ゆっくりと確実に練習することの3つの意味
前項では、譜読み・音取りの段階で、できるだけ気持ちを集中させて、
できるだけ間違った音を弾かないように努力することの大切さについて説明しました。
こうして譜読み・音取りができてくると、曲がゆっくりと弾けるようになってくると思います。
ここでその曲本来のテンポに上げて弾いてやろうと思うことも多いと思います。
上手くいっていると攻める気持ちになったり、あるいは少しでも早く仕上げてやろうと焦る気持ちになったりすることは
僕にも経験があることで、皆さんもきっとそういう気持ちになったことはあると思います。
しかし実はこれがあまり良くないことなんです。何故良くないのか、その理由を3つ、下に挙げます。
1. 脳がその曲を本来の速度のテンポで弾くための脳になっていない。
2. 間違いやすいところを速いテンポで弾くとさらに間違いやすくなり間違った記憶が残ってしまう。
3. 手が鍵盤に馴染んでいない。
それぞれ順番に説明していきます。
1. 脳がその曲を本来の速度のテンポで弾くための脳になっていない。
皆さんも知っているように、ピアノというのは頭と身体の両方を上手く使わないと弾けない楽器です。
動きの速い曲を弾く場合、その傾向がさらに顕著になります。
速いパッセージを弾く場合、最初に譜読み・音取りをして運指を確認して、
正しい運指で正しい音を捉えられるようになったら、楽譜を見ながらゆっくりと繰り返し練習することになります。
これによって、そのテンポでは弾けるようになり、脳もその速度には対応できるようになります。
しかし、速いテンポでの演奏はその段階で脳にとって未踏の領域で、対応できるとは限らないのです。
というより、対応できないことの方が多いです。一言で言えば、速いテンポで弾くとつまずくことが多いです。
速く弾いてつまずいてしまうと、成功した記憶ではなくつまずいた記憶が先に残ってしまうことになり、
速いテンポでの最初の体験が失敗体験からのスタートとなるという意味において、
その後、成功体験への上書きに時間を要するようになり、これは明らかに非効率です。
というわけで、「ためしに」いきなり速いテンポで弾くのは仕上げの完成度の観点からはNGです。
「急がば回れ」という教訓は、ピアノにおいて曲を仕上げる上でも大事なことわざです。
2. 間違いやすいところを速いテンポで弾くとさらに間違いやすくなり間違った記憶が残ってしまう。
これは上で述べたことに含まれるようですが、それにプラスして別のことを強調したいため、あえてこの項目を設けました。
ゆっくり弾いているときは何となく全て上手く弾けているようでも、楽に弾けている部分と、
つまずきそうになって何とか切り抜けられる部分と、曲の中には様々な段階が混在しているのを皆さんは意識したことがありますか?
学校のテストでも余裕で正解できる問題と、何とか曲がりなりにも正解できた問題と、色々ありますよね。
そういう問題が1つのテストに混在しているわけです。ピアノの作品もそれと同じように考えて下さい。
その状態でさらにテンポを上げると、それまではつまずきそうになりながら何とか切り抜けられていた部分で必ずつまずいてしまいます。
そうするとそこでつまずいた記憶が残ってしまうことになり、つまずいた記憶が強化されるという弊害が生じます。
つまずいてしまうと、負けず嫌いな人は「なにくそ、今度こそは、もう一度」という気持ちになることが多く、
ピアノ弾きには負けず嫌いな人が多いこともあり、こういう経験は恐らく皆さんにもあるのではないかと思います。
しかしよく考えてみて下さい。初めてそのテンポで弾いて失敗した部分が、2回目のトライで上手く弾けると思いますか?
1回目に失敗した記憶が残っているので、2回目のトライでもその記憶の上塗りをするだけのことが多いです。
そうなると、失敗した記憶を強化するだけになってしまい、上手くなるはずの練習が、それとは逆の方向に行ってしまいます。
速いテンポで弾けば弾くほど、このような箇所がいたずらに増えてしまうので、これは明らかに間違った練習方法です。
練習時間が取れない人ほど、焦りからこのような悪循環にはまってしまう傾向にあり、
僕自身も多かれ少なかれ、このような経験があって、修正作業によく時間を取られていました。
石橋を叩いて渡るように、少しずつ少しずつ確実にテンポを上げていくのが、遠回りのようで、最も確実で近道の練習方法です。
3. 手が鍵盤に馴染んでいない。
これがこの項目で最も重要で「主眼」とも言える内容です。
「手に馴染む」という感覚、皆さんは分かりますか?
指が鍵盤を正確に捉えられるようになると、まるで指が鍵盤に吸い付けられるようになり、
自分の身体とピアノとの一体感が感じられるようになります。
身体が指の動かし方とその時の鍵盤を捉える感覚を完全に覚えたという状態と言ってもよいと思います。
これは、その曲の弾き方を身体が覚えたという状態と言っても良いと思いますが、
厳密には脳の記憶と深い関わりがあるので、やはり頭と身体とで正しい弾き方を覚えた状態というのが正しい言い方だと思います。
このような状態になってからテンポを上げていけば、恐らく大きくつまずくことなく弾けるようになると思います。
それでは、手が鍵盤に馴染んだ状態を作るには一体どうすればよいと思いますか?
楽譜を完全に覚えて、全ての音も運指も完全に覚えていれば、それで弾けると思いますか?
答えはNOです。手や手首、腕、肩、身体などの正しい位置や動きまで脳が記憶できていなければ、
そのような状態にはならないからです。では一体どうすればいいでしょうか?
これは遅いテンポで鍵盤を正しく気持ちよく捉える感覚を感じながら、一度のミスもなく弾ききる、
という反復練習による成功体験の積み重ねによって、正しい記憶を強化することに尽きます。
鍵盤を正しく気持ちよく捉えるときの感覚、手の正しい軌道が脳に強力にインプットされることにより、
手が鍵盤に馴染んだ感覚、正しい弾き方をしたときの何とも言えない爽快な感覚を覚えることになります。
何の曲か分からないほどゆっくり練習することには、このような最も重要な理由があるわけです。
皆さんも、ゆっくり練習することの意味を感じながら、ピアノに向かって下さい。
本当のピアノの面白さに目覚めること請け合いです。
次の項では、要求される本来のテンポへの上げ方について説明します。