音色考(断片)。
「音色」という言葉を聞くと、僕は未だにこの記譜に読み込まれた楽器固有の音色、言い換えるとシンセサイザーやサンプラーが単体のそれをシミュレートした音、と想像してしまう。けれども「音の響き」だとか「音色」と言った場合に、もっと多様な意味を想起することは豊かな経験になると思う。
記譜法では音色を定義できない。この組織化システムは数量化できない運動や状態をひとまず外部に押しやり、定義・再現しうるもののみを要素として導入している。これらが定義できるのは空間的時間的パラメータに還元できる要素であり、音色という要素はこれから外れる。しかし、それは存在する前提として導入されている。記譜に個々の楽器の名前が付けられそのパートが用意されることで、そこに初期値としての音色が読み込まれたことを意味する。ここで前提とされているのは当然ながら、一楽器=一音色という在り方である。もちろん記譜法がアップデートされていく経緯の中で、楽器自体のメカニクスや奏法の発明が起こりそれが反映されていくのだが。つまり記譜法は音を操作するためのテクノロジーであるが、ここでは音色を操作するパラメータは楽器を別に用意し登録するか、奏法として実現するというものしかない。
「音色」や「音の響き」という言い方を、単にある楽器や発音体を記述する言葉や周波数の分布としてではなく、音楽の受容やそれにまつわるコミュニケーションに関係付けたものとして考えてみる。ある音楽を聴くときやそれを人と語るとき、ある時間に鳴っていたすべての音、音の全体、フレーズ全体というフレーズ、もしくは楽器の音色・ビート・リズム・大きさ・長さの全体として、一気に身体に流れ込んでくるような聴く在り方としか言えないようなものとして味わっていることがある。そしてそれは、それを聴くことで想起される過去の音・(いや音だけでなく)それ以外の記憶のイメージの膨大なリンクが一度に開かれたもの、をも誘発しもする。このように言ってみることはそれほど珍しいことでなく、音を聴くときに割とよくある体験ではないだろうか?つまりある持続する音を心地よいものとしてを聴くとき、何か分節されていない多くの意味の詰め込まれたイメージが一挙なものとしてあるという感覚だろうか。これは当然知覚・想起のメカニズムに深く関わる話ではあるけれど。
音色の受容こそが音楽を聴くことの意味だと言い切ることは、横暴であるようにみえつつ、けれども音楽の構成要素とは単純に一つ、音であることを考えると、それほどでもないと思う(もちろん音楽にはまだ言葉の意味という要素、物語という多様なレベルで展開されている形式的情報構造体などもみることができる。けれども音楽においては、それらはすべてひとまず音という要素に変換されて受容されている)。
音色を音楽そのものとして聴く態度というのは、何か特殊なことだとみなされている。商業音楽だけでなく、既存の民族音楽も言葉、歌詞と音が密接な関係を持っている。音とことばの関係というのは、それぞれが別の形式に則ったメディア同士であることを考えても、恣意的なものでしかない。音楽の原初的な形がどのようなものであったのか僕は知らない。けれどその一つに「声」の存在があり、その感情の表現の形態論的な一つに音、こぶしなどがあったとすれば、その音(の発生を)を正当化するもの、もしくは感情の意味論的な表現として、ことば(の意味)が求められたなどと考えることはできはしないだろうか?もちろんこのことは当て推量でしかない。ここで言いたいのは、音、音色、音の響きそのものを楽しみとして受容することは、どこか抽象的な過程を経て可能になっていると思われている、という思いなしが、僕の中にあるということだ。器楽曲を作る、もしくは聴く習慣というのも実は声に劣らず古いものだと思うのだけれど。音を自らが発生させる心地よさという原初的な行為などを想像すると。
音だけで成立している音楽の受容が当然のことながら、音色の受容になることを意味するのではない。僕達が洋楽などと呼んで言葉の理解できない音楽を聴くことに対して、同じ日本の中や当の言葉を理解するネイティブの人間などからの批判というか無理解が未だ存在したりする。それは音楽は国境を越えるなどという話ではなく、この行為が言葉をその要素とした音色(音は国境を超えるのではなく、音はそれが引き起こす心地よさの受容コードによって別の境界を別の位相に無数に引いており、それが単に国境という文節区分を無化しているということだ)を受容していると考えることも、その回答として言うことができると思う。また音楽に付随する様々なレベルの類型性つまり僕が頻繁にこのウェブでいう「物語」もしくは「情報組織化を行う構造体」が、音色(音そのもの)にも付随している。音楽を様々に理解しやすいものにしているのは、この類型性の存在である。そしてそれは音色の受容そのものに深く関わっている。様々なフレーズや音色の組み合わせが過去のアーカイブの中から引用され再構築され、または断片として再配置されていくことが、音楽を作ることの別の定義であるということすら可能だ。もう少し言えば音楽の理解にコードとしてのこの類型性は、必然とさえいえるかもしれない。
音色をできるだけそのようなことばの意味論的な要素でなく、また類型性でもないものとして聴く在り方ということが可能ならば、それを「音(色)的受容」などと名づけてみたい。それは音楽の全てに存在するこの類型性を剥ぎ取ろうとする態度であるのかもしれない。そしてその動きは完了することがないのも自明と思われる。なぜなら類型性はすべての未知の音を取り込む。
derek baileyの言うノン・イデオマティック・インプロヴィゼーションなどの制作は、おそらくこのことを想定している。これは楽器のメカニクス、身体運動の工学的可能性・類型性、思考の組織化に対する飛躍と論理性の類型性と唯一性の運動によっており、その音への意識つまり聴取者としての意識は、この作曲行為と演奏行為という並列処理に影響を受け、楽器単位やアンサンブルとしての音色の管理もこれに則すものとなる。
現在の商業音楽から逸脱したより先鋭的なデジタル・テクノロジーを用いる、もしくはオルタナティブな制作工程を作り出す制作者において、彼らの音(音色)への認識は、彼らが使用するソフトウェアやハードウェアの発音構成、制作工程、そしてそれを発表し聴取しコミュニケートするネットワークの生み出す理解に則している。その中でもデジタル・テクノロジーを用いる者の特徴は、音色に対する即物的な態度だろう。それはモニタリング・システムのもたらす安定した正確さや再現性によっている(その分音処理の操作性の解像度はこれらの形式に大きく依存し、記号系のそれに大きく劣ることになる。音響派などはそうした制約を逆手に取った試みといえる)。しかしそれが記譜法の伝統から逃れられたと考えることはできない。メジャーなシーケンスソフトが未だにそのメタファーに依存しているのに比べ、彼らの用いるソフトウェアはそれらとは別のところにある。けれども記譜法の視点を相対化したにすぎず、別のテクノロジーの文節に依存する。