、冗長でなく、素早く提出されなければならない。

事務的な文章とこの日記のような文章の間をもちろん区分け仕切ることはできない。いずれも共にお互いの要素を併せ持っている。それらに区分けあるように思わせるのは、両者がいつ利用されるか?というそれぞれが属するリアルタイム性なのかもしれない。例えば無目的に思えるような文章は、リアルタイム性を持っていないということではなくて、リアルタイムであると思えないような時間の幅にそれが属しているのだと思う。

求められるリアルタイム性が短い領域では、そこで書かれる文章は、様々に規制される。書くことと考えることが同じであるような仕方は非効率だと排除され、まず明確なイメージの組立を要求され、それを紙メディアという別の領域に変換する技術が、ここで要求される。表現されたものはそれに応じた内容となり、例えば相手に早速行動を促すようなものとなる。

受容

g.love & special sauce [ stepping stones ]

04/18

受容

v.a. [ clicks_+_cuts]
pole, neinaと特にcurd ducaが素晴らしい

04/14

「僕の甥っ子」

この春幼稚園児になったばかりだが二日目にして気疲れしたらしく、昨日こっちに来るはずだったのが「今日は寝てる」といって嫌がったらしい。幼稚園もシビアだ。

僕の部屋に来てコンピュータで遊びたいというので、フリーセルだとかをさせてやったが、今一つ盛り上がっていない。絵を書くのが好きだといっていたので、flashを立ち上げてお絵描きさせてやる。4歳にしてflash、恐るべし。もちろんアニメーションをさせてはいないのでただのお絵描きツールとしてだけれど、紙はなくならないし、簡単に丸や四角、色や太さを変えたり、選択して部分を伸ばしたり、移動させたりできるので、狂喜してシャウトしっぱなしだった。出来映えはシュールだ。これで描いたものを動かしてやるなんてことになったら、興奮のあまり気絶するんじゃないだろうか。

驚いたのは、4歳でguiの概念が直感的にはある程度理解できている、というのが分かったこと。恐るべきはgui。「向こうの丸のある所に行って、押さえたまま持ってきて」という説明は、よく考えると他者を想定していない非常に不親切なもので、老人にウィンドウズを教えようとするとかなり厄介なんではないか?と思うけれど、奴は一応理解していた(難儀していたのはマウス位置の微調整だった)。

お次は、webでjava?の インタラクティブ・アート系のサイト なんかこいつにはちょうどいいかもと思って、行って遊ばせてやる。シンプルな線による描画がマウスの振舞いによって、動きを変える。甥っ子が本当に喜んだのは、複数の蝉のようなものがマウスで動く四角に箱の中に入って来ようとする、というプログラムだった。まるで生き物のように振舞うこれらを「蝉」といってやると、その気になって追いかけてくるこれらから本気で逃げようと躍起になっていた。子供が楽しめるこういうものは 以前に岩井俊雄について書いたもの を思い出させる。僕としては自然から引き出すことができる人間が今だ到達できない複雑性を放棄すべきではないと思う。

以前から子供が、縫いぐるみや車や飛行機のメカもの、アニメのキャラクターを好むのはどういうことなんだろう?と思っていた。派手な色彩、分かりやすい形、おおげさな調子など。最近思うようになったのは、彼ら自身の認識の解像度がそのようなものではないか?ということだ。非常に抽象的な認識というものは、大人になってから身に付けるものなのではないか?と考えてしまう。そもそも人間も動物も子供自体シンプルで大人を抽象化したような分かりやすい形態をしているが、認識力としてはそのようなものの方が獲得しやすいのだろうか?と思うようになった。ただしそれを作り出すのは難しい。絵画でも何でもいいが最初は複雑性の模倣から出発し要素を削ぎ落とし、組替え、シンプルで本質的抽象的な形態に至るようだ。

甥っ子はピアノ教師の母親を持ち、既に絶対音感の餌食になる道を歩み始めつつある。僕は奴の潜在意識に音楽やその他で暗黒面を植え付けてやろう。ひとまずはお絵描きしている間、後期コルトレーンのフリーインプロヴィゼーションものやovalをさりげなくbgmで流すところから。

受容

rei harakami [ unrest ]
john coltrane [ expression ]
姫路 [ ずんどう屋 ]

04/08

サイトの更新について。

例えばある真っ当なwebをめざせとかいう入門サイトで書いているのは、css(カスケーディング・スタイル・シート)を外部ファイル化し、html文書を正確に記述さえすれば、後は文書の変更なしに見た目のデザインはスタイルシートの変更で全てのページを管理できる、というようなことが書いてある。

これは間違っている、と思った。

確かにある程度までの変更は効く。その威力はかなりのものだと思う。けれども大幅なデザインの変更を考えて変更しようとすると、htmlに変更を加える必要が出てくる。

例えばこのwebでは日記を1ヶ月単位毎でしか扱えるようにしていない。けれど僕が思い直して、これからはユーザーのことを考えて日毎にアクセスできるようにしよう、と変更しようとするとhtml文書に変更を加える必要が出てくる。スタイルの変更にしても、例えば文書の背景色を日付単位でグレーで括ってしまいたいと考えたとしてもスタイルシートでは可能ではなく、大幅にhtmlに文節するためのそういった要素を加えなくてはならない。

こういう例は事欠かない。

htmlは文書の論理構造をのみ記述しその見栄えはスタイルシートで行う。このように両者を分離することで制御の効率を高める、という言い方はいいけれど、それは完全に行うことはできないような気がする。

というのは文書の論理構造といわれているもの自体、そもそも文書の高次情報のことを指す。見出しだとか、段落だとか、リストだとか、こういうもの全ては文書という言語の視覚的な形式と共に整備されてきたものだと思う。僕はこれらの要素と見出しを赤にするだとか、段落の幅をどれくらい開けるかということと密接に関わっていると思う。いわば段落などをマニュアルで操作するものが段落間の幅の取り方であり、色の付け方だとか水平線だとかであると思う。これを行った末にデジタルな表現として、見だしだとか段落というもの自律的な扱える存在となったのではないか?と考えたほうが自然なのかもしれない。

もちろんこれらを分離できるのならば、便利であることだしやっていけばいいと思う。ただ例えばあるページの一語を赤の字にしたいがために、htmlとスタイルの変更を追加するというのは、膨大になればなるほど便利ではあるが、面倒くさくはある。それを効率的という言葉で、排除していくのはどうも違和感を感じる。

文書の制御というのは、要するにデジタル化といわれていることと同じである。

アナログの磁気テープに入っている音楽の部分を制御するにはテープを切り貼りするしかないが、ハードディスクに記録された音は、ソフトウェアを用いて時間軸を細かく分節しその中で波形分布の音域の構造に制御を加えることができる。けれどそれだけのことで、扱える時間軸の幅から漏れるより微分した時間の解像度で、音域ではなくこの今鳴っているボーカルの音だけを、重なっているトランペットの音を破壊することなしに取り除く、というようなことは現在の技術ではできない。

それはデジタル化という技術が対象の切り刻み方の細かさや視点の方向に対してあくまで量的でしか扱えないということを示している。それは圧倒的な力を持っている。ただ万能だと思うのは馬鹿馬鹿しい。

受容

compilation [ colombia - princeton electronic music center 1961-1973 ]
the sex pistols [ better live than dead ]

04/01

「さて僕の番ですが、ライヒのことを考えていて「演奏の外側」と、ふと思ったので、それで思い付いたものを挙げてみました。

  • 清水靖晃&サクソフォネッツ[ cello suite ]
  • billy holiday[ greatest hits ](叩き売りしていた廉価版)

前者はbachの「無伴奏チェロ」をサクソフォンで演奏したものです。cfでも使われたことがあるので、ご存知の方もいるでしょう。

「超絶技巧できちんと演奏する」という正攻法と、適度にノイズを含んだ(水滴の落ちる音や雑踏の音など)複雑な残響を持つ東北の地下空洞だとかイタリアの貴族の邸宅、離宮だとかを録音場所に採用し「空間自体を楽器と化す」という奇抜な方法で挑んだものらしいです。

バッハの「無伴奏チェロ」といえばカザルスの作品が有名ですが、聴いていて演奏にというより、音のイメージ、音色といったものの方に、意識が向かいます。バッハ同じ曲を演奏しながら、別の経験を味わうことになりました。

バッハの音楽でよくいわれる「天上的」という形容をこの録音に対していってもいいかもしれません。こういうのは少しでもいいから直接目撃したいものです。

後者は、よく街角だとかでスタンダードが1000円位で売られているものの中にあったものです。

ビリー・ホリデイの頃の音源のcd化は、正規盤も廉価版もいずれも音が悪いはずなんですが、買ったこのcd盤は異様に音が悪かったのです。レコードを再生して生じる針音やこもり・歪みに加えて、ビデオをダビングした時のような膜の掛かった感じがひどくします。この盤で聴ける音は、ホリデイの元の音楽の要素がこれらの変化によって、ダブだとかローファイ、音響系などのリミックス盤として聴くことが出来ます。

こうなると味を占めたもので、「ダブ・エリントン」だとか、「音響・アームストロング」だとか無いかなと探しています。

それでは、失礼します」

受容

steve reich [ tehillim/three movements ]