複雑性と相互性、即時性。
このウェブを見たという 小田さん という人からメールをもらう。彼は芸大の学生で max/msp を用いて音楽やメディア・アートをやっているらしい。最近卒業展示をやっていると知り、この日観た。そこでは彼はおらず同じ環境で作品を作っている友人の 田口さん に彼自身のと 小田さんの作品 を紹介してもらう。
リンクから分かると思うが、小田さんの[ observation ]と題された作品を僕なりに説明してみると、複雑系のアルゴリズムが支配する場とそれに影響を受けるそれ自体は単純な振舞いをする対象を複数定義する。プログラムが立ち上げられると、諸対象は設定された初期値を参照し振る舞い始める。これら全体の振る舞いを合成したものが周波数変換され、変化する音と描画として表現されていく。対象は時々刻々とアルゴリズムの影響により相互に影響を与えあうので、当然僕が見聴きするものも結果として変化しつづけていくことになる。
[ ambiguity ]と題された田口さんの作品は、リアルタイムで取り込まれた映像と、もともと用意していた映像を、 max/msp / nato 上で用意されていた両者を混合させるアルゴリズムに通すことで、加工したものをリアルタイムで画面上に断片的な複数として出力していく。この際、同時に取り込まれた音声が加工の仕方に影響を与える関数として用いられる。この混合の加工の結果は、実際観てみないと表現できないが、映像加工に使用できる様々なエフェクト、たとえば色調変換、画像転回、サイズ変更、画面切断、複製、枠取り、彩色等々、加えてこれらの併用、などが行われる。
二つの作品には、最近のコンピュータ・アートの表現の特徴がそれぞれ出ている。小田作品は複雑系いわゆる人工生命プログラムを利用した、多様な振る舞いを生み出す自律的な閉じた系の構造への注意を作品とするものであれば、「作者・コンピュータ・鑑賞者」すべての要素が欠けても作品が成立しないと言っている田口作品は、それを決定付ける作品と鑑賞者の情報の相互性(いわゆるインタラクティビティ)と要素処理の即時性というものが要点となっている。また両者は共通して、受容者の前に提示される形態の表現をコンピュータに任せるような高次構造の設計を作品の制作として行っている。これに遠隔性(ネットワーク)、知覚複製(ヴァーチュアル・リアリティ)が加われば、現在のコンピュータ・アートで語られるキー・タームはおそらく出揃うだろう。
僕は以前、現在のコンピュータを用いたメディア・アートにインパクトは感じるものの、それが深さや耐久性を持ったものかと疑問を抱いているというようなことを デザインの可変性2 芸と技、快 に書いた。 それはこのテクノロジーの現時点での技術的な可能性の単なる羅列でしかないものが多く見られるからだ。その点に関しては両作品とも逃れられていない(おそらく誰かが逃れられているようのものではない)と思ったけれど、いろんなことを考えさせられ刺激になった。ここで両作品への具体的な感想を書いてみる。
小田作品には、音の微細な振る舞いには僕は非常な心地よさを感じたが、それは制作者の意図とは離れた読み取りであると思う。システムの振る舞いを「見たり聴いたりできること」で感じ取ることが意図されていると思うが、正直なところ描画の内容や方法とその速度、音色の変化など提示されるものだけでは、音と描画の関連性、システムの存在自体がつかめないと思った。どのように提示するのかという表現の部分をより考慮した方が良かったと思う。ところで小田さんは同じく作品の説明で「理論的には同じ振る舞いはしない」というような言い方をしている。微細な違いは受容者にとっては違いとして認めることができない、もしくは認めたけれど面白くない、という状況は効果として意味をなさないことと関係している。これは当然本人も理解されていて、小田さんとメールでやり取りをした時話題になったのは、こうしたアルゴリズムの複雑性が実は人間にとって複雑ではないということだった。たとえばフラクタル図形を見た時の感想が、驚きつつももう一度見たくなる質のものではないという点に似ている。複雑ではあり線形ではないけれど、人間や自然が生み出している複雑さとは違った単調なものとして見える(それはこれから皆がこぞってコンピュータというメディアを用いることによって作品がどれもこれも似たものに思えてしまうだろうということにも関係するだろう)。
田口作品の実写映像が目まぐるしく様々に変換される在り方は、どのように具体的に映像が変換を受けるのかと受容者を強く引き付ける。ただし、それは次第に高次のレベルでパターンとして制御されていないランダムなものに思え、この作品がコンピュータに行為させるという方法論的な部分に着眼があるのだとみなしてしまう。これは彼の発想に問題であるというよりも、コンピュータの能力が関係してくる話ではある(インタラクティブな作品でインターフェースとして用いられるマウス・キーボードのような典型的なデバイスからの信号だけでなく、今回のように映像や音声を用いるものも数多くあるが、それが前者より複雑性を持っているとは一概には言えない。それらの要素から何をパラメータとして取得するかが問題であり、この作品では複雑にパラメータを定義できなかったはず)。けれどもこの読み取りに関してのみ言えば、知覚的な複雑性を縮減することで(たとえば極端な話テキストに要素を限ってしまうだとか)意味の複雑性を取るということなら現行の能力でも可能ではないかと思った。
上で言ったようなことは、表現のレベルでの具体的なものだ。分裂しているように思えるのは、このように新たな形式に根ざす目新しい具体的な表現の心地よさ、制御性の快感という直感的な部分を誘発するのと同時に、コンピュータのもたらす表現が、コンセプチュアルな部分をも強く伴っているところ。コンピュータ・アートの高次構造の制作などの観点は現代美術のコンセプチュアルな性質を引き継いでいる。これらはその解釈の部分を、作品の外部である受容者間の言語的な領域に託し、その領域まで作品とみなしていた感があるが、コンピュータ・アートはそれを実際の表現として、都度変化する形態の変化や受容者の実践として包含するところがある。けれども制作者はコンピュータを用いることでより個人的によりポータブルに、与えられた要素を効率的に制作を制御できることの快楽に圧倒的に没入しているようにみえる。
以前 デジタル機器環境下での制作 で書いたように、圧倒的な解像度と操作性を持つ伝統的なアナログの制作ではなしに、なぜそれらの低い新たなテクノロジーを用いるのかといえば、もちろん新しさへの欲望がありつつ、同時にすべての要素を効率的により制御したいという欲望に駆られるからだ。技術にはその習得に膨大な時間がかかり、しかも全ての要素を制御することはできないという諦念が付きまとう。僕が関心を持つのは、こうしたコンピュータに表現を任せてしまうということの内実について。振る舞いが高次の構造から出た表現系として設計されるこうした作品群では、制作者が決定する構造に則った程度に従って表現は制御されている。これはいくら小田作品のように非線形なカオス・アルゴリズムを使おうが、どのような非線形のアルゴリズムを用いたのかという選択がなされているという点で制御がなされているし、田口作品にもエフェクトをどのように施すかというランダムネスの発生をコンピュータの能力に考慮するという制御がある。今回の作品に感じた面白さは、下位の表現のレベルで変で面白いものが生まれてきて欲しいと形式的に試行錯誤し冷静に制御しようという姿勢にあるといえるかもしれない。
ところでこれも小田さんとの話題になったのだけれど、最近よく言われるようになった作品という概念の破壊、もしくは変容ということは本質的には何ら変わっていない、もしくはより強められていると思う。作品という概念は僕達 のものの と文字というテクノロジーとの相互性によって可能になったた理解の仕方そのもののフォーマットに深く根ざしたものである。作品概念が道具であるコンピュータによって変容させられるという言い方も、人間が意志によって対象を変化させるという言い方ももちろん的外れだろう。それらが変容するのは、人間とそれを外部化してきたテクノロジー的なるものの相互性によっている。コンピュータ・アートが持つ運動する対象への動的な制御可能性は、おそらく文字文化に根ざしたこの固定的なフォーマットを揺り動かすインパクトを持っているのは確かだ。けれどもそうした根本的な変容は、作品というフォーマットがどんなものであるのかというようなことを想像さえできなくなってしまった時に達成されたとはじめて言えるようなものであり、それを想像することは容易ではないと思う。