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スヴャトスラフ・リヒテル(SVIATOSLAV RICHTER, 1915〜1997, ロシア)

 
20世紀の最も偉大な巨匠の1人で、おそらくリヒテルの名前を知らないクラシック音楽愛好家は まずいないでしょう。しかし、その圧倒的知名度にもかかわらず、彼は、神秘のヴェールに 包まれた謎の多いピアニストだったようです。当時の社会主義国家ソ連のイデオロギーの只中に いた彼は、許可のない出国を許されず、鉄のカーテンの西側の地方では、すごいピアニストが いるらしいともっぱら噂だったといいます。

その彼が西側に登場してセンセーショナルな話題を 呼び、衝撃を与えたのが1960年のことで、当時の録音として代表的なラフマニノフのピアノ協奏曲 第2番は、彼が知性と感性と強靭な技巧を併せ持った、稀に見る逸材であることを示して余り あるものでした。その静と動、剛と柔、強と弱の対比を極端につけた演奏は多くの人の魂を揺さぶり、 強い説得力を持って聴く人に迫ってくる圧倒的名演奏でした。その圧倒的スケール感は彼が超大型の 逸材であることを誰の目にも疑わせないほどの見事なもので、僕自身、彼の数少ないレコードの中で 真っ先に挙げたいのが、このラフマニノフです。(但しピアノのピッチが若干狂っていることが惜しまれます →気分が悪いときに聴くと腹がよじれそうになるほど気持ちが悪いです)

また彼は非常に大きな手の持ち主で、一説によると、12度を上から悠々つかめるほどの、いわば「化け物の手」 を持っていたといわれています。肉体的にも非常に恵まれた大型の逸材、リヒテルの超人伝説を語る上で、 これも必要不可欠な話題になっています。

それ以降、世界各国でリサイタルや録音で精力的な活動を続けるようになった リヒテルですが、それでもなお、彼にはどこか「わからない人」という印象が付きまとっていた ようです。リヒテルのピアノも大変難解で時に哲学的でさえあります。生き生きとした情緒の 発露が抑制され、真に古典的な解釈で貫かれていることが多いのです。

ショパンの録音としては、お世辞にも音質のよい録音とは言えない前奏曲集、練習曲集 (ともに全曲ではない)、バラード全曲、スケルツォ全曲などが残るのみですが、残念ながら、僕には 彼の演奏の魅力をこの録音から感じ取ることはできません。華やかで旺盛なロマン主義の時代の中に あって、己の信念を持って自己の路線を孤独に突き進んだショパンの孤高の精神といったものを 表現したかったのでは、と思わせる演奏で、過度の感傷、虚飾を可能な限り排し、純度の高い、 古典器楽曲としての整然としたショパン演奏を聴かせてくれます。それが彼の魅力と言えば魅力 なのでしょうが、やや無機質な嫌いがあるようで、もう少しエモーションが欲しい気がします。

かつてブーニンはこの巨匠に直接会う機会があって彼の演奏をじかに聴いてそのあまりの素晴らしさに 言葉を失ったと言っています(ブーニン著「カーテンコールのあとで」)。彼の言うには、リヒテルの 演奏の素晴らしさは「生」で聴かなければ絶対に分からないということです。これはリヒテルが、 レコードを残すことにほとんど関心がなかったことと決して無関係ではないと思います。 ということは、僕らリヒテルの生演奏を聴けなかったクラシック愛好家は、残念なことに、とてつもない大きな 宝物を失ったということになりはしないでしょうか。

晩年のリヒテルは、スポットライトを消して舞台を暗くし、横に譜めくりをつけて、楽譜を見ながら 演奏会を行っていました。彼は「暗譜という作業は意味のないものだ」と常々言っていたそうですが、 彼ほどの音楽的才能を持ったプロフェッショナルにとって暗譜などた易いことだっただろうというのが 僕の推測です。にもかかわらずそうした形式の演奏会にこだわっていたのは、万一の「忘れ」を恐れていたのか、 それともそういうカリスマ的伝説を後の世に残すという恣意的な意図があったためなのか、それは 彼の謎めいた人間性とともに、彼が亡くなった今となっては知る由もないです。

リヒテル演奏のCD

ショパン・エチュード作品10&25〜14曲、ポロネーズ第1番、第4番

チャイコフスキー・ピアノ協奏曲第1番&ラフマニノフ・ピアノ協奏曲第2番

バッハ:平均律クラヴィーア曲集 全曲

シューマン・グリーグ・ピアノ協奏曲

シューベルト・ピアノソナタ第21番

ベートーヴェン・ピアノソナタ第17番「テンペスト」、シューマン・幻想曲ハ長調Op.17

ベートーヴェン・ピアノソナタ第30番〜第32番

ショパン・スケルツォ第1番〜第4番

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