星新一論──恐怖の原質形 ミステリー評論(2)

1 初期の残酷な視点

 星新一はショート・ショートという最も短い小説形式によって、人間存在に潜む恐怖の原質形を乾いた残酷な視線で鋭く凝視するところから出発した。
 最も初期の作品に属する「殉教」の中で、氏はもはや生きることも死ぬこともできない現代人の悲劇的な運命を鮮やかに描き出している。死後の世界の楽しさを伝える、死者との返信を可能にした機械が開発され、死の恐怖から解放されたいと願う人々はわれもわれもと死を急ぐ。だが、その死体の山に埋まりながら、生き残った人々がいたのだ。宗教も科学も、人間も自分自身も、そしてついに死さえも信じることのできない孤独な人間たち。アルベール・カミュは「シジフォスの神話」の中で現代人の運命をギリシア神話に出て来る、無償の行為を繰り返すシジフォスの中に発見したが、星新一が物静かな、皮肉な目で見詰め不信の時代を生きなければならない現代人の宿命も決してバラ色の幻想には包まれていないようである。
 この作品の中で、さり気なくつぶやく「人間というものは、なんのために生きているのだろう。この答えが出たのだった。つまり、死の恐怖だけで支えられていたらしい」という言葉は、死に支えられた生という氏の人間認識をよく物語っているといえるだろう。
 さまざまな恐怖に囲まれた不安な生。星新一があるときは優しく、あるときは皮肉に、あるときはユーモラスに、あるときは意地悪く残酷に描き出すのは、このように呪われた現代人の不幸なのである。
 星新一はSF同人誌「宇宙塵」に発表した「セキストラ」が大下陀児の目にとまり、昭和32年11月、この作品が江戸川乱歩の編集していた推理小説専門誌の旧「宝石」に転載されて、幸運な作家的な出発をした。短いいくつかの断片的な描写をいくつも組み合わせた、コラージュ風のこの「セキストラ」は、電気的に人間に性的興奮を起こさせて満足感を与えるセキストラを普及させることによって一人の人物が世界を支配するというストーリーだが、超人による世界支配という恐怖の構図を結末でさり気なく浮かび上がらせており、すでに氏の作家的本質があらわになっている。
 星新一は本名親一。大正15年東京本郷に生まれた。父親は星製薬を興した有名な星一。親一という名前は父親の一が若いころ米国に留学し、各工場に安全第一という標語があることを知り、帰国後、それをヒントに親切第一というモットーを作ったことに基づいているそうだ。したがって、星新一というペンネームはご本人によれば、80パーセントは本名だという。いかにもSF作家らしい夢のある名前である。
 東大農学部農芸学科学科を卒業後、さらに大学院で、研究を続けた科学者だが、「セキストラ」を「宝石」に発表したのはちょうど30歳の時であった。
 原水爆戦争、人間を家畜のように支配する全体主義的政治、殺人をはじめとする犯罪など現代の人間を取り巻く恐怖のかたちはさまざまだが、このような恐怖の極限状況をも巨視的にとらえればSFになり、現代的な日常に舞台を見出せばミステリーになるのはいわば当然であろう。
「型式よりも、作者の言わんとすること、発想のほうが先決なのではなかろうか。そして、それを作品化するに際して、最も効果的な型式を選ぶ。特に飛躍した舞台を必要としなければ、おちのあるミステリーで物語をまとめればいい。科学的なにおいのある飛躍を必要とする時には、SFの型式をとる。それでもおっつかない飛躍が必要な時には、ファンタジーの型式を選ぶ。SF作家ということになっているらしいが、私の作品のうち、おちのあるミステリーのほうが、SFより多いようである。SFにこだわらない。これは推理小説にSF作家として登場したという、私の出発点にひとつの原因があるかもしれない」
 と氏は「エヌ氏の遊園地」の「解説風あとがき」の中で述べているが、確かにSF作家星新一だけに注目して推理作家星新一の存在を見失うとすれば、それは片手落ちというものであろう。
「ポッコちゃん」、「おーい でてこーい」、「生活維持者」など、残酷な視線で恐怖の世界をえぐった初期の作品の数々のSF的な秀作と並んで、「暑さ」のようなすばらしい恐怖小説があることを見逃してはならないだろう。
 むし暑い午後、おとなしそうな若い男が交番を訪ね、自分を捕まえてくれと頼むこの作品は最後の結末までじわじわと不気味な恐怖を盛り上げ、サキ、ジョン・コリア、ロアルド・ダールなどに勝るとも劣らない“奇妙な味”の世界を作り出している。“奇妙な味”とは江戸川乱歩が英米のナゾ解きでない、いわゆる非本格の推理短編の優れた作品に共通する特質として挙げた“ヌケヌケとした、ふてぶてしい、ユーモアのある、無邪気な残虐”を意味する言葉だが、この残酷さという点では、星新一の初期の作品のほうがはるかに、英米の作家よりも強烈な衝撃を与える。江戸川乱歩には「鏡地獄」という、鏡の万華鏡的世界にとりつかれた男の恐怖を描いた名作があるが、この作品に比べるとたとえば、星新一の「鏡」のほうがはるかに血にまみれ、戦慄的である。
 このような初期の残酷な視線は昭和38年ごろから次第に影をひそめ、むしろ皮肉でユーモラスなミニ・ミステリーが目立つようになる。

2 優しく残酷で、美しくグロテスク

 現代文明の患部を解剖用のメスで切り裂くように取り出してみせる星新一の残酷な視線こそ、何にもかえがたい独創的な文学的資質であると私は思うが、そのサディステックな視線の背後に、何ともいえぬ人間的な優しさが秘められていることを忘れてはならないだろう。
 氏の作品系列の中には、数こそ少ないけれども、「小さな十字架」、「愛の鍵」、「蛍」などのようにロマンチックな甘美ともいえる愛の世界を高らかに歌い上げた佳編がある。こういう人間に対する優しい愛があって初めて残酷な視線が生きて来るのだ。いかなる残酷な世界を描いても、氏の作品には、たとえば小酒井不木の一部の作品が与えるような生理的な不快感というものがまったくない。
 優しく残酷で、皮肉でユーモラスで、意地悪く親切で、美しくグロテスク。星新一のショート・ショートのふしぎな魅力はどうもこういう奇怪な矛盾と対立概念から成り立っているように思える。
 つまり、氏は人間を矛盾に満ちた存在としてとらえているのだ。「感情と理屈は必ず一致せず、かくのごとくずれがある。人間は、そのいいかげんな点が面白いのではないだろうか」とか、「世の中の事件のもとは、私をはじめあなたがた、矛盾にみちた人間にあり。矛盾を含んでいるからこそ、運命というか偶然というか、周囲の条件の変化に巻き込まれると、喜怒哀楽、まことにとんでもないことになる。だからこそ面白いわけで、人間に生まれてきたかいがあるというものだ」と氏は繰り返し語っている。
 人間の愚行を鋭く風刺する氏は、また、人間が愚劣であればあるほど人間を深く愛そうとするのだ。つまり、氏の残酷な視線そのものが優しく人間を見詰める目と弁証法的な統一をなしているわけである。
 氏の初期の残酷な視線は次第に影をひそめ、やがて明るくとぼけた落語的なユーモアが作品を支配するようになる。星落語などといわれるゆえんだが、その笑いの底に秘められた毒を見失ってはなるまい。「落語は庶民の反抗精神の産物だという説があるが、私はそうは思わない。もっとドライなアンチ・ヒューマニズムというべきものが底にあるようだ。落語には毒があるのである」と氏は「落語の毒」というエッセイで語っているが、氏のミニ・ミステリーに流れるユーモアの底に、ある種の毒が隠されていることを見逃すわけにはいかない。
 たとえば、「包囲」という作品では、人に殺されそうになった男がその恐怖の根源をたどろうとして無限の捜索を続けなければならないという悲喜劇が描かれているが、この被害妄想ともいうべき主人公の向こう側に、人間は人間にとって狼であるという現代社会の不気味な構図が浮かんで来るのだ。
 比較的新しい「七人の犯罪者」でも同様で、犯罪をそそのかして、それを警察に密告しようとした男の失敗をコミカルに描いた人を食った作品だが、このふざけた笑劇の背後に人を裏切ることによってしか生きられない不信の現代が二重像のように透いて見える。
 もっとも、星新一の作品の多くが鋭い文明批評にあふれているからといって、氏が文明批評を意図して作品を書いているということを必ずしも意味していない。否、むしろ、氏はあくまで面白い小説を書こうとしているに過ぎないともいえよう。
 現に氏自身、「SFと寓話」というエッセイで、「文明批評を目的にして名作のできた例も、私は知らない。SFすなわち文明批評であるという要求は、困ったことに思える。それより面白い作品を、である」と述べているのである。
 作家は理念によって創造するのではなくて存在の奥深い所から生まれるイメージによって作品を生み出すのだから、こういう星新一の発言はいかにも作家らしい。
 氏の初期の傑作として余りにも有名な「おーい でてこーい」という作品は、わけのわからない穴にどんどんゴミを捨てていくと、空から何かが落ちて来るという奇抜な設定で、後に公害問題を先取りしたものという評価も得ているが、穴のアイデアはタンクタンクローというマンガの主人公からヒントを得たのだという。
 タンクタンクローの腹からは鉄砲でも戦車でもなんでも出て来るが、そんならいっそのことタンクタンクローより原因不明の穴のほうがいいというので穴を出すことにした。そして穴に入ったものが常識で考えられない場所から出て来るようにと、空から降らせたというのが真相であるらしい。
 問題は、アイデアを触発させたものが何であれ、さまざまな寓話的な解釈を加えることのできる想像力に満ちた世界を星新一が創造できるという事実である。
 作家というものはもともと、ナポレオンのいう“どこへ向かって歩いているかわからない人ほど遠くへ行ける”という種類の人間なのである。何か自分自身わからないデーもニッシュなもの、根源的なものによって突き動かされている作家こそ真の作家なのだ。そして、星新一はこの意味でまぎれもない本物の作家なのである。

3 人間の原型から現代文明をとらえる

 星新一は日本におけるショート・ショートの開拓者であり、またその質と量の面で代表的存在である。2年前の段階で作品数はすでに750編を超えるが、それらの作品がいずれも高い水準の内容で、類似作がほとんどまったくといってよいほど見当たらないのだからまさに驚異的である。
 一体、ショート・ショートとは何か。ロバート・オバーファーストによれば、「ショート・ショートは1500語の中に短編小説固有のすべての劇を包含したものであり」、「短編小説に必須のあらゆる技術と完全な手腕を必要とするのみならず、更に凝縮と抑制を要するものである」という。
 単に掌編というのであれば、川端康成の「掌の小説」のような試みがあるが、SFとミステリーの分野で星新一のように鮮やかな文明批評と切れ口のよい小説技術を駆使した作家は日本の文学史上初めてといってよいだろう。
「短い小説という型式のなかに、私は運命的にひきずりこまれた。あるいは私のほうから進んでふみこんだ。はたしてどちらなのか私にもわからないし、おそらく一生わからないことかもしれない、短い作品を書くことで、私はひけめを感じたこともないし、とくいに思ったこともないのである」(「ポッコちゃん」あとがき)と氏は語っているが、この意味で氏は本質的に短編作家であり、いくつかの長編はいわば短編を組み合わせて作り上げられた印象が濃い。
 ショート・ショートは通常の短編小説よりさらに短いから、オバーファーストが指摘しているように、人生の一断面をとらえるために、より優れた才能と特異な小説技術が必要とされることは自明の理である。
 星新一がショート・ショートの分野で代表的存在となりえたのは、氏の豊かな才能にあることはいうまでもないが、同時に氏の人間認識の方法が贅肉を排除して一挙に人間の原型を把握するというショート・ショートにまことにぴったりしたものであったことにもよるように思われる。
 星新一の人間認識は、社会の構造的把握の上に立って人間を理解するという行き方ではなく、むしろ人間の原型から現代文明が自然に浮かび上がるという方法に立っている。つまり、人間学的方法なのであって社会学的な方法とはいわば正反対の行き方である。
 もっと具体的にいえば、氏の方法はミステリーを書く場合でもいわゆる社会派推理小説的なものとまったく対照的で抽象的なものなのである。このことから次のような主張が出て来る。
「書く題材について、私はわくを一切もうけていない。だが、みずから課した制約がいくつかある。その第一、性行為と殺人シーンの描写をしない。希少価値を狙っているだけで、べつに道徳的な主張からではない。もっとひどい人類絶滅など、何度となく書いた。
 第二、なぜ気が進まないか自分でもわからないが、時事風俗を扱わない。外国の短編の影響ででもあろうか。
 第三、前衛的な手法を使わない。ピカソ派の画も悪くはないが、怪物の写生にはむかないのではないだろうか。発想で飛躍があるのだから、そのうえ手法でさらに飛躍したら雑然としたものになりかねない。私の外観はぼそっとしているが、精神的にはスタイリストであり、江戸っ子なのである」(「創作の経路」)。
 あえて、無用の注釈を加えれば、性行為や殺人シーンを描かないのは、それが余りにも現実的な人間の愚行の最たるものであるからであり、時事風俗を扱わないのは、氏が常に人生の原形質ともいうべき核心を問題にしているからであり、前衛的手法を使わないのは、内容そのものが前衛的であるからである。
 と同時に、氏の心の中に、自分の作品を長く残したいという願いがあるに違いない。「事件は、事件として見ればまことにはかない。だが、人間性の矛盾のあらわれとして見ると、決して古びない。何千年前も何千年後も、大差ないものである。だから……。」と氏は「ようこそ地球さん」の文庫版あとがきで述べている。
 自分の作品が常に新鮮でみずみずしいものとして受け取られるためには、時代とともに古びる要素をあらかじめ作品から捨象してしまうというわけである。
 氏が個性的な人間の肖像を問題にせず、エヌ氏とかエル氏とかいう記号を多用して主人公にしているのも、こういう氏の創作方法と一致しているともいえよう。誤解を恐れずにいえば、氏にはだれだれという人間というよりも、人間というものの愚劣さのほうが重要なのである。現代における人間が記号的存在と化していることの非情な現実を星新一はよく知っているのだ。
 カフカが「審判」において、Kという記号の人物を登場させたように、星新一のショート・ショートが描き出す世界はいわば恐怖に囲まれた生の原形質であり、それゆえに、人間であれば、だれにでも通用する一つの極限状態でもあるのだ。
「人間描写に反発するあまり、主人公がほとんど点と化してしまった。私がよく登場させるエヌ氏のたぐいである。なぜNとローマ字を使わないかというと、日本字にまざると目立って調和しないからである。なぜ他のアルファベットを使わぬかというと、日本人の名はそれによって人物の性格や年齢が規定されかねないからである。貫禄のある名とか美人めいた名というのは、たしかに存在するようだ」(「人間の描写」)という氏の言葉はそういう氏の姿勢を説明しているともいえよう。

4 ユーモラスな作風への転換

 星新一の初の長編推理小説「気まぐれ指紋」(昭和38年)は、氏の生々しい残酷な視線にかわって皮肉でユーモラスな味わいが次第に色濃く現れるいわば一つの結節点をなす作品といえよう。
 初の長編の試みに推理小説を取り上げた氏は、この作品でユニークなコミック・スリラーの実験を行っている。この作品には東京タワーの足元あたりのマンションに住む黒田一郎というオモチャ会社のコンサルタントでビックリ箱を研究している男が登場する。かれは趣味として、犯罪を批評しているが、その実践物としてたくらんだ奇妙な犯罪とそれに対抗する被害者の女盛りの未亡人松平佐枝子らとの虚々実々の駆け引きをユーモアたっぷりに描き出している。
 短編で極端なまでに描写を抑制していた著者はこの作品でいかにも楽し気に会話を展開している。黒田一郎が「批評こそ、なまけものの人類を進歩させる、唯一の因子だ」、「批評ということは現代生活にとって、趣味どころか、必要欠くべからざる生理現象らしい」などと演説しているのを読むと、どうも皮肉に感じられてならないが、「晴れすぎていて、不吉ですもの」という松平佐枝子のさり気ない言葉は、明るく平凡な日常に不吉なものの影を見出す著者の方法が問わず語りに語られていて面白い。
 この作品はいわゆるパズル的な興味を中心とする、論理によってナゾを解く本格ものとはまったく異質のもので、むしろ本格もののパロディーといった趣きさえ呈している。
 そういう完全な遊びであり、オフ・ビートなところが、実はこの作品の面白さの一つであるわけだが、反面、構成の面から短編の積み重ねといったやや冗漫な印象を受ける。奥野健男は「ひきしまったショート・ショートにくらべ、長編小説のおしゃべりには、やや無駄な遊びが知に溺れる傾向、自分だけがたのしんでる気配が見られるのが欠点といえよう」と述べているが、確かにそういう点がなくもない。
 もっともこういう優雅な言葉の遊びを重視する傾向はこの「気まぐれ指紋」という長編推理小説に最も色濃く見られ、SFの処女長編「夢魔の標的」(昭和39年)やこれに続く「声の網」(同45年)などの長編SFにはほとんどこういう特徴は見られない。SFの長編に見られる特徴は、むしろ「セキストラ」に見られる、人間が自分以外のものによって支配されるということへの恐怖という主題が形を変えて繰り返し語られるところにあるといってよいだろう。
 要するに長編「気まぐれ指紋」(昭和38年)から「ノックの音が」(同40年)「エヌ氏の遊園地」(同41年)を経て「おみそれ社会」(同45年)、「おかしな先祖」(同47年)へとSFもミニ・ミステリーもともに落語的な要素を加味しつつユーモアが深化していることは注目に値する。
 フレドリック・ブラウンの「ノック」から着想した連作短編ミステリーの「ノックの音が」は、全編が「ノックの音がした」で始まるいかにも洒落た作品だが、氏の作風が転換して以後の作品としては、むしろ「エヌ氏の遊園地」のほうが氏一流の逆説的な人間認識と見事な切れ味のオチが生かされていて私には中身が濃いような印象を受ける。
 氏はレイ・ブラッドベリの「火星年代記」や中国の「聊斎志異」やヘンリー・スレッサーの短編を好んで読んだらしいが、「エヌ氏の遊園地」には、ヘンリー・スレッサ―の推理小説の短編の持つ切れ味のよい結末と、本格的なトリックを盛り込んだ作品が多い。
 氏の初期のミニ・ミステリーの秀作がいずれも残酷な視線を秘めた恐怖小説にあるとすれば、作風転換後のミニ・ミステリーの佳作には、トリックさえ織り込んだ見事な本格推理の作品が目立っている。
 この場合、氏はヘンリー・スレッサ―と同じように、文明批評というような厄介なものは投げ捨てて純粋に冴えた職人芸を見せてくれるのだ。風変わりな人質作戦で見事走査線を突破する「人質」、恐ろしい殺し屋のイメージを利用した完全犯罪を描いた「殺し屋ですのよ」、とんでもない被害者を選んでしまったスリが身動きの取れない事態に陥る「車内の事件」などはどれも見事なひねりのきいたトリッキーな結末まで読ませるし、金庫破りをたくらんだ男が見事失敗する「副作用」という小品なども皮肉な結末まで思わず笑いを誘われる。
 このような明るくユーモラスな作風への転換と並んで、「ほら男爵・現代の冒険」(昭和45年)、「未来いそっぷ」(同46年)などの一種のパロディ志向が見られるようになったのも興味深い。
 すでにこういう戯作的な傾向は「気まぐれ指紋」にもうかがえたが、中世説話の「ものぐさ太郎」を扱ったパロディなどは、花田清輝の「ものぐさ太郎」と比較して見ると、なかなか面白いし、「未来いそっぷ」の「アリとキリギリス」のパロディなどはサマセット・モームにも皮肉な作品があるが、星新一のほうがその改作は一層徹底しているといえるかも知れない。また、「戸棚の男」も推理小説や怪奇小説の主人公を登場させておふざけパロディ小説でオチが振るっている。
 SF、ミステリー、ファンタジー、ノンフィクション、時代小説など氏が現在手がけている守備範囲はきわめて多彩で広範であり、氏の変貌の行方を予想することはきわめて困難である。
 しかし、どのような変貌をたどるにせよ、氏のあの独創的な視線、平凡なものに見えていた現実の中にふしぎな超現実や、平穏な生の裏に不吉な死を、そして楽しい平和の背後に恐ろしい破壊と殺人を二重像のように浮かび上がらせる残酷な目は曇ることがないであろう。
 そして、優しさと残酷さ、美と醜、皮肉とユーモア、快楽と悲哀、非生物的なものと金属的なもの、音楽的なものと文学的なものを弁証法的に統一した見事なストーリー展開と結末のグロテスクな効果。こういう星新一の作品の魅力はその表面的な装いが、あるときは暗く、あるときは明るく華やかに変化したとしても本質的に変わらないであろう。
 不安な生に潜む恐怖の原形質を凝視することによって、現代のミュンヒハウゼン男爵たる星新一は見かけだおしの平和と繁栄の中でわれわれがともすれば見失いがちな現代人の不幸をこれからも静かな口調で繰り返し語り続けてくれることであろう。

初出 「別冊新評『星新一の世界』」第9巻第4号、昭和51年12月


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