2003/04/

04/30

h1、#header、li#gateの色変更。

受容

音 [ return to forever ] chick corea
web/illust [ nita! ]

04/28

本 [ 怒る技術 ] 中島義道

怒れずそしてそれをやりすごすこともできない人間と、「どうしたのかと思うほどささいなことで」すぐさまキレる人間が存在するのは同じところから来ていると彼は言う。怒りの感情を殺すことは、個人の感情を殺すことを意味する。それが蓄積されていくことで自分を腐敗させていく。ヨーロッパ人は本当によく怒る。そしてそれは演技的になされているという。その怒りは自分が正しいということと関係がない。怒りの技術とはつまり真に感情的な状態を表に出すのではなく、また間違っている行いに意義を申し渡すものでもなく、怒っているという個人の感情を相手に向けて冷静にそしてその表現は極めて激しい仕方で伝達することで、自分とって相手もしくは社会との関係を円滑にするための身体制御の技法の一つだといえる。

ただし怒りの感情を徹底させることは、彼らとの深刻な対峙も引き受けることを意味する。たとえば礼状や年賀状などの時候の挨拶や定型的な文句などを彼は真剣に嫌悪しているという。これらは感謝や親愛の気持ちが促したものだと自然にみなされている。けれどもこれこそ他者と効率的に安全に共存するために生み出した相互的リスク・マネージメントの洗練された形態とみなすことができる。つまり個人の腰の入った感謝の念がそこには一体存在するのかという意味で彼は嫌悪するのだろう。ただしこれをこの日本で主張することは当然のことながら無視や親切な忠告という仕方での粘り強い猛反発が予想される。「哲学とはこういう言葉に汚染されないこと、生活のレベルで肉体の言葉・血の言葉を守ること」と彼は書く。それは個人的な感情についての意識を言葉によって鋭敏にしていくことであり、「それはあれと同じだ」という他者の類型化への運動を暴力的な越権行為として決して許さないような、言葉による運動なのかもしれない。それは以前書いた 映画 [ アカルイミライ ] でのオダギリや浅野ら演ずる若者の怒りの描き方、また同じ項で挙げた 芸術家の役割 が違いを見過ごさず表現すること、ということと関わる。

ところで彼の学んだヨーロッパ的な「怒りの技術」の日本への移植の実践が、どのような効果や影響をもたらしているのかが知りたい。僕としては企業の賃金の評価制への移行共々、西洋の制作を移し替えることについて興味がある。つまりそれは別のものへ移行するのだろうという予想されるし、単純に変換が円滑に進むとも思えない。

受容

音 [ requiem ] verdi/giulini
音 [ そして、それが風であることを知った ] 武満徹/new music concerts ensemble/robert aitken
無調音階を用いてるのにこれだけ美しい、というタワーのpop
web/music review タダイマノオンガクハ、

04/18

h1要素の背景色と so_web注記 の記述の変更。

映画 [ the pianist(戦場のピアニスト) ] roman polanski

「50万が20になる」と言われてどのような想像をするだろう。いくら減ったのか計算しようとすると面倒ではあるが引き算なわけだし苦労はしないだろう。それでは持ち歩いていた50万円をなくしてしまって20円だけポケットに見つけたという場合どうだろう。かなり落ち込み憶えのあるそこらじゅう探してみて見つからなくて物や人にあたるかもしれない。餃子50万個を焼きようやく最後の20個までさばくと言うのならどうだろう。仕事とはいえ「餃子一日三千個」というコピーがあるくらいだし半年位で何とかなりそうだ。50万匹の鶏をしめるのではどうだろう、以前は日常ありふれた行為だったのかもしれないが、僕はしたことがない。

「50万人が殺されて20人しか残らなかった」というのはどうだろう。「当時のワルシャワにいた50万のユダヤ人が殺されて最終的に20人残った」これは件の戦争で言われる説の一つだ。

大きな事物や出来事の運動や変化に実際自らが関わるとき、様々な労力に僕達は接しないわけにはいかない。「50万人の人間を殺す」ことに関わるとき伴う、到底説明できない心理的な抵抗感や、物理的な人的摩擦や暴力、複雑だったり非効率な具体的な行為等、想像に及ばない気力体力が要ると思われる。上での例との比較も加えてそのことを想像するだけで途方もなさを感じる。言葉や画像の力の一つは、こうした出来事をわずかな量で言い換えることができる表現の圧倒的な経済性にあるとよく言われる。「象」を指示するのに、本物をアフリカから持ってきたり動物園に連れて行ったりする必要はなく、ただ了解された「象」という記号や画像を相手に表現すれば事足りる。

けれどこの経済性は、決して対象への理解に対するものとはいえない。「象」という語を聞いたり読んだりするとき、自分の中に持つ象から引き出される関連する情報(リンクといえば現代的だろうか)がどの程度か引き出される。その即時的な情報の総体をこの言葉に関連付けることで僕は、そこで言われた(書かれた)「象」という対象に理解をつける。けれどもこの理解はポータブルなものでしかない。日常でのこうした言語や画像の象徴機能の利用によるコミュニケーションは常に理解したつもりという前提によって、展開され継続されつづける。その意味が掘り下げたい必要に駆られてもそれは流されてしまう。小説や映画という情報体がある長さを持つのは、こうした象徴機能を利用しつつ表現する事柄への本質的な理解へ迫ろうとする制作者の試みと言えるかもしれない。一瞬にすべての情報を叩き込もうとする俳句のような形式ではなく、物理的な量というものを部分的には複製しえるという希望があるからこそ、彼らは制作をし続けるのだろうか。

深さや重さを持つ人間の命が上の例えと同列に扱われうる物として尋常でない数として廃棄される、ということを理解するとき、宇宙の広がりを想像する時に感じる崇高さの感覚に似たものに陥る。この感覚は、それぞれに唯一の個体を持つ人間を侵すことのできないものとして扱うヒューマニズムという倫理観が、趣味判断に結びつくとき生じる。1を0にする引き算のように人一人を殺すためにはどのようなことが伴うのか、それを拡大し一度に100人の人間を殺すためにはどのようなことが伴うのか、一日に1万人の人間を処理するにはどうすればいいのか、と殺す側、殺される側、第三者の側、そういう彼らの状態を考えるときに伴うこの途方もなさとは、ポータブルな言葉に見合わない情報が埋め込まれていることに気づくときに生じる効果だ。

小説や映画の広がり・量への複製性の確保という意志はけれども成功することはない。いずれにせよ全的な複製などというものは不可能だからだ。小説や、映画の言語的な物語構造はこの象徴機能、つまり情報の圧縮による情報全体の抽象的な(もしくは高次の)レベルでの理解を可能にする。言語の使用によるこの崇高さが小説や映画においても生じるのは、当然のことながらこうした言語的な性質によっている。そして映画がよりロマンティックであり、ドラマティックであるとするならば、それは運動する映像が人間の視覚に入力される現実世界より大きさを持つからであり、全体に対しちょっとした想起に従わねばならぬような程度の二時間という上映時間の長さを持つからである。

この「戦場のピアニスト」という映画は、この崇高さの感覚を受容する者に与えようとするようだ。ユダヤ迫害を行ったナチス・ドイツの行いをできるだけリアリスティックそして時にドラマティックに描こうとする。その過程でこの感覚が芽生えるように意図されている。こうして理解できるのは、映画がいかに視覚・聴覚そして言語的情報により受容者の情動に刺激を与えるかというメディアである、という分かりきったことだ。これは同じユダヤ人迫害を扱った[ shoah ]などのドキュメンタリーであろうとも同様だ。

繰り返しになるが、映画は映像や音、編集などの組み合わせの複雑性や広がりを扱うだけでなく、人間が登場しその営みを映像的に生成的複製するという言語的な意味論を扱うものである。映像がサンプリングによるものであるならば、言語は現実をシンセシスによって組み立てるが、映画は人間の行為という言語的な意味をこの映像の組み合わせによって組み立てようとする。この映画のような人間の善悪の彼岸を描くことがもたらす強い磁力を、映画というテクノロジーを扱う者は理解している。それは抽象化した映像や音という人間の行為が関わらない、単に違いを持つ要素の組み合わせではない制作とは別種のものである。それを引き出すことは、それを受容する者に強度の情動の移動を強いることを理解している。というのも当然のことながら、僕達はそこに自分自身の生との強力な共通性を見出すからだ。映画的な映画とはこうした身体的な理解を表現しえているもの、そうしたものから乖離したより編集的でより抽象的なもの、などと位相の多様性を持つ。ポランスキーという監督は、既存の物語構造での楽天的ともいえる紋切り型を否定し別の温度の低いそれを作り出してきたといえる。彼はこのような巨匠的な洗練を経、全体が統制されたバランスの取れた映画を撮るようになってしまったのだろうか?もしかすると以前からポランスキーの作品を知る者はそう思うかもしれない。かくいう僕がそうだ。

僕としてはより即物的ともいえる仕方でゲシュタポの行いをシステマティックなまでに描いてほしかったし、より生存に全生物的能力を行使する動物としての人間を描いてほしかった。正直言ってよくできているが物足りなかった。途方もなさを伝えるため詳細を量として記述するこの映画の方法をより徹底し、既存の物語構造とは別の物語を見たかった。terrence malickの[ thin red line(シン・レッド・ライン) ]の前半がこのような描き方を行おうとしていた。丘の頂上にある敵の攻撃拠点を占拠するために、簡単に狙い撃ちされる愚鈍な正面きっての前進を上官に強いられ、仕方なしに行うが当然のごとく簡単に部下はみるみる死んでいく。そのシーンで延々一時間費やしていた。見ている僕は気の遠くなる様にめまいを起こした。出来事を言語的に効率的に圧縮するという既存の映画などの物語化を行わず、部分を丹念に生成し複数のそれらを想起や想像によって結合する編集方法を用いる、ゴダールのような物語化をここで採用した方が効果的ではなかっただろうか?ゴダールが身体から離れ抽象化するのとは違い、ポランスキーにはあくまで身体的な粘質性があるのだけれど。

受容

音 [ after hours 第17号 disc1, 2 ] v.a
discom, pulseprogramming
tv/漫才 [ 第38回上方漫才大賞発表会 ] 笑い飯
後半部のイメージ・フラッシュの連鎖的に組み立てられた畳み掛けが凄まじい
音 [ draft7.30 ] autechre
本 [ tokyo war ] 押井守

04/15

本 [ 本の歴史 ] ブリュノ・ブラセル/荒俣宏

紙は、文章という文字の組み合わせからなる制作を固定的に定着させるための形式の一般的なものであり、本はそれを量的に組織する情報体である。文章は出来事の記述や人間の思考の生成的複製に用いられる組織化の技術であり、本(書かれた文章)は声と違い保存性を持ち持ち運びできるポータブルさを持つ。これはつまり声を発するという、その場に居合わせた人間のみが情報を受容する一回性の出来事ではなく、時空間的に異なった条件での反復した受容が可能なメディアであることを示す。この固定的性質を利用した本は言語的現実(言語的出来事)を生み出してきた。話すことによって伝播してきた情報は、書くという固定的技術により比較にならない仕方で拡散・伝播が可能になる。それは単純に本を読んだ人間自身にだけそれをもたらすのではなく、本を読んだ人間がそこから多くの不特定多数の人間に再び自らが文章の紹介者として、この言語的現実へのアクセスポイントとしての役割を果たすことも小さくはない。本(的なるもの)の形態は時代や地域の様々な制約や要請、発見により変化してきており、木片などに書かれたもの、巻物、一枚の紙を折って綴じたもの、手書きされたもの、印刷されたものなどバリエーションを挙げることができる。

人は本に書かれた情報をというより、読まれることで生成される言語的現実を渇望する。そしてこの渇望感というものは強く、読むことがもたらす強度の没入感とその後の快感が引き起こしている。それは現在の漫画に対するものと同型のものなのかもしれない、たとえばある続き物のコミックを夜中に読み始めやめられなくなり結局朝方になってしまったというよくある光景のように。これは書かれたものの形式の性質つまり物語の構造の性質と関係がある。もう少し言えば物語の成立させている情報の組織化の在り方がこうした没入感と快感をもたらすような性質を持つ。

手書き本という印刷術以前の存在がある。ここには写筆という行為が不可避である。けれども印刷術以降も、著者の原稿を本として成立させるまたはそれを複製する、いずれに関しても現在のコピー技術(コピー機、写真、コンピュータでのデジタルデータの複製)の登場までは、文字の複製には書き写すことを含む手作業による写し取りの方法しか存在しなかった。印刷術は複製を行うのではなくすべてがオリジナルであるような量産を可能にしたのであり、その原版の制作には著者の書いたオリジナル原稿をそのフォーマットに移し替えるメディア間での複製という行為が必要であった。印刷技術以降は活字の組み合わせが、それ以前は写筆行為がこれに該当する。写筆という複製技術を構成する写し取りの工程は、一回性のものでそれを保持し再利用する、ということができない。活字を組みそれを原版として大量の複製を生成していく印刷術ではこの写筆行為は、選択と配置というシステマティックな問題に置き換えられた。

印刷術以降の大量生産が可能になる産業化まで、本に書かれていることつまり本の意味内容は、何度も再利用されていたという。それはそもそも文章を書く能力を持った人間が限られていたこと、なおかつ本を書く人間がより限られていたことにもよるのだろう、そうした著作の絶対数の少なさをカバーするという意味もある。写筆や翻訳により誤りや省略、誤訳、注釈の付加、様々なエディション・装丁などにより、本来の著作物である意味情報はある変形を被りながら拡散・伝播していく。このことにより僕たちは様々な類似する物語のバリエーションに触れていくことになる。

作り手が本を過剰なまでに装飾し、読み手がコレクター化するというフランス人は本をフェティッシュの対象とみなし、イギリス人は内容に関しての入れ物でしかないと、図書館を重要視するという。このようにお国柄で測るのは大味な仕方でしかないが、それぞれの国に生まれ育った者の本への態度は明らかに相違してくるだろう。本というメディアが単純に文字によって制作された意味情報体の形式であると言えないような歴史があり、著者の思惑を超えた受容を人々に与えることになる。膨大な図版がこの「本の歴史」には用意されているが、その中でも極端に過剰になっていった飾り文字の系譜を眺めることで、このことが直感的に想像できる。それはあたかも表意文字である漢字文化のもたらす「書」のようである。こうした18世紀に最盛期を迎える短くない本の歴史が、それまでの過去の権力の極端な財によって可能になった事態であること、それゆえ一冊の本が様々な意味で現在のようなポータブルなものではなく知が生死を分けるような権力に結びつく切実な事態であること、1冊の本の情報が恐ろしく長い時間を経形を劇的に変化させながら(または変わらずに)拡散していくこと、情報への渇望感がこの伝播の急激な流れを生み出していること、文字を読めない人間にも口伝えという従来の情報伝達の方法(組み立てによる複製)に変換されることで分配されていくこと、など本がもたらす事態がおそろしいダイナミズムを持つことをリアルに感じさせてくれる。

受容

音 [ mort aux vaches ] oren ambarchi
音 [ nak won ] carl stone
非定型な持続音がレイヤーする様の聴取、という以前やったアイデアと同型の1曲目など、心地よい
雑誌・音 [ improvised music from japan 2002-2003 ] v.a
本 [ スプートニクの恋人 ] 村上春樹

04/10

「意志が行為を生み出す」。

意志とは、身体を制御する高次のシステムというようなものではない、というよく言われる言い方。それは自らが行為という表現によって事後的にはじめてその存在を知(解釈す)ることになる、身体の状態の説明体もしくはモニタリング可能な抽象的情報のインターフェースだと説明する。このインターフェースには感性イメージというような非言語的存在が用いられる。そしてこういいつつ「念じ続けることで夢はかなう」だとかいうような人生訓的言明がそれなりに正論であるとすれば、それは身体の状態を方向付ける機構がこの行為とモニタリングの相互性によりより鋭敏で明確なものになっていくからだろう。けれどもこれは、このインターフェースを利用しながら確率論的に身体を制御する、というようなことではやはりない。僕たちの意志や意識の在り方の説明にこうしたモデルがリアルに思えてしまうのは、それ自体が今話をしている意志の問題のように自明であることの起源を想像しないことと関係する。

小さなこどもが純粋だとか天使のようだとか言われ賛美されるのは、それが正しいからというよりもそのようについ言ってしまうほど、彼らの行為(制作)が意志や意識の存在を感じさせないもののようであり、身体がただ作動し(自身に制御され)ていると思えるからだろう。他の動物と変わらないようにしか思えない彼らは人間をその微細な部分をおそろしくよく見、シミュレートしだす。けれどもその在り方は動物的でありながら同時に生物的な生存に関係しない過剰で無意味な振る舞いで構成されている(いやもしかすると人間として機能するためこうした振る舞いは生存のためなのかもしれない、また動物もこうした過剰さを持つのかもしれない)。

受容

音 [ draft7.30 ] autechre
音 [ heroin + remixes ] stephan matheiu + ekkehard ehlers/v.a
1枚目3・10曲目はあまりに直接・モンド的だが僕のにイメージが近い
web/java sun microsystems

04/06

即興と固定性の混合。

舞台 [ iii(アイ・アイ・アイ) ] 板尾創路/宮藤官九郎/ 倉本美津留 @近鉄小劇場 を観る。

板尾+宮藤の組み合わせが何かしら期待させるということで出向く。脚本という前もっての制作が存在するには安易に思え、笑いというには効果として冗長に思え、演劇なのか笑いなのかという判断がつかないまま舞台は進行していく。愚鈍ながら途中から気づいたのは、前もって決められた演劇的な部分とそこに要素として組み込まれる即興的な板尾のしゃべりという構成になっているのだろうということだった。たとえば「雛人形、あわせて何体?」「シュガーレス、セックスレスなどレスの付くものを110個満足行くまで挙げなさい」「今から言う50問の質問にテンポよく間違えて答えていくこと」「今から流れる曲のイントロの続きを歌うこと」というようなサンプラーによる板尾自身のナレーションによる問いに答えていく。「ごっつええ感じ」時代などで即興的なメロディと詞をでっちあげることへ一定の評価がなされているように、彼の独自の即興的な反応が客を笑わせるという趣向になっている。脚本は宮藤ということになっているが、おそらくこの企画自体三人のコラボレーションとして生じてきた境界の曖昧なもののように今は思える。ラスト急激にシリアスなものへ展開し、制御構造としての演劇的な固定的された部分に、大方を占めるお笑い芸人としての即興反応の部分が包摂されるという構成が最後に理解できる仕組みになっている。それまで抱いていた明確でなかった演劇的な部分が明らかになり全体的な笑いのイメージが相転移し別のものへねじ曲げられたような印象は、宮藤の意図した前もっての脚本の狙いどころだったのだろう。

たとえば即興としてのもしくは即時的な行為としての笑いには、対象のパラフレーズによる記述、非論理的な連想によるコンテクストの生成、などといえる技術がある。いずれも話の中でで生じた、今話される話題要素のある性質のみを瞬時に論理的に展開させ、その結果を元の対象に接続させることで非論理的で荒唐無稽なイメージが生み出される。違いは時系列で行われるか空間的な系列で行われるかというものになる。板尾はたとえば上の質問に対し「二体やったらあかんのか、そういえばおじいとかおったな、三人官女とかのお姉とか若いのばっかやのにやりにくいやろな」「ボンレス・ハムって骨なしって意味やったんか、若いのにボンレスな(骨のない)奴っちゃ、なんぼでも契約取れるまで外出とけ、て使いたないな」など、より下世話でありしかも遠いものというパラメータでこの連想処理をしている。この仕方はお笑い芸人それぞれに違うものだけれど、関西の松本人志以降の若手芸人はこの方法を特に使いたがる。彼らと板尾(、それに松本)の違いは何なのだろう。

漫才はきちんとした脚本が存在し、即興と思える部分の多くは作り込まれたものである。それでも当然即興の反応というものは存在する。いくつか用意されたやり取りのパターンの選択からその場の日常会話による笑いへの組み立てというような複雑なものまで、イデオマティック・インプロヴィゼーションの様々なレベルでの援用がなされる。今回の笑いの部分がそれほど笑えなかったのは、まあ言えばマイルス・デイビスの日々のライブ演奏の当たり外れのようなものなのだろうか。枠として設定された即興の部分で、それが始める前に組み立てられる瞬時のイメージを有機的に構成できなかったというような。それではないと思った。上の質問に対し板尾は、「レスていうたらウェイトレス、アクトレスも付くけど、これ言うてみたらあかんのやろか」などと逡巡する場面が頻繁にあった。僕はこれがかなり笑う態度の温度を下げたと感じたけれど、これは脚本、演出のレベルで操作したのだとしたら読みが外れているし、即興の部分であるならこの反応は時間伸ばしの意図が見え見えで適切なものであるはずがなく、こうした無意味な冗長性が存在しないように、反応の態勢を公演に際し作っておくべきだった、ということになる。

受容

本 [ 本の歴史 ] ブリュノ・ブラセル/荒俣宏
本 [ 村上春樹全作品1990-2000 2 ]
音 [ invisible architecture #3 ] microstoria
音 [ そして、それが風であることを知った 他 ] 武満徹/new music concerts ensemble/robert aitken
ラーメン [ 塩ラーメン ] 山頭火 @心斎橋

04/04

注記 、とスタイルの若干の変更。

カスタマイズ性はユーザーとデザイナーに移動を強いる。

linux のことはよく知らない。けれどたとえばデスクトップなどを windows しか知らないユーザーが想像できないほど、自分の好みに見た目を変更することができる。それは色や大きさ、サイズだけでなくウィンドウの形状など、インターフェース全般を含む。これはlinuxの開発に使用されているソース・コードが公開されていることと関係すると思う。その知識のある者ならばソース・コードを書き換えることで、自分の好みのosに仕上げることができる。知識がほとんどないので具体的にどうとは言えないが、この時点で想像させてくれることは大きい。

産業製品は、企業が形態、機能などを決定し制作したものを代価をもって提供される。その際企業はできるだけユーザーの欲望を厳密に嗅ぎ取る努力をし、その読みを託した商品を開発する。その後はできるだけこの開発の部分を省いた生産・販売という量産のための運動を効率的に循環させることを考えるけれど、流行というものの存在で分かるように何が売れる(売れなくなる)かは予測できないところがあり、この循環のプロセスはヒット商品だといえども完全な定番にならない限り(いやそれだからか)再度開発の部分まで含めたものとして練り直され、また新商品のためのものとして繰り返される。このことは、商品が売られるこの過程とはすでに決定され固定されてしまったものの運動でしかなく、それをこの一連のプロセスの途中で変更を加えることが極端に困難であることを意味する。なので全く新しいものではなく二匹目の泥鰌を狙った先鋭的でないカスタマイズ的な制作を好んで行う傾向がある。たとえばオーダーメイド服(オートクチュール)から既成服という流れは、服飾産業がシステマティックに制作を行えるようになったことで自然に向かった方向だといえるが、量産体制になってからはバリエーションの数がその歴史に比例している。現在のユーザーの意識はより自分の細かな好みにあうものを欲するようになり、 nike の「co.jp」戦略などのように非常に微細で膨大なバリエーションをあらかじめ提案することで、ユーザーの個別的で素早い好みの変化に対応するようになっている。けれどもたとえば企業内や企業間でのユーザーの欲望を記述したログのようなものはどれだけ重要視されたのかどうか。「コンビニで売ってるあのボールペンの書き心地がよかったのに」「68年式のスカイラインのフォルムが一番好きだったのに」というような思いはいくらでもあるだろう。それはもはや全くサポートされなくなってしまいあたかも存在しないかのように、新たなものが作られていく(もちろん売れるという明確なユーザーの反応がない限り企業は動かないだろうが)。

オープンソース・ソフトウェアの存在は、この企業の商業製品という近代的な物作りのプロセスに相対的な視点を与えている(根本的にはもちろん「フリー」という考え方、思想があるけれどひとまずそこには触れず、ここで可変的な製品ということに限定する)。ここではユーザーに知覚される表面的な要素というものは、好きなように改変できる自由がもたらされている(もちろんオープンソースということは全くそこから違うものを生み出すことができるが、それならばそのものを使用せず全く独自でやる方が早いのかもしれないので、カスタマイズという話に限定する)。好きなように変えてよいというものの自分で変える能力のない者には、ネット上ではたとえばスキンなどがユーザー・グループによって配布されていたりする。そこでは視覚的な形態を決定するデザイナーの役割は相対化されるもしくは変容させられる。どのような凝ったデザインをしようが、ユーザーの好みに合うものはユーザー自身が思い描くものに勝ることができない。デザイナーにできるのはおそらく上で言ったように、参照することでユーザーが欲望を引き出すような改変の許されたデザインの膨大なアーカイブを用意するということなのかもしれない。

ウェブ制作において、以前僕は「標準派」と「tableレイアウト派」の対立について何度か書いたけれど、「標準派」がデザインを固定的に指定することを徹底的に批判する理由は、ユーザビリティという考えが上のような部分まで含むとも考えることができる。権利だけでなく欲望としてもという意味で。こう書くとstrictなhtml+cssをpc・アニメのオタクの巣窟であると決め付けるコジャレ・デザイン系の人間も理解するかもしれない。ただしこれが単純にどちらかの勝利に終わるなんてことはもちろんあり得もしない。これはどちらかの価値観を持つ人間達の争いというよりも人間が持つ二つの性質のせめぎあいと考えることができる。それらは、自ら苦労して表現したものを劣化なく変更なく受容(まさにただ単に受け入れる)して欲しいという制作者の欲望と、欲しいものはその中のあるフレーズだけでいいというユーザーの制作のための要素ハンティングというシビアな欲望である。ウェブの在り方はそうした制作者の欲望をできるだけ残しながら、ユーザーの側の地位を大幅に強化しようとする動きを見せる。ただしそれは、table派が標準への準拠へ移行することで、彼らの価値観を揺さぶるような積極的な意義や快さ(動的で確率的な制御性の持つ未知の可能性など)を持つ代替案であるだろうか、と思う。

本質が存在すれば、他の要素がどのように変更されても問題はないという考えが、このカスタマイズを許しているのだろうか。ソースを公開することを考えると、そもそもそうしたいくつもの要素をつなぎ合わせて新たなものを作り出すということも可能だ。つまりは本質さえどうぞ変えてもらっても構わないという姿勢がそこにある。そこまで行って残るのはそれをもとに新たな制作へのモチベーションを生み出したことをも使用の一つと見なす在り方なのだろうか。

商業音楽の世界では著作権の問題が切実になって久しい。napsterやcccd、サンプリングの問題で賑わっている。好きと表明する音楽家の中のお気に入りの曲でさえその全てが好きなどということはあり得るのだろうか?と言ってみる。そうではなくどこかは気に入らない部分が存在するが、それをどれだけ直感的に感じ取れないかが「あの曲がいい」ということの内実ではないのか、とひねくれた見方も可能ではないかと思う。よく出来ているのにも関わらず部分的に気に入らないところがある曲などに出くわすと、「この部分は自分ではこうする(もしくはそうはしない)」というような意見を抱くことがある。サンプリング・ミュージック(やコンピュータ・ミュージック)は、この作り直すのにという欲望を間接的に増幅させた。既存の音楽が、譜面やイメージを用いオリジナルを(巧妙にカムフラージュした)劣化させる複製行為の歴史の上に成り立っていることを自覚させたとも言ってみてもいいかもしれない(サンプリング・ミュージックに知覚しやすいほころびや過去の記憶があるからといってそれがパクリから成り立つ複雑性の低い音楽であるという言い方は素朴だ)。 gnusic のように音楽の要素がアーカイブとして蓄積されどのような再利用をも自由に認められているならば、音楽は聴くものから作るものへシフトするのだろうか。聴くことの重要性もしくは質は変容を強いられる可能性を孕む。演奏(配置)するという音楽への積極的な介入や自分の聴きたいものへの要素の変更後の聴取になっていく。それはお気に入りテープの編集にまつわる身体状態や労力と本質的に同じだとは思う。けれどより音楽を楽しんでそれも多くのものを聴くというふうには行かないかもしれない。

ソフトウェアにおけるデザイナーの役割は上で言ったものだけでなく、インターフェースデザインのように機能を想定し形態がどのように利用されるのかということを、高次構造のレベルで想定するものへ移行する。それは機能を考えることをそのまま意味するのではなく、機能の振る舞いを読み取りそこに配置可能な形態を提案をする。それは実際の形態を利用者が作るだろう形式的な制約の幅である。このように動的な対象の形態デザインの制作に関わる者は、その一般的な性質であると言われるある傾向から乖離させられる可能性を持つ。線を引くことや素材に触れることなどの身体的な快感への欲望、様々なガジェットへのフェティッシュ的傾向、細部への執着等、これらが抽象的なそれへと変換されるという。

受容

音 [ tocando sentindo suando ] tutty moreno and freiends featuring joyce
音 [ ballets ] de falla, milhaud, walton, martin/ larmore +wolff
音 [ buried secrets ] pain killer

04/02

にi0d.dbnを追加。

受容

本 [ 怒る技術 ] 中島義道
本 [ 村上春樹全作品1990-2000 2 ]
音 [ montreux 93/94 ] seigen ono ensemble
web/computional design [ group c ]