都筑道夫論──華麗な論理の曲芸師 ミステリー評論(4)

 都筑道夫の推理小説における前衛的な冒険は、鋭く語り口を意識する所から始まった。
 推理小説の処女長編「やぶにらみの時計」(昭和36年)の第1章9 :10:a. m. の凝りに凝った書き出しを読むだけでもわかるだろう。人間をユーモラスに見詰める乾いた目、華麗なペダンティシズム。とことんまで読者の存在を意識した文体。氏の初期の作品群を彩る強烈な作家的個性がすでにここにくっきりと刻まれているのだ。
「目蓋がこわばっている。寝たりない証拠だろう。そのくせ頭は、重くて痛い。脳の平均重量は、人間のおとなで1・4s、象だと5sもあるそうだ。眠ってるまに、loxodonta africana の脳みそでも、移植されてしまったのかも知れない。おまけにそれが、くだもの屋の店さきで売れのこった胡桃みたいに、中身がすっかり乾いた感じで、首をふると、がっさがっさ音がしそうだ。これでは、眠りたくても、眠れない。いっそ、起きてしまったら、どうなのだ?
 きみの目蓋は、たしかに重い。けれど、盤陀づけされてしまったわけではない。」
「やぶにらみの時計」は、ある朝、見知らぬ部屋で目覚めると、自分が別人になっていたという奇想天外な物語である。自分は29歳の浜崎誠治という青年であるはずなのに周囲の人間は、雨宮商事の社長雨宮毅だという。一体自分は何者か? 誠治は朝の9時から翌日の午後2時まで自分を必死に探し回る。
 記憶を喪失した人間が自分自身を追跡するという設定は、夢野久作の傑作「ドグラ・マグラ」(昭和10年)にあり、この主人公はある日精神病院の一室で目をさまし、自分が一体何者だったかを探索する。だが、都筑道夫の「やぶにらみの時計」の主人公はちゃんと自分は浜崎誠治だと自覚している。ところが、周囲の人間はまったく別の人物として扱うのだ。その奇怪さ、ナンセンス、トラジコメディな世界にやがて犯罪の影がさして来る。
 もともと記憶喪失という主題なら推理小説では多くの先例がある。パトリック・クエンティンの「愚者パズル」(1936年)、マージェリイ・アリンガムの「売国奴の財布」(1941年)、デーヴィッド・グーディスの「黄昏」(1947年)、さらには、ロス・マクドナルドの「三つの道」(1948年)などがその一例だ。
 したがって、「やぶにらみの時計」の新しさは、自分が自分でありながら、変身させられているという、フランツ・カフカの「変身」に通じる主題を推理小説というエンタテイントに仕立てた所にあるともいえるのだ。
 楽しみのために読む推理小説と現代文学の一つの頂点をなすカフカの作品を結びつけるのはいささか大げさかも知れないが、作者が「やぶにらみの時計」を書くにあたって現代文学の前衛的な手法を意識していたことは、この作品の主人公をきみという二人称で呼んでいることからもうかがえる。二人称を使ったのは、作者によると、スリラーの主人公はできるだけ読者と密着させておきたいが、一人称では書く上の制約が多いので、フランスのアンチ・ロマン、ミシェル・ビュートルの「心変わり」にならい、いわば実況放送スタイルにしたのだという。確かにこの手法は、この作品で見事な効果を上げている。
 読者はこの推理小説の処女長編の斬新なスタイル、器用なストーリー展開に目を見張らせられるばかりでなく、自分の作品を作中で位置づける批評家的な姿勢にも驚かされるに違いない。作者はこの作品の中ごろで主人公が目をさましてみると、知らない部屋で、知らない女のひとと寝ていたということから始まる物語として、ジェリイ・ソウルの「時間溶解機」やジョナサン・ラティマーの「罪人たちと屍衣」、さらにリチャード・マースティンの「裸で、しかも死んでいる!」などの例をあげ、「これが記憶喪失だなんてんじゃあ、つまらない」と登場人物の一人にいわせている。つまり、作者はさり気なく、作中でこの作品の別の新しさを広告しているのだ。

 人間をさまざまな角度から眺める多元的視点とそのための多彩な手法は、ジェームズ・ジョイスの「ユリシーズ」をはじめ、サルトルの「自由への道」、ビュートルの「心変わり」など現代文学の大きな特徴だが、都筑道夫はこういう新しい方法を意識的に推理小説に取り入れた点で、日本の推理作家の中で最も前衛的な作家ということができるだろう。
 主人公を二人称で描いた「やぶにらみの時計」に続く長編第2作の「猫の舌に釘を打て」(同)では、探偵で犯人で被害者の一人三役を扱っている。探偵で証人で被害者で犯人という一人四役は、セバスチャン・ジャプリゾの「シンデレラの罠」があり、そういう点ではこの作品はそれほど珍しくないが、その叙述の形式はまことに新鮮だ。私という主人公が都筑道夫著「猫の舌に釘を打て」という本の白紙の束見本に、人に知られないように秘密の手記を残すという奇想天外な設定になっていて、途中にわざとらしくはさみ込まれたエラリイ・クイーン風の「読者への挑戦状」も、結末の一歩手前に印刷もれのまま残されている白紙の何ページかも、そのすべてが一つのトリックとして使われているという凝りようである。
 海渡英祐は「謎と論理」というトリック論の中で、犯人が作中の探偵に向かって仕掛ける狭義のトリック論の中で、犯人が作中の探偵に向かって仕掛ける広義のトリックがあるとして、次のように述べている。
「この広義のトリックは、全体の構想に密着したもので、トリックというよりむしろプロットに近い。作品のスタイル、構成など自体が読者に対する罠になっているものなどは、その代表的な例で、たとえば古典的な作品としてはアガサ・クリスティの『誰がアクロイドを殺したか』や『そして誰もいなくなった』、新しい作品ではスタンリィ・エリンの『鏡よ、鏡』などをあげることができる」
 こういう作品としては、他にビル・S・バリンジャーの「歯と爪」や「消された時間」、フレッド・カサックの「殺人交叉点」などがあるが、作りものであることを徹底的に逆手に取って、このような人工的な叙述形式による広義のトリックを鮮やかに駆使しているのが都筑道夫の初期の作品群の大きな特徴である。
 その意味で長編第四作の「誘拐作戦」(37年)はまことに楽しい作品だ。
 まず書き出しがふるっている。
「さいしょに、おわびをしておきたほうが、いいだろう。これから、このスリラーめかしたものを、書きはじめる私たちは、実をいうと、ずぶのしろうとだ」というのである。あれ、あれ、飛んでもないものを読まされると思った方は、もう都筑道夫の術中に陥っているといってよいだろう。
「誘拐作戦」は、この「私たち」が全部で10段階に分かれている各章を交互に書き進めるという形式を取っている。そして、この作品の内容は自分の経験に基づいているが、「あんまり、ありのままに書くと、迷惑するひとがいる。だから、適当にうそをまじえて、交替に書いていくことにする。もちろん、登場人物のなかに、私たちふたりがいるわけだが、どれが私たちかは、隠しておくほうがいいと思う。勘のいい読者には、すぐわかるかも知れない」と断っている。
 つまり、犯人ならぬ書き手さがしの興味をかけ合い漫才のような楽しい語り口の中で追求できるのだ。
 この作品は、交通事故で死んだ、金融業の財田徳太郎の娘千寿子にそっくりなフーテン娘のお妙を使い、誘拐事件を装って財田から多額の身代金をせしめようとする所から始まる。しかし、誘拐されるはずの千寿子はすでに事故死していると読者にはあらかじめ知らされているので、人質がどうなるかといったサスペンスは失われている。しかも作者はすんなりと誘拐作戦の手の内を明らかにしている。単なるコミック・スリラーかと思ってさらに読み進むと、意外なことにこのような倒叙的なストーリー展開そのものが一つのトリック的な意味合いを持って来るのだ。
 こういう凝りに凝った構成は長編第7作の「三重露出」(39年)において一つの頂点に達する。
 最初のページを開くと、まず日本版翻訳所有権という文字が目に入る。その下には英語で Triple Exposure by S.B. Cranston とあり、さらに訳者や出版社の名前が印刷されている。
 本文を読むと、忍術に憧れて東京にやって来たアメリカ人が女忍者グループと闘わなければならないというセクシイでちょっとコミカルなスパイ・スリラーが始まる。まさに翻訳ミステリーだが、次の章では、一転して訳者の滝口正雄の話になる。この訳者の原書に沢之内より子という人物が登場するので滝口は非常に興味をそそられたという。というのは、この女性は2年前に殺されていて、しかも犯人はまだつかまっていない。もしかすると、クランストンは犯人を知っていて小説を書いたのかも知れないが、この作者の正体がまったく不明なのだ。
 こんなふうに「三重露出」はアメリカ人作家クランストンの執筆した作品を翻訳する形で1、2章すつ訳しながら、交互に訳者の側のストーリーが展開するというきわめてアクロバチックな叙述の形式を採用している。
 つまり、活劇的なスパイ・スリラーと謎解き小説を1冊に収録したようなもので、二つの対照的な作風の小説が交互に進行する所はまことに見事といっていいが、スパイ・スリラーの軽妙なストーリー展開に比べ、謎解きのほうはやや筋書きの紹介に追われ、魅力なじゅうぶんに発揮にされていないうらみがある。その意味ではやはり初期の作品群では「誘拐作戦」が私は好きだ。

 何一つ知らぬことなき博識。これが現代の理想なのだ。とはオスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの画像」の中の言葉だが、現代日本の推理作家の中で都筑道夫は恐らく最も熱心なこの理想の追求者のひとりだろう。
 都筑道夫は本名松岡巌。昭和4年7月東京小石川に生まれた。29歳で若死にした三つ年上の兄である落語家の鶯春亭梅橋の影響で子供のころから映画、推理小説、落語、江戸文学、芝居が大好き。ついに芝居熱がこうじて敗戦直後には劇作家になることを決意、卒業を目前に昭和20年12月に早稲田実業学校を中退した。寄席通の作家正岡容に師事して戯曲の勉強をはじめたがものにならず、カストリ雑誌の編集者を経てさまざまな作品を書きまくった。これが18のときで、都筑道夫というペンネームをつけたのは20歳になってから。それ以後も昭和28年まではほかに10いくつの筆名を時代伝奇小説から浪花節までありとあらゆるものを書いたという早熟、多才ぶり。
 やがて読物雑誌がつぶれて発表の場がなくなると、化粧品の宣伝部のコピーライターをしながら翻訳家に転進をはかって行った。そしてさらに、早川書房のエラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン編集長を経て推理作家に。
 このように都筑道夫は推理作家になる前にすでに博学の人であり、作家であったので、推理小説の処女長編「やぶみらみの時計」が作品の完成度が高くいかにも手なれたものに感じられるもの決してふしぎではない。
 昭和29年に出版した文字どおりの処女長編である時代小説「魔海風雲録」の序文で大坪砂男は、「好学向上心の旺盛なことは、いつも会うたびにグリーンやケインまたシメノンなぞ英米仏の横文字本を携えて、論ずるところは人の意表を衝き傾聴させるものがありました」と述べているが、ここにはあくなき好奇心と向学心に燃えた論理癖の強い著者の若き日の肖像が浮かんで来る。
 氏のペダントリーがこういう氏の無限の好奇心の成果である博学に基づくことはいうまでもないが、それと並んで作品の細部にまで神経をとぎすませ、心を配らずにいられない極端なリゴリストであることも否定できない。
 たとえば、氏は、久生十蘭の「刺客」について次のように書いている。
「あらためて久生十蘭という作家に、舌を巻いた。本文の275ページに、穹窿天井と書いて、ヴウトとルビをふった言葉が出てくる。すなわち円天井のことで、Voute はフランス語だ。しかし、ここはチューダー時代ふうの建物を描写しているのだから、英語を持ってくるべきだろう。現に主人公の病気に関してはドイツ語、小道具と女の性格描写にはフランス語と、作者はつかいわけていて、ここでもカタカナでは英仏どちらにもとれるモザイクのほかは、アイル、ロゼットとみんな英語だ。だから、モザイクを英語と見て、ヴウトも英語の円天井、ヴォルウト Vault の誤植ではないか、と私は思った」、「けれども念のために、翻訳家の宇野利秦氏の博学にたよることにして、教えをうけて目を見はった。チューダー時代には、円天井を意味する英語がまだなくて、フランス語のヴートが用いられていたのである」、「久生十蘭は、そんな細かいところにまで、心をくばって書いたのである」。
「そんな細かいところまで」と都筑道夫は、書いているが、そういう氏もやはり良きにつけ悪しきにつけ細部への配慮に神経を磨り減らす作家なのだ。だが、その細部へのこだわりが、知識の噴出として作品の中にばらまかれるか、その結果だけがさり気なく書かれるかの違いなのだ。
 久生十蘭と違って、都筑道夫は細部へのこだわりを、さまざまな知識として散りばめずにはいられない作家である。素顔だけでは満足できず人工的な化粧をしないと気がすまない作家である。
 だから、その博学が意表をつく表現と巧みに結びついたときや、一つの物事の価値判断に役立つ知識である場合には、そのすべてが都筑道夫の個性的な刻印を受けて光り輝く。たとえば、「やぶにらみの時計」、そして「三重露出」のペダンティシズムが独特の魅力を発散させるのはそんな時だ。
 たとえば、「三重露出」のふざけた話や、マザー・グースをもじった章の題名などはその好例で、それが翻訳文であるとされているだけに気にならないし、時にユーモラスな効果を上げているのだ。
 だが、出て来た犬について、長編第6作の「悪意銀行」(昭和38年)のように「体高では、どの犬種よりも勝るグレートデンだ。毛のいろによって、金地に黒縞のブリンドル、おなじ金地に口もとだけ黒いフォーン、あざやかなスティールブルーのブルー、つややかな黒ひといろのブラック、純白に大小の黒まだらがあるハーレクイン、と五つに分類されているうちの最後のやつで、それも、名前の起こりになったイタリアの喜劇の道化役、ハーレクインの衣裳をおもわせる黒まだらが、やたら大きくはない」などと描写されているといささかうんざりする。香具師のがまの油の口上のようにおふざけのものならそれなりに面白いのだろうが、なまじまともなだけにうっとうしいのだ。
 私もまた、物語途中での別の話への脱線、いわゆる講釈師のひきごとの面白さを評価する点では桂米朝にひけを取らない者だが、それがうまく行かないと逆効果になることもまた否定できないのである。
 ペダントリーを作中に盛り込んだ東西の雄といえば、まず、米国のヴァン・ダインと日本の小栗虫太郎の名がすぐ浮かぶ。
 ヴァン・ダインは知らぬことのない無類の博識ぶりを示す名探偵ファイロ・ヴァンスを創造して大いに人気を博したが、ハワード・ヘイクラフトは「娯楽としての殺人」の中で「“ヴァンス”の博学も、作品をかさねるにしたがい、薄っぺらなよわよわしいものになっていった。初期の小説では、この博識はすでに筋の一部になっていて因果的に解決をたすける一要素になっていたのだが、後の作品では、しばしば無闇にふりまわされて、事件とはなんの関係もないほどになっている」と決めつけている。
しかし、都筑道夫のペダンティシズムは、必ずしもそういうヴァン・ダイン流のものと同一視できない。先の「悪徳銀行」にしても最初の書き出しなどはいかにも戯作調のもので、独特の魅力を持っているのだ。
「こうもりは、哺乳類ちゅうただひとつ、ほんとうに空をとぶことのできる特権階級で、翼手目と呼ばれている。西洋で邪悪の象徴に見られていることは、かの由緒あるドラキュラ伯爵の自家用車にえらばれている名誉からも、わかるだろう」といった前置きから動物がみないなくなった東京砂漠に話を移し、さらに銀座の裏通りの2階の窓にぶらさがっている人物に焦点を当てるといった独特の展開は、まことに個性的な文体といっていいのである。
 したがって都筑道夫の場合、要は、ペダンティシズムが文体の中で生きているかどうかが問題なのだ。それが、ヴァン・ダインの場合のように推理小説的なストーリーと直接関係があるかどうかは氏にとってどうでもいい場合が少なくない。
 それにしても、荒正人が小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」を評した言葉でいえば、かくまで、都筑道夫が、多くの作品で、“知識の淫楽”に溺れる傾向があるのはなぜだろうか。
 私は、そこに都筑道夫の批評家的資質を見るのである。論理的な、余りに論理的な批評家的な目を。氏は、頭が重いと書くだけでは物足りない。アフリカ象の脳みそのように重くなったと書くだけでも不安なのだ。だから、「脳の平均重量は、人間のおとなで1・4s、象だと5sあるそうだ」という事実を中間項として列挙しなければならない。そういう独特の比喩が強烈な文体の魅力に結晶することもあるが、時としてわずらわしく思える時もあるわけだ。
「批評というものは若干のペダンティズムなしには成り立たなぬ。それが徒歩でこつこつ行く教授達の地味なペダンティズムであるか、でなくば、ジャーナリストの騎馬で行くペダンティズムであるか、いずれにせよそうなのだ。そして良き批評はこういうペダンティズムの短所を補うと同時にこれを有効化する機能がなければならない」と、アルベール・ティポーデは「小説の美学」の中で書いている。
 そういえば、余りにもペダンティックだと非難された名探偵ファイロ・ヴァンスの生みの親のヴァン・ダインもまた、ハンティントン・ライトという美術批評家であった。作家都筑道夫が優れた批評家であってもちっともふしぎはない。

 名探偵の時代は終ったというのが、現代推理小説は探偵小説から犯罪小説へと大きな変貌を遂げつつあるとするジュリアン・シモンズをはじめ多くの人たちの意見だが、この点で都筑道夫はまことに反時代的な見解の持主である。
 優れた長編「黄色い部屋はいかに改装されたか?」の中で、氏は、明確に名探偵の復活を提唱している。
「私は名探偵を提唱いたします。
 ただ名探偵といってもあいまいです。具体的にいえば複雑に組み立てられた犯罪に興味を持ち、それを再構成しうる能力を持った人物、そうざらにはいかない人物です。といっても、すべてにわたって異常であり、奇矯であり、超人的な人物、という意味ではありません。
 もちろん超人ぶりを読者に納得させられるだけの筆力があれば、それでもかまいませんが、とにかくほかのところは自由です。人間観察と論理的思考に長じている、という2点さえあれば。
 そういう人物は、ものごとの不自然さを見のがしません。不自然な点を発見すれば、そこに意味を読みとろうとします。必然性を発見しようとするわけです。
 小説のいっぽうの重要ポストをしめる人物が、どれほど論理的思考にすぐれていても、人間が書けていない、ということにほかならないはずです。人間を書くということは、個性のない人間を書くということではないはずだし、論理第一の人間が非人間的ならば、数学者や科学者、推理作家は人間でないことになります。
 そうした探偵役にふさわしい人物が、本格推理小説には、どうしても必要です。一作だけで消えてしまっても、いけないということはありませんが、次の作品にはまた、そうした人物が必要なのですから、なんども使ったほうが得でしょう。」
 かくして、都筑道夫は、昭和30年代の半ばから続けてきた「やぶみらみの時計」に始まり、「三重露出」にいたる構成上の前衛的な実験にかわって、昭和40年代から50年代にかけて、名探偵の創造に精力を傾けることになる。前衛的な構成の魔術師から華麗な論理の曲芸師へ。氏は目まぐるしい変身を遂げるのだ。
 新形式の捕物帳「なめくじ長屋捕物さわぎ」(44年)では、江戸でも指折りの貧民街の神田・橋本町のなめくじ長屋にとぐろを巻く、名前もさだかではない、砂絵師をはじめとするうだつの上がらない住民たち、「キリオン・スレイの生活と推理」(47年)では自称詩人で変な外人のキリオン・スレイ、「七十五羽の鳥」(同)では、怠け者の心霊探偵物部太郎、「退職刑事」(48年)では第一線を退いて現職警官の息子から状況を聞いて事件を解決する安楽椅子探偵の退職刑事、さらには、「雪崩連太郎幻視行」(53年)ではトラベル・マガジンに怪奇な伝説や風習を取材して連載しているルポライターの雪崩連太郎、「くわえ煙草で死にたい」(同)では妻と娘を交通事故でうしなって、酒におぼれ、退職して私立探偵になった元警視庁捜査一課刑事久米五郎、「ハングオーバー TOKYO」(54年)では、元拳闘選手のハードボイルド私立探偵西連寺剛、さらには「妄想名探偵」(同)では、大酒飲みで得体の知れないアルジェの忠太郎等々。氏が作り出した個性的な名探偵を全部勢ぞろいさせるのは少々骨が折れる。恐らく、数多くの名探偵を創造した点で、氏は、怪盗ニック・ヴェルヴェット、西部探偵ベン・スノウ、オカルト探偵サイモン・アークなど13人の名探偵の生みの親である米国のエドワード・D・ホックに優るとも劣らない。
 まさに名探偵が多過ぎるといった状況が生まれているわけだが、これらの多くのシリーズ・キャラクターの中で最も優れたものといえば、まず私はためらうことなく、なめくじ長屋シリーズを挙げる。江戸時代を背景にした一種の集団探偵だが、作者の江戸趣味や古典落語などに関する豊かな知識を駆使した本格推理の捕物帳で、本格的な謎解きやパロディなど多彩な内容で楽しめる。何より驚かされるのは、江戸時代には社会的に蔑視されていた、神田橋本町の裏長屋に巣食う願人坊主や乞食神官、野天芝居の芸人や大道曲芸師など非人がしら車善七支配下の下層階級の人間を名探偵に仕立て上げた大胆不敵な試みで、多くの名探偵の中でもこういう集団探偵の例は、世界的にも珍しいのではないかと思う。
 現代で社会から差別されている黒人を名探偵にする試みはエド・レエシイの黒人私立探偵トウンセント・マーカス・モアが登場する「ゆがめられた昨日」やジョン・ポールが生み出した黒人刑事ヴァージル・テイブスものの「夜の熱気の中で」などの例があり、近ごろはインディアン探偵なども生まれているが、都筑道夫のなめくじ長屋シリーズには変なヒューマニズムに毒されず一社会の底辺に生きる人々のしたたかさをさり気なく浮き彫りにした点でも気持ちがいい。
 また、作者自身が告白しているように、合理主義の現代では、不可能犯罪の推理小説を書く場合登場人物がふしぎがってくれないという作者の悩みが、怪力乱神を信じやすい人たちばかりの江戸時代を背景にすることによってこのシリーズでは解決できるという点がある。都筑道夫の推理小説が不可解な謎の追求する余り、ともすれば、名探偵も状況設定もきわめて非現実なものになってしまう傾向があるだけに、こういう「なめくじ長屋」の人物設定や背景は大きな強みになっているといえるだろう。
 名探偵復活の提唱に立つこのような多彩な探偵役の創造について、佐野洋が「推理日記」で疑問を呈し、いわゆる名探偵論争が展開されたことは、記憶に新しいが、両者のいい分がそれほど食い違っているとも思われない。
 佐野洋は、同じ探偵役に固執するとマンネリズムに陥り、新しい推理小説の創造的試みを制約するおそれがあるとまことに当然なことを主張しているのに対し、都筑道夫は本格的な謎解き小説には名探偵が必要だというこれまた至極当たり前のことを提唱しているに過ぎないのである。
 佐野洋にしても謎解きの本格ものに探偵役が不必要であるといっているわけではない。ただ、安易な繰り返しに疑問を呈しているわけで、受けて立つ都筑道夫にしてもこの点について格別異論があるわけではないだろう。
 現に論争ではないが、米国探偵作家クラブ編の「改定版・推理作家ハンドブック」にヒラリー・ウォーが「シリーズものの名探偵と非シリーズ探偵」(The Series vs. the Non-Series Detective)という短文を載せ、同じような問題を提起している。
 ヒラリー・ウォーはシリーズものの名探偵と単発の名探偵の利害得失を論じたのち、駆け出しの作家はまずシリーズものの名探偵を創造し、発展させてから、次の段階を目指すべきだと結論づけている。その理由は、お金の上での安定性を考えるとシリーズもののほうが有利だとするいかにもアメリカ人らしいプログマティズムからだが、同時に余り長く同じシリーズを続けていると、新鮮さを失い名探偵自身が戯画化されてしまう危険を指摘している。ウォーによれば、名探偵シリーズは余りに長く続けないときに最良の作品が生まれるという。
 一方、単発の探偵役には、作家がさまざまな小説技法、異なる種類の小説の試みを実験できる利点がある。もし、作家がシリーズものの名探偵とそれを期待する読者に縛られていたら、物語の多様な可能性の探究が不可能になるともウォーは指摘している。
 結局、シリーズ・キャラクターか単発の探偵かといった問題は作家が選べばいい問題だと思うが、まさに、都筑、佐野両氏による名探偵論争の主題とそっくりではないか。
 私は、本格推理小説には名探偵が必要だとする都筑道夫の主張がそれほど間違っているとは思えない。謎解き小説であれば、本格ものにしろハードボイルドにしろ必ず探偵役が必要で、それが魅力的であるためには個性的な人間的魅力の持主であると同時に、推理力のある人間でなければならないのはいうまでもないことである。
 この点については、「名探偵はどこへ行ったか?」(「趣味としての殺人」蝸牛社、昭和55年所載)でくわしく触れたので、省略するが、都筑道夫の場合の問題点は、むしろ新しい個性的な探偵役の創造を目指す余り、名探偵が余りにも現実離れし過ぎる傾向があるということだろう。
 たとえば、大の怠け者で、遊んで暮らしたいばかりに、お客が絶対につかないはずの心霊探偵の看板を掲げる物部太郎は、氏の作り出した名探偵の中でも個性的人物だが、意外にその存在感は稀薄である。「あなたは私によく似ている。怠け者で、闘争本能が欠けていて、自信がなくて、実生活に役立つ事物にほとんど興味がなくて──」と語るほど氏にとって愛着のある名探偵らしいが、土屋隆夫と同じように生活感の漂う現実的な人間的魅力の漂うメグレ警部や私立探偵のフィリップ・マーロウなどに強くひかれる私にはどうも感情移入できない所があるのである。

 論理的な、余りに論理的な! ちょっとニーチェみたいないい方だが、華麗な論理の曲芸師である都筑道夫に対するこの言葉は、何よりも論理的な推理小説を書くことを目指している氏に対する私の心からの讃辞であるとともに、また、反語的批判でもあるのである。
「黄色い部屋はいかに改装されたか?」(昭和50年)や「死体を無事に消すまで」(同38年)などに収録されている氏の評論は、きわめて優れたものである。とくに、不可能犯罪の魅力にひかれて、必然性を無視したトリックが横行しがちな日本の推理小説に対して、何よりも謎解きの論理を強調し、トリック無用と名探偵の復活を提唱する氏の大胆な主張には、必ずしも全面的に賛成できないにしても、きわめて示唆に富む問題提起があることは否定できない。
 だが推理小説の魅力は、それが謎と恐怖を主題とする小説である所にある。そして小説は、合理と非合理、理性と本能に引き裂かれた人間を描くものである。パズル的興味を追求しながらこういう矛盾に満ちた人間存在を描かなければならない所に、推理作家の大きなジレンマがあり、困難な壁がある。
 論理的な、余りにも論理的なものを追求し続ける都筑道夫の推理小説を読むとき、私は、手に触れるものすべてが黄金と化してしまうミダス王の悲劇を思い出すことがある。氏の推理小説は時として論理追究に追われ、登場人物が奇妙な肉体喪失を感じさせることがないとはいえないのだ。すべてが論理に還元されるとき生ぐさい肉体は消え失せる。
 かつて江戸川乱歩は、現代推理小説の袋小路を脱出するためには、「『謎』以上のもの」を目指す必要があると説いたが、世界的に見ても、今日では推理小説にパズル的興味以上の小説的魅力を求める傾向が強まっている。
 論理派の都筑道夫は、これまで情緒を嫌い、感傷を拒絶し、メロドラマを嘲笑する所があったが、このところ新しい動きに対応するように「くわえ煙草で死にたい」、「ハングオーバー TOKYO」など、これまでと多少趣の異なったハードボイルド・ミステリーに手を染めており、新しい方向への胎動が見られる。
 好きな作家はG・K・チェスタトン、レイモンド・チャンドラー、グレアム・グリーン、久生十蘭。もっとも影響を受けた作家は岡本綺堂、大仏次郎、大坪砂男だそうだが、最近はジョルジュ・シムノンに凝っていて、「シムノンがパリに生きる人間たちを書いたように、東京に生きる人間たちを書きたい」と新しい意欲を燃している。
 前衛的な構成の魔術師から華麗な論理の曲芸師へと見事に変身した氏が今後切り開く新しい世界にはどのような衝撃的な魅力が満ちているであろうか。その結末の意外性に期待しつつ舌足らずなこの文章を一まず終ることにしたい。

初出 「別冊新評『都筑道夫の世界』」昭和56年7月


[インデックス] > [ミステリー] > [ミステリー評論・作家論(4)]
ミステリー評論・作家論 [] [] [] [4] []