ラップトップ・ライブに楽しみはあるのか(断片)。
いくつかのパターン。
- 自分の曲のdj
- サウンドファイルの配置、エフェクティング
- リアルタイム・シンセシス
- 音場のコンテクストの操作
- アルゴリズムによる自動演奏に任意に介入するパラメータ操作
- 演奏を見せない
- 演奏の放棄(パラメータの外部取得)
音楽のライブという言い方をすると、生演奏という意味を考えたりする。音楽が生じる場に居合わせることをライブとひとまず言ってみる。要素からなりそれを組み合わせなければ全体が成立しない、そうしたものを生み出す音に関する即時的な行為をライブ演奏と言ってみる。この場合非電気的な楽器によるものだけを指すのではなくなる。ここでは最初のもの以外すべて生演奏ということができる(即時的ななコンテクストの構築としてこれもライブということはできる)。
古い話になるけれど、何年か前に神戸でovalの[ dok ]のライブを観た。markus poppはある程度持続を持つ音をいくつか任意のタイミングで立ち上げてはループさせ、あるタイミングで再び停止させていた。その間リアルタイムでループする音(サウンド・ファイル)のエフェクト、長さ、ボリュームなどのパラメータを変更しているようだった。音は全体的に静かに震え揺れていくようなもので、それぞれ反復するものにも関わらず微妙に印象を変えていくように聴こえ、微細さの中に複雑性を感じ取ることができる音の在り方だった。現在でも便宜上テクノ・ミュージックに分類されてしまうのだろうが、それらが明らかに単調に思える解像度を上げたような音色と、パーソナル・コンピュータでの非演奏的な操作によるリアルタイムな音楽のライブという形態は、その時の僕にとって未知のものだった。けれどもその印象の惑わされず考えてみるとそれらが示している即興性はそれらほど分かりやすくない。
ovalの場合、そのコンセプトの一つとして制作における個人の独創性の相対化というものがあるけれど、その音の新しさは皮肉なことに彼らの作り出したサウンド・ファイルの独創的な音色とその発音の配置の自由度にあったと要約してもいいと僕は思っている。ovalでははじめは
spongefork
、後に
ovalprocess
と、リアルタイム・プレイバック・シーケンサーを用いる。そこでは複数のサウンドファイルを自由なタイミングで発音させることができ、その作品化はいわゆるロックバンドの一発録音のごとく即時的な演奏をハードディスクに固定化するものである。このことはこれまでの
logic
や
cubase
などのメジャーなシーケンス・ソフトを用いたテクノ、ハウス系のダンスミュージックなどが、作り出した音を演奏するのではなく固定することに視点があったのに対し、即時的に変化することのできる演奏を想定した視点を持つものだといえる。これはテクノロジーのブレイクスルーがもたらした事態である。
ラップトップ・ライブは退屈だと言われるのは何故なのだろう。これらがすでに風景と化してしまったから。楽器演奏による音楽が基準とする単位源から、音が今まさに作られるという多様な可能性が存在しないから。音楽の生成に身体が介入せずコンピュータのプロセッシング・システムに任されているから。こういうことだろうか。
現在の音響、エレクトロニカの世界でのソフトウェア環境は様々である。
Csound
、
SuperCollider
、
max/msp
などのdspソフトウェアはポータブルに、音響研究、音楽環境の開発、アルゴリズミック・コンポジション、リアルタイム・プロセッシングなど、音楽に付随する包括的な目的を強力にカバーできる能力を持つ。これをライブで使用する場合、音を演繹的に定義、制御するという形式によりランダム・アクセスの自由度が上で挙げたようなソフトとは根本的に違う。ovalの行っていることが録音された音の即時的な、加工、配置であるならば、これらはそれをより根本的に行うことに含め、即時的な音の取り込み、任意な音の演繹的な生成、それらのアルゴリズムによる自動生成やセンサーを利用した相互的なパラメータ取得による制御などが可能である。他で有名なところでは
reaktor
のようにサンプリングとシンセシスという音の基本的な二つの処理方法を混在させたポータブルでリアルタイムな制御の可能なものをライブで使用するものもある。ただこれらにはソフトウェアの技術的な側面に溺れる快感という罠が仕掛けられてもいる。ソフトウェアをより深く制御しようとのめり込むことが、音楽の美的なものであるのか、それともエンジニア的なものであるのかを分けて指摘できないような。当然ながらシンプルなリアルタイム・プレイバック・シーケンサーがmax/mspに劣るというような話になるわけはない。
ところで、ovalのようにサウンドファイルのリアルタイムな配置を正確に行うことは、ライブとして音楽を楽しめることになるのだろうか?そこに待っているのは、cdの音源と変わらないものを大きなよりよい音で聴くことができる状況である。もちろん大きな音楽に適した音で作品を聴くことができるのは、それだけでも充分にライブを受容する価値がある。だが、それに演奏が必要なのだろうか、ということだ。cd-rをdjすることとどう違うというのだろう。つまり作品が現前することに演奏者の身体でなくとも構わない。それは別にもっと複雑な操作でも同じことだろう。必要とされる手順を確実に踏めば作品は完全に再現される。つまり再現がなされる方法があるのなら、それは再現される必要があるのだろうか?ということだ。別の言い方をするならば、配置に自由度があるとされながら、サウンドファイルの持つ固定的な性質は結局のところ、配置位置をある程度厳密に要求する。そのような任意の配置をリアルタイムで行うことは、音楽が生み出されているのだという喜びを受容者は受けることが出来ない。
サウンドファイルの即時的な配置とエフェクティングという形式のライブは比較的身体運動の関わりの複雑性が低い。サウンドファイルという前もって作りこまれた要素を利用することがそれをもたらしているわけだが、そこで固定された音はどのようにでもすることができ、技術的な知識のない者でないと音楽がどのように鳴らされているのかが分からず、モニターに隠されて神秘を生みだしている。知っている者にとっては、鳴っている音の内実は、いかに複雑であろうがそれは用意されたものであり、そこに音楽が今まさに生み出されているという喜びを味わうことは出来ない。ラップトップ・ライブが風景と化するようになってからは、どれだけ想像困難な音が鳴ろうが聴衆は驚くことはないだろう。作品はコンピュータという存在によって可能になった固定的なものであるか、現前がその存在に大きく依存するものだろうと彼らは経験的に推測するようになってきたから。
現在の電子音の制御では、シンセシスにせよサンプリングにせよ自由に音を操作することができるかにみえる。しかしそれも音の固定的な部分を排除することは基底的には出来ない。固定的というのは単に取り込まれたものは変更できないということではなく、音を扱うにはそれを成立させている構造を取り出さなければならないが、その在り方はその形式によって制約付けられているということだ。それは楽器が発音に対しいくつかのパラメータの一致点において決定されるしかないということと対応する。別の言い方をすれば、伝統的な楽器が持つこれらのシンプルで力強い、奏法と発音の対応性の自由度から電子音の制御は解放されている。それゆえ楽器演奏の制約では考えられない制御性を持つことができる。そしてそれはdspの方法論によってソフトウェアが与えられたものだけが可能だということだ。電子音楽の制作の性質とは、そうした一対一対応ではない一対多対応な操作性であり、音そのものではなく音やコンテクストの構造の操作性であり、様々なコンピュータ・テクノロジーをパラメータとして取り込みそれを音の操作パラメータとして利用できる性質である。これがそのままライブにもたらされる。
コンピュータにより(半)自動的に曲を生成させることについては、それも音楽がその場で成立する意味でライブに間違いがない。けれどそれが退屈に思える。そうだとすれば人間の存在が皆無だからなのだろうか。それが生み出す音が単に退屈にすぎなかったり、技術レベルで止まっているからだろう。自動で生成される音楽が既存の音楽のように面白ければ、僕ははじめは驚愕しながら人間の作り出す音楽同様に扱うだろう。そういう日がいずれ来るとして、その時現在の演奏という概念は大幅に相対化されるしかない。
ラップトップpcによる演奏では扱う対象が、コンテクスト、構造に移動している(一音と聞いて想像するものはこれまでの伝統的な楽器によって定義され在り方でしかない)。聴衆はそれを退屈と思いつつ、それが生み出している新たなライブ体験の形を模索しなければならないかもしれない。ライブという概念が現在の録音技術という複製技術が常態となった僕達の日々の音楽聴取の在り方の変化により変更されているから。生演奏というような言い方が相対化を求められ、cdで聴くものと同じものを大音量で特殊な音場で聴くことのみを求められる。こうした書き方はおそらく生演奏側の意見であって、もし後者側に立つならばそうした特殊な環境で音を聴くという行為に微細さが存在し、それを受容することができることに気づくべきだ。それは別の体験となる、といってみてもいいかもしれない。当然音楽の構造もより静的でなく緩やかなものに変化する。音楽というような構築的なものよりより音そのものを聴く在り方も多くなるかもしれない。スピーカによる音の質ではなく音の内実が変化しないこと、cdと鳴っているものが変わらないことへの不満は、こうした音の登場で変化する可能性を持つ。
poppの静かにマウスを操作する振る舞いが、超絶技巧は存在せずともそれと同じほど神秘さを感じさせ、演奏行為でないものの身体運動の存在を強く印象付けたということも書いておく。