2003/10/

10/05

様々な音の立ち現れ方

今回のように、多くの演者が出演しそれらすべての演目に集中させられつづけたなどというライブを僕は経験したことがない。常々ライブが苦手と言ってきている僕としては大きな例外で、濃密な歓びの時間を過ごすことが出来た。

その場で些細な音群(キャラクターのついた音が鳴るおもちゃ、早回しでならされるシングルレコード、おもちゃのラッパのごときもの、等々)を発生させ、それをいくつかの録音機器(ハンディのテープやmd?レコーダー、ラップトップ)で短くその部分を何らかの影響因子を加えて(ハンディレコーダーは振ったり、音源から遠ざけたり、ラップトップから出ているマイクを音源から足で地面に擦らせて距離を変えてみたり、ラップトップの出力であるスピーカーにマイクを置いてみたり)記録する。それを任意のタイミング、場所で、反復的に発音させ続ける。そして、音源を変え、録音状態を変え、再び繰り返す。場で発音されるこれらの集積としての音は複雑さを増していく。

yuko nexus6が行っていたこの非常にパフォーマティブな制作は、そのエンターテイメント性、チャーミングさとは裏腹に、現在の音の制作にまつわる複製技術の根本的な関わり方をあからさまにしていると思える点において、高度に批評的だと思う。普段複製技術を用いることでは意識することのない記録(複製)音を重層的にリアルタイムに重ね合わせることで、シンプルな音素材が変化していく様、それを感じることの眩暈のような感覚を味わうことになる。この眩暈とは、要素となる音が循環的に入れ子状になり、現れている音のコンテクストがその要素コンテクストの集合だと剥き出しになっている仕方で提出されていること、またその生成の経過を目の当たりにしていること、また今まさに複製技術によって記録(複製)された音が、楽器を演奏するといういわゆる自然な行為とは別の仕方で、それと同じように音場が形成されてしまっていること、また器楽演奏とは別の情報をこれが生成していること、などを意味するといえるかもしれない。

ゲームボーイのシンプルなメロディ組み立てとその発音反復機能(というのがあるのだろうか?)を利用する森本アリの制作は、オングのいう声の文化の時代の情報伝達(組織化)(ここでは音楽が作られていく様)とは、このようなものであったのかもしれないなどと想像してみたくなるような、原始的ともいえる冗長性と反復性を要素として展開する仕方であった。別で言うと以前どこかで高橋悠治がピアノを教える方法について言っていたことを思い出す。例えばそれは楽譜をみて曲を習得するようなものではない。まず横にいる教師が短いフレーズを弾く。フレーズを弾くのをみていた生徒が記憶を頼りに真似する。うまくいかなければ教師はそれを繰り返し、生徒ができるまで行う。できれば次のフレーズの部分へ行く。こういうような教え方は、その生徒の音楽についての捉え方を変えるはずだ、というような話だったと思う。

要するに森本が行っていたのは、複数のゲームボーイを一台ずつ持ち、(おそらく思いついた)短いフレーズをその場で作ってみる。それはリアルタイムで鳴らされ変更を加えるまで反復されるが、そこには入力の失敗も含まれる。何回かの試みによって本人がよいと思うものができれば変更をやめ、次のものに移って行く。この繰り返しと全体のバランスをミキサーによって調節する。というようなものだ。シンプルな一台の組替えられ反復していくメロディが重層的になり、次第にドラマティックな展開を迎え終息していく。この方法論ゆえ(小さなフレーズを基準に、ある一台を次のフレーズへ変更し、ということを数の分だけ行っていくことで展開を構成していく)、彼の出番は他の演者に比べると非常に長く後半は正直退屈していた者もいただろう(僕のことだ)。けれどもおそらくその退屈さもこの音楽の受容の一つなのだと思った。そこで行われる試行錯誤、遅々として同じフレーズが続けられながらも微細に変化が付けられて行くことに注意を払うことは、音の発生への解像度を上げざるを得ず受容感度も敏感なものを迫られることになる。鳴っている音が徐々に音楽を形作っていくことを目撃する喜びがそこにある。このことは明確な形を捉えることに興味を持たない声の文化の性質や一回性に関心を払うインプロヴィゼーションの価値観と関わるものだろう。彼の音は、他の演者のそれとは違ってポップフォーマットの範疇だとか言われそうだが(いや実際にそうには違いない)、けれども彼の向いているところはポップなものとは異質なものだと思う。

西川の演奏は一度姫路で共演という形で知っている。前回同様しゃもじ、木の棒、鉄線(?)等様々な道具をギターのピックアップに接触させ、そこで生じる電気的接触音の微細な違い引き出す。それまでの出し物の異様なまでの刺激に比べ新鮮さがないのではないかなどと思うところだったが、前回がボセッティを立てたのか控えめになされていたのだろうかと思えるほど、それぞれの音の細かさに明確に注意させようというような、畳み掛けるような取り憑かれたような(いやこれはパフォーマンスだとも言える)身体の反復運動が、あるリズムを生んでいることで俄然集中させられた。このリズムについてはtim oliveにも言える。tim oliveのスタイルは恐らく典型的なノイジシャンのそれなのかもしれない(違うかもしれないが、知らない)が、演奏の方法論は西川と大きく違っていない。ただ彼の音ははじめからノイズをどのようにも発生させるような仕方になっている。その音色が僕には非常に心地よかった。同時にそこにはその演奏がポップ音楽の持つビートとは違う形式的なグルーヴとでもいえるものが存在しており、それが西川に存在したということだ。これを面白いと感じることはインプロヴァイザーとしては好ましくないことなのだろうか。音を埋め尽くそうとする意志が身体として表現されることで意図しないリズムを孕むという。ただし両者のリズムの質は違っていた。

あと指吸長春、ユタ川崎についても書きたいけれど、それはまたの機会に。ただ一言、指吸という人の印象は異様だった。

受容

web/collection [ handheld computer & pocket calculator museum ]
音 [ the mix ] kraftwerk ( elektra )
音 [ 60 sound artists protest the war ] v.a. (atak)
音 [ atak 002 ] keiichiro shibuya + yuji takahashi (atak)
音 [ invalidobject series( for ) ] steve roden (fallt)
音 [ reciprocess 02 ] stephan mathieu / douglas benford (fallt)
本 [ テクノイズ・マテリアリズム ] 佐々木敦 (青土社)
今更読みだした