先行してイメージを作り上げ変換する。
書かないと覚えられない、という言い方がある。これは、書かないと考えられない、ということを意味すると思う。
棋士などの例を出すまでもなく、人は書かずに考えることができる。けれどそれは、考えることが何か外部の技術なしにできるようなものである、ということを意味しない。考える時我々は何らかのメディアを利用している。書くという外部のテクノロジーを用いた行為以前に、イメージ領域でのシンボル操作によって考えている。このイメージも人間が後天的に獲得したメディアだと思う。
考えることとは、何らかのメディアを利用した表現行為だと思う。ここではメディアはは考えを表すという言い方と、メディアによって考えは生じるという言い方とが、循環している。
例えばこの日記を書くとき、言いたいことは書かれながら生じてくる。僕は、書きとめておこうか、と朧げながら思い浮かんだとき書き始めるが、それは書きながら変更されていき当初のイメージとはかなり違ったものになることがままある。
その反対に事務的な文章を書く場合、そこに要求されるのは目的にそった内容であり、それをできる限り容易に相手に伝える為の技術であり、効率などであると思う。そこで生まれる文章は明確な意図があり、冗長でなく、素早く提出されなければならない。
事務的な文章とこの日記のような文章の間をもちろん区分け仕切ることはできない。いずれも共にお互いの要素を併せ持っている。それらに区分けあるように思わせるのは、両者がいつ利用されるか?というそれぞれが属するリアルタイム性なのかもしれない。例えば無目的に思えるような文章は、リアルタイム性を持っていないということではなくて、リアルタイムであると思えないような時間の幅にそれが属しているのだと思う。
求められるリアルタイム性が短い領域では、そこで書かれる文章は、様々に規制される。書くことと考えることが同じであるような仕方は非効率だと排除され、まず明確なイメージの組立を要求され、それを紙メディアという別の領域に変換する技術が、ここで要求される。表現されたものはそれに応じた内容となり、例えば相手に早速行動を促すようなものとなる。
受容
- g.love & special sauce [ stepping stones ]