筒井康隆論──ナンセンスの詩学 ミステリー評論(1)

乾いた笑いの発見

 われわれの周囲を取り巻く社会的現実から物と物を関連づける意味の鎖を取りはずし、常識的な固定観念なしに物自体を眺めたとすれば、どのようなものとして世界は姿を現わすであろうか。サルトルの「嘔吐」の主人公ロカンタンは、ただ在るだけの無意味な存在に嘔吐を感じる。
「赤裸々な〈世界〉はかくして一挙に姿を現わした。そして私はこの非条理な嵩ばった存在に対する怒りで息が塞がりそうになった。人々はすべてこれらのものがどこからでてきたのか、またいかにして無のかわりに存在するようになったのかを、自ら問うことさえできなかった。それには意味がなかった」
 だが、筒井康隆は、そのような無意味な、不条理の世界に怒りを感じるかわりに、乾いた笑いを発見する。すべて手に触れるものをすべて黄金と化してしまうミダス王のように氏は、社会現象をまず無意味な物体に還元する。そのような視点を徹底すれば、戦争もつまるところ人間と武器のぶつかり合いの加減乗除にほかならず、美しい恋愛も結局は武器と性器の接触に過ぎないだろう。
 このような物化の方法は必然的に最も厳粛に見えたものを滑稽な存在に、生真面目なものを不真面目なものに。悲劇的なものを喜劇的なものに変えてしまうに違いない。なぜなら、ベルクソンのいうように、笑いには人間の物化、こわばりによって生まれるからである。
 ナンセンスの詩学。よきにつけ悪しきにつけ、筒井康隆のSFの方法はこのような世界の不条理性、無意味性を鋭く意識するところから生まれている。
 ナンセンスNonsenseという言葉は一般的には否定的に使われる例が多い。たとえば、「無意味、愚にもつかない考え、ばかばかしい言葉または行為、しばしば軽蔑的に用いられる。ナンセンス・ブックは、ばかげた記述で読者の笑いをさそう本」(講談社「現代世界百科大事典」)、あるいは「意味をなさないこと、ばかげたこと、くだらないこと」(学研「グランド現代百科事典」)といった具合いである。
 このような皮相な固定観念に対して、筒井康隆は前衛芸術の一方法としてのナンセンスを対置する。「我田引水になるが、ぼくなどは、この『ナンセンス』の価値を追求し続けてきたのだ。大学4年間を通じてぼくはシュール・リアリズムを勉強した。もちろん、シュール・リアリズムはナンセンスの極致なのだ」(「欠陥大百科」)。
 昭和9年大阪に生まれた筒井康隆は高校時代に演劇に熱中したが、同志社大学では文学部に在籍して、心理学を専攻、「心的自動法を主とするシュール・リアリズムにおける創作心理の精神分析的批判」という卒業論文を書いた。こういうシュールレアリスムへの関心が氏のSFに大きな特徴を与えていることは否定できないように思われる。
 サルトル流の実存主義的観点からすると、無意味な存在は単に否定されるべきもののように映るかも知れないが、シュールレアリスムの立場からすると無意味性そのものがまた新しい価値創造でもありうるのだ。
 ロートレアモンの「解剖台のうえのミシンとコウモリがさの出会い」という詩句は、既成常識にとらわれない斬新なイメージの結びつきを示すシュールレアリスム的表現の一例として、余りにも有名だが、シュールレアリスムとはまずこのように、既成のイメージとイメージの意味ある結びつきを徹底的に破壊するところから始まるのである。
 方法としてのナンセンスとは、したがって一切の既成の価値観を否定して、新しい現実を発見することであり、人間と事物との意味のある結びつきを破壊して、悲喜劇的な観点から改めて世界をとらえ直すことなのである。そして、現実の世界を無意味な、ナンセンスな世界として意識するということは、取りも直さずあるがままの世界をそのものとしては認めないという現実拒否の姿勢につながるわけである。

現状批判の性格

 筒井康隆のSFが徹底的にナンセンスでありながら、日本の現実に対する痛烈な批評精神に貫かれているのは実はこのような氏の特異な方法そのものに基づいているといってもよいだろう。遠い未来のことを語りながらも、氏が凝視しているのは、あくまで現代の日本の現実である。
 戦争という最も悲惨な愚行を繰返す人間、破滅的な速度で進行する環境汚染、人口増加と最低の住宅政策、青年の魂を荒廃させる受験地獄、救いのない老人問題など、氏が作品で取り上げる主題は、われわれの周囲にいつも提起されている日常的な問題ばかりである。
 この点で氏のSFは気の遠くなるような無限の時間と空間に雄大な宇宙未来図を展開する光瀬龍などとは対照的といってよいだろう。
 氏は、「2001年暗黒世界のオデッセイ」という文章の中で次のように語っている。
「おことわりしておきたいのは、個人の未来風景は、どうしても近視眼的になってしまうということである。たとえば汚染問題を予測する場合でも、ほんとは地球の全自然系だとか、生物連鎖の因果関係をグローバル場な視野で捕らえるとかいったことが必要なのに、書いているうち、つい心に浮かぶのが自分の住んでいる地域の、あるいは自分の国だけの環境汚染の現状だったりして、そこから未来の汚染状態を安易に予測してしまうのである」
 つまり、氏のSFが現象的に未来を描いていても常に現状批判という性格を本質としているということである。
 氏の処女長編「48億の妄想」(昭和40年)はこの意味で、氏の根底に潜むシリアスな文明批評がより直接的な形で描かれている作品として注目に価する。
 テレビの映像が絶対化され、擬似イベントの虚像によって現代人の魂がむしばまれて行く悲劇的な過程を筒井康隆はいささかパセティックな調子で描いている。
 常にテレビ・アイを意識して行動せざるをえない人々、しかも、通俗的なメロドラマそっくりの紋切型の会話とセンチメンタリズムでしか自己を表現できない哀れな人種に対して、主人公の折口は嘔き気を感じる。こういう点から見ると、この作品には、まだ実存主義的なものが未分化な形で残存している印象を受ける。
「逃げ出すか? だが、どこへ逃げる。逃げ場はない。どこへ行っても同じだ。世界中が大衆の飽くことなき擬似イベントへの期待に埋まり、48億の妄想は作られた事件が事実なのだと彼ら自身に教えている」
 こういう情報化社会がもたらす大衆社会状況についてのペシミスチックな考え方は、プーアスティンの「幻影の時代」やG・アンダースの「テレビジョンの幻影の世界」などに共通するものがある。

血縁関係のもつ意味

 もともと、筒井康隆の中には育ちのよい優しさと繊細な神経が隠されている。こういう氏の側面は、重たい主題を軽く扱うというナンセンスSFの方法によって表面に現れることが少ないが、「48億の妄想」の中には、たとえば折口と暢子との抒情的な別れの場面などにその片鱗をうかがうことができよう。
 一般に氏の作品の中では、血縁関係に基づく愛が比較的大きな比重を占めている。親子、兄弟、夫婦すなわち家族が、氏の作品の中では人間が信頼を保てる人間関係の単位であり、それ以上の組織や集団は憎悪と敵意の対象になりやすい。
 そういう意味では、あるいは氏の中には、伊藤整流の「組織と人間」のペシミスチックな図式が潜んでいるようにも思われる。「幻想の未来」、「姉弟」、「ラッパを吹く弟」などに秘められた、優しい愛の讃歌を読むと、戦争に対して激しい嘲笑を浴びせかける氏の残酷なブラック・ユーモアに満ちた視線が信じられないくらいである。
 日常の話し相手になってくれた老朽ロボット自動車お紺に対する何ともいいようのない悲しい別離を描いた「お紺昇天」。この作品に登場する主人公は、スクラップ寸前のロボット車に呼びかける。「べつに僕を乗せて走らなくてもいいんだ。ガレージで休んでりゃいいんだ。そうだ、余生をゆっくり休養しろ。僕の話し相手にさえなってくれりゃいい。何年でも、いや何十年でも、ずっと面倒見てやるからさ」
 こういう実用性を失った年老いたものへのいたわりと愛は、「アルファルファ作戦」などにも見られるものである。だれもが住むのをいやがる地球に残り、生まれ故郷の伝統を守り続ける老人たちと養老施設を管理している太陽系連邦の厚生省に勤める若者の考え方の違いが、この作品では浮き彫りにされているが、クモ人間の襲撃をきっかけに、若者は今まで気がつかなかった老人の知恵と勇気を再発見する。
 かつては、なぜ養老院の管理なんか引き受けたのかと後悔していた若者は地球を去るにあたって、「あなたがたはすばらしい人たちです。わたしはいつの日にか、ふたたびここに戻ってきたいと思います」と本気でいうようになるのだ。ここには「ジジ抜きババ抜き家つきカーつき」といった核家族化の傾向の中で強まっている老人蔑視の思想はまったく感じられない。若者のエゴイズムというものも感じられないのである。
 新旧世代の対立や断絶は、共通の理想の旗の下で老若男女を問わず敵と戦った経験のある国民の中には存在しないのであって、たとえば、レジスタンス運動に命を賭けたフランスの活動の中にはそういう断絶はなかったと指摘したのは確か花田清輝だが、この「アルファルファ作戦」の老人と若者の心の交流もそういう命がけの戦いの中から生まれている。
 筒井康隆は田辺聖子との対談で、
「僕は昔の大家族制度みたいなものになんとなくノスタルジアがあるんです。おじいさんが孫にいろんなことを教えていくというほほえましい風景がほしいんです」
 と語っているが、氏のこういう考え方がこの作品の発想の根底に秘められているように思われる。氏は著名な動物学者の家庭に育ち、4人の兄弟の最年上の長男として仲良くやってきた。そういう幸せな家庭環境が氏のこれらの考え方の基礎になっているに違いない。
 軽薄だとか生意気だとか誤解されることの多い氏の素顔にはこのような別の顔が隠されているのである。私はこういう氏の素顔が好きだ。
 処女長編「48億の妄想」にはこのように氏の2つの顔がいわば混在していたが、長編第2作の「馬の首風雲録」(昭和42年)では、氏のナンセンスの方法がより徹底した形で扱われているといってよい。が、その毒はアクチュアルな問題を扱った「48億の妄想」に及ばない。
「たしかに戦争は人類最大の悲劇です。でもそれだからこそ逆に人類最大の大ドタバタであるともいえるでしょう。他人の悲劇は第三者から見てはなはだドタバタであることだ多く、その意味でドタバタというのは本来無責任なものなのです」(同書あとがき)。
 と氏は「ベトナム観光公社」などの作品で戦争を戯画化したことについて弁明しているが、もともと氏にはマルクス主義的な意味での階級概念はない。したがって戦争当事者の一方の当事者を善悪で分類することなどできない相談なのである。
 あえていえば、筒井康隆にあっては、家族関係を越える大きな集団や組織、会社、団体、国家など少しでも権力のあるものはすべて恐怖の対象であり、悪なのである。
 NHKのあり方を批判した「公共伏魔殿」、創価学会を扱った「堕地獄仏法」などいくつかのタブーに挑戦した先駆的作品もあるが、その批判の核になっているのものは、論理というよりも権力を持つ巨大組織に対する強い無意識的な恐怖である。
 女性の力が強くなり、それが一つのファッショ的な統制力を持つに至ったとき、男性にどのような悲劇的運命がまちかまえているを描いた「懲戒の部屋」なども、ウーマン・リブや主婦連の一部の運動に見られる独善的な自己陶酔に敏感に拒絶反応を示したともいえそうだ。

悲鳴を上げる「私」、「おれ」

 注目しなければならないのは、氏のこの種の作品では、主人公が必ずといってよいほど、「私」あるいは「おれ」である点である。これは叙述の形式としては、一人称形式を採用するハードボイルド推理小説の影響であろう。
 事実、氏の「おれの血は他人の血」(昭和49年)には明らかに、ハメットの「赤い収穫」のSFパロディといった要素が感じられるし、「アフリカの血」や連作短編「男たちの絵」は、一人称形式ではないが、やはりハードボイルド派の影響が明らかである。
 しかし、忘れてはならないのは、氏の多くの作品に現れる、「私」や「おれ」が、しばしば事件の中で悲鳴を上げる被害者であり被疎外者である点だろう。
 その意味では、これらの主人公は、「私は私である」という同一律に甘んじていられない。埴谷雄高流にいえば、「同一律の不快」に悩んでいる人物である。
 たとえば、「条件反射」という作品では、交通事故で重傷を負い、ブタの胃袋、イヌの心臓、ウマの肝臓を移植され、さまざまな動物の条件反射に引きずられて人間でありながら動物のように行動せざるをえない悲喜劇を描いている。「姉弟」と並んで、カフカの「変身」のパロディとでもいえる愉快な作品といえよう。
 要するに、これらの作品の「私」や「おれ」はトーマス・マンのいわゆる“物語の精神”といったものであると同時に、自ら被疎外者として周囲の事物を即物的にナンセンスにとらえるナンセンスのカメラ・アイにほかならない。
 こういう一人称形式を氏が愛用する一つの理由には、演劇人を志望しながら、ついにそれになり得なかった、演技失格者の演技願望と自己顕示欲を、同時に生かすことができるからに相違ない。
「あなたは何のために書くのか」という推理作家協会のアンケートに氏は「演技者として失格したから書くのです」と答えているが、誇張の多い大仰な主人公の滑稽な身振りには、明らかに、そういう願望が秘められているような気がする。
 氏がしばしば生意気だとか軽薄だとか誤解される一因は、このような演技者としての虚構の「私」を作品の主人公として登場させているからであるが、氏のナンセンスSFの方法がそもそも重たい現実の問題を軽く扱うというものであるのだから、“軽薄”という批判はむしろほめ言葉といってもよいくらいのものである。
「48億の妄想」日本SFシリーズ版のあとがきで、氏がチャールズ・ダーウィン、シグムント・フロイト、ハーボ・マルクスの3人を恩師と呼び、「僕の思想の三大革命家」と述べていることはよく知られているが、氏のナンセンスSFの方法の観点から見るならば、この3人の内、フロイトとマルクスが最も重要だろう。
 フロイトは、人間の意識の背後に隠された無意識の世界の意味を明らかにし、アンドレ・ブルトンの「超現実主義宣言」などにも大きな影響を与えたし、一方、マルクス兄弟は物としての肉体を駆使して、ドタバタ劇の真髄を示した。
 ナンセンスSFの方法は明らかにこの二つの要素の結合であるが、およそ常識の次元を超越した奇怪な映像の飛躍を可能にしたという点では、オートマチズムにも道を開いたフロイトの思想の影響が最も大きいかもしれない。
「近所迷惑」はそういう前衛的な方法を駆使した、ナンセンス・シーンの万華鏡ともいうべき見事な作品である。世界的に時間と空間が異常な混乱に陥ったありさまが独特の悲喜劇感覚でとらえられており、その奇怪なイメージの連続は到底他の作家が真似できない超現実性を発揮している。
 シュールレアリスムの画家サルバドール・ダリは「ぼくと狂人との相違は、ぼくが狂人でない点だけだ」と述べ、いわゆる偏執狂的批判の方法を絵画に導入したが、「精神錯乱的な連想や判断の批判的な組織的な客観化を基礎とする、非合理的な認識の自然発生的な方法」で描き出される、ダリの世界にも似た滑稽で恐ろしい幻想がこの作品には見事に結晶している。とくに結末のすばらしさ。あくびをした奥さんの口腔の奥に夜空が広がり、そこに光りまたたく一千億の星くずが見えたという結びは詩的ですらある。
 最近の短編にも「平行世界」という一風変わった空間移動の物語があるが、こういう奇想天外な発想は筒井康隆ならではのものであろう。
 このほかフロイティズムに立ったものとしては、一種のSFミステリー「家族八景」(昭和46年)がある。人の心の動きを読み取る超能力者の美女七瀬などの設定にフロイト的人間観が生かされている。
 表面上は何食わぬ顔の紳士が心の中に秘めている醜い性的願望がそのまま伝わってくるという形で人間の偽善性がコミックな形で暴露される面白さがある。

無意味の意味、意味の無意味性

 さらに、氏のナンセンスSFの方法としてパロディも無視できない。ナンセンスの方法が現実の常識的な意味関係を断ち切って新しい世界を発見することにあるのに対してパロディは、すでにある観念を転倒させて新しい価値をつけ加えるものといえよう。
 パロディは他人の作品の筋や文体などを模倣して滑稽化することが多いが、氏には「欠陥大百科」や「乱調文学大事典」をはじめこの種の試みにこと欠かない。しかし、中でも注目されるのは、「色眼鏡の狂想曲」である。
 この作品の中には7歳の米国の少年が書いた「日本大戦争」という原稿の訳文が掲げられているが、その滑稽なことには思わず吹き出してしまう。
「諸行無常の鐘の声がうつろにこだまし、ギオンの売春婦街も静かに眠るといわれる日本ではあるが、ここしばらくこの国は世情も騒然としていた」といった具合いなのである。「小説『私小説』」、「老境のターザン」など氏のパロディは他の作家の追随を許さないユニークな発想のものが多い。
 氏の作品の中で恐らく最も難解であり、それだけに最も大きな問題をも喚起している長編「脱走と追跡のサンバ」(昭和46年)は前衛的なニュー・ワェーブSFのパロディであるが、登場人物のひとりはその中で疑問を提起する。「パロディでないものなんて、だいたい現実にあるのですか」と。
 私はかつて、筒井康隆を軽薄なパロディストとしてとらえることの愚を強く主張したことがあるが、こう開き直られると、否定する自信も余りないような気になって来る。
 しかし、いずれにせよ、筒井康隆のSFの方法は徹頭徹尾現実をナンセンスなものとしてとらえるという点にある。そしてその点こそ、およそ前例のない独創的な点なのだ。
「色眼鏡の狂想曲」の主人公は「知性というものは、本質的に非論理的なものではないかとおれは思うのだ」と誇らかに断定するが、意識的に非論理性を貫くことは、単に論理性を貫くことよりも困難なのである。
 無意味の意味、意味の無意味性。何だがメルロー・ポンティーの著書の題名みたいで気がひけるが、この両極を無限に往復することこそナンセンスSFの方法にほかならない。
 そして、その往復運動の中に乾いた笑いと新しい文明批評を作り出すこと。これが筒井康隆のナンセンスSFのユニークな存在理由なのだ。
 もちろん、ナンセンスSFの方法によるかぎり、筒井康隆のSFはたえざる現実の否定の往復であり、その意味では、負の有効性しか持ちえない。この悲劇的役割を氏自身よく自覚しているようにも思える。
「この空虚などたばたの行きつく果てに何が待っているのか。いや、いや、そう考えてはいけない。その考えかたはきっと理想主義だ。空虚などたばたの果てには何もあるはずがないのだ。そして、それが事実なのだ」(「国境線は遠かった」)。
 確かにそれは事実であろう。しかし、氏は最近作の「おれに関する噂」でますます侵害されつつあるプライバシーの問題を、また、「毟りあい」では、無限にエスカレートする内ゲバの論理を鋭くえぐっている。
 ナンセンスSFでは未来の肯定的ヴィジョンを示すのは困難かも知れないが、少なくとも現代の状況についての批判は可能なはずであり、その文明批評の“毒”は決して力を失っていないのである。

初出 「別冊新評『筒井康隆の世界』」第9巻第2号、昭和51年7月


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