2003/03/

03/29

からi0a.dbnを削除しi0b.dbnに差し替え、i3c.dbnを追加。

用いている数式を複雑にしていき、より微細な結果をもたらすこと、自分の意図に近いものをあらわすこと、ができるかをみる。この段階では表現と実際の描写過程に一対一対応性をつけることに留めておく。数式を用いることで意図といってもこちらに前もってのどうこういった明確なイメージは存在しない。前もって存在する要素に任意に変更を加えどのように変化するのかをみる、ということを繰り返し、数式と振る舞いの対応性を直感的に理解する。超絶技巧でもって複製のきかない行為を定着させた絵画の制作と、何度も繰り返すことができる数式による絵画の在り方の違いをみる。

形式化以降の美術や音楽では、一回性の出来事として制作を深化させることに価値が置かれなくなってしまう。どれほどの手間や技術もある考えの一つの具体的な遂行としてあしらわれてしまい面白みを感じることが出来なくなる。深さを追求することでなく、どういった現象を作り出すかについての考えを作品として味わう姿勢に移動することになる(いやもちろんポップ・カルチャーを受容する者はそういうことをし続けているわけだけれど、同時にケージやデュシャンの言葉を思い出さずにいられるだろうかという不安にも無意識に脅かされている)。それでは作品の直接的なレベルに対しどう接しているのか?味わうのではなくそれを味わうために触知す(浴び)ることだろう。この言い方は当然マクルーハンのものとして。

数式で、筆と同じようにどのようにでも描こうと思うと、点描法を導入し対象を点で定義していかなければならない。 illustrator などの描画ソフトは、筆の運動をシミュレートしたあたかも自由な線を描けるものだが、これはこの方法かなる描画運動をモジュール・ユニットとして組み立てたアルゴリズムを媒介させることで、人間が直感的にあたかも筆を扱うかのようにしたものだ。一点ずつ定義するくらいならこうしたソフトや実際の筆をもった方がよい。手間が欲望を萎えさせてしまわないように(点描という方法に現在的な意味をもたらす意志や点描にあくまで魅せられていない限り)。数式で描くことの独自性は、表現される対象をよりシンプルな構造として記述すること、このことにより実際の表現はパラメータによって変更がきくこと、複雑な表現にも人間には単純と思える定常的なリズムを持つこと、変更そのものを動的に提示することが出来ること(擬似的といえども運動を記述出来ること)、提示に関して時間的空間的な唯一性という性質から逃れていること、等だろうか。他にもあるだろうこのような独自性(制約)の可能性を、これを用いる制作は引き出していくことになる。この性質を引き出すことがあるメディアでの最もそれらしい制作だといわれる。その意味ではここでの唯一性を固持する制作はどうなのだろう。また処理能力に依存しているものの数式による制作は深さを求めることも可能である。けれども深さの追求はおそらくその前提と齟齬を起こすことになる。つまり形式化以降の制作同様、複雑化の追求は無効化されているように、コンピュータに描かせた複雑さもそれがいくつかある中の一つの考え(一つの構造)の表現と見なされることで、そこに技術の持つ崇高さが無化されてしまう。また美的であることは、当然ながら単に複雑であることとは同義ではない。構造が美的であることを数式化し、どのような表現であってもそれが生成されなければならない。そして唯一性と美的であることは深く結びついてもいる。

受容

本 [ シェアウェア ] 宮垣元+佐々木裕一
音 [ school girl distortional addict ] number girl

03/26

i3e.dbn i3f.dbnを追加。

受容

音 [ terminal pharmacy ] jim o'rourke

03/24

にi0a.dbnを追加。

受容

映画 [ nostalghia ] andrei tarkovsky@ シネ・ヌーヴォ
何度みれば気が済むのか
映画 [ solaris ] andrei tarkovsky@東一条チャオ!シネマ
切り合いのない時代劇のように本質的なsf
ラーメン [ とんこつ ] たく味@出町柳
本 [ これは餡パンではない ] 三浦俊彦
大笑いしつつ直感的に現代美術の俯瞰ができる

03/22

にi1d.dbnを追加。

03/20

のi2.dbnを削除、i1.dbnをi1c.dbnに変更。

03/18

にi3d.dbnファイルを追加。

描画開始に時間が若干かかる。

03/15

物語論メモ。

物語というとき、それはナラティブというような形式の話ではなく、読み取ることのできる対象を構成する情報の構造を指す。その意味では物語という言葉を使わない方が適切には違いない。けれどもそれに代わる言葉が見つからない。「情報を組織化する情報」「制御情報」などと言われる高次の情報体であり、僕達が日々対象を確率的に扱うためにそれを利用しつづけている。それは認識そのものでもある。日常ある対象に嫌気が差したりする場合、物語の類型性が堆積し臭いを発し始めているからでもある。ここで「物語の類型性」という場合、それはナラティブなのか?語り方において紋切り型が発生しているのだろうか。それだけではないだろう。行為そのものが紋切り型をなぞってしまっているのだろうし、それを引き起こした認識そのものが対象を紋切り型として読み取ってしまうのだ。紋切り型から逃れたい場合当然違う組織化を経なければならない(意図するものなのかという問いがありつつ)。

受容

ライブ [ tropfen6.0 with tar100mg records ] @archives
詩的であることとは、技術を見透かされない地点とは
音/mp3 [ a caminho do mar ] sora
本 [ unixの基礎概念 ] 久野靖
音 [ terminal pharmacy ] jim o'rourke
音 [ motetten bwv 225-230 ] j.s.bach /rengensburger domspatzen/schneidt
本 [ フライパン一つでうれしい一週間 ] ケンタロウ

03/08

ラップトップ・ライブに楽しみはあるのか(断片)。

いくつかのパターン。

  • 自分の曲のdj
  • サウンドファイルの配置、エフェクティング
  • リアルタイム・シンセシス
  • 音場のコンテクストの操作
  • アルゴリズムによる自動演奏に任意に介入するパラメータ操作
  • 演奏を見せない
  • 演奏の放棄(パラメータの外部取得)

音楽のライブという言い方をすると、生演奏という意味を考えたりする。音楽が生じる場に居合わせることをライブとひとまず言ってみる。要素からなりそれを組み合わせなければ全体が成立しない、そうしたものを生み出す音に関する即時的な行為をライブ演奏と言ってみる。この場合非電気的な楽器によるものだけを指すのではなくなる。ここでは最初のもの以外すべて生演奏ということができる(即時的ななコンテクストの構築としてこれもライブということはできる)。

古い話になるけれど、何年か前に神戸でovalの[ dok ]のライブを観た。markus poppはある程度持続を持つ音をいくつか任意のタイミングで立ち上げてはループさせ、あるタイミングで再び停止させていた。その間リアルタイムでループする音(サウンド・ファイル)のエフェクト、長さ、ボリュームなどのパラメータを変更しているようだった。音は全体的に静かに震え揺れていくようなもので、それぞれ反復するものにも関わらず微妙に印象を変えていくように聴こえ、微細さの中に複雑性を感じ取ることができる音の在り方だった。現在でも便宜上テクノ・ミュージックに分類されてしまうのだろうが、それらが明らかに単調に思える解像度を上げたような音色と、パーソナル・コンピュータでの非演奏的な操作によるリアルタイムな音楽のライブという形態は、その時の僕にとって未知のものだった。けれどもその印象の惑わされず考えてみるとそれらが示している即興性はそれらほど分かりやすくない。

ovalの場合、そのコンセプトの一つとして制作における個人の独創性の相対化というものがあるけれど、その音の新しさは皮肉なことに彼らの作り出したサウンド・ファイルの独創的な音色とその発音の配置の自由度にあったと要約してもいいと僕は思っている。ovalでははじめは spongefork 、後に ovalprocess と、リアルタイム・プレイバック・シーケンサーを用いる。そこでは複数のサウンドファイルを自由なタイミングで発音させることができ、その作品化はいわゆるロックバンドの一発録音のごとく即時的な演奏をハードディスクに固定化するものである。このことはこれまでの logiccubase などのメジャーなシーケンス・ソフトを用いたテクノ、ハウス系のダンスミュージックなどが、作り出した音を演奏するのではなく固定することに視点があったのに対し、即時的に変化することのできる演奏を想定した視点を持つものだといえる。これはテクノロジーのブレイクスルーがもたらした事態である。

ラップトップ・ライブは退屈だと言われるのは何故なのだろう。これらがすでに風景と化してしまったから。楽器演奏による音楽が基準とする単位源から、音が今まさに作られるという多様な可能性が存在しないから。音楽の生成に身体が介入せずコンピュータのプロセッシング・システムに任されているから。こういうことだろうか。

現在の音響、エレクトロニカの世界でのソフトウェア環境は様々である。 CsoundSuperCollidermax/msp などのdspソフトウェアはポータブルに、音響研究、音楽環境の開発、アルゴリズミック・コンポジション、リアルタイム・プロセッシングなど、音楽に付随する包括的な目的を強力にカバーできる能力を持つ。これをライブで使用する場合、音を演繹的に定義、制御するという形式によりランダム・アクセスの自由度が上で挙げたようなソフトとは根本的に違う。ovalの行っていることが録音された音の即時的な、加工、配置であるならば、これらはそれをより根本的に行うことに含め、即時的な音の取り込み、任意な音の演繹的な生成、それらのアルゴリズムによる自動生成やセンサーを利用した相互的なパラメータ取得による制御などが可能である。他で有名なところでは reaktor のようにサンプリングとシンセシスという音の基本的な二つの処理方法を混在させたポータブルでリアルタイムな制御の可能なものをライブで使用するものもある。ただこれらにはソフトウェアの技術的な側面に溺れる快感という罠が仕掛けられてもいる。ソフトウェアをより深く制御しようとのめり込むことが、音楽の美的なものであるのか、それともエンジニア的なものであるのかを分けて指摘できないような。当然ながらシンプルなリアルタイム・プレイバック・シーケンサーがmax/mspに劣るというような話になるわけはない。

ところで、ovalのようにサウンドファイルのリアルタイムな配置を正確に行うことは、ライブとして音楽を楽しめることになるのだろうか?そこに待っているのは、cdの音源と変わらないものを大きなよりよい音で聴くことができる状況である。もちろん大きな音楽に適した音で作品を聴くことができるのは、それだけでも充分にライブを受容する価値がある。だが、それに演奏が必要なのだろうか、ということだ。cd-rをdjすることとどう違うというのだろう。つまり作品が現前することに演奏者の身体でなくとも構わない。それは別にもっと複雑な操作でも同じことだろう。必要とされる手順を確実に踏めば作品は完全に再現される。つまり再現がなされる方法があるのなら、それは再現される必要があるのだろうか?ということだ。別の言い方をするならば、配置に自由度があるとされながら、サウンドファイルの持つ固定的な性質は結局のところ、配置位置をある程度厳密に要求する。そのような任意の配置をリアルタイムで行うことは、音楽が生み出されているのだという喜びを受容者は受けることが出来ない。

サウンドファイルの即時的な配置とエフェクティングという形式のライブは比較的身体運動の関わりの複雑性が低い。サウンドファイルという前もって作りこまれた要素を利用することがそれをもたらしているわけだが、そこで固定された音はどのようにでもすることができ、技術的な知識のない者でないと音楽がどのように鳴らされているのかが分からず、モニターに隠されて神秘を生みだしている。知っている者にとっては、鳴っている音の内実は、いかに複雑であろうがそれは用意されたものであり、そこに音楽が今まさに生み出されているという喜びを味わうことは出来ない。ラップトップ・ライブが風景と化するようになってからは、どれだけ想像困難な音が鳴ろうが聴衆は驚くことはないだろう。作品はコンピュータという存在によって可能になった固定的なものであるか、現前がその存在に大きく依存するものだろうと彼らは経験的に推測するようになってきたから。

現在の電子音の制御では、シンセシスにせよサンプリングにせよ自由に音を操作することができるかにみえる。しかしそれも音の固定的な部分を排除することは基底的には出来ない。固定的というのは単に取り込まれたものは変更できないということではなく、音を扱うにはそれを成立させている構造を取り出さなければならないが、その在り方はその形式によって制約付けられているということだ。それは楽器が発音に対しいくつかのパラメータの一致点において決定されるしかないということと対応する。別の言い方をすれば、伝統的な楽器が持つこれらのシンプルで力強い、奏法と発音の対応性の自由度から電子音の制御は解放されている。それゆえ楽器演奏の制約では考えられない制御性を持つことができる。そしてそれはdspの方法論によってソフトウェアが与えられたものだけが可能だということだ。電子音楽の制作の性質とは、そうした一対一対応ではない一対多対応な操作性であり、音そのものではなく音やコンテクストの構造の操作性であり、様々なコンピュータ・テクノロジーをパラメータとして取り込みそれを音の操作パラメータとして利用できる性質である。これがそのままライブにもたらされる。

コンピュータにより(半)自動的に曲を生成させることについては、それも音楽がその場で成立する意味でライブに間違いがない。けれどそれが退屈に思える。そうだとすれば人間の存在が皆無だからなのだろうか。それが生み出す音が単に退屈にすぎなかったり、技術レベルで止まっているからだろう。自動で生成される音楽が既存の音楽のように面白ければ、僕ははじめは驚愕しながら人間の作り出す音楽同様に扱うだろう。そういう日がいずれ来るとして、その時現在の演奏という概念は大幅に相対化されるしかない。

ラップトップpcによる演奏では扱う対象が、コンテクスト、構造に移動している(一音と聞いて想像するものはこれまでの伝統的な楽器によって定義され在り方でしかない)。聴衆はそれを退屈と思いつつ、それが生み出している新たなライブ体験の形を模索しなければならないかもしれない。ライブという概念が現在の録音技術という複製技術が常態となった僕達の日々の音楽聴取の在り方の変化により変更されているから。生演奏というような言い方が相対化を求められ、cdで聴くものと同じものを大音量で特殊な音場で聴くことのみを求められる。こうした書き方はおそらく生演奏側の意見であって、もし後者側に立つならばそうした特殊な環境で音を聴くという行為に微細さが存在し、それを受容することができることに気づくべきだ。それは別の体験となる、といってみてもいいかもしれない。当然音楽の構造もより静的でなく緩やかなものに変化する。音楽というような構築的なものよりより音そのものを聴く在り方も多くなるかもしれない。スピーカによる音の質ではなく音の内実が変化しないこと、cdと鳴っているものが変わらないことへの不満は、こうした音の登場で変化する可能性を持つ。

poppの静かにマウスを操作する振る舞いが、超絶技巧は存在せずともそれと同じほど神秘さを感じさせ、演奏行為でないものの身体運動の存在を強く印象付けたということも書いておく。

受容

本 [ インプロヴィゼーション ] derek bailey
web/ 青空文庫 [ 反方法論序説 ] 高橋悠治
音 [ model 3, step 2 ] microstoria
音 [ microstoria : reprovisers japan ] v.a
機関誌 [ espresso no.7 ]
web/photo+software+painting [ isca greenfield-sanders ]

03/04

注記文章物語論 のソースの編集。

受容

音 [ un grand coup de lassitude ] my jazzy child
小説 [ 芋虫 ] 江戸川乱歩
web/label [ mego ]
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