ショパンの24の前奏曲(プレリュード)について
作品の特徴:
・平均律における長短24の全ての調性を用いた作品群
・尊敬していたJ.S.バッハの「平均律クラヴィーア曲集」からの影響
・曲の配列は長短調を交互に配列した5度循環形式
・各曲はシンプルに作られながらも音楽的密度は濃い
・24曲全体で壮大なドラマを形成(連続演奏で初めて効果を発揮する作品が多い)
・ショパンの音楽的魅力、エッセンスが詰まった傑作
24の前奏曲Op.28
作曲年:1836〜1839年
ショパンの24の前奏曲は、J.S.バッハの「平均律クラヴィーア曲集」から大きな影響を受けたと言われており
(彼はバッハを尊敬していた)、平均律における24の全ての調性を用いて書かれています。その曲の配列は
ハ長調を起点として5度循環形式となっており、ハ長調の次に平行調のイ短調、
その次に完全5度上のト長調とホ短調、という並びになっています。その後も順次♯記号が1つずつ増えていきますが、第13番を嬰へ長調
で書き、第14番を変ホ短調と、ここで♯記号から♭記号に変え、♯と♭の総数が同じになるように対称に
配置させています。
ショパンの前奏曲は、一曲一曲が極めて簡潔に書かれていますが、そのなかに豊かなロマンを
たたえた美しい楽想が絶え間なく流れ出て、聴く者の心に真っ直ぐに流れ込んできます。穏やかな長調
の作品と激情ほとばしる短調の作品が交錯してドラマが築き上げられていくところも大きな魅力で、
この作品は「雨だれの前奏曲」だけでなく、是非最初から最後まで聴き通してもらいたいと思います。
一つの作品としての必然的な大きな流れとして聞こえてくるはずです(と思います)。それにショパンが
24の各々の調性に対してどのように感じていたかを感じ取ることができて興味深いです。
なお、作曲の時期については一般に1836年から1839年と言われており、「雨だれの前奏曲」を含め
本作品にまつわる、マジョルカ島「ヴァルデモーザの僧院」での数々のエピソードはかなり信憑性の
低い推測と考えます。事実、ショパンは、ジョルジュ・サンドとマジョルカ島への逃避行を決意したとき、
この作品はほとんど書き上げており、出版社と契約を交わし、その出版の前金と受けとって、それを
旅費の一部に当てていたようです。
第1番ハ長調 Agitato
極めて平穏で屈託のない作品。非常に柔らかな響きで、転調もないのに、ハ長調という調性だけで
これほど魅力的なピアノ音楽を作れるショパンの才能に脱帽です。きっとショパンはこの作品を相当
力を入れて書いたに違いないと思います。24の前奏曲を知り尽くした人が聞くと「さあ、壮大なドラマの
始まりですよ」という無言のメッセージを受け取ったような感覚になるのではないか、と思います。
第2番イ短調 Lento
不協和音が多用され、重々しく調性もはっきりしないまま、最後の最後の和音で「イ短調」という調性が
初めて明らかになります。ショパンは何を考えてこれを書いたのでしょうか。
少々狂気に近いものを感じます。あるいは、この作品もマジョルカ島の「ヴァルデモーザの僧院」での創作に当たるの
でしょうか。何となくそんな気がします。
第3番ト長調 Vivace
左手の速い伴奏に乗って右手が明朗、快活な旋律を奏でます。優雅さも兼ね備えた佳作。
僕は最初これを聴いたとき、左手のエチュードだと思いました。自分で弾いてみたところ、非常に弾きにくく
難しく感じました。左手の正しい運指法を考えたのですが、よくわからず、一番弾きやすいと思った指使い
で弾いています。ショパンの前奏曲の中ではかなり難易度の高い曲ではないか、と思います。
第4番ホ短調 Largo
左手の連打の伴奏に乗って右手が物憂い旋律を奏でます。その憂鬱なハーモニーは微妙に色調が変化し、
悲痛な叫びのクライマックスを終えると徐々に静まっていき、うなだれるように終わります。ショパンの
涙の味のする素晴らしい作品で、「マジョルカ島のヴァルデモーザ僧院」で作曲されたような趣を強く感じます。
第5番ニ長調 Molto Allegro
ショパンが平均律の全24調で最も嫌ったと言われる「ニ長調」だが、「仕方なく」といった消極的な
趣は全く感じられず、速いパッセージを用いた独創的な作品となっています。演奏に当たっては8分音符を
浮きだたせながら優雅に演奏する必要があり、技術的にはやや難度の高い作品です。
第6番ロ短調 Assai lento
第4番ホ短調同様、ショパンの涙の味のする作品で、ジョルジュ・サンドが言っていた、「その夜、僧院の屋根に
音を立てて落ちていた雨のしずくは彼のイメージと音楽の中で、天から彼の胸に落ちる涙に変わっていたのです」
という言葉を裏付けるかのようです。この第6番は第4番ホ短調とともに、彼の死の13日後に行われた第1回目の葬式で
演奏された作品でもあります(このときはオルガン用に編曲されたものが演奏されたらしい)。
第7番イ長調 Andantino
これはみなさんも必ずどこかで聴いたことがあると思います。身近なところでは「太田胃散」のTVコマーシャル
で昔から流れているため、耳に馴染んでいるのではないでしょうか。ショパンのマズルカの精神が貫く
優美な作品です。技術的にも非常に易しく、ピアノ初心者が弾くのにお薦めしたい作品です。
第8番嬰ヘ短調 Molto agitato
右手の速いパッセージが意外に弾きにくい他、左手の微妙な跳躍も厄介な難曲です。アーティキュレーション
の技術が問われる作品でもあり、クライマックスをどこに設定するかが分かっていないと散漫な印象を
聴く人に与えてしまうと思います(ショパンを弾くのに慣れた人ならそれほど難しくないと思いますけど)。
第9番ホ長調 Largo
第7番イ長調、第20番ハ短調と並び、ショパンの24の前奏曲中、技術的には最も易しい作品。楽想の変化に
乏しいが、これはあくまで24の前奏曲という大曲の中の1フレーズという捕らえ方で問題ないと思います。
第10番嬰ハ短調 Molto allegro
速い細切れのパッセージと和音部分がまるで対話するように交互に現れます。これもあくまで大曲24の前奏曲の
中の一曲という位置付けで、この作品自体で完結した表現をすることは不可能だと思います。
第11番ロ長調 Vivace
平穏な情緒が支配しますが、やや動きを伴います。柔らかでのびのびとした情緒が心地よい印象を与えます。
第12番嬰ト短調 Presto
非常に情熱的で激しい作品。24の前奏曲の求心力を維持するために非常な緊張を強いる表現力が必要
とされます。ここはビシっと決めたいです。
第13番嬰ヘ長調 Lento
穏やかで優美な作品。別天地マジョルカ島への憧れ、船旅の情緒をも感じさせる作品です。微妙な色調の変化を表現する楽しみを味わえる作品で
個人的には24の前奏曲中最も好きな作品のひとつです。
第14番変ホ短調 Allegro
疾風のように過ぎ去る短い作品で、両手のユニゾンに終始します。次の「雨だれの前奏曲」の甘美さを引き出すために効果を発揮します。
第15番変ニ長調「雨だれの前奏曲」 Sostenuto
本曲中、最も有名な作品で「ショパン名曲集」の定番中の定番。ショパンは変ニ長調にはとくに強い思い入れ
があったようで、ノクターン第8番Op.27-2、ワルツ第13番Op.70-3、スケルツォ第2番の甘美な主題等、
夢想的な雰囲気を、この調性に求める傾向がありました。本曲の夢見るような変ニ長調の旋律は穏やかで優美ですが、
ショパンが涙ぐむ様子が目に浮かぶようで、不思議な雰囲気があります。対して嬰ハ短調の中間部は荘厳で
威厳に満ちており、絶望を吐き出すショパンの姿が目に浮かぶようです。この作品の誕生に伴う例の
有名なエピソードもこの曲に当てはまるような気がしています。「天から彼の胸に落ちる涙」というジョルジュ・サンドの
文学的な表現には惹かれる思いです。
第16番変ロ短調 Presto con fuoco
いきなり叩きつける6個のffの和音の導入の後、凄まじい勢いで疾風のような16分音符が駆け巡り、
その激しさには息を飲みます。24の前奏曲における求心力を維持するために必要な作品だと思います。
この曲は、1分少々の短い曲ですが、技術的には非常に難しく、24の前奏曲の中の最難曲と言ってもよいのではないか、
と思っています。
第17番変イ長調 Allegretto
ほとんどの演奏者は前曲の第16番の最後の和音がなり終わるか終わらないうちにこの作品を弾き始めます。
非常に平穏で、柔らかな響きが耳に心地よい作品です。しかし、微妙に移ろう和声の妙をテンポ・強弱に
結びつけて説得力ある演奏をするにはショパンの作品独特の語法に精通していることが必要であり、
特に19小節目以降の表現の妙は演奏者の才能が一瞬にして分かってしまう恐ろしい試金石となっています。
曲全体にショパン独特の歌に満ち溢れた素晴らしい作品で、第13番と並んで、24の前奏曲中、僕が最も
好きな作品の一つです。
第18番ヘ短調 Molto allegro
訳が分からない不協和音とユニゾンの連続で聴く人を不安と恐怖の淵に追い込む恐ろしい音楽。
「芸術は爆発だ」という某氏の言葉を思い出します。一般に
24の前奏曲というのは次に続く長調の作品の優美さ、甘美さを引き出すために短調の作品が存在している
ように感じます。この曲がここに配置されていることにより次の第19番の流麗さが際立ちます。
第19番変ホ長調 Vivace
幅広い音域の3連符が延々と続く流麗で美しい作品。しかしこれを心地よく聴かせるためには相当な
演奏技術が必要で、24の前奏曲中最も演奏技術の難しい作品の一つで難易度的にはエチュードと見紛う
ほどです。脱力した状態で、手首の回転を利用しながら音楽的に演奏することが要求されます。
正しい弾き方で弾かないと、思い通りの音楽にはなってくれないです。
第20番ハ短調 Largo
葬送行進曲風の悲痛な趣の小品。第3小節目の右手の最後の和音の最高音の「変ホ音」は、ショパンの自筆譜
では「ホ音」となっており、議論の的となっているようです。僕を含め、ほとんどの演奏者はここを「変ホ音」
で弾きますが、ポリーニは「ホ音」で弾く主義のようです。どちらが正しいのか、僕自身は「変ホ音」
の方がしっくりきますが…。なお技術的には24の前奏曲中、最も(この場合「1番」と言ってよい)易しく、
ある程度譜読みに慣れている方なら、初見で弾けます。
第21番変ロ長調 Cantabile
この作品も甘美で流麗で、穏やかな情緒に支配された佳作です。基本的には左手の独特の音型の伴奏
の上に右手で旋律を歌う作品で、その意味ではやや動きを伴ったノクターンといった捕らえ方も
できるでしょう。
第22番ト短調 Molto agitato
非常に情熱的な作品で、悲痛な叫びが聞こえてくるような、暗くも圧倒的な激しさを持っています。
この作品は左手のオクターブの連打の上に右手が力強い和音を叩きつけていく単純なものですが、
よく見ると、最後の2和音以外、左手の弾く音型は、オクターブのみ。これほど徹底した作品も
ないと思います。
第23番ヘ長調 Moderato
水の滴るような潤いに満ちた流麗な作品。右手はあまり速くない16分音符に終始しますが、それを
流麗に聴かせるためには、相当な技術の洗練度が必要とされるため、技術に相当の余裕がないと
この曲を音楽的に聴かせることはできないと思います。なお、この曲の最後にはへ長調であるにも
かかわらず「変ホ音」が現れ、主音のF音で終わっても「解決」にはなっていないようで、その不安定な
調性感は、次の壮大な最終曲へ一気になだれこむために施された仕掛けであると僕は感じています。
第24番ニ短調 Allegro appassionato
24の前奏曲の最後を飾るに相応しい壮大で情熱的な作品。左手の幅広い一定の音型の伴奏の上に、右手で
情熱的な旋律を奏でます。その旋律の間には、超特急の上昇音階、上昇下降アルペジオなどがあり、
跳躍の多い左手の伴奏をケアしながらなので、案外な難しさです。この曲は第39小節目に台風の目という
べき静寂が訪れますが、そこから呟くような右手の旋律の妙をどう表現するか、そして
クライマックスへ向かってどのように流れを作るか、といった音楽的課題があり、演奏者の才能と手腕が
厳しく問われる箇所です。最後は、速い3度の半音下降のあと、情熱的なオクターブの連続という
凄まじいクライマックスがあり、一気に感情が爆発します。最後の終わり方もユニークで右手の下降音型
の後、一番低いD音を3回強打して終わります。
前奏曲 第25番 嬰ハ短調 Op.45
作曲年:1841年 出版年:1841年
24の前奏曲とは独立に扱われる小品で、半ば忘れられた存在ですが、超絶的、究極の美の極致というべき
独自の世界を持った作品で個人的には名曲に数えたいです。
基本的には前奏曲というよりノクターン風で、ほの暗い情緒で貫かれていますが、色彩は決して
モノクロームではなく、淡い色調の中に極彩色を織り交ぜたような不思議な色調です。
その不安定な調性感の中、色彩が微妙に変化
しながら意外な転調を繰り返す独特の流れは、ショパン音楽の中でも極めて特異なものです。
これは来るべきフランス近代の印象派作曲家の抽象的な音の世界の出現を予言しているようにも感じます。
その危ういほど病的で美しいこの作品には、これを書いたショパンその人までも、その内側の世界に
入り込むことを拒んでいるかのような孤立した美の世界があり、これを初めて聴いた人は相当驚かれるのでは
ないかとさえ思います。個人的には究極の名曲の一つに数えています。
前奏曲 第26番 変イ長調
左右絶え間なく動き回る16分音符の楽句が非常にユニークな作品です。
40秒弱の短い小品でありながら、大きなクライマックスを中心に、「起承転結」といったドラマの要素をこの
短い作品の中に盛り込んでしまうショパンの才能には脱帽です。ショパン音楽の語法と論理を極めて明快に
示した作品で、1つの作品としての価値は十分あります。
作品 | 名曲度(最高5) | 体感難易度(最高10) | 一般的認知度(最高5) |
プレリュード第1番ハ長調 Op.28-1 | ★★★ | ★★★★★★ | ★★★ |
プレリュード第2番イ短調 Op.28-2 | ★★ | ★★★ | ★★★ |
プレリュード第3番ト長調 Op.28-3 | ★★★ | ★★★★★★★ | ★★★ |
プレリュード第4番ホ短調 Op.28-4 | ★★★ | ★★★★ | ★★★ |
プレリュード第5番二長調 Op.28-5 | ★★★ | ★★★★★★★★ | ★★★ |
プレリュード第6番ロ短調 Op.28-6 | ★★★ | ★★★★ | ★★★ |
プレリュード第7番イ長調 Op.28-7 | ★★★ | ★★★ | ★★★★★ |
プレリュード第8番嬰ヘ短調 Op.28-8 | ★★★★ | ★★★★★★★★ | ★★★ |
プレリュード第9番ホ長調 Op.28-9 | ★★★ | ★★★★★ | ★★★ |
プレリュード第10番嬰ハ短調 Op.28-10 | ★★★ | ★★★★★★ | ★★★ |
プレリュード第11番ロ長調 Op.28-11 | ★★★ | ★★★★★★ | ★★★ |
プレリュード第12番嬰ト短調 Op.28-12 | ★★★ | ★★★★★★★ | ★★★ |
プレリュード第13番嬰ヘ長調 Op.28-13 | ★★★★ | ★★★★★★ | ★★★ |
プレリュード第14番変ホ短調 Op.28-14 | ★★★ | ★★★★★★ | ★★★ |
プレリュード第15番変ニ長調 Op.28-15「雨だれ」 | ★★★★ | ★★★★★ | ★★★★★ |
プレリュード第16番変ロ短調 Op.28-16 | ★★★★ | ★★★★★★★★★★ | ★★★ |
プレリュード第17番変イ長調 Op.28-17 | ★★★★ | ★★★★★★★ | ★★★ |
プレリュード第18番ヘ短調 Op.28-18 | ★★★ | ★★★★★★★ | ★★★ |
プレリュード第19番変ホ長調 Op.28-19 | ★★★ | ★★★★★★★★★ | ★★★ |
プレリュード第20番ハ短調 Op.28-20 | ★★★ | ★★★ | ★★★ |
プレリュード第21番変ロ長調 Op.28-21 | ★★★ | ★★★★★★ | ★★★ |
プレリュード第22番ト短調 Op.28-22 | ★★★ | ★★★★★★ | ★★★ |
プレリュード第23番ヘ長調 Op.28-23 | ★★★ | ★★★★★★ | ★★★ |
プレリュード第24番ニ短調 Op.28-24 | ★★★★ | ★★★★★★★★★ | ★★★ |
プレリュード第25番嬰ハ短調 Op.45 | ★★★★ | ★★★★★★★ | ★★★ |
プレリュード第26番変イ長調 遺作 | ★★★ | ★★★★★★★ | ★★★ |
|