アルトゥール・ルービンシュタイン(Artur Rubinstein、1887〜1982、ポーランド) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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呼称1:鍵盤の王者 呼称2:神に愛されたピアニスト 呼称3:ピアノ演奏会の皆勤賞
ユダヤ系ポーランド人
※来日は、1935年と1966年の2回のみ。
アルトゥール・ルービンシュタインは、ショパンと同じポーランド生まれの巨匠、 20世紀最大のピアニストの1人で、彼ほど「巨匠」という言葉が似合う芸術家も少ないのではないかと思います。 僕が彼のことを知った小学校高学年の頃、彼は95歳で世を去ったばかりでした。父の持っていた、ショパンの ポロネーズのLP盤を聴きながら、その解説文の中に挿入された写真にまず圧倒されました。 いかにも偉人といった真っ白な巻き毛の白髪の老人が、背筋を伸ばして堂々とピアノを弾いている様は、 まさに近寄りがたい風格を兼ね備えた、文字通り巨匠のものでした。 僕は当時、大きくなったらピアニストになりたい、と本気で考えていた無知・無謀な子供でしたが、 その時思い描いていたのが、まさしくこの人、アルトゥール・ルービンシュタインでした。 大戦における兵役逃れのためか、ルービンシュタインの生誕年には1886年、1889年等様々な説があるようですが、 現在は1887年でほぼ統一されています。 彼は8年ぶりに懐妊した7人目の子供で、当時、両親は6人の子育て・教育に追われている最中であったこともあり、 実は彼の両親にとって望まない子供だったようですが、 彼の伯母の執拗な説得が功を奏し、めでたく出生することができたということです。 もし伯母がいなければ、または伯母が説得に失敗していれば、彼は出生しなかったことになり、 僕たちはアルトゥール・ルービンシュタインという尊い人類の至宝を失っていたことになります。 このような経緯からも、ルービンシュタインがこの世に生を受けたこと自体、奇跡と思わせるエピソードで、 まさにピアノの申し子、神に愛されたピアニストと呼ぶに相応しい出生劇ではないかと思います。 ルービンシュタインは後に出版社の依頼で自伝を手掛けるようになりますが、 その「My Young Years」(日本では「華麗なる旋律」として出版されていたもの)という自伝で彼はこのことを「奇跡の出生」と形容しています。 ルービンシュタインは早くから異常なピアノの才能を示し、姉の弾くピアノの曲を聴いただけで、 そっくりそのままピアノで再現することができ、姉が間違えたところはそっくりそのまま間違えて弾いたそうです (今でいうところの「耳コピ」ですね)。8歳前には母国の慈善演奏会に出現しモーツァルトのソナタやメンデルスゾーンの 小品を弾いたそうです。彼は国内で知られるようになり、当時、ロシアの大ピアニストであったアントン・ルビンシテインと 名字が全く同じであることから、ルビンシテインの血筋を引くという噂さえ流れていたそうですが、もちろん関係はありませんでした。 ルービンシュタインの演奏に瞠目した中に、当時大ヴァイオリニストで大指揮者のヨーゼフ・ヨアヒム(ベルリン音楽大学創始者・初代学長)がいました。 ヨアヒムは「彼は後に偉大なピアニストになるだろう」と予言し、彼をベルリンに呼び、 ハンス・フォン・ビューロー門下のカール・ハインリッヒ・バルトにピアノの指導を任せました。 ちょうどこの頃、1899年、ルービンシュタインが12歳の時にまさにベルリン音楽大学でヨーゼフ・ヨアヒムの指揮でモーツァルトのピアノ協奏曲第23番イ長調K.488 を弾いて華々しいデビューを飾り、ルービンシュタインの長きに渡る演奏活動がスタートしました。 そして彼の最後のリサイタルになったのは、1976年、89歳の時のニューヨークのカーネギーホールでの演奏会でした。 この間、彼の活動期間は80年近くに及んでおり、その演奏家としての長いキャリアも「伝説」になっています。 ルービンシュタインは厳格なメソッドが嫌いで、それよりも音楽の情熱、躍動を重視するタイプのピアノ弾きでした。 彼はもともと抜群の音感と暗譜力を持っていたようで、極めて少ない練習量でもステージで弾けてしまうような人だったようです。 例えば、「新しい曲を付け加えるのに問題がなかった。それは彼の暗譜力が抜群だったからである。 彼はフランクの「交響的変奏曲」を汽車の中で楽譜を読んだだけで覚え、マドリッドで初めて弾いたことがある」(鍵盤の王者ルービンスタイン物語:P.99) という記述があるほどです。その代わり練習量は少なかったため音抜けやミスタッチはかなり多く、 「私はあの時、音符の80%をミスしただろう」などと過去の自分を振り返ることも あったようで、「木枯らしのエチュード」は左手が旋律を担うのだから右手を適当に弾いてもそれらしく聴こえる、 と言って実践したこともあったようです。 彼は第1次世界大戦前はパリ、ロンドンに拠点を置いて、ヨーロッパ、南米各地で超過密スケジュールで演奏活動を展開し、 その華やかで情熱的な演奏で、聴衆に熱狂的に迎え入れられていましたが、 その一方でアメリカ合衆国では、聴衆・批評家ともに比較的冷淡な反応だったようです。 その理由は、やはり音抜けやミスタッチの多さ、技術的な精度の粗さでした。 アメリカ合衆国には「演奏会のチケット代を払った以上、それに見合う演奏を聴く権利がある」という権利意識が非常に強く、 音抜けやミスタッチを許さない土壌、風潮があるようで、ルービンシュタインがアメリカで受けが悪い理由もまたそこにあるようでした。 そんなある時、17歳年下のウラディミール・ホロヴィッツがパリデビューを果たした際、ルービンシュタインはその素晴らしいテクニックに驚嘆し、 静かな絶望に陥ったようです。ホロヴィッツに限らず彼よりも若いピアニストは皆、彼よりも正確なテクニックでピアノを弾く という現実に直面し、自信が揺らぎ始めました。 ルービンシュタインはそれを自覚して自己の演奏の欠点を顧みることはありましたが、 その一方で彼の情熱的で華やかな演奏を好んでくれる聴衆もいるのだから、あえてその欠点を修正する必要もないのではないか という思いもあり、欠点を修正するモチベーションも上がらず、現状に甘んじていました。 それに彼は話好きで交友関係が非常に広く彼の自宅には様々な芸術家、知識人、政治家など様々な名士が訪れ、 彼らとの時間を大切にしていたため、練習時間が確保できないという問題も抱えていたようです。 それに彼は真面目にピアノを練習するだけの人生はつまらないという思いもあり、友人たちとの談笑、 そして気に入った女性と遊ぶことに我を忘れる、浪費的で遊び人的な生活に明け暮れます。 南米の演奏旅行で莫大な収入を得て帰ってきたルービンシュタインはその時の状況を振り返って、 「あの時の私の頭の中は、90%女性のことで占められていました」と語るほどのプレイボーイでもありました。 1928年、41歳になったプレイボーイのルービンシュタインに変化の兆しが見え始めます。 彼は以前、ピアノ演奏の録音を経験したことがありましたが、そのロールピアノの録音は音質が非常にこもっている上にノイズも多く、 すっかり失望してしまい録音には懲りていました。 この年、イギリスのH.M.V.レコードの代表者から録音の話を持ち掛けられましたが、以前の録音で懲りていたルービンシュタインは気が進みませんでした。 「気に入らなければレコードを発売しない」という条件で彼はその誘いを受け入れ、非公開でショパンの舟歌Op.60を録音したところ、 その音質の良いのに驚きましたが、改めてプレイバックを聴くと、自分の演奏の音抜けやミスタッチがあまりに多いのに閉口しました。 「こんなことではダメだ。もっと正確な演奏をしなければ」という危機感がさらに強くなってきました。 ルービンシュタインのピアノ演奏の技術的な精度は録音技術の発達と大いに関係があるようです。 またそれと同時に、彼は「そろそろ結婚して家庭を持ちたい、大切な伴侶と家庭に恵まれれば、彼らが自慢できるようなピアニストを目指そうと頑張れるのではないか」 という思いも芽生えます。 この年、久しぶりに彼の祖国ポーランドに帰り、エミール・ムリナルスキ指揮ワルシャワフィルと共演し成功を収めます。 その時、最前列で彼の演奏にうっとりと聞き惚れていた女性がいたことにルービンシュタインは気づいていました。 演奏会後、指揮者ムリナルスキが楽屋裏でこの女性を彼に紹介しました。指揮者の娘、まだ10代の金髪の美少女アニエラ・ムリナルスカでした。 ルービンシュタインはこの人に惚れ込みました。それまで遊んできた数々の女性よりもはるかに魅力的で、 そこには知性と良き妻の資質を垣間見て、ルービンシュタインは寝ても覚めてもこの人のことを考えるようになりました。 しかし彼はアニエラとの24歳という年齢差を考えると積極的になれず、そうしているうちにアニエラは何と他のピアニストと結婚してしまいました。 ルービンシュタインは奈落の底に突き落とされたように落胆し茫然自失となり、 その心の慰めをピアノと友人に求めました。しかしそれも長くは続かず、やはりアニエラのこと、そして安定した結婚生活への思いで 頭が一杯になってしまいました。 そんなある時、アニエラが離婚したという話を友人が彼にこっそりと教えてくれました。 表向きにはアニエラの年齢が若すぎるからというのがその理由だったそうですが、本当はアニエラがルービンシュタインのことを どうしても忘れられなかったというのがその理由だということでした。 ルービンシュタインは居てもたってもいられず、その真相を確かめにアニエラに会いに行きます。 ポーランドのとある公園の美しい噴水の前で、アニエラとルービンシュタインは再会を果たしました。 「父の指揮するあのコンチェルトの演奏会の時、私はあなたのことが好きになりました。 でもあなたは私に少しも関心を示してくれなかったものですから・・・」とアニエラは告白しました。 「歳の違いを気にしていましたし、それにその時はまだ心の準備もできていませんでした」とルービンシュタインは言いました。 しかしアニエラは歳の差を全く気にしていなかったようです。 ルービンシュタインはアニエラの思いが、ルービンシュタインという演奏家に対する思いなのか、彼という人間に対するものなのか、 自問自答します。舞台の上でスポットライトを浴びて華麗に演奏する自分が、朝食のテーブルの前では平凡な人間に見えるかもしれない、 という思いもありました。しかし最終的には2人は1932年に結婚します。ルービンシュタイン45歳、アニエラ21歳、歳の差24歳の結婚でした。 アニエラはピアノを聴く優れた耳を持っていたようで、ルービンシュタインの良い聴き手だったようです。 僕は大学に入った1992年に東京のとある書店で「鍵盤の王者ルービンスタイン物語」という本を発見して感動のあまり即買いして 飛ぶように帰宅して読み始めて、この素晴らしいエピソードを初めて知ったとき、 胸が痛くなるほど感動し、将来、自分もこんな結婚がしたい、と強く憧れました。 しかし残念ながらその夢・憧れは実現せず現在に至っています。 余談はともかく、愛するアニエラ・ムリナルスカと結婚できてルービンシュタインは一気に幸せの絶頂となり、 妻のため、またこれから生まれるであろう子供のために、世界の大ピアニストを目指して俄然やる気が沸いて力がみなぎるのを感じました。 ルービンシュタインは常々こう言っていたようです。「妻や子供が、二流ピアニストを夫に持つ、父に持つと言われたくない」、 「私が死んだ後、あなたの夫、あなたの父親はどのようなピアニストだったのか、と聞かれるようにはなりたくない、 だから私は妻のため、子供のために、一流を目指さなければならない」と・・・。 このような強い決意を抱き、ミスタッチや音抜けという弱点を克服するために、ルービンシュタインは勢いよく立ち上がりました。 やがて誕生した1歳の娘も連れて、妻アニエラと3人で、1934年の夏、スペイン国境近いフランスの山奥の村に行き、 村に1台のみというアップライトピアノをプレハブに据え付け、そこでルービンシュタインは1日9時間、時には 夜半過ぎにロウソクの火を借りて、修行僧のような厳しい鍛錬を自らに課しました。 ミスタッチや音抜けを克服するため、ルービンシュタインは楽譜を入念に読み、パッセージ毎に細かく区切って 楽譜に忠実に正確に音を再現していきました。当初、この作業は苦行になることを予想していましたが、 実際に着手してみると意外に楽しいことに気づき、モチベーションは向上する一方だったようです。 練習の合間にアニエラと一緒に村を散策するのを楽しみました。 ルービンシュタインは小柄なピアニストですが、ピアノ演奏に自信をつけた彼はアニエラからは 「まるで巨人が歩いている」ように見えたそうです。 その鍛錬期間は3か月間だったようですが、この3か月間でルービンシュタインの演奏は見違えるように変わったようでした。 僕たちはその変貌ぶりを直接知ることはできませんが、この1934年の鍛錬の前後の録音はEMIに残されています。 例えば1932年録音のショパン・スケルツォ全曲、1934年録音のショパン・ポロネーズ1番〜7番は、 非常に情熱的で躍動感溢れる天才肌の演奏ですが、ミスタッチ、音抜けの嵐で、現代ピアニズムに慣れた僕たちの耳には お世辞にも上手いとは言えない演奏です。 しかし1938年,39年に録音されたショパンの51曲のマズルカ集では、ミスタッチ、音抜けが格段に少なくなり、 溌溂としたリズムと情熱、変幻自在で豊かな音楽性をそのままに、そこに抑制とコントロールが加わることで 技術的な完成度は格段に増し、「大家の芸」と呼ぶに相応しい見事な演奏となっています。 この1934年の前後で、ルービンシュタインが遊び人タイプの練習不足のピアノ弾きから、 押しも押されもせぬ一流ピアニストに大きく前進したことが録音記録からもはっきりと聴きとれます。 ルービンシュタインはアメリカでのデビューが不成功だったことは前述した通りで、アメリカへの演奏旅行には消極的でしたが、 この後、著名な興行主ソル・ヒューロックの強い奨めで、アメリカへの演奏旅行に渋々同意します。 しかし彼は以前の彼ではありませんでした。既に努力を重ねたその演奏は技術的な欠点も克服されており、 アメリカの聴衆、批評家から絶賛され、主要都市でソロリサイタル、管弦楽との共演と超過密スケジュールで演奏会を続けることになりました。 ルービンシュタインが行くところはどこでも演奏会場は超満員の聴衆で埋め尽くされ、演奏が終わると熱狂的な多くのファンたちが 楽屋裏に殺到して一言話したりサインを求めたりするようになりました。 気難しい音楽家の中にはそうしたものを嫌う人も多いようですが、ルービンシュタインは非常に社交的で誰とでも親しく話せる各方面の幅広い知識と ユーモアと話術を持っていたようで、そして何より彼自身、人と話すのが何よりも好きな人でした。 熱狂的なファンにも音楽学生やピアノ生徒の親に対しても親切で丁寧に応対していたようです。 そうした彼の気さくな人柄もファン獲得に大いに貢献していたようです。 彼もファンのことを非常に大切にしていて、超過密スケジュールを組みながら、演奏会は絶対にキャンセルしなかったそうです。 たとえ大雪、大嵐の天候で聴衆は数人しか来ないだろうと思われる日であっても、絶対にキャンセルしなかったそうです。 しかし実際に蓋を開けてみれば、ほとんど空席がないほど大勢の聴衆が演奏を聴きに来てくれて、ルービンシュタインは 自分の演奏がこれほど多くの聴衆に愛されていることに驚き、また感謝の気持ちで目頭が熱くなったそうです。 また体調が思わしくないとき、引き出しに指を挟んで怪我をしてしまったときでも、演奏会は絶対にキャンセルせず、 普段とは違う指使いで怪我した指をかばって素晴らしい演奏をするなど、天才的な至芸をやってのけたこともあったそうです。 ピアノリサイタルというのは聴衆に向けて演奏するというのは当然のことですが、 ルービンシュタインは舞台に出て演奏が始まる前、聴衆の中の特定の人の顔を目に焼き付けて、 その人に語るような意識をもって演奏したそうです。 これは顔のない不特定多数の聴衆に向かって弾いていると表現意欲が湧かないと感じた彼ならではの工夫で、 これにより自分の演奏に情熱を注ぎ、感情を込め、聴く人に伝えたいメッセージを伝えようと努力していたそうです。 「彼は客席をのぞき込みながら、若い女性とか年輩の男とか、誰かの顔を頭に刻み、 その人間に向かって弾くようにした。それは顔のない聴衆に対しているという感じをなくすためだった。」という記述が 「鍵盤の王者ルービンスタイン物語」(アリーサ・フォーシー著・横山一雄訳)という本にあります。 当然のことですが、演奏している間は聴衆からの具体的なレスポンスはほとんど期待できないため(但し聴衆の没頭ぶりや熱気など雰囲気から感じるものは 大いにあるとは思いますが)、このようなことをしなければリサイタルは不特定多数の無反応な聴衆への一方通行の 独りよがりなメッセージ伝達の場になってしまいます。 ルービンシュタインは非常に広いレパートリーを持っていて、若い頃はスペインのアルベニス、グラナドス、ファリャの作品や ドビュッシーの前衛的な作品、ストラヴィンスキーの現代音楽なども積極的に演奏し、聴衆に紹介するという重要な役割を果たしました。 また南米のヴィラ・ロボスを発掘し、演奏会で積極的に取り上げて彼の名を世に知らしめるなど、 近代の様々な作曲家を音楽界に浸透させることに大きく貢献しました。 特にファリャの「恋は魔術師」の中の「火祭りの踊り」は、アンコールの最後の最後でよく取り上げていたようです。 右手、左手を交互に高々と振り上げながら勢いよく振り下ろす華麗な弾き方はあまりにも印象的で、 その情熱的で壮絶な演奏と相まって、もはや伝説と言っても良いほどです。 ルービンシュタインの演奏会は毎回終了するたびに大喝采の渦となり、拍手が全く鳴りやまないため アンコールを5曲弾いたことがあるようですが、最後の最後に「火祭りの踊り」を弾くと、 それは聴衆に対する、演奏会終了のメッセージとなっただけでなく、 愛妻アニエラに対しても「もうこれで終わりだよ、これが終われば私たちは家に帰れるよ」というメッセージにもなったようです。 映画「カーネギーホール」では、このファリャの「火祭りの踊り」とショパンの「英雄ポロネーズ」が収められており、 ルービンシュタイン50代後半の全盛期の華麗な弾きぶりを堪能することができます。 これを見ると、ルービンシュタインがロマン派華やかなりし19世紀に誕生した情熱のピアニストであることを改めて実感します。 こんなに華麗なパフォーマンスができるピアニストはもういなくなってしまいました。 一方でルービンシュタインはJ.S.バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、ブラームスを中心に、 多くの作曲家のあらゆる作品を手掛けており、リサイタルでは毎回異なったプログラムにすることを意識していたようです。 その膨大なレパートリーは特筆すべきものですが、その中で最も得意としていたのが、やはりショパンでした。 ルービンシュタインはショパンと同じポーランド生まれで、後にパリを拠点に置いて活動したところも偶然同じです。 ともかく祖国ポーランドでは幼少期からマズルカ、ポロネーズなどの特徴的なリズムを持つ民族舞曲が自然に耳に入ってくる 環境で育ったため、ポーランド土着の特徴的なリズムを身体で覚えており、 これがルービンシュタインの演奏の大きな特徴であり、強みともなっています。 それはショパンのポロネーズ集、マズルカ集が他の追随を許さない圧倒的な名演奏となっていることからも示されています。 ルービンシュタインは過去、数回に渡ってショパンのあらゆる曲を録音していますが、 演奏技術の完成度、音質を考えると、やはり最終バージョンでもあるステレオ録音が最もおすすめです。 1958年〜1966年というステレオ最初期にビクターRCAに録音したもので、 そこには24の前奏曲、エチュードOp.10&Op.25、比較的マイナーな多くの作品は収められていませんが、 その他の主要作品はほぼ全て網羅されています。 録音当時、ルービンシュタインは70歳代でしたが、演奏技術は若い頃よりもむしろ正確で、 スタインウェイのフルコンサートグランドを美しい音色で輝かしく鳴らし切る、ゴージャスで堂々としたショパン演奏です。 ショパン演奏はセンチメンタルで感傷的な演奏が主流だった 一時期もあったようですが、ルービンシュタインの演奏は安っぽい感傷に陥る瞬間は一瞬たりともなく、 板についた自然なテンポルバートで朗々と格調高くピアノを歌わせます。 ルービンシュタインの演奏が今の時代にもあまり古さを感じさせないのは、彼の演奏のこのような特徴によるところが大きく、 ショパン演奏の規範として今でも多くの愛好家に愛聴されているのは皆さんもご存知の通りです。 これは僕たちと同世代のピアニストたちが、そのピアノ学習時代、ショパンの作品の模範演奏として繰り返し聴き続けてきた演奏でもあり、 ショパン演奏のいわば原点ともいうべき貴重な存在です。 ショパンが好きな方には、バラ売りではなく、全集として座右に置くことを是非おすすめしたいものです。 こうしてアルトゥール・ルービンシュタインは最終的に世界的大ピアニストになりました。 ルービンシュタインの人生を振り返った場合によく言及されるように、幸福な結婚で家庭を持つことが彼の人生を大きく変えることになったようです。 「鍵盤の王者ルービンスタイン物語」にも「ルービンスタインは、怠惰を勤勉に置き換えることによって、現存のもっとも賞賛される芸術家となった」 という記載がありますが、「怠惰」から「勤勉」に切り替わるきっかけとなったのがアニエラ・ムリナルスカとの素晴らしい出会い、結婚でした。 時にルービンシュタイン45歳、前半の人生が終わろうとしていました。 こう考えると、ルービンシュタインの人生は45歳からと言っても過言ではないほどで、 アメリカの週刊誌タイム(1966年2月25日号)には「ルービンシュタインにとって最初の50年間は、ピアニストとしての彼の人生の「前奏曲」 にすぎなかった」と書かれているようです。「人間50年〜」という唄が古来日本にあり、戦国時代、織田信長が唄ったものとして有名ですが、 ルービンシュタインの場合はそれとは逆に「人生は50歳から」と言ってよいほど、後半の生き方、演奏内容に彼のピアニストとしての人生が 凝縮されているようです。 ルービンシュタインは結果的には「大器晩成」の部類に入るのでしょうが、それは前半生、練習嫌いで遊んで暮らして才能を浪費していたためであって、 決して苦労型のピアニストではなかったようです。むしろ彼が生来持っている才能が45歳以降の本当の努力によって開花した、 その原動力となったのが結婚、家庭だったということだと思います。 家庭を持つことで仕事に身が入るといった例は多いですが、ルービンシュタインの場合はその最たるものだと思います。 ルービンシュタインは「私ほど幸せな人間はいないのではないか」ということを時々言っていたそうで、 僕にとっては羨ましい限りなのですが、彼自身、非常に楽天的な性格で、ピアノで上手く弾けない部分があっても 多くの神経質なピアニストと違い、頭を抱えて悩むということはなかったようで、そのことも彼は誇りに思っていたようです。 ルービンシュタインほど数多くのリサイタルを開いたピアニストはいないとも言われ、超過密スケジュールのリサイタルをこなすその体力に 皆が一様に驚嘆していたそうで、「演奏会を開くのがどんなにつらい仕事か」と誰かが口にしたとき、ルービンシュタインははっきりこう言ったそうです。 「演奏会を開くことは仕事ではありませんね。それは喜びですよ。ピアノに向かって座り、美しい音楽を弾く。これほど楽しいことが他にありますか?」と。 ルービンシュタインは聴衆の前でピアノを弾くことを心の底から楽しんでいました。 そして多くの聴衆の心をつかみ、世界中の多くの人たちとの交流を大切にし、彼らを愛しました。そして聴衆は皆、ルービンシュタインを愛していました。 1976年、ニューヨークのカーネギーホールの最後の引退リサイタルの最後で、ルービンシュタインは満員の聴衆に向かって、「アイ・ラブ・ユー」と言いました。 それに答えて聴衆は全員で「ウィー・ラブ・ユー」と一斉に叫びました。 引退から6年後、1982年12月20日にルービンシュタインはスイスのジュネーブで静かに息を引き取ったそうですが、 彼の死後、30年以上経った現在も、ルービンシュタインの演奏は今なお多くの人に愛されています。 ルービンシュタインの出生にまつわる奇跡的なエピソードも「幾多の幸運が重なった結果」と言えますし、 その後の人生もまさに幸福に彩られた素晴らしいものでした。彼は「神に愛されたピアニスト」と言われ、彼の自伝のタイトルにもなっていたくらいですが、 これは彼の生涯そのものが、神がこの地球上に遣わした幸福の使者というに相応しいものであったことを物語っています。 そして彼自身も「私ほど幸福な人間はいないのではないか」と語り、自らの人生を愛し、そして周囲の人たちを愛しました。 ルービンシュタインの演奏はそのような幸福な人生、人間愛、肯定的な世界観をそのまま音にしたような温かくおおらかでスケールの大きなもので、 彼の演奏は時代を超えて、現在の僕たちに至福のひとときをもたらしてくれます。 その演奏は幸福、希望、喜び、安らぎといった人間の感情の肯定的側面へと向かうものです。 彼の素晴らしい演奏は、幸福な人生を生き、万人に愛される素晴らしい人間性を持った「人生の達人」の人柄の 「生き写し」のようです。
初稿:2002年10月
参考図書: ※幸福な一生を送ったルービンシュタインの伝記は彼の人間性から滲み出る素晴らしい演奏の根本を 理解する意味でとても参考になりました。
ルービンシュタイン・ディスコグラフィ(所有CD) ルービンシュタインは非常に幅広いレパートリーを持っていたようで、RCAレーベルを中心に膨大な量の録音を残しています。 その全てを揃えるには相当の覚悟と根性が必要になると思います(指揮者のカラヤン、ピアニストのアシュケナージには及び ませんが…)。実際、ルービンシュタインファンを自称する僕でさえ、 その全てを収集するだけのエネルギーはないようです(笑)。ここでは、僕自身が持っているルービンシュタイン演奏の CDについて、感想付きで紹介したいと思います。一応、CD購入ページへの直接リンクを入れておいたので、興味が湧いたものが あれば、気軽に覗きに行ってみてください。なお、ルービンシュタインは僕の敬愛するピアニストなので、どんなに気に入らない 演奏であっても酷評をすることが不可能なので、評価は幾分甘めになっています。彼に対して特別な思い入れを持っていない という方は、僕の評価点を少し差し引いていただいたほうがよいかもしれないです。
ルービンシュタイン・国内盤ラインアップ(クラシックCD総カタログ2005年版に基づいています)
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