2004/08/

08/27

ipod的なるもの、音楽の文脈の制御ツールとして。

ここでのipod的なるものとは、hddという大記憶容量媒体とデータベースという組み合わせで起こる事態くらいのことを意味している。その事態とは、一つは単純に量的なるもののブレークスルーに関わり、もう一つはそこからもたらされる量をすべてを同じ要素として扱いうる均質性と、それによって可能となった制御性に関わるといえる。

外に持ち出す点を挙げないことは、「ipod的なるもの」という表現が適切でないと言われるかもしれず、説明が必要かもしれない。僕自身は今現在ipodを持っていない。欲しいかと問われれば欲しいかもしれないと答えるかもしれない。けれど今のところ自分のpcに手持ちの音源をすべてオーディオ・ファイル化することで、ひとまず満足している。外に持って出歩くということと、ずっとpcの前に座りつづけて音楽を受容することは、この事態がもたらすインパクトの本質からは違いを持っていない。僕が感じるインパクトとは、上で言ったようにすべての音楽を均質に保持把握し、それらを自由に扱えることにある。その点では、これらhddモバイル・オーディオ・プレーヤーのみがインパクトを持っているとは思えないが、ipod(+itunes)はこれらを象徴的に言い表している。

前者は、自分の持っている膨大なアーカイブを丸々外に持ち出すことができる、というようなたとえで言えるようなアーカイブ全体の把握という事態を想定さえしなかったし、またそれが意味あることなのかと考えもしなかったようなことが、ハードウェアの性能によりそれが可能になったのであり、後者は、すべての要素をデータベースとして扱えるようにすることで、個々の作品、曲すべてが一つのランダムアクセス可能な対象となり、アーカイブの中の最も自らの欲望にかなう形で組織化したいと望む一群を、テープ編集にかかるような煩雑で手間暇のかかる物理的作業に関わることなく、制御することを可能にする。

ところで実際にはこの事態はオリジナルなものではない。簡単に思いつくものではカセットテープによる選曲、cdのもたらした離散的なアクセス性などがあるだろうし、カーオーディオのcdチェンジャーによる選曲テープよりは「やわらかな」選曲結果など、音楽というジャンルの中でもこれらの原型となるものが見つかる。それは曲単位からアルバム単位、もしくはプレイリスト単位というような量的な増加と文脈的に高次のものへの、そして固定的なものの空間的時間的な自由な組換え(「やわらかな」編集)への移行である。それを可能にしているのが単なる量的なブレークスルーとそこにデータベースを結びつけるという発想であり、なんだか力技への居心地の悪さを感じるが、それはたとえば現在メモリースティック型のプレーヤーが既存の容量というフォーマットの制約に縛られている故にこのインパクトを感じないのと同時に、相対的なものでしかないことを意味しているだろう。容量的なインパクトはipodに軍配が上がったが、サイズ的なそれはたとえばsonynw-ms90dに軍配が上がる。そしてその優位性も当たり前の話だが、それぞれ現時点でのものでしかない。

ところで音(選曲)の意識的な想起が困難であるのは、その対象の時間に関わる消え去ってしまうという性質と関わっている。djの選曲が、彼(女)の記憶や磁気テープや光学ディスクへの内容の固定化によって、度重なるずれていく反復の受容を基礎にした想起の忍耐によっている点が、選曲という出来事を神秘的なものとしているのだろうか?もちろんそんなことはないというだろう。ドライブにお気に入りのテープ、焼いたcd、mdを作るというような行為が過去一体どれほどなされたのだろうか、と言ってみるだけでも十分過ぎることに思える。けれどもその物理的な作業の煩雑さに、多くの人間を自らの欲望へ厳密にたどり着くことを諦めさせ、制作者や流通者の与えた仕方をそのまま受け入れてしまわせたこともまた十分身に覚えがあるのではないだろうか。

このような選曲での「やわらかな」編集性は実のところ、cdチェンジャーの登場まで存在しなかったし、本格的な使用は最近のオーディオを扱いうるスペックを持つパーソナル・コンピュータの登場まで存在しなかった。これらには、テキストの使用、数多くのバージョンの制作、これにかかる膨大な録音時間とその確認のための聴取時間、のような手間がかかってしまう。しかしたとえば最近のituneswindows media player9などの登場により、自らの音楽への忠実な欲望を容易に組織化することが可能となりはじめている。

上で言った二つの側面、量的な側面、制御性という側面は、それぞれipodでいうところの二つの再生機能が対応しているということができるかもしれない。前者にはシャッフル機能を、後者にはプレイリストの使用を。量的な側面は過去の記憶と対峙し、記憶を強制的な外部の力(シャッフル)によって再組織化する方向を引き出すよう仕向けている。制御性は、メディアが有限でありつつもひとまずは無限に思える程度の制約を持つことによって、いかに自らの欲望を観測しそれを明確に浮き立たせ方向付け生成することを引き出すよう仕向ける。僕たちは決して新しくはない音の複製機器の発明から、ようやくポータブルで強力な作品を要素とする文脈の編集ツールを持ったことになる。音楽ではなく音楽の文脈を制御できることは、音と人間との関係に関する認識をより別のものに仕向けるだろう。

いずれにせよこうした側面は、ユーザーの制御性(編集性)を引き出す。hotwired japanのipodについて書かれた記事「『iPod』のシャッフル再生で音楽の聴き方が変わる」で紹介されているある研究者の言では、シャッフル機能は制作者の意図を破壊する行為であり、情緒的反応が破壊されてしまった若い受容者の反応を促進するものだとして、このユーザー本位の制御性を批判していて興味深い。制作者の微細な意図を読み取ること(それが言い当てたかどうかということは意味がない)への試みというものは、制作物という対象への濃密な接触を生み出し、そこから受容そのものへの新たな解像度を生み出す可能性を生じさせるともいえる。だが同時にそもそも受容行為そのものが、何らかの選択行為なしに成立しえないというありきたりな前提を考えると、そうしたユーザーの生理的な心地よさなどの基準を前提にしたより微細で、それが徹底されてしまうだろう制御性への流れは、自然であるし、止めることなどできない強いものだと考えることができる。また、そのことが制作者の意図を読み取ろうとする試みをさえぎるものではない。力のある制作物には人は何度でも接しようとし、そしてもうひとつの文脈を扱う技術が、この制作者の意図という方向に意識を向けうる。

受容

音 [ tirets ] jean-luc guionnet (hibarimusic)
ラーメン [ 中華麺 ]  あじゅち屋 @甲南山手
久しぶりに

08/09

ことばの音色とは?

オオルタイチ(oorutaichi)の音を聴いた刺激をことばにしてみようとすると、以前書いた音楽と歌詞についての文章を思い出した。

音楽を聴くときどうしても歌詞の内容を追うことに関心をもてない(もしくは音の意味と歌詞の意味の関係の断絶を感じる)ような人間がいる。また、歌には歌詞がつけられそれには一方ならぬ意味が込められているのだからおろそかにすべきではないと考える人間もいるだろう。後者は歌詞の書かれたテクストを追いながら、音から歌詞をひろいつつ意味の全体を味わおうとしたりするのだろう。彼(女)は多分母国語でない歌の歌詞をもその訳詞に目を通すはずだ。けれど前者はそのようなことをしていられない。彼(女)にとっては歌詞とは声によって豊穣な音色をもたらすためのそれぞれが違いを持つ形態の連なりでしかない。これは言いすぎだろうか。もちろんそうだ。けれども音にことばをつけることの意義とはそもそも何なのか?メロディはことばの受容をより行いやすくするための潤滑材なのだろうか?けれどもそれは効率的ではない。というのもことばをより正確に受容するにはただ単にメロディを聴くという態勢は、ことばの意味を聴く態勢と並立し得ないだろうから。加えてことばの連なりを音色として聴くという誘惑も不可避的に存在するのだから。そしてこのように言いつつこれらを転倒させるような状況も容易に想定できるだろう。通常ならばメロディに意識を集中することでことばの意味の受容はおざなりになりそれは副次的になされるだろう。けれども歌を聴こうとして、耳に否応なしに入ってきた印象的なことばはメロディを背景にしてしまったり、メロディとことばの不可分なおもしろさのイメージとして入ってきたり、そのイメージはメロディとことばの意味を持たないことばの音の連なりの組み合わせでしかない、というような様々な状況があるだろう。歌をことばの直感的理解のための道具として用いるのには、その方法に様々な危険な誘惑が待っていることを考えると、安易であるとしか言いようがないし、現在のポップ・ミュージックにことばをはじめからことばとして聴かせようという意図をもっている制作者がどれだけいるのだろうか?

オオルタイチ(oorutaichi)の音について。彼の音を評して「どこにもない民族音楽」というような言い方がなされたりするようだ。けれどそれはうまく射抜けていないと思える。それは彼のどこにも存在しないことば(オオルタイチ語)とそのメロディの組み合わせ、民族音楽的もしくはエスノ・ポップ的な音源が用いられていることが当然あるからではあるが、かといって彼の音のおもしろさの形容にはずれている感がある。それでももし民族音楽(的なもの)と彼の音楽の共通性をいうことができるとするならば、それはポップ・ミュージックからの相対的な距離として、彼の音を聴くときに感じるそこからの遠さ(逆にいえばそこから距離が存在はする))故に生じる新鮮さだといえるかもしれない。このアルバムの冒頭の曲を一聴したときに出た笑みは、音がある何かそうした具体的なジャンルの足し算によって得られるような全体を複製しようとしていると思わせられるや否や、それが固定しきらないところでそこから離脱してしまう、というような、あまりにも習慣化してしまっている音から得てしまうイメージの固着を裏切ってくれたことを意味するのであって、まさにそうした類似への指摘を無化してくれている。ただし絶賛とまではいえないのは、その基準軸がたとえばそのような民族音楽的な素材のエスノ・ポップ的使用、もしくはベック(beck)的な節操のないハイブリッドであること、そしてそれらが固定的な部分を小さくなく持ってしまっていることを明確に言えてしまうようなところが存在するからだ。

この読み取り不明なオオルタイチ語が、上で言ったような歌にとっての歌詞という存在を浮き彫りにする。彼の歌では「ことばの音色としての意味(のおもしろさ、心地よさ)」が優先的に受容されることになるだろう。つまりまさに「声によって豊穣な音色をもたらすためのそれぞれが違いを持つ形態の連なり」であることでことばの音と楽音が作り上げるイメージを受容することに意識は向けられることになる。ことばの意味が読み取ることができないことに苛立つ人間や、それに何の抵抗もなく新種のスキャットの亜種くらいに考える音色至上主義、それらのどの程度かの混合など様々だろうが、彼らはこのことによってことばと音、もしくはことばの意味とことばの(今まさに放たれている何語かによる言語的意味的連なりが発生させる音色としての)音の意味というような、上で挙げたような意識や対象への注視に悩む必要はなくなるともいえる。この音がスキャット音楽と違うのは、それが歌ものというフォーマットの複製であることを容易に意識できるからだ。それは無意味ではあるものの(あくまで僕にとってはだが)ことばによる豊穣で明確なフレーズの音色を生み出す。これによって声が他のアンサンブルの部分として埋もれることはなく、あくまで中心として機能することになる。それでありながら、受容者はその言語的意味には何一つ意識を向ける必要がない(できない)。できるのはその音の響きの意味がどのような文脈にあるのか?というようなレベルにおいてだろう。これによる彼の目的、標的がどこにあるのかは興味のあるものの、それはひとまずおいておくとして、このことは音響等を通過した耳には興味深い。

僕が音響等に関心を持ったのは、そうしたフレーズごと、楽器音ごと、何語かで書かれ話されることば固有の、発音される音色、それらによって構成される高次の音(フレーズ)という領域に縛られてしまう事態を、新たなテクノロジーの持つ形式によって相対化する可能性を感じえたからだった。知っている範囲という限定がありつつけれどそれらには、これらいわば解像度を上げた(もしくは移動した)音にボーカルをのせる試みはほとんどなかったといってよい。いや存在はするが、これらの制作者がおそらく共有しているのではないか?とこちらで妄想したくなるような音への態度が、ことばにおいては明確なものが感じられない。音響やインプロヴィゼーションといった周辺の音が歌と相容れないものだとひとまずしておくにしても、エレクトロニカと呼ばれるポップ・フォーマットよりの音をも射程に入れる制作者は、自らのそうした微細な音に歌をつけることもできたのではないだろうか?けれども、それは一つの音(サウンド)としての声をぶつ切りにし、編集したものがそれだということでは決してない。つまりはことばの意味はどのように音と関係を持つことができるのか?音はことばの意味をどのように扱うのか?という問題だろう。

その回答はたとえば「ヴェニス(venice)」におけるフェネス(fennesz)デヴィッド・シルヴィアン(david sylvian)の試みのようにこれらの音をカラオケに用いることでもない。それは同じシルヴィアンでも「ブレミッシュ(blemish)」でのデレク・ベイリー(derek bailey)との楽曲における声の扱いや、マーカス・ポップ(markus popp)によるソウ(so)などが手がかりになる気がするのだけれど。

受容

音 [ yori yoyo ] oorutaichi (moroheiya records)
音 [ たのしそう かなしそう ] 原田郁子 (columbia
ソフトウェア [ opera7.53ja ] opera asa ()

08/02

受容

音 [ never give up on the margins of logic ] sakada (antiopic)
クレジットにある「mark wastell: amplified textures」にひかれる
音 [ happy end of the world ] pizzicato five (********* records, tokyo)
ovalの珠玉である[ happy ending [ if then else mix ] ]のソース[ happy ending ]を今更聴くが...