ここは、ドイツの名所と謳われる、ロマンチック街道から随分と離れた山の麓に位置する小さな村。そのさらにはずれ、山の中腹に位置するハーンイシュターク城。別名「鏡の城」という、なんとも古風で豪奢な城である。
城の周りには美しい森と、碧い水面を静かに広げる湖が存在し、動物たちの楽園となっていた。そして、天然の一大庭園として城から見下ろすその風景は、どんな庭師でさえも舌を巻く壮大さと美しさを誇っていた。
頃は五月。春の盛りである。
「冗談じゃない!!」
荒々しく厚い木の扉を開ける。
屋根裏にやってきたのは、この城のひとり息子・ヴィクトールである。
「いくらこの城の維持費がかかるからといって、何故私が見たこともない女と結婚しなくてはならないんだ! マリー姫だって? 元伯爵令嬢だかなんだか知らないが、今どき政略結婚なんてはやらない! いや、それよりも、私の意思はどうなるっていうんだ!!」
ヴィクトールは、側にあったアンティークのソファに腰掛けながらひとり呟いた。
金の前髪が溜め息で揺れる。
この屋根裏は鏡やその他の調度品の倉庫として利用されていて、普段は滅多に人はやって来ない。ヴィクトールは小さな頃から、この部屋を自分の逃げ場として利用していた。
それが、城主の息子として体面を保たなければならないヴィクトールの、ストレスやプレッシャーを融解してくれる、唯一の方法であった。
「・・・姫なんて呼ばれているからには、気位の高いわがままな女に違いない。本当に、冗談じゃないぞ!」
その時、前方に位置する鏡が淡く光を放ち、それがヴィクトールの目にとまった。
「ん? あれは先日、中国から運び込まれた大鏡じゃないのか? まさか、昨日修理が終わったばかりだというのに、また亀裂が入ったとかいうんじゃないだろうな? 冗談じゃないぞ。この城の目玉にして観光客を呼び込むつもりで珍しい鏡を入手したのはいいが、ただでさえ高い鏡の修理費のさらに上をいくんだ、あれは。アメジストだぞ、桁が違いすぎる。そんなに何度も修理できるかっていうんだ。あんな大きなアメジストなんて、今の世の中には存在しないんだし・・・」
ヴィクトールが眉間にしわを寄せながら、腹立たしげに言い放った途端、そのアメジスト―――紫水晶でできた大鏡は、さらに強く、紫色に輝きだした。
「うわっ!! 何なんだ、一体!?」
ヴィクトールはたまらず、手で顔を覆い、体を丸める。
しかし、その強烈な光もすぐに薄らぎ、大鏡はほのかに光を纏うだけとなった。
「ア・・・アンジェ、ラ・・・何処・・・」
若い女の声がした。
その声に驚き顔を上げたヴィクトールの目に映ったもの、それは紫水晶から生まれ出たかのようにして突如現れた、今までに目にしたことのないオリエンタルな美女、紫鏡の姿だった。
「一体・・・何がどうなってるんだ? おい、お前は誰なんだ!?」
「・・・私・・・誰? わからない・・・」
ヴィクトールのことなどお構いなしに、紫鏡は恐怖感と不安感と、そして名にか大切なものを失くしてしまったという喪失感で呆然と立ちすくんでいる。
「記憶喪失、か」
ヴィクトールは目の前で起きていることのほんの一部を少しだけ理解したような、妙に納得した声で呟いた。
「・・・それにしても、美しい。まるで人間とは思えない。いや、人間などではないか。なにしろ、この大鏡から現れ出たのだ。きっと妖精に違いない。・・・それにしても、記憶喪失なら丁度いい」
ヴィクトールは自分がはおっていたブラウンのロングジャケットを紫鏡に着せると、紫鏡の前にしゃがみこみ、下から紫鏡を見上げる恰好で愛しそうに紫鏡をみつめた。
「いいかい? 君は私のものだよ。君は・・・そう、パーラジェーン。君の名前はパーラジェーンだ。私はヴィクトール。君の旦那様だ。わかったね? パーラジェーン」
「・・・旦那、様・・・わかりました」
紫鏡は軽く頷いた。
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