2003/02/

02/23 b

複雑性と相互性、即時性。

このウェブを見たという 小田さん という人からメールをもらう。彼は芸大の学生で max/msp を用いて音楽やメディア・アートをやっているらしい。最近卒業展示をやっていると知り、この日観た。そこでは彼はおらず同じ環境で作品を作っている友人の 田口さん に彼自身のと 小田さんの作品 を紹介してもらう。

リンクから分かると思うが、小田さんの[ observation ]と題された作品を僕なりに説明してみると、複雑系のアルゴリズムが支配する場とそれに影響を受けるそれ自体は単純な振舞いをする対象を複数定義する。プログラムが立ち上げられると、諸対象は設定された初期値を参照し振る舞い始める。これら全体の振る舞いを合成したものが周波数変換され、変化する音と描画として表現されていく。対象は時々刻々とアルゴリズムの影響により相互に影響を与えあうので、当然僕が見聴きするものも結果として変化しつづけていくことになる。

[ ambiguity ]と題された田口さんの作品は、リアルタイムで取り込まれた映像と、もともと用意していた映像を、 max/msp / nato 上で用意されていた両者を混合させるアルゴリズムに通すことで、加工したものをリアルタイムで画面上に断片的な複数として出力していく。この際、同時に取り込まれた音声が加工の仕方に影響を与える関数として用いられる。この混合の加工の結果は、実際観てみないと表現できないが、映像加工に使用できる様々なエフェクト、たとえば色調変換、画像転回、サイズ変更、画面切断、複製、枠取り、彩色等々、加えてこれらの併用、などが行われる。

二つの作品には、最近のコンピュータ・アートの表現の特徴がそれぞれ出ている。小田作品は複雑系いわゆる人工生命プログラムを利用した、多様な振る舞いを生み出す自律的な閉じた系の構造への注意を作品とするものであれば、「作者・コンピュータ・鑑賞者」すべての要素が欠けても作品が成立しないと言っている田口作品は、それを決定付ける作品と鑑賞者の情報の相互性(いわゆるインタラクティビティ)と要素処理の即時性というものが要点となっている。また両者は共通して、受容者の前に提示される形態の表現をコンピュータに任せるような高次構造の設計を作品の制作として行っている。これに遠隔性(ネットワーク)、知覚複製(ヴァーチュアル・リアリティ)が加われば、現在のコンピュータ・アートで語られるキー・タームはおそらく出揃うだろう。

僕は以前、現在のコンピュータを用いたメディア・アートにインパクトは感じるものの、それが深さや耐久性を持ったものかと疑問を抱いているというようなことを デザインの可変性2 芸と技、快 に書いた。 それはこのテクノロジーの現時点での技術的な可能性の単なる羅列でしかないものが多く見られるからだ。その点に関しては両作品とも逃れられていない(おそらく誰かが逃れられているようのものではない)と思ったけれど、いろんなことを考えさせられ刺激になった。ここで両作品への具体的な感想を書いてみる。

小田作品には、音の微細な振る舞いには僕は非常な心地よさを感じたが、それは制作者の意図とは離れた読み取りであると思う。システムの振る舞いを「見たり聴いたりできること」で感じ取ることが意図されていると思うが、正直なところ描画の内容や方法とその速度、音色の変化など提示されるものだけでは、音と描画の関連性、システムの存在自体がつかめないと思った。どのように提示するのかという表現の部分をより考慮した方が良かったと思う。ところで小田さんは同じく作品の説明で「理論的には同じ振る舞いはしない」というような言い方をしている。微細な違いは受容者にとっては違いとして認めることができない、もしくは認めたけれど面白くない、という状況は効果として意味をなさないことと関係している。これは当然本人も理解されていて、小田さんとメールでやり取りをした時話題になったのは、こうしたアルゴリズムの複雑性が実は人間にとって複雑ではないということだった。たとえばフラクタル図形を見た時の感想が、驚きつつももう一度見たくなる質のものではないという点に似ている。複雑ではあり線形ではないけれど、人間や自然が生み出している複雑さとは違った単調なものとして見える(それはこれから皆がこぞってコンピュータというメディアを用いることによって作品がどれもこれも似たものに思えてしまうだろうということにも関係するだろう)。

田口作品の実写映像が目まぐるしく様々に変換される在り方は、どのように具体的に映像が変換を受けるのかと受容者を強く引き付ける。ただし、それは次第に高次のレベルでパターンとして制御されていないランダムなものに思え、この作品がコンピュータに行為させるという方法論的な部分に着眼があるのだとみなしてしまう。これは彼の発想に問題であるというよりも、コンピュータの能力が関係してくる話ではある(インタラクティブな作品でインターフェースとして用いられるマウス・キーボードのような典型的なデバイスからの信号だけでなく、今回のように映像や音声を用いるものも数多くあるが、それが前者より複雑性を持っているとは一概には言えない。それらの要素から何をパラメータとして取得するかが問題であり、この作品では複雑にパラメータを定義できなかったはず)。けれどもこの読み取りに関してのみ言えば、知覚的な複雑性を縮減することで(たとえば極端な話テキストに要素を限ってしまうだとか)意味の複雑性を取るということなら現行の能力でも可能ではないかと思った。

上で言ったようなことは、表現のレベルでの具体的なものだ。分裂しているように思えるのは、このように新たな形式に根ざす目新しい具体的な表現の心地よさ、制御性の快感という直感的な部分を誘発するのと同時に、コンピュータのもたらす表現が、コンセプチュアルな部分をも強く伴っているところ。コンピュータ・アートの高次構造の制作などの観点は現代美術のコンセプチュアルな性質を引き継いでいる。これらはその解釈の部分を、作品の外部である受容者間の言語的な領域に託し、その領域まで作品とみなしていた感があるが、コンピュータ・アートはそれを実際の表現として、都度変化する形態の変化や受容者の実践として包含するところがある。けれども制作者はコンピュータを用いることでより個人的によりポータブルに、与えられた要素を効率的に制作を制御できることの快楽に圧倒的に没入しているようにみえる。

以前 デジタル機器環境下での制作 で書いたように、圧倒的な解像度と操作性を持つ伝統的なアナログの制作ではなしに、なぜそれらの低い新たなテクノロジーを用いるのかといえば、もちろん新しさへの欲望がありつつ、同時にすべての要素を効率的により制御したいという欲望に駆られるからだ。技術にはその習得に膨大な時間がかかり、しかも全ての要素を制御することはできないという諦念が付きまとう。僕が関心を持つのは、こうしたコンピュータに表現を任せてしまうということの内実について。振る舞いが高次の構造から出た表現系として設計されるこうした作品群では、制作者が決定する構造に則った程度に従って表現は制御されている。これはいくら小田作品のように非線形なカオス・アルゴリズムを使おうが、どのような非線形のアルゴリズムを用いたのかという選択がなされているという点で制御がなされているし、田口作品にもエフェクトをどのように施すかというランダムネスの発生をコンピュータの能力に考慮するという制御がある。今回の作品に感じた面白さは、下位の表現のレベルで変で面白いものが生まれてきて欲しいと形式的に試行錯誤し冷静に制御しようという姿勢にあるといえるかもしれない。

ところでこれも小田さんとの話題になったのだけれど、最近よく言われるようになった作品という概念の破壊、もしくは変容ということは本質的には何ら変わっていない、もしくはより強められていると思う。作品という概念は僕達 のものの と文字というテクノロジーとの相互性によって可能になった理解の仕方そのもののフォーマットに深く根ざしたものである。作品概念が道具であるコンピュータによって変容させられるという言い方も、人間が意志によって対象を変化させるという言い方ももちろん的外れだろう。それらが変容するのは、人間とそれを外部化してきたテクノロジー的なるものの相互性によっている。コンピュータ・アートが持つ運動する対象への動的な制御可能性は、おそらく文字文化に根ざしたこの固定的なフォーマットを揺り動かすインパクトを持っているのは確かだ。けれどもそうした根本的な変容は、作品というフォーマットがどんなものであるのかというようなことを想像さえできなくなってしまった時に達成されたとはじめて言えるようなものであり、それを想像することは容易ではないと思う。

02/23 a

映画 [ アカルイミライ ] 黒沢清 @ シネリーブル梅田

この映画に、このウェブでやっているような様々な事柄に対しての形態論的な考察を行うような関心を持つことができなかった。もしくは今回は、映画は物語ではない、という自明を忘却して、珍しく主に言語的な物語構造に対してのみ関心がいった。けれど僕にはたとえば この映画の批評を記号解釈的に行っているページのようにはできない。

僕が印象として残ったのは、藤竜也のところにオダギリジョーが戻ってきて許しをこうシークエンスで、彼が「君達を許す」というように何度も繰り返しされる言い方で抱擁がなされるところ。そこに居心地の悪さを感じた。そしてそれは抱擁という行為の本来的な意味として扱われていることに関係すると思う。つまり抱擁が理解ではなく、理解への意志の表明であるという意味で。この感じとは、要するに藤竜也扮する人物のこの抱擁と言葉が上滑りした白々しさをもたらすことが原因だけれど、物語の類型化への欲望はそれに、理解とその後のその関係の継続を保証するものを要求する。つまり二人が理解しあえた記号を僕は欲する。けれど映画はそれを拒否し、加えて取って付けたようにこのシークエンスが制作されている。僕は見ていた時、この感じは演出ミスから来ていると思ったりしたのだけれど、そうでなく両者がお互いを理解不能な存在としてみていることの表現にはこの取って付けた感じが適当だったのだろうなと思い直した。

この映画ではこのような居心地の悪さを度重ねて受容者が感じるように、演出が分かりやすい仕方でなされている。それはこの理解不能性を受け入れること、ここ2回ほど下で言ってきた個々人の持つそれぞれの相容れない違いを明確にすること、というものについて、そこまでしなければこの映画を主に見るだろう国の観客つまり日本人には分からない、という制作者の意図なのだろうか。

もう一つの印象的なシークエンスは、浅野忠信の演ずる大人になりかけともいえる人物の、柔らかとも事なかれ主義とも思える振る舞いの中に、突如として、それまで存在しなかったと思えた怒りが静かに断固としたものとして現れるところ。オダギリ扮する浅野より若い人物が、より怒り苛立つ若者を体現する典型として描かれているのかと思うと、実はその彼を制していた感度を麻痺させたより大人と思えた浅野が、きちんと怒ることのできる人だと表現する仕方に。そうした理解不能性の境界を横断してきたという危機的な事態だと本質的に認識する感度の在り方に。

受容

蕎麦 [ 和風レモン中華蕎麦 ] 麺や しゅん@加古川
音 [ highway 61 revisited ] bob dylan
音 [ loose fur ] loose fur

02/22

ライブ [ oresteïa ] iannis xenakis  /  next mushroom promotion  @ 豊中ローズ文化ホール

関西の現代音楽家集団である上の団体が定期的に行っている企画の一環で、今回は[ フルコース”クセナキス尽くし” ]と題された半日3部構成のもの。ちなみに前回はケージが取り上げられた。僕が見たのはこの[ オレステイア ]のみだったけれど、第2部の難解なことで知られるピアノ作品を是非聴きたかった。この作品はクセナキス最大規模のものと言われ、ギリシャ悲劇のアイスキュロスの三部作をテキストとしたもの。僕は彼の管弦楽などより、いわゆる電子音響作品群や彼のテクスト化された理論の方に関心があるのだけれど、確率計算を用いることで固定的な単体としての音ではなく構造的な音色の動的な制御を彼が志向していたこともあって、やはり興味があった。実際の演奏を聞くのは初めての経験となる。

正直それほど現代音楽を音そのものとして聴く分には、譜面というか作家の思考(志向)を音から聞き取ることができない程度の聴力しかなく楽しくないわけだけれど、それでも僕のようなポップ・ミュージックに染まった耳にも充分魅力的な部分があった。たとえば第1曲目の挿入曲である[ カッサンドラ ]でのひどく民族的肉感的なのかそれともそれをシミュレートしたものなのか、というアカデミックでのものと思えないグルーブ感が強くしかも正確であることで没入を拒否するような打楽器と、それを背景にしてバリトンのふざけているのかと思えるくらい女性の裏声のような声色と低い男性の音色を使い分けこれまた正確な解像度を持って表現した独唱の掛け合い、演者全員がスティック持って打ち鳴らす不ぞろいな雨粒のような心地よい効果、グリッサンドしずれていく各音色の重なり、など。音がもたらす既存の心理的な意味を受け入れず作曲をした作家としての彼は、言葉と音との関わりをどう考えたのだろうと思う。言葉の内容を理解できない限りにおいてその発音の外的な像の重なりのみを受け取るしかないわけだけれど、言葉もしくはその高次の構造を扱う物語と音の関係を、ロマン的なものを廃してどのように受容されると想定していたのだろうと思う。

受容

本 [ <思想>の現在形 〜複雑系・電脳空間・アフォーダンス ] 吉岡洋
音 [ quino sand ] sand

02/19

エッセイ [ 身体が動くということ ] 吉岡洋

ひとまず[ 決められた場所で一定のタスクを遂行するだけの身体 ]などと使われる[ 身体 ]ということばの意味について。これはもちろん物理的な側面という心と身体の二分法として言われる片方でなく、あえてその言い方でいうなら心身が連携したシステムのことを指しているといえるし、そういう言い方しないなら、考えるのは心や頭ではなく身体なんだ、というようなことだろう。身体で考えろ(身体に覚えさせろ)ということでもなく、頭で考えることは身体運動なんだよということだ。

下で 平田オリザの発言 のことを書いたように、ちょうどそういう微細さを意識してしまう状態のようなので、この文章にも反応したんだろう。食事をやめて本腰で抗議する姿勢に入ったり、触らぬ神に 〜型の関わらないことにしたりするオンかオフでなく、[ 自分の食べている皿をもったまま立ち上がり、一言いっては食べ、また言っては食べる ]という[ 自分の食事時間のちょうど半分だけを、この突然の暴力沙汰に抗議する ]という周りから見ると分かりづらい仕方に彼が印象を持ったことに共感を覚えた。

この身体の自由さは、彼自身戒めていつつも、ふと僕は西洋人の持つ性質を想像してしまった。西洋には国家に対する人民のため、社会サービスを極度に効率的なものへシステム化してきたという歴史があるけれど、そこには個人の衝動的な欲動が肯定される(許容されている)ような曖昧さや一見すると矛盾と思える性質が今だ色濃くみられる。その性質こそこの自由さなのではないか?と。けれどよくよく考えてみるとそうしたことがこの自由さに直接に関係しないと思い直した。これは回りくどい言い方になるけれど、 今福龍太 が歴史家ホイジンガの[ ホモ・ルーデンス ]を引いて言っていた[ ルドゥス ]、[ルーディックな身体 ]という在り方と関係するんじゃないかと思う。今福はサッカーの例でそれを説明している。彼はラテン・サッカーに面白さを感じるという。というのもそれが近代サッカーのような[ 勝利や戦術の洗練 ]などではなく、[ エクスタシー・陶酔、それから美 ]に価値を見出す古代サッカーの荒れ果てた姿を残しており、[ 奇妙な近代性とアルカイックな身体の接合として存在している ]ことが魅力的だからだという。サッカーにおいては西洋はこのいびつともいえるルドゥスとの接合を失ってしまったのかもしれない。けれども個人主義的な素養をもつこの地域には、文化的に先進しつつこうした原初的なものの痕跡を残しているように思える。僕が西洋に感じるのは、今福がラテン・サッカーに感じたものと同型のものだろう。

ただ日本がそれではルドゥスを失った近代なのか、というとなにか違うようにも思う。つまり日本はそもそも近代を迎えたのか?そうではなく日本は近代を経ずそのままポスト近代を迎えてしまったのではないかという主張がある。東京に表現されているような極端な資本主義の進行の在り方と比べると、至る所で西洋には時代的なものを残している。それは社会システムを構成するあらゆる制作が、人間を基準においたもので成立していると思えることと関係すると思う。これに対する日本の状況が、すると社会なんだな、とシステムに支配された個人というような議論が思い浮かべられるかもしれないけれど、もちろんそんなものではない。人間が存在するし、社会システムは融通が利かないながらももちろん人間のために機能している。いわば人間の概念をカスタマイズして違うものにしていっているような、そういう感じだろうか。結論を無理に出そうとすると、日本人の身体の硬さというものは、ルドゥスが存在するとか消滅したという時間軸的なことではなく地域的なものだ、とか安易なものになってしまうのでここでは書けない。ただこの硬さには、日本人の意志と想像力が生まれにくいことに関係するのではないかと思うのだけれど。

受容

web/academic [ april :::芸術生理学研究所 ] 小林昌廣
インタビュー本 [ シリーズ身体の発見* 複雑性としての身体 脳・快楽・五感 ] たばこ総合研究センター編著/河出書房
大森荘蔵、養老猛司、佐々木正人、今福、中村雄二郎、高橋悠治等

02/18

平田オリザの芸術家の役割についての発言。

「集団的熱狂の中から、一人一人の小さな差異、見過ごしがちな小さな違いをはっきりさせること」「世界中がハンバーガーを食べ、コーラを飲み、コンテンツが同じ時代でも、その食べ方、飲み方、つまりコミュニケーションの仕方は微妙に違う。そこを描くのが芸術家の役割」。

今日の朝日新聞の夕刊で取り上げられていた[ グローバル化で文化はどうなる? ]と題された日欧の知識人によるシンポジウムでのもの。

受容

小説 [ 堀越捜査一課長殿 ] 江戸川乱歩
web/music + strict html [ sangatsu ]
日本のポストロックのサイトが正確なhtmlを書いている

02/16

にdbnファイルを追加。

受容

音 [ gluon ] hi-posi
漫画 [ 生徒諸君 ] 庄司陽子
映画 [ 完全なる飼育 ] 和田勉
ドラマ [ 池袋ウエストゲートパーク ]

02/09

htmlとスタイルの微調整。

ビデオ三篇。

  1. [ crouching tiger hidden dragon(グリーン・デスティニー) ] ang lee
  2. [ etoils(エトワール) ] nils tavernier
  3. [ brother ] 北野武

一つ目は、ワイヤーアクションのユエン・ウーピンとチョウ・ユンファが出ているカンフーアクションと単に思っていて、それはそれとしてわくわくしてみた。けれど、そうでないことが開巻当初からわかった。前半の開始に見られるカンフー・アクションからして、月面へ降り立った宇宙飛行士の運動のように、そこに不思議な浮遊感覚があり、それは徐々に過剰さを高め、次第に人物の運動は重力を無効化したsf映画の様相を呈する。おそらくこの映画を見た日本人は、ワイヤーアクションに対する偏見と驚きに満ちた印象を良い意味で変えざるを得ないことになると思う。視覚的に刺激的な効果をもたらす補助から、ダブ・ミュージックの空気そのもののように、映画で見られる映像のテクスチャーを決定しうる一つの美的な材料になることを知る。この映画の主人公は、ワイヤーが可能にした様々な運動であり、血で動かされる原始的な衝動を魅力に体現した新人ツェン・ツィーであり、ハリウッドの中国系アメリカ人により西洋的美学の仕方で再解釈された中国の風景・風俗のイメージであり、チョウ・ユンファはそれらを包み込む名脇役でしかない。とべた褒めのようだけれど、言語的物語の出来はそれほどでもない。

二つ目は、最後まで見ていない。ドキュメンタリーで伝統的な芸術活動の世界の制度の強固さが浮かび上がる、というのが言語的な物語の一つの側面といえるかもしれない。僕が読んだのは、それよりもダンスという制作の標的とその歴史的経緯への連想について。それはその何倍近い歴史を持つ能や、舞踏と比較するという興味だろう。システムとしての踊りの型が当然ここでは重要な鍵になると思う。

三つ目は、北野武の映画に馴染みのない者には評判がよく、そうでないものには酷評されているアメリカロケを行った話題作。 浅田彰によってなされているもの が酷評の典型なものかもしれない。我々はアメリカ人になんか負けていないんだ、アメリカ人にも心を通わせることができるんだ、というようなメッセージを読み取り喜んだ者は、おそらくナショナリズムへの高揚感を味わったのだろうし、そうでないものはそういうことで。僕個人としては、運動に関するイメージ、運動を生み出す演出や編集は相変わらず冴えているなと。エンターテイメントとして楽しめた。これまでの武とは毛色が違うけれど。あと[ dolls ]から遡ることになるけれど、 山本耀司 の服の使われ方のコンテクストはどこにあるのかと想像してみること。

受容

音 [ what's going on ] marvin gaye
音 [ 川本真琴 ] 川本真琴
はじめて聴くもすごい子だ
tvドラマ [ 最後の弁護人 ]

02/08

fennesz  /  響 field for Electro-Acoustic music 003 @ 大阪市立芸術創造館

このホールの音響設備はなかなかのものらしいけれど、それによって逆説的に彼の制作する音がそれほどs/n比が高くないんだろうかと思った。おそらくフェネズは音響系といわれる中でプログラミングではなく、機械の作動音、デジタル・ノイズなどの素材や再現機材の誤作動や強制作動させたもののサンプリング、それらの過度のデジタル・プロセッシング、これらの循環を方法論にしていると思う。これらの重層的なアナログとデジタルの変換作業で生じる様々なノイズも(をこそ)欲している。音の存在が消えなければ、多少の劣化は気にしないというところなのかもしれないし、もう少し言えば、その劣化した状態を通常の音場だと捉えていて、そのノイズとノイズの中で垣間見える既存の音の美しさへの僕達の持つ感覚がなんとか感知できる程度のものを発生させようとしているのかもしれない。彼がそう思っていなくとも、僕はそうしたものを欲しその音から読み取っている。そしてそれはまだ徹底されたものを誰かが表してはいないように思える。

cdでの彼の音の印象は感傷的なメロディーを持つものとだとか実験的なものだとか節操がないような感じだけれど、ライブでの音はいくつかの立ち上げられたファイルを反復した状態にしておき、それらを複数ミキサーで音量や音質をコントロールするというような感じだった。だから自然ドローンになり、これまで聴いた印象とは違ったものになった。上で言った僕の欲する音というのは、より明確にノイズと非ノイズの領域が曖昧なもので、ここでもそこまでは行ってなかったと思う。でもなかなかないうれしくなる経験。

受容

音 [ endless summer ] fennesz

02/05

htmlとスタイルシートの編集。

htmlの方は、個々の文章にidを与え、それに応じ文書構造もより明確に文節するよう要素を追加。 注記 に若干の補足を追加。また元[ 音 ]と題した文書を 作物 と変更し、以前ホームページにあったdbnファイルを音と一緒にそこに置いた。idを振ったのは、できればこれまで書いてきたものをデータベースとしてデジタルに扱えるようにいずれしたいため。日々日記として書いていることを、 文章 内にあるカテゴリーとともに思い通りに扱えれば、自分の関心がより明確になる。データベース化は、文書をおそらくxmlに移行することで可能になると思う。ただ今回の変更だけでなくxmlの学習が必要になりこれからの課題にしておく。

スタイルの方は、ソースをある程度書き直した。

受容

音 [ esperanto ] 坂本龍一
音 [ hidden camera ] photek