ウラディミール・ホロヴィッツ(Vladimir Horowitz、1904〜1989、ロシア) | |||||
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呼称:鍵盤の魔術師
ウラディミール・ホロヴィッツは20世紀を代表する孤高の天才ピアニストで、生きながらに伝説となった巨匠でした。 その数奇な生きざま、奇人変人伝説、同性愛疑惑、偉大な指揮者アルトゥーロ・トスカニーニとの伝説的名演(後に娘ワンダと結婚)など、 話題性には事欠かないピアニストでもあったようです。 ホロヴィッツの優れて超個性的かつ超人的な演奏だけでなく、ピアノを離れたところでのそうした様々な要素が、 ホロヴィッツを世界最高のピアニストとして話題を独占する大きな要因となったことは間違いなさそうです。 ホロヴィッツの生誕年については1904年説、1903年説があり、現在は権威筋は1903年説を有力視しているようですが、 僕がホロヴィッツの演奏(もちろんレコード、CDですが)を聴いていた時代では、解説文では1904年生まれという記載が ほとんどであったため、 僕も西暦からホロヴィッツの年齢を計算する際には、西暦下2桁から4を引くことが暗黙となってしまっていて(例えば12年間の沈黙を破るヒストリックリターンと言われる 1965年は彼が61歳という具合に)、今更1903年説が濃厚と言われても、容易には修正できないほど染みついてしまいました。 従って、ここでは1904年説を採用しています。 ホロヴィッツはロシアのキエフ生まれのユダヤ系ロシア人で、アメリカを中心に活躍し40代にアメリカの市民権を獲得しています。 ホロヴィッツの演奏の特徴は、超絶技巧と大轟音による非常に個性的でパワフルな演奏です。 正統派からはほど遠く、一言で言えば「異端児」とも言える演奏ではありますが、 それが世界的に支持され多くの熱狂的な聴衆を獲得したのは、それが他のピアニストの演奏からは得られない 非常にユニークで唯一無二の魅力があったからだと思います。 僕たちはピアノを習うとき、鍵盤と手のひらの間に鶏の卵が1個入るように指を軽く曲げて指先で打鍵するということを ピアノ演奏の基本中の基本として徹底的に鍛えられましたが、こうした基本をホロヴィッツは真っ向から無視しています。 ホロヴィッツの弾き方は指をまっすぐ伸ばして指の腹で打鍵するものです。 彼の愛用の楽器である古いニューヨーク・スタインウェイの古めかしい音色と相まって、 これがホロヴィッツ独特のつややかで艶めかしい音色の要因となっていることは間違いなさそうですが、 この奏法で数々の超絶的な難曲で超人的な名演奏を残してきたのは、ホロヴィッツが類まれな天才であったからだということは間違いないと思います。 僕たちがこんな弾き方をしようものなら、まともな演奏は1つとしてできないと思いますし、 それ以前にピアノの先生からきつく注意されて徹底的に矯正されると思います。 ホロヴィッツは20世紀最高の巨匠として、アルトゥール・ルービンシュタインとたびたび並び称されますが、 演奏スタイル、性格、ピアニストとしての生きざま、信念は真逆、正反対と言っても過言ではないほどです。 ルービンシュタインは明るく温厚で常識的で社交的などこにでもいる一般人といった趣で、 彼の演奏もそうしたものを反映して基本に忠実で人や人生を愛する人間愛に溢れた味わい深いものですが、 ホロヴィッツの場合は全く違います。 ホロヴィッツは非常に神経質で気難しい性格で容易に人と交わらず、自己中心的で、上手く弾けない箇所があると容易に癇癪を起したり 他のピアニストを辛辣に批評するなど、性格的には色々問題のあった人であるとも言われています。 アルフレッド・コルトーはホロヴィッツと初対面した時の印象を「彼と話して36秒でこの人の人間性の限界が分かった。 私はこうした人種に対して軽蔑を通り越してある種の憐れみすら感じる」という意味のことを言ったとも伝えらえます。 ピアノ演奏の特徴は人間性と密接に結びついているとも言われますが、ホロヴィッツの演奏は人間味に乏しくてもいっこうに構わない、 というより人間味などという生易しいものなど、もろとも吹き飛ばす超絶的な演奏であり、 そこにこそ、ホロヴィッツのホロヴィッツたる所以があるとも言えそうです。 消え入るような最弱音から雷のようなフォルティッシモまでの音量と 艶めかしい音色を自在に操り、超絶的かつ驚異的なテクニックを駆使して88鍵を完全支配し、聴く人の度肝を抜く悪魔的な演奏をします。 一瞬たりとも気が抜けないホロヴィッツ一流の緊迫感に満ちた演奏は、聴く人に強い緊張を強いるものですが、 それだけにこの人の演奏がツボにはまった時のとてつもない凄みとスリリングな感動は 他のピアニストからは決して得られない貴重なもので、そうしたものがホロヴィッツを「生ける伝説」としたのだと思います。 またテンポの遅いロマンティックな作品では特定の音にアクセントを付けたり輝かせたりといった、 独自の味付けを施し、僕たち聴く人に意外な驚きと新鮮な感動を与えてくる独特の感覚・音楽性を持っていました。 ホロヴィッツはレパートリーには独特のこだわりを持っていたと考えられます。そのためか名声の割に録音に残された曲目は少なく、 しかもまとまったものが少ないのが残念です。 ホロヴィッツはラフマニノフとも親交が深く、実際にラフマニノフの作品を好んで取り上げていたようですが、 ピアノ協奏曲では有名な第2番をあえて取り上げず、それよりもはるかに難しい第3番の方を好んで、何度も演奏し録音も複数残っています。 このようにホロヴィッツのレパートリーは個性的でもあり、また特定の作曲家の特定のカテゴリーの作品をまとめて録音にして 全集録音するという試みには全く無関心のようでした。むしろ個々の作品において独特の感性による鋭敏で個性的な演奏をすることで 聴く人に衝撃を与えるタイプのピアニストでした。 今でも語り草になる格好の好例が、スーザ作曲の「星条旗よ永遠なれ」のホロヴィッツ独自の編曲による超絶的な演奏です。 アメリカ合衆国の第2の国歌とも言われる行進曲で皆さんも必ずどこかで聴いたことがあると思います(運動会や体育祭の行進曲などで)。 ロシア出身のホロヴィッツはアメリカ合衆国の永住権を獲得してアメリカに帰化してから、アメリカ合衆国を第2の祖国として愛し、 またアメリカ国民もホロヴィッツを愛し、その感謝のしるしとしての意味合いもあったのだと思いますが、 ホロヴィッツはこの「星条旗よ永遠なれ」にピアニスティックの限りを尽くした超難曲として編曲し、 これを演奏会で好んで取り上げて、アメリカ合衆国の聴衆を熱狂の渦に巻き込んでいたようです。 和音もとてつもなく分厚く、オクターブ連続部はヴィルトゥオーゾ風ですし、中間部はバスと超高音(ピッコロの音)の装飾音を弾きながら 中音域の旋律部も同時に奏するなど、腕が3本ないと弾けないのではないか、一体どうやって弾いているのかと不思議になるような とんでもない編曲・演奏をして皆の度肝を抜きました。 この演奏は「星条旗よ永遠なれ」ではなく、もはや「ホロヴィッツよ永遠なれ」と言いたくなるほどの演奏です。 ホロヴィッツはショパンも好んで演奏していましたが、やはりジャンル別にまとめて録音する意図はなかったようで、 ステレオ録音では、「ホロヴィッツ・プレイズ・ショパンT・U」という寄せ集めのCDが存在するのみです。 例えば、スケルツォ第1番は凄まじい切れ味の超絶技巧が炸裂し、他の追随を許さない圧倒的な名演奏だと思いますし、 超インテンポで個性的なアクセントで弾き進められる爆音基本の英雄ポロネーズもこの人ならでは凄みのあるユニークな演奏です。 また彼自身「私にとってマズルカこそ最高のショパン」と語ったように、マズルカで聴かせるあでやかで艶めかしい美しさは まさにホロヴィッツならではと言えると思います。 ホロヴィッツのショパン演奏の全体像を知るのはなかなか難しいのですが、全盛時代のモノーラル録音を寄せ集めた3枚組が特筆に値します。 いわゆる正統派のショパンではなく、全ての曲がホロヴィッツ色に染まった超個性的な演奏でこういった演奏は好き嫌いが非常に分かれると思いますが (そして僕自身はこの演奏は好きではありませんが)、 ホロヴィッツがショパンの各曲をどのように弾くのか気になる方にはたまらない3枚組ではないかと思います。 ホロヴィッツはどのような経緯からか晩年になるまで一度も来日しませんでしたが、 その晩年、1983年と1986年に来日し、特に初来日した際の東京公演の演奏は、破格のチケット代、その演奏内容とその後の聴衆・評論家の反応など 全てにおいて物議を醸しました。 1983年のホロヴィッツ初来日当時、僕はまだ小学校5年生で、「ホロヴィッツ」という名前をこの時初めて知りました。 父親がクラシック音楽愛好家でレコードコレクターだったこともあり、ホロヴィッツ初来日の新聞記事が載っていることを話題に出したのがきっかけでした。 「20世紀最高の伝説のピアニスト、ホロヴィッツ(78)来日」というような見出しだったと思います。 「世界で一番上手いピアニスト」という両親の言葉も強く記憶に残っていますが、 「ピアノ演奏って1番、2番と順位付けできるものなんだ」と当時の僕は不思議で仕方ありませんでした。 僕は遥か遠い何億光年彼方の一等星を見るような目で 「ウラディミール・ホロヴィッツ」の新聞の活字を追い、髪の薄くなったお爺さんの写真を見つめました。 僕の日々のピアノ練習の延長線上にはない、全く別次元の人間であることは当時の僕にも理解できましたが、 「ピアノを弾く人でこんなにすごい人がいるんだ・・・僕もこの人のようになりたい・・・」と唇をかみながら、その思いを胸に刻んだものでした。 日本の音楽愛好家、ピアノマニアの方々は、それまでホロヴィッツの演奏はLPレコードでしか聴けなかったわけですが、 ホロヴィッツ自ら来日し演奏会を開くとなれば、これはホロヴィッツを生で聴く最初で最後のチャンスに違いないというわけで、 皆がこのチャンスに飛びついたようです。興行主もそれを知っているからか、チケット代はまさにプレミア級でS席5万円、平均4万円と極めて高額だったようです。 父親もピアノ独奏の演奏会はあまり好きではない上に、家計のやり繰りだけでも大変な状態だから、これは無理、と端から諦めモードでした。 ホロヴィッツの真価が分かるほどの「耳」があればチケット代を払う価値はあるのでしょうが、 残念ながら僕自身も当時は現在のようなピアノを聴く耳を持ち合わせていなかったため、このホロヴィッツ来日の知らせは そのチケット代ともども、自分とは全く無縁の世界の出来事という認識でした。 ホロヴィッツがこの演奏会で一晩どれだけの収入を稼ぐのかという試算を両親がしているのを、 小学生の僕は興味深く聴いていました。 チケット代は平均で数万円、客席の数は4000程度だったとも言われていため、 単純計算すると1回の演奏会で1億円を大きく超える収益が上がることになるということでした。 これは東京都心は無理でも、通勤圏に一戸建てが何軒か建てられるほどの大金で、 仮に1億円を所持しているだけでも、当時の一般的な都市銀行の金利が5%だった時代、 1億円を定期預金しておけば一般的なサラリーマンの年収ほどの利子がつくから、あとは預金を一切切り崩さなくても遊んで暮らせる、 しかもホロヴィッツはその大金をたった一晩の演奏会で稼ぐという話もしていました。 「僕も頑張ればこの人みたいになれるかな」と聞いてみましたが、「なれるわけない」と一蹴されてしまいました。 聞く前から分かり切っていたことですが、そのように即答されるとさすがにテンションが下がります。 改めてホロヴィッツの桁違いの偉大さを思い知らされました。まさにアメリカンドリームというか、上限のない世界です。 僕は最終的にホロヴィッツを生で聴くことはありませんでしたが、この機会にホロヴィッツという偉大なピアニストの存在を知ってから、僕の中で何かが変わりました。 それ以来、僕は何億光年彼方の一等星に向かって、一歩でも近づくには何をどうすればよいのかを考え込み、絶望する日々が続きました。 ホロヴィッツの1983年の東京公演での演奏曲目はベートーヴェン・ピアノソナタ第28番、シューマンの謝肉祭、 ショパンの幻想ポロネーズ、エチュードOp.10-8, Op.25-10, Op.25-7、英雄ポロネーズで、 演奏会の後、NHKでもその演奏が全て放送され、僕も最初から最後まで聴きました。 この中で知っている曲は英雄ポロネーズだけでしたが、ミスタッチが多く個性的すぎて好きになれない演奏でした。 管理人のピアノ歴でも書いたように、タマーシュ・ヴァーシャリの演奏で英雄ポロネーズを知って衝撃を受けた小学校4年生以降、ブーニンの演奏に出会う中学校2年生まで、 僕にとってタマーシュ・ヴァーシャリの演奏がベストワンだったわけですが、ホロヴィッツの演奏はこの曲に対して抱く 僕自身の理想と大きくかけ離れたものでした。この演奏がヴァーシャリの演奏よりもはるかに良いと思えなければ、 世界有数のピアニストになる音楽的才能はないということなんだ、と僕はホロヴィッツの演奏の良さが理解できない自分に対して、静かな絶望に陥り、 そこに静かに蓋をしてしまいました。 当時の僕はまだ小学校5年生で、新聞の演奏評や音楽雑誌の演奏評を読んで理解するほどの国語力がなかったこともあり、 この演奏に対して聴衆や評論家がどのように感じていたのか、全く情報が入って来ない状況でした。 しかし、だいぶ後になって、この時の演奏が実は賛否両論で、特に音楽通の間では極めて不評であったことが分かりました。 ホロヴィッツ初来日時の東京公演のチケット代は、S席5万円、平均4万円とも言われ、これほどのチケット代に手が届くのは お金と暇を持て余している優雅な高齢者、金持ちセレブ、芸能人、会社社長・役員などでしょうか。 一般的なサラリーマンの場合は、確かに単発で4万円を払うことは可能ですが、たった一晩の演奏会に4万円を投資するという金銭感覚は 持ち合わせていない場合がほとんどです。 あるいは「ホロヴィッツを生で聴けるのはこれが最初で最後になるかもしれない、だとしたら、 一生の後悔を残さないためにも、ここに4万円払うことなどちっとも惜しくない」と思ってしまうほどの、熱狂的なホロヴィッツファン、 筋金入りのピアノ音楽マニアであれば、お金がなくてもここに数万円は投資したのだろうと考えられます。 要するにホロヴィッツ初来日時の東京公演を破格のチケット代を払って聴きに行った人たちは、世界最高のピアニスト・ホロヴィッツを 聴きに行ったという事実を作り自慢話にしたいような見栄っ張り、暇つぶしにでもと金に物を言わせてチケットを購入した大金持ち、芸能人から、 喉から手が出るほど欲しいチケットをなけなしの所持金を叩いて購入した筋金入りのピアノマニア、音楽通まで、 様々だったと考えられます。 当然のことながら音楽の聴き方は聴く人の数だけあり、ピアノ音楽の聴き方に絶対的な「正しい」、「間違い」というのはないのですが、 このときの聴衆の反応はやや奇妙に思えるようなものであったようです。 最初に上がってきた声は「さすがホロヴィッツ、素晴らしかった」という感激の声だったようです。 ホロヴィッツのことをまるで知らない芸能人・有名人も多数聴きに行ったとのことですが、彼らの声は「メディア」という 無限大の「拡声器」があるため、一般民衆である僕たちよりも、声が非常に大きいのが特徴です。 彼らが「さすがホロヴィッツ、素晴らしかった」とテレビで話せば、それは全国ネットで放送され、テレビ視聴中の日本全国の国民に伝わります。 演奏の良しあしが分からないのなら「分からない」とはっきり言えばいいのに、僕などは思うわけですが、 金持ち・芸能人・セレブの人たちは「豚に真珠」、「猫に小判」の「豚」や「猫」と自分たちとは違うという思いがあり、 「知ったかぶり」をする傾向があるようですので、仕方ないとも言えます。 しかし実はこの演奏会は、ピアノ音楽を本当に理解している人、往年のホロヴィッツの素晴らしい演奏を聴き続けてきたホロヴィッツファンにとって、 「期待外れ」などという生易しいものではなく、もはや「悪夢を見ているようであった」、「生き地獄のようであった」ようです。 「どうしてこんなに難しい曲を無理をして弾かなければならないのだろう」、「もうミスタッチばかりで何をどう表現したいのかが分からない」、 「貴方の演奏は本当は素晴らしいのに、どうしてそんなに恥をさらさなければならないのだろう」、「もうこれ以上見て(聴いて)いられない」、 「もうこれ以上、恥の上塗りは許さない、TKOだ」と顔を覆う人が続出し、そしてステージにタオルを投げようと本気で考えた人もいたほどで、 演奏会後、ホロヴィッツの素晴らしい演奏を 聴いた後の食事を楽しもうと仲間で予約した人たちが、皆一様に涙で目を腫らし、食事はキャンセルして泣きながら帰宅した人もいたと伝えられています。 しかしホロヴィッツのこの時の演奏を本当に理解していたこのような人たちは、メディアという「拡声器」を持たない人たちであったため、 残念ながら、この人たちの反応は日本国民にほとんど届かなかったようです。 このホロヴィッツの演奏会について、テレビでマイクを向けられたのはピアノ音楽を知らない有名人・芸能人ばかりだったようですが、 その中でたった1人、著名な音楽評論家・吉田秀和氏が「ひびの入った骨董品」とコメントしました。 「素晴らしい」というコメントばかりの中での、この辛辣なコメントを巡って、 これは不適切な発言ではないか、あの日のホロヴィッツの演奏も良いところはあったのではないか、 という反論も飛び出し、論争に近い状態にもなったようです。 この状況に、発言主の吉田秀和氏の方がむしろ驚いたのではないかと思います。 「僕としては決してそんなつもりで言ったわけではない。僕の正直な感想を言っただけだ。昔のホロヴィッツの素晴らしい演奏を知っている人間として、 同じような演奏を期待していたから失望が大きかったんだ。この演奏を聴いて、もうホロヴィッツは過去の人(=骨董品)だということを知って、 悲しくなった。しかもヒビが入ってしまって・・・泣きたいのは僕の方だよ。 みんなはあの時のホロヴィッツの演奏のどこが良かったと感じているんだろう」という、吉田氏の声が聞こえてくるようです。 言葉というのは難しいもので、どのような状況、どのような文脈で出た言葉なのかを抜きにして、 印象的な言葉だけが勝手に独り歩きを始めてしまうところに難しさがありますが、僕の推測では、吉田秀和氏は ホロヴィッツを酷評するつもりは決してなかったと思います。吉田秀和氏はホロヴィッツの熱烈なファンでもありますが、 「好きなホロヴィッツには申し訳ないが、さすがにこの演奏では手放しで絶賛するわけにはいかない、音楽評論家という立場上、厳しい意見もいわなければならない」 という複雑な心境だったのだと思います。 決して酷評ではなく、ただ単に自分自身の正直な意見を言っただけだったのだと思います。 この意見と「ひびの入った骨董品」という発言が的確で的を射た発言だったことは、 何よりピアノ音楽通の人たちが感じていたことで、静かに支持していたのではないかと思います。 実はこの時のホロヴィッツは薬漬けで体調も悪かったようでした。だから練習もあまりできていなかったのではないかと思います。 ホロヴィッツ自身も初来日の演奏会は散々な出来であったことを認め、後に「私の演奏を正しく評価したのは、吉田氏だけだった」 と語っていたようです。 ホロヴィッツは初来日の演奏会で自らの名誉を著しく損ねる演奏をしてしまったことを反省し、このままでは終わらせないと誓ったようです。 そしてその3年後、1986年に2度目の来日を果たしました。 この年は、スタニスラフ・ブーニンが1985年ショパン国際ピアノコンクールで圧倒的な優勝を果たした翌年で、 ブーニンシンドロームという社会現象が日本全体に巻き起こっていて、その意味で、ホロヴィッツ2度目の来日のインパクトが やや小さくなってしまった感は否めませんでしたが、今度はホロヴィッツは超難曲を並べて崩壊するという前回の悪夢を顧みて、 より柔軟なプログラミングをして、年老いたなりの熟成された演奏を聴かせ、概ね好評を得たとのことでした。 1986年7月のブーニンの東京公演のショパン・ワルツ集の演奏会の合間のインタビューで、奇しくも吉田秀和氏がマイクを向けられていましたが、 「1世紀に1人の天才という人がいるけど、とっても僕には判断つかないね。まだとっても若々しいし、若いし青くさいね。それと音がね、これはこの人の不幸で、 この間、ホロヴィッツのような音を聴いたばっかりだから、比較にならない。今思えば、あの人の音は素晴らしかった」と語っていました。 これは間接的にホロヴィッツの奏でるピアノの音の素晴らしさを讃えるコメントになっています。 こうしてホロヴィッツは2度目の来日で吉田秀和氏から賛辞を引き出し、リベンジを果たしました。 それから3年後、ホロヴィッツは1989年11月5日に自宅で亡くなったそうですが、このホロヴィッツの死によって、ピアノ界の1つの時代は終わりました。 この後、リヒテル、アラウ、ゼルキン、ミケランジェリ、ケンプなどが次々に世を去り、 「巨匠のいない時代」が到来することとなりました。 一時代を築いた鍵盤の魔術師ホロヴィッツの偉大な業績、常に話題性に事欠かない超絶的なピアノ演奏は 彼の死後、30年が経とうとしている現在も色あせることなく新鮮な感動を僕たちに与えてくれます。 ウラディミール・ホロヴィッツの名はピアノ史に未来永劫語り継がれることと思います。 1983年にホロヴィッツ初来日のニュースで彼の名前を知ってから1989年に彼が亡くなるまで、たった6年間でしたが、その間、 生演奏は聴けなかったものの、CDを数枚買って、ショパンのスケルツォ第1番、英雄ポロネーズ、幻想ポロネーズ、黒鍵のエチュード、エチュードOp.25-7、 ワルツOp.34-2、マズルカOp.17-4、 序奏とロンド、革命のエチュード、ベートーヴェンの悲愴ソナタ(ピアノレッスンの模範として聴いたもの)などを愛聴しながら、 ホロヴィッツと同時代に生きることができた僕は、まだ幸せな方なのかもしれません。 ただ欲を言えば、ホロヴィッツ初来日時、僕が既に大学生ほどになっていて金銭的にもチケット代を払える状況、 ピアノを聴く確かな耳が出来上がった状態であれば、あの時、ホロヴィッツを生で聴きに行くことができたのに、と思うと、 やはり残念でなりません。ホロヴィッツについて深く語るには僕は生まれてくるのが遅すぎたようです。 ホロヴィッツを生で聴くことのできた年輩の方々が羨ましい限りです。
初稿:2002年10月
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