2005/03/

03/22

受容

ウェブ [ simplicity ] john maeda ()
ウェブ [ d is for dialogue - eto.com/d ] 江渡 浩一郎 ()
映像+音 [ giant stepmichal levy + john coltrane ()
音 [ all the plans resting ] readymade (where are my records)
音 [ another time ] blue ribbon (blue bell records)
本 [ 死ぬことと見つけたり 上巻 ]  隆慶一郎 (新潮文庫)

既存の楽器による非調性的な表現とその受容の危うさ(03/13)

最近リッピングした宇波拓らの「熱海」を度々聴きなおしている。複眼+での彼のライブがよくノリで買ったのだけれど、これは傑作ではないかと思った。この作品は既存の楽器によるオルタナティブな奏法を行っている複数の音楽家達によるセッションの録音と言えるのだが、ここで聴けるのは音階のないガチャ、プー、ドゴドゴ、ボー、だとかの具体音とでもいえるようなものの集まりということになる。この作品のすばらしさを一言で言ってしまえば個々の演奏者の放つこうした音が全体として有機性を持っているということに尽きる。クレジットを見たところで実際に個々の楽器と発音の対応を見ないと、誰がどのような音を出しているのかあまり分からないような微妙な音たちから構成されているのだが、それらが時々の不思議とも豊かともいえる複雑な形をした音色を生み、音の推移という意味でのフレーズという言い方に対応する単位での変化の仕方も多岐に渡っている。

ところでこの「オルタナティブな奏法」という言い方は、以前書いた「「オルタナティブな意味論」を構築しえている奏法」というものとは、違っている。前者は楽器の物理的な奏法が既存のものにはない代替的なものという意味なのに対し、後者はそのような代替的なものを用いずに受容の意味生成が代替的なもの、というような意味だ。そして今回書こうとしているのは、これらの代替性にまつわる話となる。

先々週、神戸のbig apple西川文章、吉崎章人が参加する「先端音楽演奏会」というイベントに行って来た。そこでは、セッションとライブの二部構成になっている。ここでのセッションというのが、ジャズ関連のイベントではおそらくあたりまえなのだろうが、僕には新鮮だった。要するに前もって申し込むことで参加した人間たちの間で即興演奏を行うのだ。といってもこのイベントはジャズではなく即興演奏的なものなので、当然のことながら既存の曲を即興的に演奏するということにはならない。

その中で印象深かったのがピアノの演奏だった。というのも、ピアノ以外ここでの出演する楽器では皆徹底するかのように既存の奏法から離れようとするのだが(ここには多くの例外があったのだけれど)、ピアノは形式的にそれがしにくく他から明らかに浮いていたからだ。ピアノという楽器の基本的に使えるようにしてある状態とは、どのように弾いても12音のセット以上の微分化はできない。この性質を、機械のもたらした安定性と捉えるのか、それともそれ以上のカスタマイズを想定しない不自由なブラックボックスと捉えるのかは、当然目的とする音によってくる。つまりピアノはどう弾いても和音や旋律を調性、無調性的に弾くことになってしまう。奏者は鍵盤をたまに叩き、残響ペダルやら、ピアノの黒光りする縁を叩いたりするのだが、鍵盤の音がいかにもな音になってしまうのは、どうだったのだろう。

もちろん、ここにはもう一つピアノの最大のオルタナティブな奏法を挙げていない。つまり、プリペアド・ピアノだ。セッションの後のライブにおいて、江崎将史、西川文章、西川ヒコの組み合わせの音を聴くことができたが、ここでの西川ヒコがこれを用いていた。これによって、機械的な制約から逃れることはできたといえ、もはやここではピアノとは何の関係もないいろんな音が聴くことができた(3人の出した音は上の「熱海」のごとく優れて心地よいものだったと書いておく)。けれど、ここまでくると、上で書いたようなそもそもこのオルタナティブな奏法の前提そのものの不自由さを問わずにはいられなくなる。

前から抱いていたのは、このオルタナティブな奏法に対しての本質的な制約がもたらす息苦しさのようなものをどう考えればいいのかということだった。つまり下世話に言えば、イベントで「出演:何某tp」と書かれたチラシをみて、トランペットを吹く人が出るんだと興味を持って行くと、「プ、プ、プ。フィーーーー。(沈黙)ヒーーップ。・・・」のような感じだったとすると、見事に組み上げた物語が崩されてしまうというようなことだし、別でいえば、ピッチ(音高)やそれによって可能になる旋法、ハーモニー、それからリズムという歴史的に(西洋)音楽が洗練させてきた資産を放棄しているという制約性であったり、というようなことだ。

彼らはどうしてそこに定位しつづけながら、それがもたらす資産の多くを受け取ろうとしないのだろうか?僕が勝手にオルタナティブと呼ぶ呼ばないの如何に関わらず、ギターにせよ、トランペットにせよ、ドラムにせよ、楽器という既存の発音体として開発された道具から別の発音を引き出そうと彼らはしている。そしてその内実がオルタナティブなものであるということは、彼らも用いているそれぞれの楽器の形式的なメカニクスを利用していることを意味している。また彼らがその楽器を選ぶ理由を、以前書いたようなそれほど積極的ではないものだけではなく、そこに与えられた音色を引き出す可能性と彼のその楽器との関わりの蓄積の関係という積極的なものを挙げてもいいのだと思う。つまりは、彼らは当然意図的にその微妙な立場を選択していると考えた方が適当だと思える。

これらに関係すると思われるデレク・ベイリーの記述がある。

「多くの即興演奏家の例にもれず私にとっても、音の調性的構造といったものはフリーの演奏には、ほとんど役に立たなかった。体系的に音高を組織化するということが、むしろ探究を大きく抑制する働きをしてしまうことが、しだいに判明してきた」
「インプロヴィゼーションの力だけを頼りに自由に道を定めていくために、調性、旋法、あるいは無調性にしろ、すべての構造を拒否することにした。これを容易にするためには、非=調性的素材としかあらわせないようなものをもとにヴォキャブラリーを構築していくしかなかった」
デレク・ベイリー「インプロヴィゼーション 即興演奏の彼方へ」p223

これらの記述の後に、彼はピッチの使用の必要性は感じているとも述べている。ベイリーのノン・イデオマティック・インプロヴィゼーションには、これらの歴史として蓄積されてきた旋律、フレーズ、和声、リズム、ダイナミクスといった膨大なイデオムを余計な存在とするということだ。そして彼は、イデオムという資産は不要だが、メカニクスそのものはそうではないという。彼らもベイリーと同じように両者をむすびつける試みを続け現在のあり方に落ち着いたのだろうか。もしそうだとするなら、単純に僕が浅はかであるという結論に落ち着くことになり、単純に「オルタナティブな状態に定位しつづけること」という言い方自体がことばの問題にも思えてくる。もしくは定位しつづけることそのものについて意識的であることがそれほど重要でなかったのかもしれない。

それはつまり、オルタナティブであるということをそもそも彼らが自らのあり方として捉えていないということであり、後発でありつつも既存の楽器を用いたこれらの表現こそそれらより魅力的な表現である、というような姿勢を持っているのかもしれないということであり、そうであるなら彼らは当然今の位置に定位しつづけ「何某tp」という表記はこれまでも続けられることだろう。ただ実際には彼らとその奏法が音楽受容の量的な点からするとオルタナティブな存在であることには間違いがない。ベイリー的な意味づけがあるとして、ではそもそもそうした自らのシステムを目指す方向としてでも、このようなオルタナティブである状態によって意識させられる欠如を彼らは不自然なものだと捉えるということはしなかったのだろうか。すでに年数が経っていることでベイリーなどの試みを自明のものとして受け入れる土壌があるとして、愚鈍にもそれを自分で引き受ける人間がこのような会にいてもおかしくはないと思うのだけれど。

最後に。今回なされたあるセッションで吉崎が冒頭から一つのコードをただ延々とかき鳴らし続けていた。それが他のものに対し異質に映り、正直小気味よくて思わず笑ってしまった。僕は、彼のことを以前gule diskで聴けるmp3で一曲を聴いた以外ほとんど知らず、彼がどのような音をカバーする音楽家なのかを測りきれていない。今回のような演奏会には、彼は異質な存在なのかもしれない。けれども彼は今回の会の仕切り人であるという。この吉崎のスタイルを、僕が彼らに求める定位しつづける状態であるとはもちろん考えていない。ただ、新鮮だったのは間違いがない。

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