2003/01/

01/31

デザインの可変性2。

2002/11の日記 に標準ということにひとまずこだわらず、table要素を用いた固定的なものとは違う可変的なレイアウトに関する興味を持っていると書いた。最近見つけた outsider reflex は、そこで書いたウィンドウサイズの変化にある程度対応するより複雑なcssレイアウトを行っているサイト。ただし、そのセンスは若いのになんかバブル時代的だし内容もちょっとついていけない。それらに惑わされずその構造をみれば、かなりよく考えられていると思う。これに対してflashサイトの e factor を挙げてみる。tableによるものを挙げないのは、tableによるレイアウトへの欲求は、最終的にflashの自在さに含まれると思うから。ところでこのサイトは、レイアウトを固定させずウィンドウのサイズによって、全体の比率が変化するという、ちょっとflashサイトの中では異色のもの。まあいずれも一長一短があるけれど野心的な試みは素晴らしい。

dhtmlによる動的なサイトデザインは、flashサイトのデザインや動きの自由度に比べると、その制約は大きいと思う。以前から言っているように、htmlがテキストを主な内容として扱い、flashは描画とそのアニメーションを主なものとして扱うのだから、あくまで用途が違うと考えたほうがいいのだと思う。また僕は以前flashサイトなどのマルチメディア主体のものが、多様な環境をある程度排除することで存在を維持することに肯定的である、と書いた。けれども同時に僕は、標準に準拠せよというような義務的な意味とは違ったアプローチで、上のように動的に変化するデザインに魅力を感じている。標準派がflashでサイト構築することを批判するのは、フレームサイト同様、検索エンジンに引っかからないということだけでなく、情報の制御がhtmlに比べよりアナログに扱わざるをえない本質的な性質を嗅ぎ取っているからだと思う。美的な複雑さよりも制御への効率に美しさを感じる態度かもしれない。flashアニメーションはそれぞれ構成要素をデジタルに読み込ませ、それをインタラクティブに操作できる点ではhtmlと変わることはないけれど、そのカスタマイズ、保守などの点で接する者すべてに固定的な対応を迫るものになっている。これに対し、html、css、javascriptというブラウザに一体化しているウェブテクノロジーは動的に情報を変化させることのできる解像度がこれに勝っている。ただしこれらがよりflashや画像ソフトで可能となる複雑で微細な表現を排除することで成り立っている制約がある。つまり、両者を一体化するようなテクノロジーの登場が最も期待されるわけだけれど、これはちょっと荒唐無稽かもしれない。現実的には一体どちらを選ぶのか、ということになる。たとえばこのウェブはテキストが主な内容となっている意味では、非flashのhtmlテクノロジーを相変わらず使う方が保守には適切だと思うけれど。

受容

音/jazz [ selflessness ] compilation
web/dhtml [ brainjar.com ]
tv/バラエティ [ 究極笑わせ合い大会/めちゃイケ ]
板尾創路の蹴りは目から鱗だった

01/29

芸と技、快。

たとえば、このウェブの ホーム にある簡単な動画ファイルや、そのレベルこそ違えども ウェブ・デザイナー自身のウェブによくあるflashを利用したインタラクティブなファイルなどは、ウェブではよく見かけることができる。これらは、こんなインタラクティブなことができますよといったクライアントなどへの宣伝、もしくは夢中にさせるおもちゃ、もしくはアート作品かのように陳列されている。最初観た時はへえキレイだなとか感心するけれど、二度とそれにマウスは近づけないことも多かったりする。複雑性が低く子供のおもちゃにもならないことがその大きな理由だと思う(実際5才になる甥っ子も何回か触って飽きた)。それらがウェブデザインのための動的な表現技術の一つであり、その宣伝であるならば問題はないかもしれない。けれどこれらをエンターテイメントだとかアートとかみなすことに賛成はできない。これらは新しいテクノロジーの可能性の上限でバリエーションを引き出しているだけなのか、それともより複雑なものを作り出そうとする意図がありつつも、テクノロジーの制約に制限されているのか。いずれにせよ退屈だし刺激がない。

soda playgroup c などはその中でも本格的にプログラミングによるインタラクティブな作品を提示していると思われる。優れて野心的な試みだと評価しつつこれらにしたところで、ウェブサイトの小洒落た表現の一つの典型のような 画像群のあるページ1画像群のあるページ2 にある画像とどれほど違うのか、と思えてしまったりする(これは前に挙げた image dive なども同じようなものだということなんだけれど)。 group c は特に美的なアプローチを感じさせ複雑さを表現しえていると思うけれど、それでもよくできた技術的表現に留まっている。それらを隔てるのは技術自体から乖離し過剰で無意味だけれど魅力的なものを持っているかどうか、なのかもしれない。

プログラミングにより作品を制作するという形がより出てきている。そこでは受容者が作品の現象レベルを変更できるよう作家は制御構造を組み立てることで、作品の姿は静的なものでなくその都度変化する動的なものになる。最近のmaxなどによる電子音楽や、 john maeda などの動的なデザイン、メディア・アート、ゲーム、ウェブ等は、その例だと思うけれど、原理的に考えると現状のこれら動的、インタラクティブな在り方はそれほど効果的でないと思う。それは上で言ったようなことがあるからでもあるし、作品は受容者に従ったものとして形を変えるけれど、それが実際適切に効果あるものとして成立するのか?とも思える。またいくら結果が異なるといっても、その振る舞いを制御する高次の構造は静的であるわけで、静的なものは原理的に排除したくともできるわけではなく、受容者も作品の変化は結局固定されているのとそれほど変わりはしないと感じると思う。静的であってはならないという強迫観念を求められているのだろうか、という気になる。また制作者もしくは行為者ではなく、受容者の立場を放棄したくない人間にとって、このより高度なインタラクティブな参加は、迷惑だったりする。

受容

ブラウザ [ opera7] opera software
デザイン・機能面で今回のは常用できるかもしれない
音/electronica [ komfort.labor ] compilation
tv/映画[ lou reed:rock'n roll heart ]

01/22

ガイド本と教養主義。

タワーで[ new standard ]と題したディスクガイド買う。今まであまりそういう類のものはあえて買わないようにしてきたのだけれど、ふと今更ではあるけれどそういうものを買ってカタログを塗りつぶすように、定番を押さえておくというのもいいかもしれないと思って。たとえば本の世界だと、哲学ならプラトン、カント、ベンヤミン〜、小説なら、ドフトエフスキー、カフカ、漱石〜、詩ならキーツ、ランボー、中原中也〜だとか。まあこれは今思いつくままに勝手に挙げているわけだけれど、これらは教養の基礎としてある程度確立されてていて、面白かろうがそうでなかろうが押さえて当然と自明にされている感がある。これを教養主義といって批判することもできるのだけれど、いいと人が言っているものを試してみるのは、この情報過多で一体何を選択すればいいのか分からない時代には、増えはしても減ることはない過去のヒットチャートは、教養だとか現代のヒットチャートとは別の意味として機能させることができるんじゃないかと思う。

これは書物の文化がそれだけ成熟しているということの表れでもある。音楽でもこういうようなものが確立されるようになってきたんじゃないかと思う。実際音楽を好きな者なら特に、そうでない者でも、これだけ世界中の音楽がアーカイブのごとく存在するわけで、これらを漫然と自分の好みだけで聴き過ごすというのも、もったいないし。たとえばビートルズやクラシックというと、教科書に載るような形骸化した興味をそそられない存在とみなされる危険があるけれど、そうでなくて個人的な体験として受容するなら素晴らしい魅力を持っているし、民族音楽もエコロジカル的、コロニアニズム的、エキゾティシズム的というようなフィルターをはずすのは不可能だろうけれど、それでもやはりいいし。電子音楽もそろそろそうした時間を経たものになってきているし。

そのために図書館だとかという存在が、現在徐々になってきているように、活字だけでない様々な制作物をアーカイブ化したほうがいい。映画、漫画、音楽などに拡大すればいいと思う。漫画などはいまだ蔑視されているわけだけれど、それはnhkの番組と同じで安定して価値ありとみなされ取り上げられるまでには、学問的な体系に取り込まれなければ認められないという事情もあるのだろう。そういうのがもっとも退屈なことではあるのだけれど、だからといってその作品のよさが損なわれるということはもちろん意味しない訳だし。webの存在はまさにそのあたりを整備するのに力を発揮する可能性を持っていると思う。

受容

音 [ un bel di, vedremo ] operatic aria compilation
ドラマ [ 剣客商売 ]
藤田まことという配役に不満

01/20

絵画の鑑賞。

絵を観ることに関心を持てなかったのが、いつのまにか面白く感じているようになっていた。以前の僕は絵に何が描かれているかだけを見、それがどのように描かれているかを見なかった。いろんな描き方があることを理解してたとしてもそれに何の感慨もなかった。それが絵画というメディアで様々に存在する描画テクノロジーの一つの表現として一枚の絵を観るようになった。メディア論的、テクノロジー論的な視点に関心を持つようになったことで、絵画にも当然そうしたアプローチがあることに気づき興味が出てきたのだと思う。

美術館でおばちゃん達が、まあほんとにきれいねえとか言っている言葉が括弧に入れられたもののように、それに促されて何かを感じることがない。一体おばちゃん達はこの絵をどういうつもりで綺麗と言っているのだろう。綺麗という言葉は一体どのコンテクスに属すものなんだろう。むしろその言葉の持つコンテクストと絵の関係に僕の関心は向かっていく。西洋という遠く離れた国の100年以上前の価値が、現在の日本の市井の人々に連綿と受け入れられるようなものなんだろうか。それともこの人たちは、現在の自分や周囲との連携によって形成された美的価値観によって、これら過去の制作物をさも暴力的に批評しているのだろうか。もちろん単なるスノッブだということもありうる。それとも普通の退屈しのぎのおばちゃんの集団に見える彼女たちは、おそろしいまでの教養人なのかもしれない。そうしたふとしたきっかけと目の前の絵も、絵そのものよりも絵が定着されるにいたった決定への興味へと僕を仕向ける。このような姿勢の変化で、絵画は最新型のデスクトップ・プロダクションやそれがなされている歴史的文化的な動向への興味のように俄然面白く感じるようになる。宗教画や歴史画の題材と構成の伝統的形式の採用、耐久性を持つ絵の具の開発とそれによる色調や技法の変化、油絵の筆致の分厚さの変遷、印象派の正確なデッサンの放棄、象徴派の現実世界を離れた主題の扱い、キュビズム以降の透視図法の放棄、現代絵画の画像という概念への懐疑等々、個々の技術やそれを可能にする思想やスタイルを、作家がどう選択し自らの作品へと固定したのかと、絵を観ながらそして家でその解説を読みながら味わうことの楽しみがある。

これは[ トゥーン、 ティ、    ドーーン、ティラリラリン、ヒン、  、ジャギャグギャ・ボローーン、〜 ]とか鳴ってる現代音楽を、まず音そのものよりそれを作る過程を音から知るようになることで、現代音楽を楽しめるようになることと並行すると思う。もちろん現代音楽と言わずに現代美術と言ったほうがすんなりするのだけれど、まあ僕には美術よりも音楽のほうがピンと来るので。これらは価値ありと制作者が認めた人為的な制作物にも関わらず、その価値が全く共有できないところにこの退屈はあると思う。古典絵画が教科書などで知識としてくらいは知っているどうでもよい風景、自然とみなされているのであり、現代音楽・現代美術は絶えがたき理解できない組織されたもの、もしくはノイズとしてみなされているのかもしれない。音楽は音を楽しむと書くのを知っている?と質問されそうだ。自然と身体が欲する音でないものをなぜあえて学習するのか?という質問に対しては、音楽を頭で考えることで楽しもうとする欲求があることをも肯定すべきだ、と胸を張って言おう。そしてそれは一度インストールされれば、既存の歴史的音楽や絵画のような自明な身体的快楽をもたらすもだとも。ただ確かに形式化以降の美術や音楽はそうした手続き(歴史)を経ない限りにおいて、これまでの自明な方法による受容が通用しないということで、それ以前の人の営みを破壊する行為なのかもしれない。単に過去の音楽、クラシックやジャズどころかほんの数年前のヒットした音楽でさえ、これらが耳に入ってくることは、最新の音や自分の関心がある音意外を排除してしまう耳には、無価値なものと捉えられてしまう可能性も強い。けれどもレコードができてから少なくない時間を経、その数が圧倒的なものとなったことで、新譜と過去の作品を同等に扱いうるようになった現在の状況は、それら膨大なアーカイブを同時代のものとして受容する豊かな環境が与えられていることをも意味する。このような非直感的で訓練のいる方法を取ることでそれらを味わうことができる。

受容

音 [ a love surpreme ] john coltrane
エッセイ [ 文人悪食 ] 嵐山光三郎
随筆 [ 青春論 ] 坂口安吾
宮本武蔵についての見解が新鮮
web/dhtml/script [ youngpup ]
web/label [ 12k ]
ラーメン [ 一徹ラーメン ] 一徹@北平野
蕎麦 [ 田舎蕎麦 ] かぶらや

01/11

欲しいものだけを。

元旦の新聞に 河合隼雄のインタビューが載っていた。ストンと膝カックンをされたような気分になった。リンクで同じ内容を読むことができる。要するに欲しい情報のみを選んでいくことは、遠い目で見るとよくないよ、ってことになるだろうか。これは以前人から指摘されたことで、頭の片隅に引っかかりつづけていたことでもある。ネット環境は自分の欲求をより先鋭化する性質を持っていると彼は指摘している。それはインタラクティブな性質をより強く持つメディアほどそうなわけで、ライブで遠い席で観るよりテレビでミュージシャンの表情のクロース・アップや時々俯瞰的、全体的な情報をもたらしてくれるのは本当に便利だし、レコードよりcdだし、cdよりpcでアーカイブ化されたmp3の方が早いし欲望を組織できるし。自己の制御性への欲望をかなえるためにデジタル・テクノロジーは展開しているんじゃないかとさえ言えるんじゃないか。思い通りになるのはおそろしいまでの快感をもたらすと思う。

僕はライブが嫌い。自分にとってはなはだ制御性が低い形式だから。どれだけ好きな音楽家のライブに行こうが楽しくない。djが1枚から1、2曲いいのがあれば儲けものというように、新しいアルバムの披露会の意味合いを持つライブには耐え忍ばなければならない時間が多くある。その音楽家に全身体的なまでに心酔している人ならその時間も至福となるのだろうけれど、僕が好きというのは2割を毎回打ってくれる信頼できる人という意味だし、会場の外に出たいもしくは早送りしたいと思ってしまう。だからクラブイベントのほうが好き。自由度があるから。それよりもサロン風のイベントが好き。音楽に没頭することもできる相対的な場のはずだから。

というようなことを日々思っているので、忘れていたわけではないけれどほおっておいたことを、すでに手放すことのできないネットという一番付き合いのある出来事を例に指摘されたので、目から鱗のような強い印象を与えられた。ここでは、志向性を鋭敏にしていくネットでの情報検索の在り方とは違うものとして、アナログな連続的な本を例に挙げているわけだけれど、もちろんこれは本の紹介だからで、こうしたアーカイブはいくらでも転がっている。たとえば生きていく上で出会う様々な人間からもたらされる膨大で秩序のない断片的な情報群などそうだろう。

といってネットをやめたりすることはないだろうし、相変わらずライブは好きではないというのだろう。けれど去年、一昨年はこれまでになくかなりライブに行った年だったし、ベルグソンのいう優雅さのようにこうやって述べているのは、すでに僕の中で起こっていてゆるやかにそれをも包み込んでいく。これに関連して最近自分のお気に入りばかりを集め、それをいくつかのパラメータから参照するためのデータベースを作り始めている。これは上で言った欲しいものをより意識化するものとして機能するだろう。そしてその過程でその傾向を破綻させることになると思う。僕は両方を望んでいるのだ。

受容

音 [ yoshihiro hanno: april remix ] compilation
音 [ loose fur] loose fur
音 [ live in japan ] john coltrane
音 [ bitches brew ] miles davis

01/02

相変わらず希少な訪問者の方々、今年もよろしくお願いします。

サイトのデザインチェック。

webサイトを集中してチェックし続けている。その中でこれはと思うものを一時的なものではあるけれど下に列挙。判断基準は、独自性があるもの。美しいもの。直感的に使いやすいもの。ただしadsl環境でのチェックなので、低スペックpcの方やアナログもしくはisdnの方は列挙したリストのリンクをクリックしない方が無難。また web標準化団体(World Wide Web Consortium) が推奨する意味でのユーザビリティを考慮していない。ひとまずpc上でしかもウィンドウを最大表示をした場合という条件にしぼっている。視覚的な制作の素晴らしさにも目を向けるというシフトチェンジとしての試み。

リストの上二つは単純にサイトや写真の内容がシンプルでクリアという意味で力強く、それだけでも良いと評価されると思う。ただよくあるキレイ系ではあることに違いはない。それでもあえて選んだのはナビゲーションがかなり洗練されていると思うから。美しさと機能がうまく共存しているよい例だと思う。三つ目のデータはかなり重い。まだまだ実験という感じだけれど、 flash に慣らされた身には新鮮に思うし可能性を感じる。四つ目はソースを見る限り、上のような高度なテクニックを全く使わずシンプルに画像を重ねているだけのよう。でも別の意味で一番で驚いた。ただただ画面をクリックすれば画像が変化するよう。ただしクリックするのは自己責任で。

web標準化団体の推奨するユーザビリティのガイド・ラインからするとflashなどのプラグインを用いるのは、まだまだ難しいものがある。けれどもこれらの持つ魅力は圧倒的だと思う。逆にhtmlのみを用いるのはあまりに多様性がないサイトができあがる。多様な環境でwebを受容するには統一的な技術をサポートすることが前提であり、それを可能にするには先進的な技術は制約を受ける。また前にも言ったように多様なweb環境の可能は、文字メディアという共通性によってであり、画像・映像や音という圧倒的な魅力を持つ要素を主要な内容とするサイトのシェアが馬鹿にできないとなると、これら新しい技術の受容には個々の環境への内容毎の対応、もしくはある程度の排他性というのは自然なことだと思う。これらの共存をどう考えるのか?という課題。って大げさな話にしてしまうのはまずいんだけれど。

受容

web/flash/photo [ image dive ]
web/flash/photo [ rui camilo ]
web/shockwave/experimental [ bits and pieces ]
web/javascript+css/experimental [ assembler.org ]