夜明けとともに 目を覚まし
マーマの腕を確かめる
木の実のスープに 焼きたてパン
マーマの愛した朝なのよ
坊や(ハニー)がいれば それでいい
マーマの愛した朝なのよ―――
やさしく、あたたかい声でマリー姫は歌っていた。幼い日の思い出の歌を。
その膝には、ヴィクトールが静かに眠りについている。
ここはハーンイシュターク城の中庭にある芝生の上。木漏れ日のなか、そよぐ風や花の香に包まれるように、ふたりは祝福された時間のなかにいた。
ふと、ヴィクトールが目を覚ます。
「ああ、君がまた歌ってくれていたんだな。夢を見たよ、幼い頃の」
「夢のお邪魔をしてしまったでしょうか」
マリーは静かな声で尋ねる。
「いいや、その逆だ。おかげでいい夢が見られた」
ヴィクトールはやさしく笑って答えた。
「―――すまなかったな、あの時君に本当にひどいことを言ってしまった」
「そんなこと・・・」
「いいや、何度でも謝らせて欲しい。私が君のことに気付いてあげられなかったばっかりに、君をどんなに傷つけてしまったことか」
真剣な表情でヴィクトールは言う。
「仕方の無いことです。だって私たち、十五年前に一度お会いしただけなんですもの」
マリーは微笑んだ。
「だが、約束は忘れてはいなかった。嘘じゃない。もう一度会えるかどうかはわからなかったが、どうしても忘れられなかったんだ」
「ヴィクトール様・・・」
ふたりの婚約は、無事に執り行われた。八月には多くを招いて盛大に結婚式が挙げられることになっている。
「でも、ビックリだなぁ。ヴィクトールとマリー姫って、知り合いだったんだね」
「しかも、十五年前に結婚の約束を互いに結んでいたなんて、すっごくロマンチックよねぇ」
「旦那様・・・ヴィクトールはその時の恋心を忘れられず、ずっと抱えていたわ。マリー姫もそうだった。無事にふたりの初恋が成就してよかった」
「あら、紫鏡と安珠くんもね」
途端にセルリアが茶化す。アンジェラも紫鏡も顔を赤らめた。
そうヴィクトールとマリーは十五年前、この城で出会っていた。マリーの父カナリスがヴィクトールの父の催したパーティに招待されたときに。こどもの来客はとてもまれで、いつも退屈していたヴィクトールは、この時出会ったマリーを大変気に入り、一週間という限られたマリーの滞在期間の間、マリーを片時も離さず連れ添わせていた。
別れの日の朝、幼いふたりは互いの純粋な気持ちを、結婚の約束を結ぶという形で確かめ合っていた。そのときに、何年も経って、互いの顔を忘れてしまったとしても、再会した時にすぐわかるようにと、亡くなった母に歌ってもらっていた子守唄を合言葉の代わりとして、ヴィクトールはマリーに教えたのだ。それが、先程もマリーが歌っていたあの歌であった。
「ところで、紫鏡の大鏡、ホントにここに置いてっちゃうの? 記憶は消しちゃったんだよね」
アンジェラが紫鏡に尋ねた。
「ええ。彼らの私たちに関する記憶は消えているけれど、彼らの大いなる未来が輝かしいものであることを祈って、鏡は置いていくわ。鏡の城だし、大鏡を置いておくにも似合いの場所だと思うから」
紫鏡は明るく笑って答える。
戦い終わって、セルリアも表情がやわらかい。ただひとり、ダイアナを除いて。
「・・・紫鏡」
ダイアナが口を開いた。
「あなた、まさか・・・」
「え? 何ですか、ダイアナ様」
屈託ない紫鏡の笑顔。
「・・・いえ、別に」
ダイアナはことばを飲み込んだ。今ここで到底できる質問ではないことをダイアナは理解していた。しかし、訊かずにはおれないほど、大きな疑問でもあった。
心にわだかまりを大きく残しつつも、ダイアナは努めて笑顔を見せた。
「あーあ、折角カケはオレの勝ちだったのに、アイツのくやしそうな顔がみられなくって残念だったな」
アンジェラが言う。
「ふふふ。そうぼやかないで」
「紫鏡もヒトが悪いよ。記憶を取り戻してて知らんふりをするなんてさ」
アンジェラは頬を膨らます。
「ゴメンってば。いいじゃないの、別に。こちらにだって都合ってものがあるんだから」
「どんな都合だよ!」
「いろいろ」
「いろいろってなんだよ!! 言えないのか!?」
「はいはい、ストップ。そこまで。仲良くしなきゃダメでしょぉ」
セルリアが割って入る。
「とにかく、紫鏡の記憶が戻って、あたしたちのトコに帰ってきたんだから、それでいいじゃない。ね、安珠くん」
「・・・う、うん」
渋々アンジェラは頷く。
「さて、と。それじゃあ出かけることにいたしますか」
紫鏡が声をかける。
「アンジェラ、貴方以前に精霊界のことをいろいろ知りたがっていたわよね」
「あ、うん」
「精霊界へ連れて行ってあげるわ。ちょっと用事があるから」
「え!? ホント!?」
「セルリア、ダイアナ様。ふたりともにも」
「!」
「え? いいの? わぁ、久しぶり」
セルリアは単純に喜んでいたが、ダイアナは違った。驚きの顔で紫鏡をみつめ、何か言いたげである。
紫鏡は黙って小さく頷いた。ダイアナの疑問をある種、肯定するかのように。
「安珠くん、精霊界に着いたらいろいろ案内してあげるね」
「うん!!」
アンジェラとセルリアは楽しそうに話している。
「じゃあ、行きましょう」
紫鏡は他の三人を促した。
ダイアナは、激動の予感を思った。守護精霊が精霊界へ帰ることを許されるなど、余程のことがないかぎり、あり得ないことを知っている。精霊界で何が起きているのか。
ダイアナは大きな不安を抱え、紫鏡たちと精霊界へ足を踏み込んでいった。そこには、新たな時代への舞台が用意されているということには気付かずに。
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