山本五十六(前編)
山本五十六
昭和16年12月8日 午前3時25分。
ハワイ上空に、突如183機の日本海軍の航空隊が出現。アメリカ海軍基地に襲い掛かりました。真珠湾攻撃です。この攻撃により、アメリカ太平洋艦隊は壊滅的打撃を受けます。ここに、太平洋戦争の火ぶたが切られました。
この作戦を立案し、実行したのが、連合艦隊司令長官、山本五十六です。実はこの山本五十六には、真珠湾攻撃の指揮官とは、全く別の側面がありました。それは真珠湾攻撃からさかのぼること22年。初めてアメリカを視察した山本は、その巨大な国力を目の当たりにし、日本が到底敵う相手ではないことを、いち早く確信しました。“日米戦争は、一大凶事なり。” 世界情勢に通じた山本は、以後一貫してアメリカとの戦争に反対を唱えます。そして、アメリカと敵対するドイツ、イタリアとの三国同盟には、命を狙われながらも抵抗しました。
しかし、山本の願いも虚しく、日本は対米戦の準備を開始。皮肉にも、当時連合艦隊司令長官の職にあった山本が、その対米戦の指揮を担うことになったのです。ここで長官を辞するか。それとも、軍人の職を全うするか。悩み抜いた山本は、日本を守るために、戦う決意をします。
しかし、敵は大国、アメリカ。日本はいったい、どう戦うのか。乾坤一擲、山本が勝負を託したのは、主力の戦艦ではなく、新兵力、航空機でした。そして、あらゆる可能性を考え抜いた末、山本はついに、前代未聞の作戦を思いつくのです。
日本海海戦と大鑑巨砲主義
明治38年5月27日。日露戦争の帰趨を決する戦いが繰り広げられました。日本海海戦です。このとき、巡洋艦日進に、伝令係を務める一人の青年が搭乗していました。山本五十六、22歳。海軍兵学校を卒業したての少尉候補生です。日本はバルチック艦隊を撃破。奇跡的な大勝利を収めました。山本は小国日本が、大国ロシアを打ち破る瞬間を、まさにその現場で体験したのです。
山本の故郷、新潟県長岡市。この町の博物館に日本海海戦に出陣したときに着た軍服が残されています。山本は、敵の砲弾を受け、左手の指2本を失う重傷を負いました。軍服には、そのときの血痕が残っています。
山本が、療養先から両親に送った手紙です。
「微傷をもってこの大勝の萬一に値せしことを思へば、むしろ感泣に不堪。」
日本海海戦は、戦艦こそ、近代戦争の主力兵器であることを実証しました。海軍は大鑑巨砲主義を掲げ、より大きくより多くの軍艦建造を進めます。列強国に名を連ねた日本は、海外への勢力拡大を狙います。この動きに警戒を強める国がありました。フィリピンに権益を持ち、太平洋の制海権を握ろうとするアメリカです。太平洋を挟んだ両国は、互いを仮想敵国とみなし、軍艦の建造競争を繰り広げるようになります。この時代、山本は巡洋艦の砲術長や第二艦隊参謀などを歴任、海軍のエリートとして仮想敵国アメリカとの太平洋覇権争いをけん引していました。
渡米と軍縮条約代表
大正8年5月。36歳の山本に、駐米武官の辞令が下ります。任務はアメリカの国情視察。この経験が、それまでの山本の考えを一変させることになります。街中に立ち並ぶビル群、豊かな生活を享受する人々。山本が見たのは、アメリカの想像を超える繁栄ぶりでした。2年間の滞在中、山本は、その豊かさの根源を探るため、国内各地を回りました。自動車の年間生産量は200万台。日本の100倍です。さらに、テキサスなどの油田では、日本の150倍に及ぶ石油を産出していました。アメリカは、豊富な資源を持った、日本とは比較にならない産業大国だったのです。山本はその衝撃を語っています。
「日本の国力で、アメリカ相手の戦争も建艦競争も、やり抜けるものではない。」
日本との国力の差を思い知らされた山本は、アメリカとの戦争がいかに無謀なことであるか、身をもって悟ったのです。
昭和6年9月18日。中国で満州事変が勃発。国内世論も、軍備増強へと傾いていきます。そんな時代。
昭和9年、イギリスで、軍縮をめぐる条約の予備交渉が行われることになりました。その代表に、海軍少将だった山本が選ばれます。これまで定められていた、アメリカ、イギリス、日本の主力艦の保有比率は5:5:3。条約の更新期限が迫るなか、日本では、屈辱的な不平等条約は破棄すべしとの声が高まっていました。政府から山本に課せられた目標は、次のようなものでした。不平等を改め、各国平等な軍艦保有量を定める条約の締結を目指す。不平等が解消されない場合は、条約を破棄する。それが、政府の方針でした。
10月中旬、山本はイギリスに到着。その直後、日本に向けたラジオ放送で、交渉に臨む心境をこう語っています。
「海軍少将、山本五十六でございます。ロンドンにおきましては、和敬協力。全力を挙げて働いておるのでございます。」
和敬協力。各国との協調を唱える山本。実は、条約を破棄する事だけは避けたいと考えていたのです。交渉が始まると山本は、不平等の解消を訴えました。しかしアメリカ、イギリスはこれまで通り、5:5:3の維持を主張。交渉は平行線をたどります。主張が通らなければ、日本政府の方針は、条約破棄でした。ところが、山本は決してそれを口にせず、粘り強くアメリカやイギリスに譲歩を求めます。そのいっぽうで山本は、多少不平等でも条約を維持させてほしいと、日本政府に打診を重ねます。条約を守ろうとする山本の心因は、こうでした。
「条約は、日本が3に縛られているのではない。米英を5に縛っているのだ。条約が消え、無制限の建艦競争が始まれば、国力の差から、5対3どころか、10対1に引き離される。」
しかし交渉開始から2か月後。山本のもとに、日本政府から電報が届きます。山本は愕然としました。それは、交渉打ち切りの指示でした。政府は国際協調を図ろうとする山本を危惧し、海軍首脳部も、そんな山本を守ろうとしなかったのです。
結局、この条約を日本は破棄。果てしないアメリカとの軍拡競争へと進んでいくことになります。イギリスからの帰路、山本は側近にこう漏らしました。
「海軍を退いて郷里の長岡に帰るか。モナコでばくち打ちにでもなるか。」
それは、山本が真珠湾攻撃の作戦を立案する、6年前のことでした。
つかの間の左遷
イギリスから帰国した山本は、海軍本流から外れ、航空部門に移ります。当時航空機は、偵察を主な任務とする補助の戦力にすぎませんでした。事実上の左遷人事です。
昭和12年7月。陸軍が北京郊外の盧溝橋で中国軍と衝突。日中戦争が勃発しました。日本を警戒するアメリカ、ローズヴェルト大統領は中国を支援、目に見える形で日本をけん制し始めました。戦争を推進し、アメリカとの関係を悪化させる一方の陸軍に対し、海軍は危機感を強めます。実際にアメリカと戦争になれば、その舞台は太平洋。海軍が矢面に立つことになるからです。
こうした状況のなか、本流から外れていた対米協調派の山本五十六を呼び戻し、海軍次官に据えました。時計の針を戻そう、そう意気込んで海軍省に乗り込んだ山本。しかし、待ち受けていたのは日米関係を決定的に悪化させる事態でした。
ヨーロッパで急速に勢力を伸ばすドイツとイタリア。その二国と同盟を結ぼうとする動きが、本格化したのです。いわゆる三国同盟です。ドイツは強大な軍事力を背景に、イギリス、アメリカと対立してきました。日本はそのドイツと組むことで、アメリカと対抗しようとしたのです。山本はこの三国同盟に、猛然と反対を唱えます。
「日米正面衝突を回避するため、万般の策をめぐらすべきで、絶対に日独同盟を締結すべきではない。」
山本はマスコミを通して、三国同盟によりアメリカとの開戦が避けられなくなることを世論に訴えました。すると山本のもとには毎日のように、急進的な政治団体が押し掛けるようになります。山本が海軍次官となった年には、陸軍の青年将校による軍事クーデター、2.26事件が起きました。軍部強硬派を批判することは、大きな危険を伴うようになっていたのです。
山本には、護衛の憲兵がつくようになりました。過激派の作った要人暗殺リスト、そこに山本の名が挙げられていたのです。死を覚悟した山本は、遺書をしたためています。
「此身滅スヘシ。此志奪フ可カラス。(この身滅ぼすべし。この志奪うべからず。)」
この文言をしたためたころの、山本五十六の過程での様子。我々の取材に対し、五十六の長男、義正さんは、次のように答えてくださいました。
「父の帰宅は深夜に及びました。毎晩のように遅く訪れる客。刺客や暴漢が押し入ろうとすれば、簡単に入って来れる無防備な家でした。いつ修羅場が起きるかもわからない状況の中で、母は毅然とした態度を崩さず、子供たちに不安を抱かせるような様子は一切見せませんでした。私は、父の書斎の机の上の本を何気なく手に取りました。見開きを開けると、毛筆で大きく、父の字が躍っていました。『国大なりと雖も、戦を好まば必ず亡ぶ』。」
逆らえない三国同盟への時流
昭和14年8月。当時の国際情勢は、そんな山本に味方します。ドイツが日本の敵国だったソ連と手を結んだため、山本が命を賭して反対した三国同盟は、瀬戸際で立ち消えとなったのです。その翌月、三国同盟の不成立を見届けたのを機に、山本は海軍次官を辞任しました。このとき、55歳。200人以上いた兵学校の同期も、すでにほとんどが退役していました。山本は入隊前のお定まりのポストといわれていた任期二年の役職を引き受けます。それが、連合艦隊司令長官でした。
<昭和14年(1939年)9月1日>しかし、山本が司令長官として着任したまさにその日。ドイツがポーランドへ侵攻。第二次世界大戦が勃発しました。ドイツはその後も、ヨーロッパ各地で勢力を拡大。そしてその圧倒的な強さが、日本に再び三国同盟待望論を呼び起こすのです。
新体制を掲げて登場した近衛文麿内閣は、三国同盟締結を強力に推進しました。
昭和15(1940)年9月15日。三国同盟締結に対する最終的な方針を決めるため、海軍首脳が一堂に集まりました。会議冒頭、海軍を統率する伏見宮軍令部総長がこう切り出しました。「ここまで来たら、仕方ないね。」アメリカとの戦争を懸念する海軍も、もはや時流に逆らえなくなっていたのです。
しかしそのとき、憤然として声を上げる者がいました。連合艦隊司令長官の山本です。
「三国同盟が成立すれば、現状でも兵力は不足しているうえに、米英からの資材は来なくなる。一体これをどうするつもりなのか。」
しかし、山本のこの叫びは、空虚に響き渡るだけでした。
昭和15(1940)年9月27日。ついに、ドイツ、イタリアとの間で三国同盟が成立。日本は、世界戦争への渦中に身を投じることになるのです。山本の言葉です。
「アメリカと戦争するということは、全世界を相手にすることだ。東京あたりは三度くらい丸焼けにされ、惨めな姿になってしまう。」
それは、山本が真珠湾攻撃の作戦を立案する、4か月前のことでした。
山本五十六の長男 義正さんの手紙
「――このころの世の中は、5.15、2.26、陸軍軍務局長刺殺など、殺伐とした事件が次から次へと起きていた時代でした。私は今も、父の遺書を繰り返し読むとき、武人として華々しく第一線で戦死する事でなく、世を挙げての亡国の風潮に抗して、ここを死に所として戦い続けた父の姿を、今も思い出します。」…
三国同盟締結とアメリカの制裁発動
昭和15(1940)年9月。アメリカ大統領ローズヴェルトは、三国同盟を結んだ日本に対し、即座に鉄鋼の輸出禁止をはじめとした経済制裁を発動。日本の封じ込めを始めます。さらに対日戦争に備え、西海岸にあった海軍の主力艦隊基地を、日本に近いハワイ、真珠湾へと移動させました。こうしたアメリカの動きに対し、日本は対米戦争に向け、全国民が一丸となって臨む態勢が取られます。
開戦へのカウントダウンを、奇しくも連合艦隊司令長官の立場で迎えることになった山本五十六。その心中は複雑でした。アメリカと戦うことに命を賭して反対を唱え続けたものの、このままではその信念を翻し、戦争を自らが指揮しなければならなくなる。司令長官の職を辞するか。それとも、軍人として、職を全うすべきか。山本は、悩み抜きます。
<親友の堀悌吉へ送った手紙>そして山本は、その苦渋の決断を親友に書き送りました。
「個人としての意見と正確に正反対の決意を固め、其の方向に一途邁進のほかなき現在の立場は、誠に変なものなり。これも定めというものか。」
飛行機の攻撃力
連合艦隊司令長官として使命を全うする道を選んだ山本は、その職務に全力を傾けていきます。開戦の準備を始めた山本のもとには、軍令部から作戦が下りてきました。軍令部が立案したのは、“漸減邀撃作戦”。日本に近い海でアメリカ艦隊を待ち受け、順次迎え撃つという作戦です。しかし山本は、軍令部のこの作戦を否定します。たとえ敵艦を迎え撃っても、国力に勝るアメリカは、次から次へと新たな戦力を送ってくる。すると戦局は長期化し、資源の乏しい日本は、やがて限界を迎えると山本は考えていたのです。海軍は艦隊決戦に備え、軍艦の建造を急いでいました。その最新鋭が、戦艦大和です。山本は、この大鑑巨砲主義のシンボルにも反対していました。
「巨艦を造っても不沈はあり得ない。今後の戦闘で戦艦は無用の長物となる。飛行機の攻撃力が非常なる威力を増大する。」
山本は、当時の海軍に在って脇役とみなされていた航空機に期待していたのです。山本は、海軍の航空部門に左遷されたとき、地道にその技術開発に取り組んでいました。当時の日本海軍の主力機は、96式艦上攻撃機でした。最高時速280キロメートル。当時の世界水準を下回っていました。山本が開発に力を入れた結果生まれたのが、97式艦上攻撃機です。翼は単葉。引き込み脚を導入し、96式に比べ最高時速は100キロ向上。さらに、爆弾や魚雷を搭載し1,200キロメートルもの航続距離を持つようになりました。山本は、世界トップレベルの性能に押し上げた航空機を、対米戦の切り札として考えていたのです。
山本は航空兵力を用いた作戦を練り上げるため、一人執務室にこもり、思案をめぐらします。相手は、圧倒的な軍備を持つアメリカ。まともに戦えば、日本は焦土となる。どう戦えば日本を守ることができるのか。
山本は密かに演習を始めます。それは、航空機から魚雷を発射し、軍艦を攻撃するというものでした。これまで実戦ではほとんど行われたことがない攻撃です。高速で頭上から発射された魚雷。戦艦は、それを回避できませんでした。演習を見ていた山本は、つぶやきました。
「あれで、真珠湾をやれないか。」
真珠湾攻撃の立案
そしてその時。昭和16年(1941)年1月7日。山本は海軍大臣に、自らの名を記した対米戦に関する作戦案を提出します。
「作戦方針。開戦劈頭、敵主力艦隊ヲ猛撃撃破シテ、米国海軍及米国民ヲシテ、救フ可カラザル程度ニ其ノ志気ヲ沮喪セシム。」
開戦直後に、アメリカ艦隊に大打撃を与え、相手の戦意を喪失させる。それによって、戦争を早期に収束させることに、山本は日本が生き残る一縷の希望を見出しました。その具体的方策は、こうです。
「敵主力ノ大部隊、真珠港ニ在泊セル場合ニハ、飛行機隊ヲ以テ之ヲ徹底的ニ撃破シ、且同港ヲ閉塞ス。」
日本海軍に史上初の、航空兵力を用いた敵艦隊への攻撃作戦。アメリカとの戦いに一貫して反対しながら、皮肉にもその最前線の指揮官になった山本五十六。彼が下した、苦渋の結論でした。
「私が長官である限り、真珠湾攻撃は必ずやる。そして、やる限りは全力を尽くす。」
山本五十六 故郷長岡での講演
新潟県長岡市。この町に、山本五十六の生家があります。山本は明治17年、旧長岡藩士の家に生まれました。山本には、幼少期から聞かされた一つの戦いがありました。幕末の戊辰戦争です。この戦いで長岡藩は幕府側につき、新政府率いる官軍と激突しました。山本の祖父は、このとき戦死しています。北越戊辰戦争最大の激戦地、大黒古戦場跡。長岡藩は戦争を回避するため、新政府と和平の交渉を試みました。しかし新政府は和平を拒否。長岡藩士たちは、圧倒的多数の官軍相手に決死の戦いを挑んだのです。長岡藩は全滅。町は焦土と化しました。古戦場跡に建つ記念碑。石碑の字は、山本が、アメリカとの戦争に反対し、命を付け狙われていたころ、揮毫したものです。郷土を守ろうとして非業の死を遂げた先人を、山本は、胸に刻み込んでいました。
山本五十六の母校、長岡高等学校。ここに、山本に関する資料が残されていました。帰郷の際、あまり公の場に顔を出さなかった山本ですが、母校で講演を頼まれると、快く引き受けたといいます。太平洋戦争直前の昭和14年。日本中が軍国主義に染まるなか、山本が生徒たちに語った言葉です。
<事変下の生徒諸子に望む>
「私は諸君に対し、銃をとって第一線に立てとは決して申しません。あなた方に希望するところは、学問を、飽くまで静かな平らかな心を持って勉強し、将来発展の基礎をつくって頂きたいと熱望する次第であります。どこまでも気を広く持ち、高遠なる所に目標をおいて、日本のため進んでください。」後編へ