実名報道の理念と問題点   米、英、仏、日の現状を探る

 玉木明氏の問題提起

 日本の犯罪報道は少年、精神障害者など一部の例外を除いて逮捕時に被疑者を実名で報道するのを原則としている。これに対して、スウェーデンなどでは逮捕時あるいは公判を通じて王室、国会議員らによる権力犯罪など、「明白な社会的関心がある」場合以外は、被疑者を匿名で扱い、氏名を報道しないのが原則になっている。そして、『犯罪報道の犯罪』(一九八四年)でスウェーデンの匿名報道を紹介して以来、日本にも取り入れるべきだと主張する浅野健一氏との間で、報道界でも、実名・匿名報道をめぐって何度か論議が交わされて来た。しかし、私の見るところ、せっかくの論争にもかかわらず、議論が一方的、感情的になりがちで、実名報道の側からの反論もなされず、十分な成果が得られていないように思われる。
 そんな状況の中で、玉木明氏は『新聞研究』に連載している「ジャーナリズムげん論」というコラムで、二月から実名・匿名報道の双方とも根拠が十分示されて来なかったとして問題を改めて提起している。
 特に四月号では、日本新聞協会編の『新・法と新聞』が実名報道の根拠としている記事の正確さと読者に与える説得力、実名報道による犯罪の予防、抑止効果、公権力の行使に対する監視機能という三つの点について、その意義は認めるものの、十分ではないとして、「新聞もまた、実名報道に関して、いまだみずからを正当化しうるだけの論理を見いだしていないということになろう」と指摘している。
 私のこの玉木氏の指摘に同感であり、私自身も実名報道の根拠は一体何なのかという問題意識を持ち続けて来た一人だが、私は、この問題は、その国の社会文化の構造、司法制度、メディアの構造、情報公開度と人権意識の水準など、多様な側面から総合的に比較し、考えることが必要だと考えるようになった。そういう形で総合的な視点から改革を押し進めるのでなければ、日本の犯罪報道を現実的に質的に転換させるのは困難だということである。
 まず、確認して置きたいのは、一口に実名報道といっても、日本より徹底して実名報道を展開しているアメリカ、裁判所(法廷)侮辱法などによって犯罪報道にさまざまな制限を設けているイギリスやカナダ、さらに実名報道であっても、プライバシーや推定無罪の原則を法制化し、実名報道の弊害を抑止しようとしているフランス、そして実名報道の原則を貫きながら、匿名化を拡大している日本など、各国の実名報道の実態は非常に異なっているという点である。
 
 オープン・ジャスティスの理念

 海外では犯罪報道における実名・匿名問題はどういう視点から論じられているのだろうか。
 実は英国では、実名報道の問題は逮捕時の問題としてよりも、裁判報道の問題として論議されている。英国には、すでに触れたように裁判所(法廷)侮辱法によって、犯罪報道はさまざまに規制されているが、逮捕時の実名報道は認められており、ロンドンの高級紙ザ・タイムズでも昨年四月七日の十七面で、六本木で働いていた英国人女性が日本で殺された事件を被疑者、被害者の氏名や写真入りで大きく報道している。しかし、犯罪報道の主流は裁判記事で、逮捕時の報道は少なく、一部の例外を除いて扱いも小さい。ところが重要な刑事事件の裁判報道は非常に詳しく、少年などを除き被疑者の氏名は実名で報道される。ところが、スウェーデンでは、有罪判決が出ても、また、裁判の中の記事でも実名は普通報道されない。この点について英国では、いわゆるオープン・ジャスティス(Open Justice)、すなわち開かれた司法、公開裁判の理念との関わりで、匿名報道をすべきでないという考え方が支配的なようである。(John Wilson:Understanding Journalism 1996)。簡単にいえば、司法プロセスすなわち裁判の過程は事実をできるだけ忠実に報道し多くの市民の目が注がれるようにして、権力の乱用によって裁判の公正が損なわれないようにするという考え方で、英国では古くから確立した理念である。

 オープンにして解決する米国文化

 では、アメリカでは匿名報道はどう受け取られているだろうか。
 憲法修正第一条により言論表現の自由が高度に保障されているアメリカの場合は、英国のオープン・ジャスティスという理念が、イギリスよりもはるかに徹底し、オープン・ガバーメントというところまで広がっているような印象さえ受ける。その根底に流れているのは、すべてをオープンにして解決するという社会・文化理念である。
 アメリカでは、軽微な犯罪についてはほとんど報道されないが、凶悪な殺人事件などは、ニューヨーク・タイムズなどいわゆる高級紙でも、被疑者は実名や写真入りで報道される。日本では匿名扱いになる少年犯罪も凶悪なものは、実名、写真入りで大きく報道されている。また、日本ではほとんど情報が秘匿されている死刑の執行なども、詳細に報道されている。O・J・シンプソン事件では、公判のテレビ中継が裁判の公正との兼ね合いで批判を呼んだが、州レベルでの裁判のテレビ中継はその後も中止されたわけではない。
 このようにアメリカのメディアは、いい意味でも悪い意味でも世界でも例を見ない形で、司法権力の行使の実態を市民に明らかにしている。
 そして、メディアの報道に人権侵害など行き過ぎがあった場合は、裁判によって救済するという考え方が取られており、敗訴すれば、天文学的な高額の賠償金を覚悟しなければならないが、同時に原告が公人の場合、メディア側の現実的な悪意を立証しなければならないなど、報道の自由を保障する制度になっている。そういう国だけに匿名報道という考え方がもともとなじまないのである。
 こういうアメリカでも最近は、メディア産業の企業合併による独占化を背景に、犯罪報道の過熱化、主流メディアのタブロイド化現象などが批判の的になっているが、そういう問題点を持ちながら、アメリカン・ジャーナリズムには、ウォーターゲート事件や国防総省機密文書事件の報道など、勇敢に政治権力に立ち向かった優れた報道の実績が過去にはある。
 
 権力監視の意味

つまり、英米とも実名報道の根拠には、広い意味で、『新・法と新聞』が三番目に挙げている公権力の監視という点を意識していると考えられる。
 実は、日本でも、一九八四年から八六年にかけて井上安正(読売)、柴田鉄治(朝日)両氏と、浅野健一氏との間で実名報道と権力の監視の問題で論争が行われた。しかし、論理はかみ合わず、不毛なものに終わっている。
 柴田氏の主張は「逮捕は重大な警察の権力の行使なので、逮捕された人の氏名やその容疑の内容を報道する必要がある。だれが逮捕されたかわからない社会は暗黒社会だ」というアメリカ的な考え方に立つものだったが、「実名報道が警察に対するチェックの意味もある」という発言が、「実名報道・権力チェック論」として批判を浴びた。
 英米のオープン・ジャスティスという理念は、逮捕時の実名報道によって、警察の捜査や裁判の誤りなどを直ちにチェックできるという考え方ではない。客観的に逮捕の事実や裁判の審理の内容を市民に正確に伝え、逮捕から裁判の過程などをガラス張りにして司法権力の行使を市民の監視の目にさらすという趣旨である。逮捕時点では、警察側が圧倒的に捜査情報を保有しているわけで、その時点で警察の逮捕が違法捜査の結果なのか、誤認逮捕なのかということを報道機関が明らかにすることは、通常の場合はきわめて難しい。英米の報道でも、逮捕記事は事実関係を客観的に報道するだけのものが大半を占めている。

 完全な匿名報道が日本はなぜできないか

 私はスウェーデンの徹底した情報公開制度の下での精緻な匿名報道のシステムを高く評価するけれども、それではそれが日本にすぐ導入できるかといえば、現状では無理ではないかと思う。
 では、一挙に全面的に匿名報道に踏み切れない理由は何か。
 先に指摘した理念の問題もあるが、それ以上に司法制度と、メディアの構造的な問題があるのではないかと私は考える。
 まず、第一に、例えば、英米では、全体主義諸国に見られる秘密の逮捕・勾留ならびにを特に重大な人権侵害と見なしており、米国では逮捕情報は原則公開情報だし、英国の刑事証拠法(一九八四年)は逮捕の事実を近親者や弁護士に被疑者ができるだけ早く伝える権利を五六条できちんと法定化しているが、日本では国際的に問題視されている代用監獄制度が存在するだけでなく、被疑者の外部との連絡が大幅に制限されることがあり、冤罪の温床になっている。
 スウェーデンは、情報公開制度を世界に先駆けて取り入れた国であり、人権意識も高い。日本はようやく改善されて来たとはいえその点では後進国であり、臭い物にフタという情報閉鎖文化の国である。警察情報の公開はもちろん、被疑者、被告人への取材アクセスも大幅に制限されている。
 完全匿名を主張する人はその心配はないというが、情報公開を求める人を防衛庁が身元調査するような国だけに、匿名報道によって、警察の秘密主義が強まることに対して報道界が懸念を表明するのも決して根拠がないとはいえないと考える。 確かに逮捕段階で警察が名前を発表しなくても、送検、勾留理由開示公判、起訴の段階で、記者が逮捕者の氏名を知ることはできるだろうが、代用監獄がある現状では冤罪を防止しするには起訴段階では遅すぎるし、勾留開示公判は、実際に行われるのは年三百ないし四百件に過ぎないのである。
 もう一つの問題は日本のメディア構造にも潜んでいると思う。日本のマス・メディアは、スポーツ紙や夕刊紙、さらに週刊誌、テレビのワイドショーなど、英米のタブロイド紙に近いメディアが多く、人口の違いを考慮しても、マスコミ全体の規模や競争がスウェーデンとは比較にならない。むしろ、英米に近いメディア構造であり、それだけに商業主義の影響も受けやすい側面もあると思う。言論多様化のため、政府が経営の苦しい新聞にひも付きでない助成金を出して保護しているスウェーデンなどの北欧の高度社会福祉国家とは残念ながら違う側面がある。
 これは別に私だけの印象ではなくて、一九九六年に茨城新聞が新聞協会加盟社に行ったアンケートでも、「将来、犯罪報道が現在の実名報道から匿名報道に変わっていくと考えますか」という問いに対して、「そう思わない」が、新聞・通信で三二社八二・一%、スポーツ紙八社一〇〇%、テレビ・ラジオ九社六四・三%、計四七社で平均しても七九・七%が否定的な予想をしていることからもうかがえる。
 
 問題の多い日本の実名報道

では、現在の日本の逮捕時の実名報道に問題がないかといえば、大いにあるといわざるを得ない。被疑者を最初から犯人扱いしたり、私生活を事細かに暴露したり、推定無罪の原則に照らして、問題は多い。
 同じ実名報道の立場を取るフランスでは、一九九三年一月四日の刑事手続きの改正により、民法典第九条に「無罪推定の尊重を求める権利」が明記され、判決以前に犯人視する報道を受けた場合は、裁判所に報道の差し止めや訂正を求めることができるようになったといわれる(九三年八月一部改正)。また、英国では、以前から裁判所(法廷)侮辱法 により、被疑者の前科をはじめとする人格に関わる報道、自供の内容の暴露、特定の事件についての有・無罪の論評などが陪審に予見を与えるとして禁止されている。
 その意味で、日本の実名報道もこういう基本に立ち返って報道の姿勢を改めることがまず、必要であり、重大犯罪以外の軽微な犯罪については、英米のように報道しないようにするとか、そういう事件の報道は匿名扱いにするなど、新しい視点から犯罪報道のガイドラインを作るとともに、人権擁護のための司法改革に積極的に紙面を割くようにすべきではないかと思う。

新聞調査会報2002年7月1日号


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