ショパンコンクールREVIEW | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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〜第12回(1990年)ショパンコンクール〜
1. 結果
2. 詳細説明と感想
1985年第11回ショパンコンクールでスタニスラフ・ブーニンが優勝して大旋風を巻き起こして、我が国で大フィーバーを起こしたことで、 ショパンコンクール(ショパン国際ピアノコンクール)の存在がクローズアップされ、注目度が一気に上がりました。 それからというもの、次回の1990年には一体どんなすごいピアニストが出現し、そして優勝するのか、と大きな期待を寄せていました。 このような期待を抱きながら、次回のショパンコンクールを待ちわびていたショパンファンは僕以外にも大勢いたのではないかと思います。 しかし、結果から先に言えば、1990年第12回ショパンコンクールではショパンコンクール始まって以来初めての「1位なし」 という結果に終わりました。 この回のショパンコンクールの模様は、1991年1月5日頃、日本テレビでドキュメンタリー番組が組まれて放送され、 録画して繰り返し何度も見たため、今になっても詳細まで覚えているほどです。 ここでは主にこの番組について僕自身が覚えていることと、月刊「ショパン」の当時の特集号を参考に、 この回のショパンコンクールの模様を概観したいと思います。 時代背景としては1989年にはベルリンの壁崩壊があり、東欧諸国の民主化が進み始めており、 ソ連の民主化(ペレストロイカ)、共産主義体制の崩壊、ルーマニアのチャウシェスク政権の崩壊等、まさしく激動の時代でした。 ポーランドも民主化の波が押し寄せてきていて、1990年のショパンコンクールは混乱のさなかで行われたと言っても過言ではない状態でした。 どういう経緯かは分かりませんが、この回はソ連、東欧諸国からは自由応募でほぼフリーパスで参加できた人もいたようです。 ソ連は国内で毎回厳しい選考会が幾度も重ねられ、少数精鋭でものすごい逸材を送り込むことで知られていますが、 1990年のこの回はどういうわけか自由参加で15人以上参加できてしまったようです。 モスクワ音楽院院長はそのような状況を嘆いていましたし、ドレンスキー教授の事前談によれば、 その中で注目できるのはたった2人だとも言っていました(マルガリータ・シェフチェンコとアンナ・マリコヴァ)。 この回は以前にもまして日本人参加者が多く、大いに期待されました。 最も注目されていた日本人出場者は横山幸雄さん(当時19歳)でした。 横山幸雄さんは1987年に東京芸大附属高校1年生の時に師事していた先生が退官したことがきっかけとなり、 フランスの国費でパリ音楽院に留学しジャック・ルヴィエ、パスカル・ドヴァイヨン等に師事して研鑽を積んでいました。 横山幸雄さんはこの時点で、既にロン=ティボーコンクール3位、ブゾーニコンクール5位の実績がありましたが、 それでもコンサートのオファーがそれほど来ないという現実的な話をした上で、 ショパンコンクールで順位として同じようなものが取れれば、世間からも注目されるのではないかと語っていました。 その後、今回のショパンコンクールで「どこまでいけそうだと思っていますか?」という質問に対して、 「行けそうですか?」と、何を聞くのかというように聞き返した後、 憮然とした表情で「やっぱり本選に行くつもりなかったら僕は受けませんから」と答えていました。 もう1人、日本人では高橋多佳子さんも、テレビ局から事前インタビューを受けていたことからは、注目されていたのだと思います。 桐朋音大出身、ワルシャワ音楽院で研鑽中で、この回、審査委員長を務めるヤン・エキエル氏に師事しているというのも、 非常に有利に働くと踏んでの取材だったのかもしれないとも思いました。 高橋さんは「ショパンは感じるものが全然違い、前世はポーランド人だったのではないかと思うくらい、 ショパンが好きになってしまった」とのことでした。「どこまでいけそうだと思いますか?」という同じ質問に対して、 「3次予選まで行ければ上出来だと思っています」と謙虚に(それが正直な認識だった可能性もありますが)答えていました。 この回の優勝候補の筆頭は、アメリカの俊英、ケヴィン・ケナー(当時27歳)でした。 彼はその10年前の1980年、ダン・タイ・ソンが優勝し、天才・異端児のイーヴォ・ポゴレリチが話題を独占した回に、 出場していたようです。 1990年のチャイコフスキーコンクールでも3位に入賞していましたが(この回の1位はベレゾフスキー)、 演奏会の依頼があまり来ないため、やはり優勝を目指すしかないという気迫とプレッシャーが伝わってきました。 「2位や3位はいらない、1位だけが欲しい」とはっきりと言っていました。 ちなみにこの番組では、彼の弾くノクターン第8番Op.27-2が番組の主題歌のように扱われていました。 この機会にこの素晴らしいノクターンを知った人もいたのではないかと思います。 ショパンコンクールの第1次予選の演奏順はファミリーネームのアルファベット順で、 その先頭は抽選で決められるのですが、この回はイニシャル"U"となり、上野眞さん(当時24歳)から始まることとなりました。 トップバッターは入賞しないというジンクスがあるようですが、演奏を終えた後のインタビューで彼は、 「ピアノがたくさんの人たちに弾かれた後ではなくて、すごく良い状態だったので、ラッキーだったと思います」と語っていました。 日本人注目の筆頭、横山幸雄さんはその日の10番目で、エチュードOp.25-6から弾き始めました。 立ち上がりがシャープで目の覚めるような素晴らしい音色と、俊敏な指さばき、精度の高いテクニックでこの3度の難曲を 快速のテンポで正確無比に弾き切り、演奏が始まったばかりだというのに、会場から拍手が起こりました。 僕はこれを聴いた時、「この人はただ者ではない、言うだけのことはある、これからが楽しみだ」と期待に胸を躍らせたものでした。 コンクールが始まってみれば、日本人の快進撃は目を見張るものがあり、 第2次予選通過者(第3次予選進出者)15人のうち日本人が7人を占めるという健闘ぶりで、 現地新聞では「7人のサムライ」というタイトルでこの事実が報じられたとのことです。 その7人とは、横山幸雄さん、高橋多佳子さん、有森博さん、田部京子さん、児玉桃さん、上野眞さん、及川浩治さんです。 女性が3人いるのに「サムライ」とは??と思いましたが、面白い表現です。 ショパンコンクールではこの回からポーランドの支援金が大幅に削減され、日本のスポンサーが 多額の援助金を出資したことが、日本人贔屓につながっている可能性があるという声もありました。 しかし、今回の審査員の1人、中村紘子さんが 「私は日本人だから当然かもしれませんが、もっと日本人が多くてもよかったのではないかと感じました。」 と仰っているように、特別日本人ひいきだったわけではなく、純粋に、日本人の演奏レベルが世界レベル に対して相対的に上がっていることの当然の結果だと考えた方がよいようです。 第3次予選に進出したポーランド人はたった1人(ヴォイチェフ・シフィタワ)でしたが、 体調不良のため棄権となってしまい、ポーランド人入賞者が出る望みが絶たれてしまったことに対して、 地元ポーランドの人たちは落胆していました。 そして、そのポーランド人たちは、ポーランドのワルシャワ音楽院で学ぶ日本人、高橋多佳子さんにその代償を求め、 より熱心に応援するようになったとのことでした。 最終的には7人の日本人のうち本選進出を果たしたのは、横山幸雄さんと高橋多佳子さんの2人でした。 日本人以外では、ケヴィン・ケナー、マルガリータ・シェフチェンコ、アンナ・マリコヴァ、コラド・ロレロ、カロリーヌ・サージュマンの5人、 合わせて7人が本選進出となりました。 1980年ショパンコンクール第5位の名ピアニスト・海老彰子さんは、第3次予選の審査結果(本選出場者)について、 「音楽的側面に重点を置いて選ばれた結果ではないかと思う、 音楽的な個性やキャラクターがはっきりした人が選ばれたと思います。」とコメントしていました。 第3次予選通過者は規定では6人と定められており、本選ではピアノ協奏曲(第1番ホ短調Op.11または第2番ヘ短調Op.21)を弾いて、 最終的に1位から6位までが順位づけされますが、いずれにしても、その6人に選ばれたということは、 この回のコンクールの入賞者であることは既に決定したということになります。 例の番組では第3次予選の結果発表の模様も放送され、自分の名前が呼ばれると皆それぞれに喜びを表していましたが、 横山幸雄さんだけは、ぴくりとも表情が変わらず、むしろ今風に言う「どや顔」のようにも見えました。 それもそのはず、横山幸雄さんは第3次予選で最も優れた演奏をしたことが認められて、「最優秀ソナタ演奏賞」が与えられています。 この演奏で自分が落ちるはずがないという絶対の自信、確信があったのだと思いますし、 ここまで来ると優勝も大いに期待できるという手応えはあったのだと思います。 一方、高橋多佳子さんは自分の名前が呼ばれた瞬間、両手で顔を覆い「ああよかった」というほっとしたような表情にも見えましたが、 その数秒後、目を丸くさせて「ちょっと、うそ〜」と、絞り出すような裏声で驚きの表情をしていました。 まさか第3次予選も通過し本選に出場できるとは思っていなかったように見えました。 「3次予選まで行ければ上出来だと思う」というのは正直な認識だったのだと思います。 ショパンコンクールの本選は、ワルシャワフィルハーモニー交響楽団との共演で、 ピアノ協奏曲第1番ホ短調Op.11または第2番ヘ短調Op.21のうち、任意の1曲を弾くことになります。 ショパンコンクールに出場する若いピアニストたちは、たとえ本選に残るような実力者であっても、 オーケストラとの共演の経験がほとんどない、または全くないというピアニストも決して珍しくなく、 こうした経験の違いによっても、最終結果に大きな違いが生まれるという話も聞きました。 指揮者と意見が合わない場合、どのように折り合いを付けるか、妥協点を見出すかという現実的な問題もありますし、 それ以前にオーケストラとピアノのタイミングが合わないという問題もあるようです(耳で聴こえた音で判断すると、聴衆の耳に届くときに時間差が生じるなど)。 曲目については、第1番ホ短調を選ぶ出場者が圧倒的に多いのはご存知の通りです。 ここまで来て、コンクール覇者はケヴィン・ケナー、横山幸雄さんの一騎打ちという様相を呈していたのではないかと思います。 ケヴィン・ケナーは第1番を選んでいましたが、テンポやリズムについて、指揮者(カジミエシュ・コルド氏)と意見が大きく食い違っていたようで、 妥協を許さない完璧主義者の彼は、リハーサルで指揮者に自分の音楽を理解してもらおうと必死に食い下がっていました。 しかし指揮者の方も意見を曲げず、2人は激しく衝突していました。 ショパンのピアノ協奏曲はピアニストが主役なのだから、指揮者の方が妥協してピアニストの弾くままに合わせてあげればよいのに、と正直思いましたし、 コルド氏以外のショパンコンクールの歴代指揮者たちはおそらくそのようなスタンスで指揮していたと思うのですが、 これも運の悪さで、ケヴィン・ケナーは自分の音楽が理解してもらえないことで苛立ちが募り、 最後は混乱していた様子でした。これで、最後の本選で良い演奏ができるはずがないと思いました (実際はどうだったのでしょうか?僕自身は本選の演奏を聴いていないので分からないです)。 一方、横山幸雄さんは第2番ヘ短調を選びましたが、ケヴィン・ケナーとは対照的に、指揮者に食い下がるようなことはせず、 指揮者の指示に従いながらスムーズにリハーサルを終えたようでした。 ケヴィン・ケナーとはあまりに違い、あっさりしすぎていたためか、 日本人記者がそれについて尋ねていました。
日本人記者:「横山君、おとなしかったね〜」 テンポ・ジュストという概念は、多くの音楽家や一家言を持つアマチュアにもあるのではないかと思います。 自分にとってその曲のその部分の最善のテンポは一通りしかなく、それ以外は不適切であるという感覚です。 そして自分にとって最善・理想のテンポで弾き込んできた曲について、その場でテンポを変えて音楽的に演奏できるという柔軟性は なかなか持ち合わせていないものです。これは「妥協する」ということとは根本的に意味が違うと思います。 自分でやってみると分かると思いますが、特に自分の持っている体内テンポよりも指揮者が速いテンポを指示し、それに従う場合、 多かれ少なかれ違和感を感じるものですし、音楽的な演奏どころか、技術的に粗が出てしまうことも多いと思います。 僕は「どうにでも弾ける」という横山幸雄さんの言葉を初めて聴いたとき、まず第一にそのことを頭に思い浮かべましたが、 横山幸雄さんほどの技術を持っている人であれば、どんなにテンポを上げられても余裕でついていけるのは明らかです。 自分の理想とは違うテンポでも、この短いリハーサルの時間の中でそれに対して反論することで得られるものは少ない、 それよりも指揮者が満足そうな顔をして指示する音楽、テンポに自分を合わせて行った方が、 自分も安心して弾けるし、その方が結果的に良い音楽になるに違いないという、横山さん自身の冷静な判断があったのだと思います。 後に横山さんは月刊誌「ショパン」でこの発言を振り返り、多くの人が誤解しているようなので、ということで説明を付け加えています。 彼はある曲のある部分の弾き方・解釈を何通りか用意しておいて、その場に応じてそのいずれかを選んでいるということでした。 この場合は、自分の最善のテンポとは違うまでも、何通りか用意した弾き方の中で、指揮者の指示に最も近いものを選んだのではないかと思います。 こういう実践的な考え方は、それ以降、世界の指揮者・オーケストラと共演していく上でも重要ではないかと思います。 一方、もう1人の日本人本選出場者、高橋多佳子さんは、オーケストラとの共演経験がなかったようで、 リハーサルが始まる前に、指揮者と楽団員の前で「オーケストラと共演するのは初めてなので、どうか助けて下さい」と挨拶していました。 リハーサル終了後の日本人記者からの質問に対して、「もうちょっとゆっくりにして下さい、って言ってみます」と言っていたことから、 指揮者のコルド氏の指示したテンポは速めだったのだと思います。 やはり速めのテンポを指示されると怖いもので、ましてやショパンコンクールの本選という極度に緊張する状況で、 慣れない速めのテンポで弾くというのは、リスクが高いと思います。 それを考えると、そのような状況の中で「どうにでも弾ける」と言い放つほど絶対の自信がある横山幸雄さんは、やはりただ者ではないとこの時思いました。 本選終了後、最終的な順位の発表は夜11時にロビーで行われることになっていて、 参加者及びその関係者、聴衆が今や遅しとその運命の時を待っていましたが、 その時間を過ぎても審査委員たちはなかなか現れませんでした。 予定時刻から遅れること3時間、ようやく審査員たちが現れました。 固唾をのんでその成り行きを見守る参加者、関係者、聴衆たち・・・その前でおもむろに審査結果発表が開始されました。 結果は「1位該当者はありません」。なんと・・・1位なし・・・ 会場にどよめきが起こり、参加者は落胆の表情を隠せませんでした。特に1位を狙っていたケヴィン・ケナーと横山幸雄さんは・・・。 1位が出なかったのは、ショパンコンクール始まって以来のことでした。 その後、2位、ケヴィン・ケナー、アメリカと告げられると、奥さんと一緒にいたケヴィン・ケナーは渋い笑顔を見せました。 3位、横山幸雄、ヤポニア、と告げられると、例の記者から「横山君、おめでとう、感想は?」と聞かれ、 笑顔で「ありがとうございます」と答えていました。ケヴィン・ケナーとの一騎打ちで日本人の初優勝も大いに期待できると 思っていたところだったと思われるため、この結果にはむしろ落胆さえしていたのではないかと思うのですが、 日本人上位入賞(3位以内)は、1970年ショパンコンクール第2位の内田光子さん以来、20年ぶり2度目の快挙ですし、 これは非常に素晴らしい結果です。 4位にはソ連の最有力候補の1人、マルガリータ・シェフチェンコと、ノーマークのイタリア人・コラド・ロレロ(眼鏡をかけていて、 顔がブーニンに似ている?!とショパンコンクール直後の月刊誌ショパンで紹介されていました)が入賞しました。 5位には、ソ連の最有力候補の1人、アンナ・マリコヴァ(心臓の持病があるようで、ひどい咳に苦しみ薬を飲みながら、練習していたようです)と 高橋多佳子さんが入賞しました。日本人が2人入賞したのはこの回が初めてでした。 6位には、ノーマークのフランス人、カロリーヌ・サージュマンが入賞しました。 個人的には人気キャラクターの有森博さんやトップバッターというハンデにもかかわらず第3次予選まで勝ち進んだ上野眞さんも 入賞してほしかったと思いますが、本選進出6人の枠は狭いですからね。 ショパンコンクール副賞のマズルカ賞とコンチェルト賞は該当者なしでしたが、 審査員の1人、マズルカが大の得意のハリーナ・チェルニー=ステファンスカは、「マズルカに関しては良い演奏があり甲乙付け難かったため、 1人に絞り切れなかった」とコメントし、日本人では横山幸雄さんと高橋多佳子さんを高く評価していました。 コンチェルト賞に関しては、純粋に本選のコンチェルトで突出して優れた演奏がなかったというのが、 審査員の一致した意見のようでした。 ポロネーズ賞は第2位のケヴィン・ケナーと体調不良のため第3次予選を棄権したポーランド人、ヴォイチェフ・シフィタワが受賞しました。
入賞者の演奏について分かる範囲で簡単にコメントしたいと思います。 まず最高位の第2位を受賞したケヴィン・ケナーは、月刊誌「ショパン」では「ナイーブな俊英」として 紹介されていましたが、「ナイーブ」を純真・無垢という意味とすれば、僕にはそういう印象はないです。 むしろ神経質、完璧主義者という言葉が相応しいと思います。 ルービンシュタインのショパン演奏を模範にしていると本人が語るように、解釈はオーソドックスそのものですが、 演奏技巧や完成度はルービンシュタインをはるかに上回り、音色もまばゆいばかりの光彩を放っており、 テンポルバートやアゴーギクも天才的で、まさにこの回のショパンコンクール優勝はこの人にあげてもよかったのではないかと 個人的には思いました。第1次予選で弾いたピアノがおかしいとメーカーに不満をぶつけたり、 本選リハーサルで指揮者と口論になったりと、何かと衝突が多く自制がきかないタイプのようで、 そのような演奏以外の性格面での印象が悪かった可能性はあったのかもしれません。 コンクール優勝者は何をおいてもピアニストの鑑とならなければならない、スター性や明るさも要求されるという立場からすれば、 ケヴィン・ケナーは品行が悪い、神経質すぎる、気難しいなど、ピアノ演奏以外の面で優勝を与える上での難点が多かったのかもしれません。 ただ単にピアノ演奏そのものが優勝に値しないと判断されたのかもしれないですけど、 ピアノ演奏だけを取れば、彼は十分に優勝に値する天才だと僕は思います。 ケヴィン・ケナーが優勝本命だとすると、一方の対抗馬の第3位の横山幸雄さんは大変な技巧家でした。 第1次予選で舞台登場後、いきなり弾き始めたエチュードOp.25-6は強靱かつ俊敏な指さばきで、 極めて速いテンポでありながらも、1つ1つの音の粒立ちは極めてはっきりしていて、完璧そのものの演奏でした。 そのあまりの素晴らしさに、この演奏が終わると会場からため息交じりのどよめきが起こり、 どこからともなく拍手が沸き起こりました。一方の横山幸雄さん自身は表情ひとつ変えず、まさしく冷静沈着・・・これは笑えました。 第2次予選ではこれまた超難曲のOp.10-1とOp.10-2を選曲し、こちらもOp.25-6をさらに上回る見事な演奏を披露し、 ショパンコンクールの名演を収めた記念CDにはこちらの2曲が選ばれ収録されたという話でした。 テンポの遅い抒情的な部分はやや印象が薄いですが、難易度が上がれば上がるほど演奏が冴えるというのが、 横山幸雄さんの演奏の特徴のようですが、例の特別番組のオープニングでは、横山幸雄さんが本選で弾いた ピアノ協奏曲第2番の第2楽章が使われており、緩徐楽章であるにもかかわらずこの演奏は非常に素晴らしいです。 ショパンコンクール第3位入賞後の彼の活躍ぶりは現在、周知の事実となっています。 4位受賞の1人、マルガリータ・シェフチェンコはより自由闊達な演奏をするピアニストで、 高い技術があってこそ成立するその奔放な演奏は、アルゲリッチの再来かと言われたほどでした。 今はどこで何をしているのでしょうか。 5位受賞の1人、アンナ・マリコヴァは同じソ連出身でもシェフチェンコとはタイプが異なり、 夢見るような音色で折り目正しく音楽を丁寧に紡いでいくような演奏をするピアニストで、 ショパンに相応しい演奏スタイルだという印象を持ちました。 心臓の持病があるとのことで心配ですが、今も元気にしているようです。 もう1人の高橋多佳子さんは、審査委員長のヤン・エキエル氏の門下生ということで、 多かれ少なかれ、ひいきはあったのかもしれませんが、今もピアノ界で活躍しているところを見ると、 コンクール当時もレベルの高い演奏をしていたのだろうと思います。 演奏の特徴は情報が少なすぎて分かりません。 ところで、今回のショパンコンクールでは、その豪華な顔ぶれの審査員も話題になりました。多忙な中、 本選だけ、審査員に加わったヴラディーミル・アシュケナージは、「極上ではないが、レベルは高い」と 述べています。日本テレビでの放送番組では、大勢の審査員の中から、世界的ピアニストのアシュケナージ、 審査員長のヤン・エキエル、ツィマーマンを育てた地元ポーランドの音楽教育の権威、アンジェイ・ ヤシンスキ、ポーランド生まれでショパンコンクール優勝経験を持つ名ピアニスト、ハリーナ・チェルニー =ステファンスカの4人に対し、今回(第12回)のショパンコンクールに出場したらどこまで行けると思うか、 という興味深い質問をしていました。それに対し、アシュケナージは、「本選までならいけるのではないかと 思うけど分からない」と答え、エキエルは「参加者になれないので何とも答えられない」と答え、 ヤシンスキは「もちろん第1次予選で落ちてしまいますよ。」と答えて いました。そしてステファンスカは冗談かどうか、「優勝しますよ!」と言って笑っていました。 それはともかく、世界的なピアニストでも優勝できる自信がないことは、どうやら嘘ではないようです。 おそらく番組製作者の意図もそこにあり、今回の第12回ショパンコンクールのレベルがいかに高いかを、 審査員たちへの質問に対する返答からあぶりだそうとしたのではないかと個人的には思いました。 僕は当時、高校3年生で大学受験を間近に控える身でしたが、このショパンコンクールから受けた影響は これまでのショパンコンクールの中で最も大きかったです。 既に当時からショパンマニアでしたが、これをきっかけにショパンマニアの度合いは加速していきました。 今回のショパンコンクールでは史上初めて第1位該当者なしという結果に終わり、非常に残念ではありましたが、 ケヴィン・ケナー、横山幸雄さんという素晴らしいピアニストを知ることができ、 また僕自身も良い刺激をもらうことができ、僕のピアノ人生において、かけがえのない貴重な1ページとなりました。 また次回こそは、素晴らしい優勝者が出ることを祈りながら、さらに5年の歳月を過ごすことになりました。
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