連合艦隊

零戦 3.神秘の性能

栄エンジン

零戦の心臓部ともいうべきエンジンは、三菱製ではなく、中島飛行機で造られたさかえ一二いちに型と、さかえ二一にいち型である。

栄二一型
試作機を別にすれば、量産機の全てが、この二つのエンジンだけで生産されている。しかも本体は同一で、一速過給機か、二速過給機が付いていたかの違いだけだった。中島飛行機では、エンジンを東京三鷹の多摩製作所で製作。零戦など海軍機の組み立ては、群馬県の小泉工場で行っていた。一説では、総生産数10,425機といわれている零戦のうち、中島飛行機での生産は、およそ6割に及んでいる。零戦の栄エンジンは、陸軍の一式戦闘機はやぶさ(写真右)にも使われていた。日本の航空機の中で、生産機数が最も多いのは、1万機以上が造られていた零戦、次いで、隼が5,751機となっている。

零戦の組立ライン
隼の組立ライン

さらに九七式艦上攻撃機や、月光など、すべて含めると栄エンジンは3万機以上も製作されていたことになる。その信頼性は厚く、まさに、日本を代表するエンジンであった。

 

空母への離着艦

元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「〔零戦の操縦系統について〕零戦になったらですね、九六艦戦よりもスピードが速くなったんですね。着艦する、航空母艦に降りるスピードっていうのは、早くなっちゃ困るわけですよね。ちょっと…普段ドア開けてもなんでもないのに、台風のときにドア開けたらば、吹っ飛んじゃう。だからスピードが速くなれば途端にね、大きな力がかかるから。舵の引きも同じように、高速でもって急降下して突っ込んできたときに、えいって引いたらば、ぎゅーっと行ってね、失速してまでひっくり返るだけならいいんだけども、羽根が折れちゃう。だから舵はどうしても重くしとかなくちゃいけない。そのまま、重いままで来ると、航空母艦の上で引き起こして着陸…すとんとこう、落とそうというときに、今度ちっとも動かない。そのバランスをね、どうやってとるか、っていうことなんですね。それが堀越さん(写真左:零戦の設計者 堀越二郎)、あとで、戦後になって博士号…博士論文にもされたんですけど、操縦系統のね、剛性を変える(昇降舵ケーブルの剛性低下方式)ということ。コンピュータも使わなければ、特別そういう切り替えもしないで、自動的にオートマチックみたいに動くという、無段変速で動くようにしたっていうのが、零戦の特徴なんですね。」

元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「〔空母の離着艦について〕あのー、普通の航海でしたらね、そんなに、あのー、そんなに、難しい操作ではないと思います。ただ、船(機体)がですね、三色みいろ(3通り)に動くんです。ピッチングといってこういう(上下にのたうつ)操作、ローリングといってこういう(左右に転がる)運動、それから一番困るのが、ヨーイングって、けつ(尻)を振るんですよね。そののが一番困るんですが。それとて、まあ、普通の、この昼間の着艦、発艦は、そんなに苦労じゃないと思います。ただ怖いのは、夜間着艦ですね。これが非常に怖いんですけども。これもやっぱり、慣れてくれば、また我々は、そういうことを常に、訓練をし、また自分で、研究をしておりましたから、そんなに…難しいというふうな感じは、今でもしておりませんね。」

前世代の戦闘機と零戦の違い

(←堀越二郎と零戦の設計チーム)三菱の堀越二郎とその設計チームの執念は、物資不足の日本にありながら、世界でも類を見ない高性能な戦闘機を生み出すことに成功した。長大な航続距離、優れた上昇力。そして独創的な構造。零戦のデビューは、世界の戦況を一変させた。連合国軍は、神出鬼没の零戦にいまだかつてない脅威を感じていた。では、それまでの日本の戦闘機と、零戦との違いはどんなところにあったのだろうか。

元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「〔零戦の安定性について〕もう安定性が全然違うんですよね。特にあのー、地上滑走なんかやってみるとね、九六戦は軽いもんだから、ちょっと横風受けるとね、整備兵に翼端ついてもらわんと、すぐ風向いて、風の方へ向いちゃうんですよね。ところが零戦ていうのはね、どっしりしてるからね。非常に地上滑走なんかも安定がいいし、本当によく(操縦席からの視界が広く)見えるしね。本当に信頼性のあるいい飛行機だねと思いました。」

エンジンの始動方法

プレーンズ・オブ・フェイムの零戦五二型には、電動スターター、いわゆるセルモーターが取り付けられ、一人でもエンジンの始動が可能である。しかし当時の零戦にセルモーターはなく、数人の整備員が付かなければ、始動できなかった。

グラマンF6Fヘルキャットも、まずはプロペラを手で回してから、エンジンを始動している。当時のアメリカ軍機には、すでに電動スターターが付けられていたため、ボタン一つでエンジンが始動できた。零戦もまずプロペラを回し、次にエンジン後部のイナーシャ・スターター、いわゆる慣性起動機に整備員がクランク棒を差し込んで、二人がかりで回す。搭乗員は、フライホイールの回転数が最大に達した音を確認したあと、イナーシャとエンジンの主軸を繋ぐスターターレバーを引きながら、メインスイッチを入れて起動していた。

イナーシャ―:
手動式慣性起動装置(セルモーターの代わり)
点火プラグ
昇圧器スイッチ
エンジン
メインスイッチ

元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「〔エンジンの始動について〕イナーシャ。これは大変ですよ。ね。相当強く回さないとね。ミスしちゃうと、かからなくなりますよね。整備員は上手にかけますがね、我々も上手にかけるようになりますね。慣れてくれば。引っ張ると同時にスイッチ。(写真右:イナーシャ・スターターレバーを引くことによってクラッチの役目をする。)その、プロペラがね、こう、引っ張るとぐっと回ってくれる、(クラッチが)噛んでね。そのとき、スイッチを(入れる)。タイミングが難しい。それまでにまぁ、注射(写真左:燃料注射ポンプ)とかもいうのもありますしね。それと、あの…手回ししてくれるから。でも戦争なんかなってくると手回しなんかしてられないですもんね。」

元第二〇一海軍航空隊整備下士官 中野勇氏「あのエンジンかけるはね、あの圧搾あっさく、あのプロペラを…これ回すんです、(プラモデルの零戦のプロペラを回すしぐさをして)こうやってね。これを回しといて油圧を上げるんです。油圧を上げといて今度、イナーシャを回すんです。イナーシャを回してね、ほんで、イナーシャのぐーんという音がするようになったらね、結局、飛行機にこの、飛びあがる(機体に飛び乗る)んです。タイヤ乗ってこう飛び上って。で、こっから(コックピットの左側から)足を出すんです。で足を出して、イナーシャのロープと、結局ロープでね、手引っ張るところと繋いでおいて、足の親指に掛けるんです。で、こうやっといて、足で引っ張る(写真左:エンジン後部機体にあるイナーシャ・スターターレバーを足で引く)。で、こっちはコンタクトゆって、(搭乗席右手にある)スイッチを入れる。でエンジンかかるんですよ絶対かかるんです、それが。私それを研究して自分でやったんだもんだで。ぁれもやらなかったわね。私がひとり、ほんだぁ誰に話してもみんな感心するわ。よく考えたねなんて。これぁね、結局、自分で戦地行っとって、一人でやろうと思うとね、なにもかも考えないと仕方ないもんだ。」

低馬力でも高性能だった零戦

普通、高性能戦闘機ともなれば、当然エンジンの出力が何馬力かということが判断材料になる。しかし零戦のエンジン、栄一二型は、950馬力。二速過給機付きの栄二一型でも、1130馬力である。当時の戦闘機としては、栄二一型の1130馬力でも、最も低い出力だった。

零戦二一型
栄一二型
零戦五二型
栄二一型
950馬力出力1130馬力
533km/h最高速度565km/h
毎分2,500回転回転数毎分2,700回転

にもかかわらず、速度、上昇力、旋回性能などは、欧米の戦闘機と互角か、それ以上だった。最高速度は零戦二一型で533キロ。実戦配備されたなかで最も速かった零戦五二型でも、565キロである。しかし上昇力において、五二型は6,000メートルまでの上昇時間が7分1秒だった。これは、2,000馬力クラスのエンジンを搭載したライバル機とほとんど互角の数値である。まさに、日本の技術は驚異的なまでの発展を遂げ、欧米列強国の工業技術を一気に凌駕していたといっても過言ではない。

 

マレー沖海戦・セイロン島沖海戦

零戦は、昭和15年8月19日の初陣以来、日中戦争において驚異的なペースで戦果を記録。さらに太平洋戦争勃発と同時に、西太平洋や南方方面へ進出。予想をはるかに上回る性能を発揮し、瞬く間に太平洋からインド洋にかけての制空権を獲得していく。真珠湾攻撃から二日後、日本海軍の陸攻隊は、12月10日のマレー沖海戦において、イギリス海軍が誇る最新鋭戦艦、プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを、航空攻撃によって撃沈。航空兵力を持たない艦隊が、いかに無防備であるかを知らしめた海戦となった。

戦艦 プリンス・オブ・ウェールズ
巡洋戦艦 レパルス
上 戦艦プリンス・オブ・ウェールズ
下 巡洋戦艦レパルス

昭和17年4月5日。真珠湾攻撃に成功した、南雲忠一中将(写真左:第一航空艦隊司令長官 南雲忠一中将)率いる第一航空艦隊は、加賀を除く5隻の空母でインド洋に進出。セイロン島沖海戦が起こった。

第一航空艦隊
第一航空戦隊赤城
第二航空戦隊飛龍蒼龍
第五航空戦隊瑞鶴翔鶴

これは、南方方面の資源を確保すると同時に、中国、蒋介石軍への支援ルートを遮断する目的でイギリス極東艦隊の本拠地セイロン島の、トリンコマリーと、商港コロンボに打撃を与えるという奇襲作戦だった。このとき出撃した機動部隊の零戦36機は、イギリスの戦闘機ホーカー・ハリケーン(写真右)を含む42機と空戦を交えた。30分に及んだ空戦で、ホーカー・ハリケーン14機など、合計で20数機を撃墜した。バトル・オブ・ブリテンで活躍したホーカー・ハリケーンだったが、意外にも、零戦の対戦相手にはならなかった。制空権を獲得した日本軍は、コロンボとトリンコマリーへの爆撃を成功させた。そして攻撃隊は、イギリスの巡洋艦コンウォールや、空母ハーミスを撃沈するなど、大きな戦果を上げた。誇り高きイギリス軍は、零戦を前に、なすすべもなかった。

巡洋艦コンウォール
イギリス空母ハーミス

元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「〔セイロン島沖海戦に参加して〕ホーカー・ハリケーンという飛行機は、非常にスピードの…まあ、速い飛行機だなというふうに思いましたし、向こうでは、零戦の性能を研究してたんじゃないかなぁというふうに、あとで思いました。というのはね、我々、できればともえせんといってこう――格闘戦に入ってもらいたいわけです。そうすると非常に、撃ち落としやすいわけですよね。ところが、彼らは、格闘戦を避けて、我々が後を追従するとすーっと逃げるんですよね。逃げるっていうか、避退していくわけです。それを追っかけてくと、全然離されちゃう。それで、いつの間にか、向こうの機銃陣地とか、高角砲陣地のほうへ誘導されちゃうもんですから、もう弾幕で、取り巻かれると、いうような形で。このとき私は、共同撃墜も入れまして、4機、撃墜をしたわけです。そうしたところが、私の前へ、ややハリケーンよりも一回り大きな、飛行機が出てきた。これは何だろう、と思ってよく見たところが、フルマーという。複座戦闘機だったですね。これを、私は…これなら、早く落とせると思って。やったんですが彼らなかなか、その…んー。技術が、優秀で、私が狙って撃ってもなかなか落ちないんですよね。

元イギリスパイロット
ジョン・サイクス氏
と、ゆうので今度、イギリス行って、彼(写真左)と、会ったときにその話をしたところが、私は――彼がベテランで、すごい飛行機を滑らして、私を、射撃を、命中させないようにしたなーと思って聞いたら、そうじゃなくて。私の撃った弾が、操縦装置へ当たっちゃったんだと。で舵がきかなくなっちゃった。だから頭はこっち向いてるけども、実際は飛行機は滑ってた。それで、かえって、命拾いをしたと。ほんで田んぼの中へ不時着して、どうやら助かったという話をしました。ま…笑い話になりましたがね。」

元空母「翔鶴」搭乗員 小町定氏「〔セイロン島沖海戦で初撃墜をした時〕カデコダイダ…カデコダイダ…言いましたよね。(註:カデコダイダ、と言っているように聞こえるが、詳細不明。他にも聞き取りにくい箇所あり。)が、敵機が攻撃してわーっとこう、おいでになるときに私が、たまたま、後ろへついてたんです。後ろへついてた(その)あいだへ割り込んで、しっかんてこういうように艦上な、こう…旋回をしてくれる。これだった…の…忘れられぼくですよ、私は。のところへぶつかったもんだから、楽をして、非常に、幼稚な一年生であったけれども、驚くことなく、攻撃ができたと。」

コードネーム・ジーク

零戦は、初戦において連戦連勝。一気に南方方面の制空権を獲得した。もともと、零戦がなかったら開戦はあり得なかったとまでいわれている。いずれの作戦も、零戦の存在があってはじめてなし得た、快進撃だった。連合国のパイロットたちは、自分が気づかないうちに撃ち落とされていたこともあったという。追尾していたはずの零戦が、いつの間にか後ろにいる。逃げても逃げ切れず、ついには撃墜されてしまう。パイロットたちは、日本の名も知らぬ戦闘機に戦慄した。彼らにとって神秘的な運動性能を持つ零戦が、悪魔のように見えたに違いない。アメリカやイギリスは、日本の航空技術が自分たちの模倣であり、はるかに劣っていると見下していたぶん、その驚きは大きかった。

(写真左右:ソロモン方面で捕獲された零戦二一型)これは、アメリカ軍が捕獲した、零戦二一型である。連合国軍は、真珠湾やフィリピンで撃墜した零戦の破片を宝物のように拾い集め、何とかつなぎ合わせて復元しようと必死に努力した。しかし、飛行可能な状態にまで復元することはかなわなかった。

コードネーム   
ZERO FIGHTER
ZEKE

それでも、ネームプレートから零式艦上戦闘機という正式名称を知り、以来、コードネームでゼロファイター(ZERO FIGHTER)、またはジーク(ZEKE)と呼ぶようになった。

 

堀越二郎の操縦系統への工夫

零戦の最大の特徴の一つに、操縦性能が挙げられる。それは、低速でも高速でも、操縦桿の操作が同じような感覚で行えるというものである。試作機、十二試艦上戦闘機において、テストパイロットから、高速になると操縦桿が重くなり、昇降舵が効きすぎるという指摘がなされた。試作機は、操縦桿を少し動かしただけで容易にひねり込みや宙返りなどの特殊飛行ができたが、その場合、極度のGがかかり、パイロットが飛行中に気絶する可能性がある。しかし、昇降舵の角度を小さくすると、今度は着艦時など、低速での効き目が不足してしまう。設計責任者の堀越二郎は、最終段階にきて大きな難題にぶつかった。以前試験した、レバー比可変機構を操縦系統に組み込むことも考えた。だが、仕組みが複雑で重量も増えてしまう。

思案の末、堀越が導き出した答えは、昇降舵のケーブルを既定のものより細くし、その伸びを利用することであった。つまり、低速では風圧の影響を受けないため、操縦桿の操作に舵は自然に反応する。高速になると、風圧が大きくなり、昇降舵が重くなる。そこで、操縦桿を操作すれば、ケーブルが伸びて、低速時と同じ操作角で、同じような操縦ができるというわけである。いとも簡潔な方法である。

元第二〇一海軍航空隊整備下士官 中野勇氏「〔細い昇降舵のケーブルについて〕ワイヤが切れるいうことはないです。一番の問題は、ワイヤのナットが外れるというの。ワイヤとワイヤを留めとるね。ワイヤはね、あれ細いけどね、絶対切れんですね。水平飛行にすると、操縦桿を水平飛行にすると、結局、ワイヤが全部、きちっとなるでしょ。んでずっと引っ張って、繋いである。」

元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「あのもちろんね、高速になると、ちょっとしたことがうんと大きく、変化しますけども。操作は非常に、なめらかで、低速もよく舵がききました。それから高速でもね、そんなに困るということはないと思いましたね。今まで、九〇戦から九五戦、九六戦と、乗ってきた飛行機に比較して、若干、速力も、うんと速いし、それから重量も多いから、多少重い感じはするけれども、その割合に、操作が軽くて楽ですよね。」

元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「一番きくのは昇降舵ですから、引っ張ったときに、同じだけ引っ張っても、実際には舵にいく力はね、半分動きが少なくなる。半分ぐらいしか後ろへ動かない(後部昇降舵へかかる力が、半分の効果しかない)。そういう、オートマチックみたいな感じで、自動的に伸びを利用して、で、操縦桿を引っ張る。低速だと、伸びないでぎゅっとやるから、動かしただけ、こういうふうにいくんですけども、高速だと、ぎゅっと力かけても、かけたときに、同じようだけ引っ張っても、実際には出てくんのが(昇降舵に出てくる変化が)少ない。パイロットっていうのは、どのくらい自分が無理してこう…舵かけてるかっていうのは、その、水平線がいつも見えてるわけじゃないから。自分の体にかかる力で、飛行機がどんな運動してるか感じるわけですよね。だからその、操縦桿を引っ張ったときに、体にかかる力っていうのは低速でも高速でもね、おんなじだけ引っ張れば、おんなじように、Gがかかる。操縦桿に必要な力と、重さと、パイロットにくる力の関係が、その3つがいつも同じようになるようにするってことを、考えたんですね。それが零戦にも、(インタビュイーのあなたが)おっしゃったように高速急降下してきて(機体を)引き起こしても、低速で航空母艦に降りるよりこうやって低速でこう引き起こしても、そういうときの、操縦性が非常に楽になってるってな…ことですね。」

操縦系統の剛性を低下させた結果、零戦は大変操縦しやすく、安定性のある戦闘機となった。同時に、上昇、降下、旋回といったともえせんにおける最も重要な性能の向上にもつながった。

必殺技 宙返り左ひねり込み

九六式艦上戦闘機から乗り継いだ、ベテラン搭乗員たちは、まるで自分の手足のように零戦を操り、独自の必殺技を編み出した。それが、宙返り左ひねり込みだった。それは、敵に後ろを取られたとき、2~3回宙返りをして敵の後ろに回り込む戦法である。宙返りしたとき、その頂点付近で失速寸前まで速度を落とす。さらにそこで左に旋回、より小さく回って敵をやり過ごし、その後ろを取っていた。

元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「〔零戦の左ひねり込みについて〕捻り込みっていうのはね、俗にいう、その格闘戦のときの、一番このスピードの落ちてる、そこをうまくね、スピードが少なくて、舵のききのいいところを、使うわけ。そうすると小さく回れる。だから相手が、前へ出てくれるわけです。ひねり込みっていうのは我々の先輩がみんな、ひねり出した技なんですがね。難しいですよ。一歩間違えれば失速しちゃうからね。一番その、効率的のいいところで、相手を前でのめらせるんですから。これ、いわゆる格闘戦の、極意なんですがね。ところが、グラマンさんとやるときにはそれは向こうは、承知してるから、スピットファイアだってね、ハリケーンだって、それ格闘戦に入ってこないですよ。」

元空母「翔鶴」搭乗員 小町定氏「どっちかちゅうとやっぱり左に導きますね。あとにつながるときに楽だから。なんかこっちに…向いてんのをね、思い切ってこっちに回すのこらぁ大変ですからね。だから、やっぱり関連性のあるこれ、どうしても行くようになりますね。」

元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「〔プロペラ飛行機について〕プロペラは、ぐるぐる回ってますから、これはコマみたいなもんですからね。あのー、もの凄く動かすときに振り回されるんですね。あのー、掃除機をね、回しながら持ってね、動かすとしたら、小さい掃除機なんかでやるとよくわかりますよ。ぎゅーっとやろうとすると、右に回そうとすると急に上向いてね、思う方向に動かない。手回しの掃除機なんかやるとね。あれの、1,000馬力であれが回ってるわけだから、だから左回りのときと右回りのときと全然違うんですね。日本の飛行機はエンジンは全部、後ろからパイロットからしたら右回りなんですけど。イギリスなんかはね、ロールスローのスピットファイアは初めは右周りだったのが、エンジンパワーアップしたぶん逆回りにしちゃった…減速歯車の関係で。パイロットはね最初その振り回され方が、違うんですね。えらく戸惑ったってこと書いてあるんですね。」

ベテラン搭乗員たちが編み出した、宙返り左ひねり込みという戦法は、零戦の特性を生かした操縦法だったことがうかがえる。零戦は、どの戦闘機よりも小さく旋回することができた。そのため、ともえせんになっても、難なく敵の後ろを取ることができたという。しかし、エースと呼ばれ、生き残った日米のパイロットたちは、同じことを口にする。それは、先手必勝。相手を先に発見し、攻撃態勢を整えて、優位に立ち、先に攻撃を仕掛ける。巴戦ばかり挑んでいたら、命がいくらあっても足りないということである。

パイロットの視力

(写真左:台南航空隊 坂井三郎)64機を撃墜したエース、坂井さかい三郎さぶろうは、普段から視力を鍛えていた。それも、目に良いといわれていることは徹底して行った。まず、朝起きると緑を見た。また、遠目を利かすため、遠い山の稜線にある樹木の枝ぶりまで見極める訓練をした。そして極めつけは、昼間の星を発見することだった。事実、坂井は常に、誰よりも早く敵機を発見していた。搭乗員の視力も、零戦の性能の一部といえるかもしれない。また、零戦の着座位置は高く、風防からの視界は大変によい。先頭空域に入ると、搭乗員は、まず後ろに気を配った。そして旋回。時には背面飛行になり、下方への注意も怠らなかった。ちょっとした気のゆるみが死を意味することを、彼らは知っていた。

元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「〔搭乗員の視力について〕あのー、私の目は――本当にあの…自慢じゃなかったけども、いつもあの、2コンマ、というあの、一番最高の、視力持ってたし、この視野が、うんと広かった。前見てて、こっち(真横)だいたいわかる。それはあの…特に戦闘機は、視野も広くなきゃいけないっていうことよくいわれましたね。早い者、早く見つけた者が勝ちですよね。それに対応する、態勢がとれるんですから。」

レーダーのような広い視野を持ったベテラン搭乗員たちと、世界最強の性能を誇った戦闘機。この二つの力がひとつになることで、零戦は、獲物を求めて大空を舞う荒鷲あらわしのごとく、大洋たいようの空に君臨していった。ことごとく先手必勝で勝利を収めていく零戦。連合国軍は、開戦から間もなくすると、零戦の脅威に気が付き、零戦との格闘を避けるようになっていった。

クレア・L・シェンノート

しかし、実はこの驚異の性能に、開戦前から気づき、警告を発していた人物がいた。アメリカの退役軍人、クレア・L・シェンノート(写真左)である。彼は日中戦争のころから、中国蒋介石軍の、空軍軍事顧問として日本軍と戦ってきた。(写真右:蒋介石)九六式艦上戦闘機の優れた性能に驚愕し、続いて登場した零戦には、それ以上の脅威を感じ取っていた。

シェンノートは、太平洋戦争開戦以前から、零戦の恐るべき性能を詳細にまとめ、写真付きの報告書をアメリカ本国に送った。しかし、日本にそんな高性能の戦闘機が造れるはずがないと頭から無視され、検討されることもなかった。

また、重慶に駐在していたイギリス武官も、同じような報告書をイギリス極東軍司令部に提出したが、やはり無視されている。このことは、日本軍にとって好都合であった。そして意外にも、この警告を無視したアメリカ、イギリス両国は、共に太平洋戦争で零戦による大きな損害を被ることになった。

シェンノートは、昭和16年7月、中国においてアメリカ人志願パイロットと整備員による傭兵戦闘機部隊、アメリカン・ボランティア・グループ、AVGを組織している。通称フライング・タイガーズと呼ばれ、カーチスP40のシャークマウス(写真下の右側の機体デザイン)とともに有名になった部隊であるが、零戦との交戦はなかった。

AVG 通称フライング・タイガーズ
(American Volunteer Group)

零戦の対戦相手たち

零戦とほぼ同時に実戦配備され、性能面でも近い戦闘機は、アメリカでは、ベル P-39エアコブラ、カーチス P-40ウォーホーク、グラマン F4Fワイルドキャット、そして、イギリスではスピットファイアなどがある。

P-39(エアコブラ)
ベル
P-40(ウォーホーク)
カーチス
F4F(ワィルドキャット)
グラマン
英國軍用機識別表
戰鬪機

エアコブラ

エアコブラは、操縦席の後ろにエンジンがある一風変わった戦闘機である。公称出力は、1150馬力。最高速は592キロとある。ニューギニア、ラエに進出した台南航空隊がポートモレスビーの連合国軍基地を初めて攻撃したときに、初空戦を行っている。ただし、公称性能とは裏腹に、全く零戦の相手にはならなかった。

ベル P-39 エアコブラ
液冷V型12気筒
出力1150馬力
最高速度592km/h

カーチス P-40ウォーホーク

カーチス P-40ウォーホークは、真珠湾攻撃ののち、零戦が最初に戦った戦闘機である。出力は1150馬力で、最高速度は、およそ590キロ。数値では零戦を勝っていると思われがちだが、これも実際には、勝負にはならなかった。

カーチス P-40ウォーホーク
液冷V型12気筒
出力1150馬力
最高速度589km/h

スピットファイア

よく零戦と比較される名機、スピットファイアは、ロールスロイスのエンジンを使用し、最も多く生産されたMk.マーク5ファイブで、出力1470馬力、最高速は600キロを超えていた。北アフリカやヨーロッパ戦線で戦っていたベテランパイロットとともに極東方面に配備されたが、ことごとく零戦に撃墜された。

スピットファイア Mk.5
液冷V型12気筒
出力1470馬力
最高速度602km/h

スピットファイアも零戦と同じように改良を続け量産されたが、零戦と違うのは、エンジンの出力が大きく進化したことである。エースパイロット坂井さかい三郎さぶろう(写真右:右上の人物)が、初めてスピットファイアと一戦を交えたのは昭和17年6月16日のこと。ラバウルから、ニューギニアのラエに進出して2か月後に、所属の台南たいなん航空隊が連合国軍ポートモレスビー基地を攻撃したときだった。台南航空隊は、それまでポートモレスビーの戦闘機隊を、ことごとく壊滅状態にしていた。そこでイギリス軍は、新しい部隊を本国から呼び寄せる。彼らは、ヨーロッパ戦線で戦ってきた精鋭部隊である。ポートモレスビーでは、零戦を手ぐすね引いて待っていた。零戦21機と、30数機のスピットファイアは、激しく交戦。坂井三郎は、今日の敵は手強てごわいぞ、と感じた。だが戦闘が終わったのは、わずか10分後であった。19機を撃墜、零戦は、全機無事だった。スピットファイアは、零戦搭乗員の間でも話題になっていた。世界に名をとどろかせた高性能戦闘機に打ち勝ったことで、彼らの零戦に対する信頼感は、より一層高まっていった。

グラマン F6F ワイルドキャット

グラマン F6F ワイルドキャットは、出力1200馬力、最高速531キロ。アメリカ海軍の艦上戦闘機で、零戦と同じ立場の戦闘機だった。戦う機会も多かったが、やはり、零戦の相手にはならなかった。アメリカ海軍が自信を持って実戦配備した最新鋭の艦上戦闘機が、航空後進国と侮っていた日本の名も知らぬ戦闘機に、いとも簡単に撃墜されてしまうとは、誰も想像していなかった。また、F4Fは、きゃくトレッドが狭いため、着艦に失敗し、損失する機体も多かったといわれている。

グラマン F6F ワイルドキャット
空冷複列星形14気筒
出力1200馬力
最高速度531km/h

 

着艦

零戦の場合、空母の発着艦は、熟練した搭乗員が多く、失敗するケースはほとんどなかった。日本海軍の主力空母は、加賀クラスで排水量が34,000トン程度。艦載機数はおよそ70機で、飛行甲板はおよそ250メートル。空母は、発着艦に際して、向かい風方向に時速16ノット以上で航行する。飛行甲板上の配列は、最前部に零戦が位置し、その後列に艦上爆撃機や艦上攻撃機が配置される。したがって、最前部の零戦は、およそ50メートルの滑走距離しかなく、そこから発艦しなければならなかった。零戦は揚力が大きく、空母からの発艦は、着艦に比べればさほど難しくはなかった。問題は着艦である。空母は航行しているため、大きく揺れている。それに零戦の機体を合わせなければならない。第1旋回、第2旋回、第3旋回と、着艦体制を整え、最後の第4旋回で、空母の甲板上のラインに合わせて、着艦フックを下げて着艦する。

元空母「翔鶴」搭乗員 小町定氏「〔空母の着艦について〕そのための訓練ての60のときは、飛行場にラインを引きましたね。艦隊と…船と同じような。着陸訓練も、正真正銘、着陸を想定した訓練ですけど、その場合は風に対すること、母艦と違って静止してること、母艦はこう…動きますね。向かい風の強いときとか、弱いときとかいろいろあるから。そういったものを、想定して、着艦そのものをやっぱり、やってるつもりでやらないと、いつまでたっても同じ失敗を繰り返しますんで。洋上で、母艦の上で、常に静止した状態は、逆に言うとありえないということです。その両方を頭の中に描きながら、相当、最初のころは猛訓練をやりましたね。…それは事実あるんです、どんと(船からの衝撃が)来ます。その、上がってきた頂点でぶつかれば、どん、と来ますね。だからそういった不安が、当然つきまといますから。普通は、よく見ていますと、この飛行場のラインに対してこの飛行機も、おんなじように、ぴたっと向かってきますよ(写真左)。そこからすーっと滑り込んでくる。これが普通の着艦で、風が大きかったり波が高かったりすると一番心配なのは、どんと(船からの衝撃が)来たり、ぼんと蹴飛ばしたりするから、波を。それをないように。

(写真左)第3旋回で、こう前に来て、こういうふうに、飛行機をこっち誘導しながら、頭を、誘導しながら、来ます、これで第4旋回終わります。これから着陸します、着陸するときに、これで、すすすーっと滑り込むのが――ここのところで滑る、いわゆる、こういう操縦です。こういう操縦って意味…わかりますかね。ここで、すーっ…ときてここで、いったん空気じょうに乗るんですよね(写真左)。空気の上に乗っかっちゃったところでもって、今度は車輪の滑り込みをやる。これができるようになったらあの――鳩でもカラスでも同じことやってますよ。地球(地面)の近くでぱたぱたぱたぱた――すぐ止まれるんですよ。あれを零戦でも応用してみたんですよ。あれ一番安全ですよ、生かせるんですよ。それまで会得するパイロットになると、楽しいんだけど。見つかって怒られた。他の飛行機いっぱい、たくさん着艦してますから。失敗したら、一機で済まないんですよね。だから、やられちゃった。怒られちゃうから、あまり、勧めませんけども。」

元第二〇一海軍航空隊搭乗員 小川政次氏「そうですねぇ、鵬翔ほうしょうってやつ乗ってね、別府べっぷ湾かなんかに常駐してて。で、太平洋出んですよねぇ。それである程度ほら…母艦進むのは、16ノットのスピード出しますから、だから割と簡単ですよね。零戦が風上に乗ってこう、降りんでしょ。だからねぇ、やってみるとねぇ…地上に降りるよりね、母艦のほうが楽だったねぇ。ええ。

でも――こぼれた人もいますよ。二人。ふふふ…(笑)。こぼれるったってねぇ、こう、母艦があるでしょ?こう行ってねぇ、ばっくれぐれっしょんいっしゃんじゃねぇ。割と…こういうほら…あんなん(ある)でしょ…神戸にこういう三角の…なんか(建物が)ね。それ合わせて(降下して)来ればね、だいたい、丸(い着陸目標の印)のなかへ、降りれますよ、うん。だーって(飛行機を順調に操縦して)ねぇ。

あ!ありますねやっぱりね。あのかいしょぐむのね、いっぱいあったねぇ。こうフックがあってね、これこう、引っかかんですょね、ええ、ええ。もう細いくも(紐?)こういっぱい、こうってあって、強いですよ、うんと。(註:着艦ロープのことだと思われる。)

元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「まぁ…我々あのぅ、海軍のパイロット――特に操縦者はですね、艦隊近傍をやらなければ一人前のパイロットじゃないとまで、いわれたほどでね。究極の目的は艦隊…母艦の上へ発着艦はっちゃっかんすると。そういうことですから、常に陸上でも、もう本当に、着艦のつもりでやってましたから。どんな船でもね、発着艦にはそんなに、苦労しなかったと思いますよ。特にあの…零戦とか、九六戦なりますとね、龍驤りゅうじょうとか、鵬翔ほうしょうね。

龍驤りゅうじょう
鵬翔ほうしょう
蒼龍そうりゅう
ああいうとこはちょっと、小さくて、難しかったみたいですけども。まあ蒼龍そうりゅうクラスになればね、零戦でじゅうぶん、あの、楽な、着艦できましたね。

特に瑞鶴ずいかく翔鶴しょうかくになると私も降りてみましたけど、まず楽ですわ。ええ。

翔鶴しょうかく
瑞鶴ずいかく
赤城あかぎ
加賀かが
赤城、加賀のほうがちょっと、艦尾の気流がなんか、不安定なような感じしましたね。船の構造から言ってね。ところが蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴なんていうのは本当に真っ平らな、一枚甲板かんばんでね。あのー…気流もよかったし。着艦しやすい船でした。」

舵のききと急降下速度制限

ベテラン搭乗員は、機体を、体の一部のように操っていた。零戦の補助翼は、フラップの端から翼端まであり、非常に長く造られている。これも、旋回性能をよくするための工夫だが、操縦桿は重くなる。

戦闘態勢に入ると、左手は、機銃発射レバーがあるスロットルを常に握りしめ、操縦桿は、右手だけで操作しなければならない。

上:機銃発射レバー
下:スロットルレバー
固定タブ

操縦桿の重さを軽減するため、補助翼には固定タブが付けられているものの、やはり高速になると、かなりの力が要求され、舵のききも悪かった。そのため、アメリカの戦闘機は、高速で逃げるよう指示されていた。

上昇力は、6,000メートルまでの上昇時間が、零戦二一型で7分27秒。零戦五二型になると7分1秒となっている。これは、最も手強かった対戦相手、F6Fヘルキャットが4,512メートルまで7分42秒だったことから考えても、完全に勝っている数値である。また、急降下からの引き起こしは、天下一品だった。これも零戦が、エンジンのパワーや機体の大きさの割に、軽く造られていたからに他ならない。

しかし、強度ぎりぎりまで骨組みや外板がいはんを薄くし、軽量化したことで、大きな欠点が生まれてしまう。機体が急降下に耐えきれなかったのである。そのため、零戦の急降下には、速度制限が設けられていた。

元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「補助翼が、高速になると動かないって…零戦の場合もね、高速できかないってのあるんですね。スピットファイアもだいぶさまにならなかったんですけども。日本はね、最後まで気づかなかったんですけど、アルミで張らなきゃだめだって、ね。きれで張っとくとね…こう痩せちゃうんですよ(写真左)。痩せるとね、舵動かすときうんと力要るようになるんですね。で、そういうこともあってみな、戦後金属になってんですけどね。金属外板だめにするっていうのは、そういう…雨に対する整備の問題と、スピードが変わったときに変形を防ぐっていう、二つの用途なんですね。」

対零戦一撃離脱戦法

空戦性能は上でも、急降下スピードに限界があった、零戦。これに気付いたアメリカ軍は、零戦を攻撃するための戦法を考え出した。それが、一撃離脱戦法。(写真下:急降下し、射撃したら急上昇する。)

零戦に撃墜されないための、最善の策だった。パワーと頑丈なボディを持ったアメリカの戦闘機は、重力に逆らうことなく、急降下速度を増すことができた。

ミッドウェー作戦

昭和17年6月5日、日本海軍は、予定通り、ミッドウェー作戦を決行した。しかしこの作戦は、アメリカ軍によって既に暗号が解読されていたため、アメリカ機動部隊とミッドウェー沖で対峙することとなった。攻撃隊は、南雲中将率いる、第一機動部隊の空母4隻。この作戦には、ミッドウェー島に進出する予定だった第六航空隊の零戦21機も参加しており、各空母に分散されていた。

第一機動部隊
第一航空戦隊赤城加賀
第二航空戦隊飛龍蒼龍

いっぽう、迎え撃つアメリカ艦隊の空母は、エンタープライズ、ホーネット、それに、珊瑚海海戦での損傷を3日間で応急修理をしたヨークタウンだった。

エンター
プライズ
ホーネット
ヨーク
タウン

ここまで連戦連勝で勝ち進んできた日本軍は、このとき完全に気が緩んでいた。

元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「あの…横須賀の街でね、飲み屋へ行くと、今度はミッドウェーだそうですねって、芸者さんが言うんだから。こぉれぁまぁ、ひでぇもんですよ。それで、前の日に向こう(敵)の飛行機がね、直接来てるんですよね。それでも平気で(艦隊は)たったたった行くんだから。あのー、あれとおんなじですよ、セイロン島。セイロン島もそうですよ。前の日に飛行船にもう、見つかってるの。それは、我々落としたけどもね。当然もう、電信で打ってるはずです。それでもどんどんどんどん、そばへ行くんだから。」

日本軍の動きを掴んで待ち構えるアメリカ軍。そうとも知らず、南雲艦隊からは、第一次攻撃隊108機が、ミッドウェー島へ向けて次々発進した。途中、待ち受けていたアメリカ軍戦闘機、F4Fワイルドキャットなど30数機と、零戦隊36機は空戦に突入。そのほとんどを撃墜した。そして予定通り、ミッドウェー爆撃は実行に移された。もちろん、アメリカ軍基地にあった航空機は、このときすでにほとんどが離陸し、洋上の日本艦隊の攻撃へと向かっていた。

結局、日本の第一次攻撃隊は、ミッドウェー島を爆撃したものの、戦果は不十分だった。そのため、攻撃隊の指揮官、友永ともなが大尉は、旗艦赤城に「第二次攻撃の要あり」と打電した。

(写真左:第一機動部隊司令長官 南雲忠一中将)敵空母がいないと判断した南雲中将は、艦攻艦爆に装着していた艦船用の魚雷や爆弾を、陸用の爆弾に兵装転換するよう命令した。

兵装換装作業風景

すでにミッドウェー基地から飛び立ったB-17、15機を含む、およそ40機の攻撃隊は、上空直営の零戦隊に、そのほとんどを撃墜されていた。しかし、指揮系統の混乱が待ち受けていた。遅れて飛び立った索敵機から、空母発見の報が入ったのは、兵装転換がほぼ完了したときだった。南雲中将は再び、艦戦攻撃用の爆弾と魚雷に兵装転換の命令を下すが、アメリカ軍空母から飛び立った攻撃隊は、目と鼻の先に迫っていた。飛龍に座乗ざじょうしていた第二航空隊司令官、山口多門少将(写真左)は、「現装備のまま、攻撃隊直ちに発進せしむを正当と認む」と、赤城の南雲中将に発行信号を送った。しかし南雲中将はこれを無視。命令を変更しなかった。やがて、4隻の空母が兵装転換で大混乱しているさなか、アメリカの攻撃隊が飛来。直衛隊の零戦が、雷撃機を迎撃するため低空に集まっていたことから、遅れてやって来た急降下爆撃機ドーントレス(写真右:ダグラス SBD ドーントレス)が、上空からの奇襲攻撃に成功してしまった。まず加賀がやられ、次いで蒼龍が。そして赤城が、たった2発の爆弾を受け、瞬く間に炎に包まれた。飛行甲板上に並べられた、兵装転換中の爆弾や魚雷が、火災を誘発させたのだった。

元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「〔ミッドウェー海戦の上空直衛について〕最初にあのー…。艦爆隊ですね、ドーントレス。それが、最初に来る予定だったらしいんですね、発艦して。ところがそれが、なんか、ちょっと…迷っちゃったかどうかして、遅れちゃって、雷撃隊のほうが先来ちゃったらしいんですね。だから我々は、見てたところが、下、這ってくるんですよね雷撃隊は(写真右:ダグラス TBD-1 デバステーター)。これを盛んに攻撃をやってたんですよね。そしたら上へ、その、ドーントレスが来てる。それを(我々は)知らないんですよね。だから…向こうの魚雷は一発も当たってないはずです。ところが、そのときに、上にドーントレスが来てて、このドーントレスに、うまく命中させられてしまって、ああいう大悲劇が起きたわけですわね。」

それでも、山口多門少将座乗の飛龍は無傷だった。さっそく艦爆隊18機、艦攻隊10機を発進させ、敵空母の攻撃へ向かった。

第二航空戦隊司令官
山口多門少将
飛龍
その結果、ヨークタウン(写真右)に爆弾3発、魚雷2本を命中させ、大破させることができた。しかし、飛龍を探していたエンタープライズから、14機のドーントレスが発艦し、ホーネットからも16機が発艦した。

エンタープライズ
ホーネット

元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「雷撃機をほとんどやって、最後に、ドーントレスと空戦をやりまして。やっぱりドーントレス(に自機が)撃たれましてね。自分の飛行機も、だめになりました。で…もう降りるとこ、飛龍1艦しかないもんですから、飛龍へ着艦して。そしたところが私の飛行機が、もう使えないということで、海に捨てられてしまったわけです。」

最後まで戦い続けた飛龍であったが、ドーントレスおよそ30機に集中攻撃され、大火災を発生、航行不能となり、沈没した。ミッドウェー海戦で、日本海軍は、初めて大敗北を喫した。上空直営の零戦隊は、着艦する母艦を失ってもなお、燃料がなくなるまで戦い続け、敵機百数十機を撃墜している。零戦に関しては、一方的な敗北とはいえなかった。しかしこの戦いで、多くのベテラン搭乗員と航空機を失ってしまった。

元空母「蒼龍」搭乗員 原田要氏「時間は、何時間経ったか知りませんけども、下の格納庫のほうから、ひとつ、一機、寄せ集めの零戦ができたと。いう報告が、飛行長のもとへ届いたわけです。そしたところが私がそばにいるもんですから、飛行長が、すぐ、お前すぐ上がんなさいということで。それで私はすぐその飛行機に、艦橋の前から、発艦したんです。ところがねぇ…。もう飛行機に乗ってみたら、もうそこに海が、すぐ近くで。果たして、これは離艦できるかなぁと、いうふうに思ったんですけども。そんなことはもう言ってる暇は、場合じゃないもんで。整備員にしっかりつかまえてもらっといて、オーバーブーストまでやって、ほーで、走り出させたらすぐきゃくを、引っ込めの操作をやりました。どうやら船から離れてだーっと進んで行って、これは落ちるかなと思ったら、そこでもう、浮力がついて、どうやら上がりましたね。

ほで、約500くらい、高度とったときですか。後ろ向いたら、そのとき飛龍が、もう、ぼーんと。命中を食ってね。あぁあぁ、終わりだなと思って。それでもまだ、向こう(敵)の飛行機が、来るもんですから。それを、やらないと。他にもまだ船たくさんありますからね。やられるもんで。それを夕方まで追っかけたり、撃ったりして。いたところが、もう燃料もなくなってくるし、じきに暗くなってくるし、それでこの時間(写真右)に、駆逐艦のわきに、着水したんです。そしたら駆逐艦がそばへ寄ってきて、拾ってくれる寸前までいったんです。そしたら、上へ、B-17が編隊が来たもんで、駆逐艦が、反転して逃げちゃったんですよね。それから約4時間、漂って…ただぼかっと浮いとりましたよ。

真っ暗になってから、7時過ぎですか、前の駆逐艦が、また戻ってきて。で、拾ってくれたんですが。そのときの状況ですとね、もういっぱい…パイロットばっかじゃなくて、船が、母艦が沈んで浮いてる人がいっぱいいたわけです。だからそれをね、随伴の駆逐艦がみんな、夜、拾って歩いたみたいですね。」

 

アリューシャン方面作戦

ミッドウェー作戦と合わせて、アリューシャン方面への作戦も同時に決行された。この作戦が、今後の零戦の明暗を分ける戦いになるとは、誰も予想だにしていなかった。アリューシャン作戦の中心となった、第二機動部隊の空母は、小型の龍驤りゅうじょう。そして、竣工間もない、商船改造のじゅんようの、2隻のみだった。

龍驤りゅうじょう
じゅんよう

ところが、アリューシャン方面は濃霧に包まれ、6月3日に予定されていたダッチハーバー(写真右:ダッチハーバー アメリカ海軍基地)攻撃は、翌4日と5日に変更された。雲の切れ間から、アメリカのダッチハーバー基地を確認、攻撃に成功した。この作戦で、古賀忠義ただよしいっそうの零戦いち型が、地上放火によって被弾。古賀は飛行不能と判断し、不時着地点のアクタン島に向かった。彼が着陸に選んだ場所は湿地帯で、きゃくを出した零戦は着地と同時にひっくり返り、古賀は、首の骨を折って即死した。およそ一か月後、アメリカ軍が古賀機を発見。連合国軍が、喉から手が出るほどほしかった、ゼロファイターそのものだった。

アクタン・ゼロ

昭和17年8月12日、この機体は、アメリカ海軍航空隊、アナコスチア基地に運ばれた。復元後、飛行実験を海軍の、ジョン・スミス・ダッチ大尉が担当し、陸海軍の航空隊、および民間の技術者やパイロットにも公開された。その結果、アメリカ軍が使用しているどの戦闘機よりも、運動性、操舵性がはるかに勝っていること、1000馬力程度のエンジンにもかかわらず、速度、上昇力が優れていること、重武装にもかかわらず軽く、航続距離が最大1,800マイルにもなることなど、日本の航空技術が、今まで考えられていた模倣一点張りではなく、極めて非凡で、独創的な研究がされていることがわかり、改めて評価を見直さざるを得なかった。

主翼の強度不足により、急降下速度制限が低いこと、防弾と安全装置が不備なこと、高高度性能が悪いこと、高速では、補助翼が重すぎて横転が遅いことなど、零戦の持つ弱点の全てが、白日の下にさらされた。

テストをしたメルビン・C・ホフマン大尉は、零戦は、高速時、左方向に限り、他のどの戦闘機よりも速くロールする性能があることを指摘していた。これは、零戦が最も得意とする左方向のひねり込みを見事に指摘している。メルビン大尉の報告書では、これらの結果から、零戦と格闘戦を試みてはならない。時速480キロ以下で零戦と戦闘に入ってはならない。低空で上昇に移った零戦を、追尾してはならない。現状では、零戦と対等に戦える戦闘機はなく、その開発が急がれる、などと結論付けられている。

メルビン・C・ホフマン大尉の報告書
  • ・零戦と格闘戦を試みてはならない
  • ・時速480キロ以下で零戦と戦闘に入ってはならない
  • ・低空で上昇に移った零戦を、追尾してはならない
  • ・現状では、零戦と対等に戦える戦闘機はなく、その開発が急がれる

これによって連合国軍は、零戦に対する新たな戦い方を模索していった。

常識はずれの航続距離

連合国軍も驚愕した、零戦の最大の性能は、何といってもその長大な航続距離だった。零戦の燃料容量は、増設タンクを入れて、零戦二一型が855リットル。零戦五二型が900リットルである。

燃料容量
零戦二一型855ℓ
零戦五二型900ℓ

零戦の最長飛行時間記録は、坂井三郎(写真右:台南航空隊 坂井三郎)が打ち立てた、12時間5分である。飛行条件によって誤差があるため、一概に航続距離を試算することはできないが、坂井三郎の記録から消費燃料と距離を割り出してみると、一時間に67リットル、高度4,000メートルで115ノット。時速で、およそ213キロである。エンジン回転数は、毎分1700から1850回転。気化器の自動混合気調整装置を、ほとんど爆発不調の寸前までに調整した、とある。そのときの飛行距離は、単純計算で、およそ2,560キロ。1リットル当たり、3.18キロ飛んだことになる。

零戦二一型 燃料容量 855ℓ
飛行時間12時間5分
燃料消費量1時間当たり67ℓ
速度4,000mで約213km/h(115kt)
エンジン回転数1700~1850回転/分
飛行距離約2,560km
1ℓ当たり飛行距離3.18km

自動車のエンジンとは比較にならないが、排気量が27,900ccあることを考えれば、かなり燃費が良かった。中島飛行機のさかえ一二いちに型は、日本が誇るべき画期的なエンジンだった。通常の巡航速度、およそ330キロで飛べば、優に3,000キロ以上は航行できる計算になる。台湾からマニラまで、片道926キロ。30分の戦闘を行って、また926キロを帰るという離れ業をやってのけられたのも、この栄エンジンがあってこそだった。

名機といわれたスピットファイアやメッサーシュミットは、700数十キロしか飛べない。時間にすれば、2時間から3時間であるが、空戦時間を考慮すれば、行動半径は1時間以内ということになる。

元富士重工航空機技術本部長 鳥養鶴雄氏「ドイツでも同じような時代にメッサーシュミット造ったけど、メッサーシュミットだともう、フランスから出て行って、ロンドンまで行ってちょっとやってると、空中戦してると燃料がない、赤灯がついちゃうと。そこらへんがだから、設計として、スピードを重視するか、スピードも火力も重視すれば、旋回性と航続距離は我慢しなくちゃいけない。」

初戦で、零戦と最も多く戦ったカーチスP40や、F4Fワイルドキャットの航続距離は、1,500キロ前後だった。空戦を考えれば、行動半径は1時間30分以内ということになる。零戦は、ラバウルからガダルカナルまで、片道560カイリ、およそ1,037キロを移動して、30分の空戦を連日行っていた。往復2,074キロ、空戦を入れて、7時間以上の行程だった。

  • ラバウル→ガダルカナル
  • 560カイリ 約1037km 7時間
  • 往復2074km

連合国軍が持っている戦闘機の概念からは、考えられないほど優れていた。いや、日本の軍部ですら同じであったという。いかに零戦の航続距離が常識から外れていたかがわかる、真のエピソードである。まさに信じがたい行動半径だった。

計器・特殊飛行

零戦の計器で、飛行に関して重要なのは、速度計である。エンジンの回転数も、失速に関わるので重要なものになる。また機体の傾きと、横滑りを示す旋回計は、針玉はりだまと呼ばれている。方向を示すのが、羅針儀らしんぎである。その他、航空機には欠かせない高度計どで、これらの計器で体勢を確かめ、特殊飛行を行った。

速度計
回転計
旋回計(針玉)
羅針儀
高度計

右・左旋回(LEFT/RIGHT TURN)

左旋回する場合、まず、操縦桿を少し左に倒し、方向舵のフットバーを左に踏み込む。操縦桿をさらに左に傾け、引く。左フットバーを踏んだまま、操縦桿を右後ろに引いて、姿勢を水平に戻す。右フットバーを踏み、操縦桿をやや右前に操作する。そして各操作を戻して、目標を見て、水平飛行に入る。

続いて、右旋回の場合、左旋回と逆の操作をすればいいわけである。

錐揉きりもみ(SPINNING)

錐揉みは通常飛行でも、低速で旋回しようとした時などによって陥る可能性がある。零戦の場合、回避操作は難しいものではなかった。

急横転(SNAP ROLL)

急横転は、水平飛行から、左右に横転させる飛行方法である。右急横転の場合、水平飛行から操縦桿を右一杯に引きつけると同時に、フットバーを右に踏み込むと、機体は急速に機首を持ち上げ、素早く右に横転する。操縦桿を左に倒し、合わせてフットバーを左に大きく踏み込んで再び水平飛行に入る。

木葉このは落とし(FALLING LEAF)

木葉落としは、機首を前方に向けたまま、木の葉のように横滑りさせて降下していく。基本的には、補助翼を左右に操作し、反対方向のフットバーを踏み込む。また、機体を水平方向に保つため、昇降舵も使って修正しなければならない。速度を増さずに、高度を下げる操作である。零戦の搭乗員によると、敵機の弾丸を避けるため、機体を横滑りさせるというような表現がよくある。たとえば、大型の爆撃機などを攻撃する場合、横滑りさせることにより、敵の弾丸は当たらないが、逆に自分の弾丸も当たらないことになる。零戦の搭乗員たちは、敵機に狙われたら、必ず横滑りさせて回避していた。

失速反転(STALL TURN)

失速反転は、急上昇して、失速間際まで速度を落としてフットバーを左に踏み込み、機体を左に傾ける。操縦桿を戻すと、傾いた機体は垂直降下となり、反対方向へ引き返す。スロットルを閉めてフットバーを戻し、目標地点に降下をする。空中戦に入った場合、反復攻撃をするために必要な飛行であった。戦闘機同士の戦闘の場合、攻撃は上方より行い、急降下したのち、再び上昇して、攻撃を繰り返さなければならない。

宙返り横転(ROLL ON TOP OF LOOP)

宙返り横転は、上昇して後方を確かめるために必要な技である。

垂直旋回(STEEP IN)

垂直旋回は、機体を垂直近くまで傾け、一定の高度で旋回を行う操作で、特殊飛行中、最も熟練を要する操作である。特に傾斜が45度以上になると、機首の上げ下げは昇降舵ではなく、方向舵で行わなければならない。また、絶対に横滑りや、失速しないよう、速度を保つ必要がある。戦闘に入った場合、このような技を駆使して、戦わなければならない。

宙返り(LOOPING)

宙返りをするには、十分な速度が必要である。スロットルを開き、操縦桿を徐々に引き、頂点でいっぱいに引くようにする。エンジンのパワーを上げるため、プロペラの回転による傾きを、フットバーで修正しつつ、垂直に回転させる。頂点に達したら、スロットルを閉じて操縦桿を徐々に戻し、水平飛行に入る。

このような特殊飛行は、戦闘には欠かせない技であり、操縦練習生たちは、全員このような教程を学んでいた。しかし戦場では、教科書通りの操縦をしていては、すぐに落とされてしまう。そこで搭乗員たちは、独自の技を編み出していった。零戦は、このような特殊飛行において、無類の性能を発揮した。

なぜ零戦は、これほどまでに強かったのか。それは、性能面の数値だけでは、決して言い表すことはできない。まさに零戦の性能は、神秘そのものだった。それがゆえに、世界最強の戦闘機として、零戦は、永遠に人々の心から忘れ去られることはない。<3.神秘の性能 終>

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