言論人の国会喚問について
協会賞受賞報告を読んで
椿発言報道で産経に新聞協会賞が授賞されたことに対しては、既にさまざまな角度から疑問や批判が出されている。私も新聞調査会報第383号で疑問を投げかけたので、もう終わりにしたいと考えていたが、『新聞研究』10月号に載っている産経編集局次長稲田幸男氏の受賞報告を読んで、考え込んでしまった。
まず、気になったのはいろいろと批判のある椿氏の国会喚問に関連して、米メディア研究機関所長リード・アービン氏の談話を引用して、その正当性の裏付けとしようとしている点だった。
アービン氏は次のように述べている。
「国民の代表である議会が公共性の強い問題について当事者を議会に招いて意見を聞くというのは、議会の義務でもある。その対象としてマスコミも例外ではない。(……)現在、進行している例では、テレビ番組の暴力シーンの規制がある。議会がテレビ側に再三、警告し、議会の関連委員会に代表を呼んで事情を聞き、まず自主規制を求めた」
ここでいわれていることは、まったくその通りだが、椿氏の喚問とは、性格がまったく違うのである。
まず、第一に、アメリカにおいて、テレビの暴力場面の問題が論じられるのは、これが初めてではなく、長い歴史があるのである。
アメリカでは1963年11月のケネディ大統領暗殺、68年4月の黒人解放運動指導者キング牧師の暗殺など、テロ事件が多発する中で、ジョンソン大統領が68年6月10日、ジョン・ホプキンス大学名誉学長ミルトン・S・アイゼンハワーを委員長とする「暴力の原因ならびに阻止に関する委員会」を設置、専門家による調査研究が行われた。
テレビについても、詳細な内容分析が行われ、テレビにおける暴力場面は潜在的に有害であるとの一応の結論が出された。
その後設けられた第二次暴力委員会では、「テレビは時によって攻撃行動に先行することもある多くの要因に過ぎない」という対照的な結論が出されたと記憶している。
しかし、いずれの場合も、まず、テレビ番組の内容についての事実調査が行われ、詳細なデータが集積されたのである。
第二に、アメリカでは日本と比べることができないくらい治安が悪く、その原因をテレビの暴力場面に求める考えが根強い。90年12月に「テレビ暴力規制法」が制定されたのをきっかけに、法規制を強化する動きが93年以来一段と強まってきたのである。この辺の事情については、小平さち子の優れた論文「テレビにおける暴力描写をめぐる各国の動向」(『放送研究と調査』94年1月)に詳しく書かれているので省略するが、そういう中で、規制の対象となる放送経営者の意見や反論を聞くのは当然のことである。
これに対して、椿氏喚問の場合は、偏向しているという番組の内容についての調査はまったくされず、また、放送調査会での発言でも、「命令したり、指示をしたりしたのではない」と本人が述べているにもかかわらず喚問されるという異常な事態になったのである。 もう一つ注目されなければならないのは、アメリカの議会が放送事業者に自主規制を求めたのに対して、郵政省が放送の自由に介入するような動きを示した点である。
こういう点を考えると、アメリカの国会が放送事業者に参考意見を聞いたことと、椿氏の喚問とはまったく同一視できないことは明らかである。
今回の椿氏の喚問の問題点については、中村泰次の「報道の自由と国政調査権の乱用」(『総合ジャーナリズム研究』94年冬147号)に譲るが、とにかく、アメリカの動きを免罪符とすることはできないということだけは指摘しておきたい。
椿発言が重大な誤解を招く不用意、不適切な内容であったことはいうまでもないが、実際に指示した事実がなく、番組にも特に偏向がない以上、立花隆氏も指摘していたように基本的には個人の思想・信条・心情を吐露したものと考える。
その遠因が、自民党の有力幹部が同局の「ニュースステーション」のスポンサーに番組から下りるように要請したり、スポンサーの製品の不買を呼びかけるなど、露骨な干渉を繰り返したことにあることは今さら指摘するまでもない。
実際、現実にテレビ朝日の当時の選挙報道番組を見ても、他局のそれと大きく偏向している事実はなかったのである。
そういう点を考えると、なぜこの種の喚問がいとも簡単に行われたのか、疑問と怒りと悲しみを感じざるを得ないのである。
冷戦時代の50年代とはまったく状況は異なるので、日本がそんなことになることはないとは思うが、アメリカでは赤狩りのマッカーシズムの嵐が吹き荒れた時、言論人も例外ではなく、55年12月国会での秘密聴聞会の開催に先立って、35人に召喚状が出された。そして、そのうち、実に26人がニューヨーク・タイムズの現職・退職者であった。
これらの人々は、米国憲法で保障されているはずの思想・信条の問題を問いただされたのである。
まさかと思いたいが……
もう一つ今回の椿発言報道について分かりにくいことがある。
それは、椿発言の内容が翌日にはまず自民党に届けられ、産経はその内容を知りながら、政治的なタイミングを見て報道したということが、有力紙の関係者からも会合で語られ、同じような事実が例えば、『現代』11月号の嶌信彦の「TVニュースの興亡」などで指摘されている点である。
これは事実なのだろうか。信じられないことだが、もし事実だとすれば、まことに悲しむべきことである。だれが非公開の放送調査会の内容を自民党に伝えたのか知らないが、その行為は悪くいえばスパイ行為である。マッカーシズムの時代にも、同じように仲間うちでの密告が行われたといわれるが、調査会にはマスコミ関係者しか同席しなかったはずだから、まさに仲間が仲間を密告したに等しい行為ではないか。
情報の入手にはさまざまな形があり、いわゆるリークがスクープにつながることも私は否定しない。しかし、指摘されたことが本当のことだとすると、リークともいえないことである。
この点は産経が、事実関係を明らかにして是非否定してほしい点である。
なぜなら、私は、産経がこれまでマスコミ界の出来事を身内意識にとらわれず大胆に報道してきたことを、評価してきたからである。
例えば、佐川急便事件が大きな社会的関心を集めていた92年の10月15日、産経は1面の「主張」で、政治取材と報道の現状を自己批判した。佐川問題で議員を辞職した金丸信の誕生祝いに、現職の通信・放送記者が金丸邸を訪れたという報道に関連して、「主張」は次のように指摘している。
「国民感情を逆なでするような誕生祝いや連夜のマージャンの場に一部のテレビ・通信社の関係者がいたという事実もわたくしたち報道機関として見逃すことができない」「記者が求められていることは、派閥の側について記者活動を行うことではないはずだ」「もしそれがマージャン卓を囲んだ議員たちと、同じように、日本の政治風土に慣らされた結果、倫理観が鈍っていたとするならば、マスコミ自体が厳しく自己を点検する必要がある」
私はこの主張に賛成である。
椿発言の報道も、その扱いが適切で、主張がまっとうならば、一定の積極的な意義があり得たと考える。
が、残念ながら、そうはならなかった。
タブーへの挑戦とは、ノーマン・メイラーの言葉をもじっていえば、元来自らが危険をかえりみずに<権力の厚い壁に向かって挑戦のトランペットを吹く>ことであって、身を安全地帯に置いて弱い相手を批判することではないはずである。
新聞調査会報 1994年12月 |